前回は、回民胡同にある「清真寺」の北門から「清真寺胡同」を通り、さらに「中街」沿いにある
「清真女寺」までご紹介しました。
今回以降は、二回に分けて「清真寺」の中をご紹介いたします。
それでは、「清真寺」に入ります。
期待と不安でいっぱいでした。
寺院内に数歩足を踏み入れ、辺りを見回していると・・・、来ましたぁ~、少しけげんそうな顔を
した関係者の方に声をかけられました。
関係者: 「信者さんですか?」
私 : (怪しい者ではありませんという顔をして)「ちがいます」
そんなやり取りのあと、どきどきしながら中を拝見したい、写真を撮りたい旨を伝えると「いいですよ」と
いう言葉があっさり返ってきた。
緊張していたため、「ヤッター!!」という叫びが喉もとまで出かかったのですが、そこはそれ、場所柄を考え、
さすがに叫ぶことは遠慮しました。
なお、以下に掲げる写真はすべて一応許可を得て撮影したものであることをお断りしておきます。
それでは「清真寺」の中を歩いてみたいと思います。
まずは、門を入って左。
ここは、女性用の浴室。
次の写真は女性用の浴室の正面写真。
門をくぐり右側には男性用浴室がありました。
その正面写真。
ことわるまでもなく、礼拝前に男女を問わず体を浄めるわけなのです。
浴室の中は回を改めてご紹介。ただし、男性用浴室のみ!!
その隣は事務室兼販売所。
中に入り何か記念になるものを購入すればよかったのですが、やはり緊張していたようです。中にも入らず
じまいでした。
次は、門を入って正面にある建物。この日は、何か催し物でもあったのかテントが張ってあり、残念ながら正面
写真は撮れない状況でした。
この建物の前を右に行くと、小さな入口がありました。
入って左側。方角としては西になります。
そのまま西側に歩みをすすめ、振り返って東側。
月亮門です。
前回ご紹介した「垂花門」などを見てもお分かりのように、回教寺院とはいえその建物のあり方は中華風。
写真には写っていないのですが、私が振り返ると門の中から信者さんたちがちょうどぞろぞろと出てきたところ
でした。礼拝を済ませ、これから三々五々ご帰宅のようでした。(後で分ったことなのですが、一日5回ほどの
礼拝があるようで、お邪魔したのが礼拝時刻に重ならず幸いしました。)
私がちょっと会釈をすると、みなさんから簡単な会釈と穏やかな笑顔が返ってきました。
もう大丈夫だろうと思いシャッターを切ったら、一人の信者さん。挨拶をするとやはり会釈と
穏やかな笑顔。
信者さんを見送ったあと、門をくぐり、正面。
次の写真は、くぐり抜けた門を東から西方向を写したもの。
さらに歩みを進めます。門をくぐり左側にはやはり入口。
上の入口に入り右側を見ると、アーチ型の入口があり、屋根付きの廊下沿いに建物がありました。
角度を変えて。
正面。
この建物は、閲覧室です。
次は閲覧室の反対側にある建物。
これは小会議室。
次はこの寺院の中でもっとも重要な場所、礼拝殿。
角度を変えて。
写真に写っている方も見学者のお一人のようでした。
礼拝殿の内部は後ほどご紹介。
礼拝殿の前には石碑。
「重修通州清真寺碑記」です。
この石碑に刻まれていること及び関連事項で現在の私に分ることを以下に書いておきましたので興味を
お持ちの方はご覧ください。
七百年前、元朝の「回回掌教哈的所」が始まり。
これは、当時の中央政府により設置された、回教や回教徒に関する事務などを管理処理する機関で
あったようです。
ご存知のように、元朝初め元朝に仕えたムスリムは当初「色目人」と呼ばれていたわけですが、やがて
元朝およびムスリム自身が自らを「回回」「回教徒」「回」と呼ぶようになったことの反映を見るこ
とが可能です。これは、当時の中国におけるムスリムの定着度を示していると言えるのですが、ただ、
この施設において宗教自体がいかほどの重きをなしていたかは不明。
元朝延祐年間(1313~1320)、改建され「礼拝寺」という名称になる。
前のものとは違い、ムスリムにとって重要な「礼拝」とそれがなされる施設であることを前面に打ち出
した名称になっています。おそらく、元朝下におけるモンゴル人、漢人など当時の中国人社会の中で
回教の存在が周知の事実になると共にさらに周知させる役割を持った施設になっていたこと、さらには
当時この地の回教徒が増え、その存在の必要性が増加したことなどを示しているのかもしれません。
私の知る範囲では今の清真寺の北側の一部で、現在とは違いその規模は小さいものであったようです。
回民胡同に「北門」があり、そこに「礼拝寺」と記されていることは前回ご紹介しましたが、あれ
は当時の名残りなのかもしれません。ただ、前回見た門のように当時の「礼拝寺」の門が北に向いてい
たかのかどうかは今のところ不明です。
なお、「モスク」を「礼拝寺」と呼び始めたのは元代からですが、時代が下って明代になると「清浄寺」
「真教寺」などとなり、やがてすべてのモスクが「清真寺」と呼ばれるようになったようです。ただ、
そうはいうものの「礼拝寺」という名称が廃れてしまったかというとそうではなく、「礼拝寺」という
名称が一般的だったようで、たとえば、清末通州城の地図などを見ると「礼拝寺」と表記されていること
は、その一端を示す好例だと思われます。
「礼拝寺」という名称をめぐってとりとめもなくいろいろ書いてきましたが、いずれにしても、この
「礼拝寺」という名称が、通州「清真寺」の信者さんたちにとり何らかの理由で重要な意味を帯びた
寺名であるように私には思われて仕方がありません。現在の「清真寺」の「北門」に「礼拝寺」と
書かれた額が掛けられているのは、そのよい証左ではないでしょうか。
明代の正徳十四年(1519年)、重修され寺名も「朝真寺」となる。
この「朝真寺」という名称は、後でご紹介する建物に見ることができますが、北門に見られる「礼拝寺」
という名称同様、信者さんたちにとって、やはり重要な意味を持った名前であるようです。というのも、
「朝真」とは「朝聖」を表し、「朝聖」とは「巡礼」という意味ですが、この場合の「巡礼」がイスラム
教徒にとっての最高の聖地、すなわちメッカ(マッカ)にあるカアバ(カアバ神殿とも)を礼拝するという
意味にほかならないからなのです。
なお、一般的にその名称が変更されるのは、この「朝真寺」のように明代後半からのようですが、同時に
その建物も中華風(宮廷建築風)になっていくようです。このことは捉え方によっては、イスラム教とその
信者の中国化(漢化)と見ることも可能ですが、この中国化(漢化)は明朝の初めにすでに行なわれていた
ことはいうまでもありません。たとえば、色目人などに中国に住むことは許しつつも、本族同類との結
婚を認めない、その姓を中国風に改名させていることなどがその一例です。
明代の万暦二十一年(1593年)、拡建される。
「詔修天下清真寺」。具体的にそれがいかなる理由によるものであったのかは不明ですが、皇帝
の勅命によってなされたもの。かなりの規模の拡張で、「礼拝寺」と呼んでいたころは北側の一部に
すぎなかったものが、現在見るようにその規模が南側に拡長されたのはこの時のようです。
「通州左衛」とありますが、これは明朝における軍事組織の一つ。私の現在分っている範囲内のこと
を書けば、ここには、軍屯の耕作に従事する兵士、守城・巡回などに従事する兵士がおり、ほとんど
前者であったようです。
ところで、この軍屯の耕作に従事する兵士たちですが、彼らは皆、当時の戸籍の一つである軍戸で、
兵役の義務を負うのはもちろんのこと、代々この軍戸を継がなければならなかったようです。彼らは
有事における従軍や労役、そして軍需物資を提供するための屯田とかなり過重な負担を背負わされて
いたようで、どうやらそんな状況のもとで軍戸を持つ彼らは逃亡などしたり没落して行ったようです。
「清真寺」が拡張されたのは、「通州左衛」跡地だったのですが、跡地になってしまった原因の一つ
をこのような事情にもとめることができるようです。
明朝期に規模が拡張された回教寺院・通州「清真寺」はご覧のように現在も健在。一方、寺院が拡張
されたほぼ50年後の1644年に明朝のラストエンペラー・毅宗(崇禎禎)が紫禁城の北、景山に登り、寿皇
亭で縊死し、明朝がその歴史に終止符を打っていて、そこに歴史の皮肉を見るような気がしてしかたが
ありません。なお、「清真寺」という言葉が明記されているところに時代の変化を見る思いがしますが、
「清真寺」の「清真」とはイスラムの中国古典哲学による解釈だそうで、「純清真実」あるいは「清潔
真実」という意味であることを付記しておきます。
その後、清代の康煕四十七年(1708年)、道光二十年(1840年)に学舎などが増築・修繕され、やはり
清代の同治年間(1862年~1874年)には大規模な修繕・改築がなされています。私の知る範囲では、
建物や中庭などがそれまで以上に中国宮廷風になったようです。
「近年百余年」以降のことを急ぎ足で書くと次のようになります。
具体的には光緒二十六年(1900年)の義和団事件、1930年代前半、長城を越えて華北に侵入した日本軍
と中国軍との戦闘、そして文革期における破壊や改築や礼拝の禁止などさまざまな災禍に見舞われて
います。
なお、回教徒にとって重要な「邦克楼」「望月楼」などの施設名が記されていますが、それらについて
は回を改めてご紹介したいと思います。
石碑が建てられたのは、文革終了から数えてもほぼ30年後の「2006年」。その傍らに「伊暦1427年」と
刻まれていたのが印象的でした。
それでは、また。