北京・胡同窯変

北京。胡同歩きが楽しい。このブログは胡同のあんな事こんな事を拙文と写真で気ままに綴る胡同お散歩日記です。本日も歩きます。

第32回 再び熊家胡同・油断、謎その他。

2015-06-28 14:20:07 | 通州・胡同散歩
胡同を歩いていると、心地よさと息苦しさの入り混じった緊張感や不安感、そしてその後に訪れる
解放感を味わうことがあるものですが、その解放感のために油断してしまうということもあるよう
です。

次の写真は、本来ならば以前ご紹介した熊家胡同の際に載せるべきものであったにもかかわらず、
上に書いた油断のために他の住所番地だと思い込んでしまい、載せ漏らしてしまったもの。



場所は、熊家胡同の東端を右に折れたところ。

以下に正面、門環、門墩をアップしておきます。


正面





門環




門墩





自戒・・・胡同を歩く場合、適度の緊張感の持続が必要。油断は禁物。



ところで、上の大門の写真を撮った帰り道、いささか大げさな表現をすれば熊家胡同で三つばかりの
変化に遭遇しました。


次の写真は以前、熊家胡同の際に掲げたもの。
右側の壁に看板が掛かっています。撮影は本年1月14日。
この看板、以前には掛かってはいなかったもの。




あえて細かく再掲すれば、以下の通り。

















今回、胡同を歩いたら、再び取り外されていました。





お蔭で壁の美しさを堪能することは出来たのですが・・・。
でも、これはいったいどうしたことでしょうか。何かの兆しか?
そんな気もしないでもありませんが、けっきょくは、謎。
様子を見たいと思います。



次に掲げるのは、やはり以前にご紹介したのですが、この壁の前の家の玄関。

壁に看板がなかった頃は、「理髪店」の貼紙があったのですが・・・




それが、壁に看板が掛けられた以後、貼紙がなくなり、




今回、この玄関の前を通ると・・・



玄関が改装されていたのには、ちょっと驚きました。
しかも、玄関マットまで置かれているではありませんか!!


そうそう、次の変化を見逃すわけにはいきません。

以前ご紹介した花壇。

こんな感じだったのが・・・




今回前を通ると、こんなになっていました。


この家の方たちのこまやかな愛情のたまものです、きっと。
無事に大きく育ってくれて良かった。

こういうのが、いいの。
クール!!



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第31回 通州・清真寺胡同3・通州「清真寺」で見つけたもの。

2015-06-19 12:30:05 | 通州・胡同散歩
今回も前回に引きつづき通州「清真寺」の中をご覧いただきます。




石碑の左右に門があるのですが、当日は碑に向かって左側を進みました。
入ると中庭があり、そこには堂々とした建物がありました。








石碑にも記されていた「邦克楼」。宣礼楼(塔)ということも。日本語では「ミナレット」と呼ばれる建物で、
現在使われているのかどうかはさておき、地域の人々に礼拝を呼びかけたり、礼拝時刻の告知を行なうのに
使われるようです。









先に石碑を見た際、『明代の正徳十四年(1519年)、重修され寺名も「朝真寺」となる。』と刻まれていた
ことを思い出しました。



500年ほど前の名前がここにこうして掲げられているということは、この「朝真寺」という名称が北門に
見られた「礼拝寺」と共にいかに重要な名前であるかを示していると言ってよいのではないでしょうか。



「邦克楼」の左右に出入り口があることと共にそれらの左右に「影壁」まであり、徹底的に中華風である
ことに驚きを禁じ得ませんでした。


右側。




左側。


ご覧のようにそれぞれ文字が書かれているのですが、勉強不足のためその意味は不明。これからは、もっと
視野を広げ、アラビア語などもある程度学習しなければいけません。



次は「邦克楼」に向かって右側の建物。




左側。





そして、「邦克楼」の前にある「影壁」。


「影壁」の左右に「垂花門」があることは前にご紹介しましたが、その「垂花門」にもそれぞれ「影壁」
が付属していて、やはり徹底的な中華風です。



それでは、今来た道を引き返し、いよいよ「礼拝殿」をご紹介したいと思います。


いや、その前に体を浄めないと・・・。



男性用浴室に入るとご親切にも次のような説明書きがありました。




その前にはずらっと水入れが置かれた棚。



この水入れを使って体を浄めるというわけなのです。

なお、この棚の後ろには一人用ドア付きシャワールームのような小部屋がいくつも並んでいたのですが、
その写真は省略させていただきます。


というわけで、次は「礼拝殿」に移動です。


「礼拝殿」の中は、こうなっていました。







金で書かれた装飾文字、柱といい天井といい植物模様に彩られたこの部屋は、私の日常とあまり
にもかけ離れた全くの異空間でした。


もう少し前へ。



写真正面の壁にアーチ型の扉付きの窪み。
これは「ミフラーブ」といい、コーランの規定に従ってメッカの方向に対して行なわれる礼拝の方向を示す
ためのもの。中国からメッカは西になります。

「ミフラーブ」のある所は、ちょっとした部屋のようになっていました。「ミフラープ室」。



右側には、導師が説教を行なう階段状の説教壇。




居合わせた信者さんがわざわざ経典を開いてくださいました。





「ミフラープ室」に入ってみました。





回教寺院、通州「清真寺」のエッセンスが凝縮された壁「ミフラーブ」。
扉を開けると何があるのか。開けてみたかった。
そんな私の気持ちを察したかのように、やはり先ほどの信者さんが私の顔を見ながら扉を開けてくださった。
扉を開けて私の目の前にあったもの、それはアーチ型に縁取られた白い壁。ただそれだけでした。



上を見上げるとドーム状。



この「ミフラーブ室」、さきの信者さんたちが座る場所とはその雰囲気が大きく異なり、天井や周囲の壁
が白を基調としており、実にシンプル。簡素で、清潔感に満ち、私には神秘的でさえありました。


なお、もう一つの建物「望月楼」はのちほどその外観だけですがご覧いただきます。



足元に敷きつめられていたカーペットを撮り忘れるところでした。







次は場所を移動して、少しですが「清真女寺」をご覧いただきます。




「モスク」は本来、成人男性専用の礼拝場所であったそうですが、この「清真寺」には女性専用の
「礼拝殿」があります。



中も拝見できました。



先に見た礼拝殿に比べ、その規模は小さめで、装飾も抑えられています。そのため豪華さ・華麗さ
はないものの、前にご紹介した「ミフラーブ」に見られた単純さや質朴さに通じる魅力が私には
感じられました。


通州「清真寺」をひとわたり拝見していろいろ感じたことはあるのですが、ここではその内の二点
を挙げておきたいと思います。

まず、一つは、この寺院がイスラム教寺院(モスク)でありつつ、中華風寺院でもあるということ。
この場合、イスラム教寺院であるということ、それは礼拝所における礼拝方向がメッカの方向(中国
の場合は西方)であること、他方、中華風であるとは、一本の中軸線上に主要な建物が並び、中庭な
どをはさんで付属の建物が対称的に置かれているということを意味しています。
そして、私が目を見張ったのは、例えば、

影壁→中庭→「朝真寺」の額がかかる「邦克楼」→中庭→「礼拝殿」→「望月楼」

と、一本の中軸線に沿って主要な建物を配置しつつ、しかも、それらの建物がメッカの方向である
西方に向かっているということ、つまり、イスラム教寺院でありつつ中華風寺院でもあるという
二つの特徴を巧みに融合させてしまっていることでした。

しかし、ここで見落とすことができないのは、東西軸に沿って置かれた主要な建物に肝心のこの
寺院の正門がないことです。そして、そこで浮上してくるのがこの寺院内を歩いていて気付いた
もう一つのこと、この寺院が南北に長く、それに比して東西に短いということでした。
ひょっとしてこの立地条件が、「礼拝寺」という信者さんたちにとって重要な名前の書かれた額
の掛かった大きな門を回民胡同沿いの北側に、また、「清真古寺」と書かれた門を中街沿いに置
かざるを得なかった理由となっていたのではないか。

きっと、信者たちにすれば、この寺院のルーツとも言える「礼拝寺」という額の掛かった大門を
東側、具体的には「清真寺胡同」沿いに置くということが最善であったにちがいありません。
しかし、立地条件がそれを許さない。たとえば、仮に「礼拝寺」という額の掛かった大門を現在
「影壁」のある位置に置いたとしたらどうなるか。おそらく、東西軸に置かれている二つの「中
庭」の面積がそれぞれ縮小されると共に、「朝真寺」という額の掛かる「邦克楼」や「礼拝殿」
などそれぞれ主要建物間の距離も縮まり、全体的にかなり窮屈な寺院配置になってしまい、信者
さんたちの選ぶところではなかったのではないか。そして、そこで次善の策として選ばれたのが、
「礼拝寺」という額の掛かる大門の回民胡同沿いへの配置ということだったのではないかという
ことになるのですが、この次善の策としての配置、たとえそれが次善の策だったとしても、私には
実に見事なものに思えて仕方がありません。というのも、回民胡同こそが元朝に回教徒たちが集住
し始めた頃「牛市」あるいは「牛羊市」と呼ばれた、彼らにとって出発点となった、いわば記念す
べき場所にほかならないからなのです。



望月楼



写真右側の塔。この上に登り、月を見て「ラマダーン明け」を確認するそうです。
話しは少しそれますが、この寺院西側に置かれた塔を見ながら不思議な気持ちに襲われました。
この塔と「北海公園」や「白塔寺(妙応寺)」の「白塔」、そして「万松老人塔」など、北京西側に集中して
いる「塔」とが私の中で重なってしまったからなのです。これって単なる偶然なのでしょうか。これから
本格的に暑くなるというのに、謎が増えればいっそう熱くなるっつーの。


通州「清真寺」が地元住民たちに密着した施設であることはいうまでもありません。
今回初めてこの寺院におじゃまして、この界隈の胡同でお会いする方々の穏やかな笑顔、そして
その背後に感じられる自信や誇りのようなものが奈辺から来るものなのか、その一端を垣間見る
ことができたように感じたのは私の気のせいでしょうか。
次回このモスクにおじゃまする時は、「邦克楼」や「望月楼」に昇るっきゃあない!!


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第30回 通州・清真寺胡同2・通州「清真寺」を探しに(2)

2015-06-12 10:03:46 | 通州・胡同散歩
前回は、回民胡同にある「清真寺」の北門から「清真寺胡同」を通り、さらに「中街」沿いにある
「清真女寺」までご紹介しました。





今回以降は、二回に分けて「清真寺」の中をご紹介いたします。


それでは、「清真寺」に入ります。

期待と不安でいっぱいでした。








寺院内に数歩足を踏み入れ、辺りを見回していると・・・、来ましたぁ~、少しけげんそうな顔を
した関係者の方に声をかけられました。


関係者: 「信者さんですか?」

私  : (怪しい者ではありませんという顔をして)「ちがいます」
 

そんなやり取りのあと、どきどきしながら中を拝見したい、写真を撮りたい旨を伝えると「いいですよ」と
いう言葉があっさり返ってきた。
緊張していたため、「ヤッター!!」という叫びが喉もとまで出かかったのですが、そこはそれ、場所柄を考え、
さすがに叫ぶことは遠慮しました。

なお、以下に掲げる写真はすべて一応許可を得て撮影したものであることをお断りしておきます。


それでは「清真寺」の中を歩いてみたいと思います。



まずは、門を入って左。



ここは、女性用の浴室。


次の写真は女性用の浴室の正面写真。





門をくぐり右側には男性用浴室がありました。



その正面写真。



ことわるまでもなく、礼拝前に男女を問わず体を浄めるわけなのです。
浴室の中は回を改めてご紹介。ただし、男性用浴室のみ!!



その隣は事務室兼販売所。


中に入り何か記念になるものを購入すればよかったのですが、やはり緊張していたようです。中にも入らず
じまいでした。



次は、門を入って正面にある建物。この日は、何か催し物でもあったのかテントが張ってあり、残念ながら正面
写真は撮れない状況でした。




この建物の前を右に行くと、小さな入口がありました。




入って左側。方角としては西になります。





そのまま西側に歩みをすすめ、振り返って東側。

月亮門です。
前回ご紹介した「垂花門」などを見てもお分かりのように、回教寺院とはいえその建物のあり方は中華風。



写真には写っていないのですが、私が振り返ると門の中から信者さんたちがちょうどぞろぞろと出てきたところ
でした。礼拝を済ませ、これから三々五々ご帰宅のようでした。(後で分ったことなのですが、一日5回ほどの
礼拝があるようで、お邪魔したのが礼拝時刻に重ならず幸いしました。)

私がちょっと会釈をすると、みなさんから簡単な会釈と穏やかな笑顔が返ってきました。


もう大丈夫だろうと思いシャッターを切ったら、一人の信者さん。挨拶をするとやはり会釈と
穏やかな笑顔。




信者さんを見送ったあと、門をくぐり、正面。




次の写真は、くぐり抜けた門を東から西方向を写したもの。




さらに歩みを進めます。門をくぐり左側にはやはり入口。





上の入口に入り右側を見ると、アーチ型の入口があり、屋根付きの廊下沿いに建物がありました。



角度を変えて。



正面。


この建物は、閲覧室です。


次は閲覧室の反対側にある建物。

これは小会議室。





次はこの寺院の中でもっとも重要な場所、礼拝殿。



角度を変えて。


写真に写っている方も見学者のお一人のようでした。

礼拝殿の内部は後ほどご紹介。


礼拝殿の前には石碑。

「重修通州清真寺碑記」です。


この石碑に刻まれていること及び関連事項で現在の私に分ることを以下に書いておきましたので興味を
お持ちの方はご覧ください。



七百年前、元朝の「回回掌教哈的所」が始まり。
これは、当時の中央政府により設置された、回教や回教徒に関する事務などを管理処理する機関で
あったようです。
ご存知のように、元朝初め元朝に仕えたムスリムは当初「色目人」と呼ばれていたわけですが、やがて
元朝およびムスリム自身が自らを「回回」「回教徒」「回」と呼ぶようになったことの反映を見るこ
とが可能です。これは、当時の中国におけるムスリムの定着度を示していると言えるのですが、ただ、
この施設において宗教自体がいかほどの重きをなしていたかは不明。

元朝延祐年間(1313~1320)、改建され「礼拝寺」という名称になる。
前のものとは違い、ムスリムにとって重要な「礼拝」とそれがなされる施設であることを前面に打ち出
した名称になっています。おそらく、元朝下におけるモンゴル人、漢人など当時の中国人社会の中で
回教の存在が周知の事実になると共にさらに周知させる役割を持った施設になっていたこと、さらには
当時この地の回教徒が増え、その存在の必要性が増加したことなどを示しているのかもしれません。

私の知る範囲では今の清真寺の北側の一部で、現在とは違いその規模は小さいものであったようです。
回民胡同に「北門」があり、そこに「礼拝寺」と記されていることは前回ご紹介しましたが、あれ
は当時の名残りなのかもしれません。ただ、前回見た門のように当時の「礼拝寺」の門が北に向いてい
たかのかどうかは今のところ不明です。
なお、「モスク」を「礼拝寺」と呼び始めたのは元代からですが、時代が下って明代になると「清浄寺」
「真教寺」などとなり、やがてすべてのモスクが「清真寺」と呼ばれるようになったようです。ただ、
そうはいうものの「礼拝寺」という名称が廃れてしまったかというとそうではなく、「礼拝寺」という
名称が一般的だったようで、たとえば、清末通州城の地図などを見ると「礼拝寺」と表記されていること
は、その一端を示す好例だと思われます。

「礼拝寺」という名称をめぐってとりとめもなくいろいろ書いてきましたが、いずれにしても、この
「礼拝寺」という名称が、通州「清真寺」の信者さんたちにとり何らかの理由で重要な意味を帯びた
寺名であるように私には思われて仕方がありません。現在の「清真寺」の「北門」に「礼拝寺」と
書かれた額が掛けられているのは、そのよい証左ではないでしょうか。

明代の正徳十四年(1519年)、重修され寺名も「朝真寺」となる。
この「朝真寺」という名称は、後でご紹介する建物に見ることができますが、北門に見られる「礼拝寺」
という名称同様、信者さんたちにとって、やはり重要な意味を持った名前であるようです。というのも、
「朝真」とは「朝聖」を表し、「朝聖」とは「巡礼」という意味ですが、この場合の「巡礼」がイスラム
教徒にとっての最高の聖地、すなわちメッカ(マッカ)にあるカアバ(カアバ神殿とも)を礼拝するという
意味にほかならないからなのです。

なお、一般的にその名称が変更されるのは、この「朝真寺」のように明代後半からのようですが、同時に
その建物も中華風(宮廷建築風)になっていくようです。このことは捉え方によっては、イスラム教とその
信者の中国化(漢化)と見ることも可能ですが、この中国化(漢化)は明朝の初めにすでに行なわれていた
ことはいうまでもありません。たとえば、色目人などに中国に住むことは許しつつも、本族同類との結
婚を認めない、その姓を中国風に改名させていることなどがその一例です。

明代の万暦二十一年(1593年)、拡建される。
「詔修天下清真寺」。具体的にそれがいかなる理由によるものであったのかは不明ですが、皇帝
の勅命によってなされたもの。かなりの規模の拡張で、「礼拝寺」と呼んでいたころは北側の一部に
すぎなかったものが、現在見るようにその規模が南側に拡長されたのはこの時のようです。

「通州左衛」とありますが、これは明朝における軍事組織の一つ。私の現在分っている範囲内のこと
を書けば、ここには、軍屯の耕作に従事する兵士、守城・巡回などに従事する兵士がおり、ほとんど
前者であったようです。
ところで、この軍屯の耕作に従事する兵士たちですが、彼らは皆、当時の戸籍の一つである軍戸で、
兵役の義務を負うのはもちろんのこと、代々この軍戸を継がなければならなかったようです。彼らは
有事における従軍や労役、そして軍需物資を提供するための屯田とかなり過重な負担を背負わされて
いたようで、どうやらそんな状況のもとで軍戸を持つ彼らは逃亡などしたり没落して行ったようです。
「清真寺」が拡張されたのは、「通州左衛」跡地だったのですが、跡地になってしまった原因の一つ
をこのような事情にもとめることができるようです。

明朝期に規模が拡張された回教寺院・通州「清真寺」はご覧のように現在も健在。一方、寺院が拡張
されたほぼ50年後の1644年に明朝のラストエンペラー・毅宗(崇禎禎)が紫禁城の北、景山に登り、寿皇
亭で縊死し、明朝がその歴史に終止符を打っていて、そこに歴史の皮肉を見るような気がしてしかたが
ありません。なお、「清真寺」という言葉が明記されているところに時代の変化を見る思いがしますが、
「清真寺」の「清真」とはイスラムの中国古典哲学による解釈だそうで、「純清真実」あるいは「清潔
真実」という意味であることを付記しておきます。

その後、清代の康煕四十七年(1708年)、道光二十年(1840年)に学舎などが増築・修繕され、やはり
清代の同治年間(1862年~1874年)には大規模な修繕・改築がなされています。私の知る範囲では、
建物や中庭などがそれまで以上に中国宮廷風になったようです。

「近年百余年」以降のことを急ぎ足で書くと次のようになります。
具体的には光緒二十六年(1900年)の義和団事件、1930年代前半、長城を越えて華北に侵入した日本軍
と中国軍との戦闘、そして文革期における破壊や改築や礼拝の禁止などさまざまな災禍に見舞われて
います。
なお、回教徒にとって重要な「邦克楼」「望月楼」などの施設名が記されていますが、それらについて
は回を改めてご紹介したいと思います。


石碑が建てられたのは、文革終了から数えてもほぼ30年後の「2006年」。その傍らに「伊暦1427年」と
刻まれていたのが印象的でした。

それでは、また。


    
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第29回 通州・清真寺胡同1・通州「清真寺」を探しに(1)

2015-06-05 13:27:18 | 通州・胡同散歩
数年前から何回となく歩いてはいたのですが、ふたたび「清真寺胡同」を歩いてみました。

もちろんこの胡同を歩いてみたいという思いからですが、それだけではありません。
生れてこのかた、いわゆる「モスク」なるものの内部を見たことがない私には、できれば
「清真寺」の中を歩いてみたいという気持ちもあったのです。

でも、好奇心はたっぷりとあるものの、いかんせん臆病者には勇気が欠けていた。それに、部外者。
信者さんたちにすれば異教徒は断られてしまうのではないか、また回教についてまったくと言って
よいほど知らない者がおじゃまするのは失礼なのでは、という気持ちも無きにしもあらずでした。
でも今回、たとえ断られてもダメもと、「エイヤーッ!!」の気合とともに入ってみました。

その時の模様は回を改めてご紹介することとし、まずは胡同と清真寺の外観をご覧いただきたいと
思います。




この写真は以前にもご紹介した回民胡同沿いにある「北門」です。







初めてここを訪れた時、「礼拝寺」という額がかかっているにもかかわらず、肝心の「礼拝殿」らしき
ものの存在の気配がまったく感じられません。そこで「これは大丈夫かも」とおそるおそる足を踏み
入れてみたのですが、案の定、「礼拝殿」らしきものはありませんでした。

入って右に行くと看板の幼稚園、左側にはこの寺院付属の講義室のような建物が中庭を間において二棟
あるばかり。大きく、しかも「礼拝寺」という額のかかるここが山門(正門、大門)かなと思ったもので
すが、そうではありません。それならばなぜここにこんな門が・・・という疑問については後ほど再び
触れたいと思います。



さて、「北門」を通り越してすぐのところを右折すると「清真寺胡同」です。




この写真を撮る少し前、こんな光景に遭遇しました。
何かの撮影中。そこで、撮影中の人たちを撮影してみました。
ついでと言ってはなんですがご覧ください。





撮影隊の被写体は清掃係の人たちでした。





撮影隊が姿を消すのをしばし待ち、胡同歩き開始です。

この「清真寺胡同」は距離が短い。そこでまず「清真寺」前の民家をご紹介したいと思います。

それでは、胡同口の左側から。


これは、


以前にもご紹介した車除けの石。いまだ健在です。



胡同に足を踏み入れ、左側。





道端の花壇に私とはほど遠い可憐な花が咲いていました。





道端美学の極北かも。


子供たちも遊んでいました。                                                



少し進んで、隣です。



プランターがありました。





さらに進むと。


布団干しと二階建て。



隣。


やはり二階建てでした。



その隣。


玄関の上部を眺めていると、通りがかりの方が指差して「これが重要」と声をかけてくださった。
なるほど。
三角形、しかもそこにはカリグラフィーというのでしょうか、独特の装飾文字まで刻まれていて、
いかにも回教風なのです。


さらに進み、隣の玄関。



角度を変えて。



ここまでがこの胡同の民家。



それでは次に「清真寺」沿いをご覧いただきます。






外壁沿いの植物たち。





ワンちゃん。





歩いた方向を振り返るとこんな感じです。





方向をもとに戻して、

ワンちゃんと「清真寺」。






手前から「垂花門」、影壁、再び「垂花門」と並んでいます。

が、

ここを通る度にどうして「垂花門」が道路沿いにあるのかが不思議でした。もちろん、あくまで原則だと言っ
てしまえばそれまでですが、この門は正門(大門)を入り、二番目に置かれるのが一般的だからです。
しかも、立派な影壁さえ置かれています。見当はついているのですが、やはりこの寺の中に入ってみなければ
確かなことは言えません。
この辺のことについては回を改めてこの門の中をご覧いただく際、再び触れたいと思います。



「垂花門」正面。




門環。




門墩。








抱鼓型門墩。
上に乗っかっているのは、「獣吻(shouwen)」という動物の頭のようです。
ちなみに、この動物は龍の子どもで、邪気を好んで食べるのだそうです。



影壁。










そして、もう一つの「垂花門」。


これは先のものと同じで、影壁を間に対をなしているというわけなのです。



ところで、ここまでが「清真寺胡同」となり、この門の前をほんの少し行くと、次の外壁とプレートに
出会います。


左は以前にご紹介した「北二条」、右に行くと「中街(胡同)」。

ということは、ここで清真寺は終わりかな、と思ってしまうかも知れませんが、この寺院、「中街(胡同)」
沿いにまだあるのです。


その「中街(胡同)」を歩く前に、来た道を振り返り、写真を撮りました。





プレートにあった「中街(胡同)」を曲がったところ。


ちようど、顔見知りの子供たちが私を追い越して行きました。
彼らは私のことを「爺爺(yeye)」と呼びます。その度に心の中で「大哥(dage)」と呼べよな、とつぶやいている
のですが・・・。

ついでに書き添えておきますが、「寄り道、買い食いなんてしねぇーで、はやくウチに帰れよ~」なんて、
そんな野暮なことはいいません。(学校の帰り道。友達との寄り道、買い食いが楽しいの。)



次は突き当たりを左折して、胡同正面。


右側に門があります。
先に覧いただきました垂花門はいつも閉まっているのですが、この門と幼稚園のある「北門」は
いつも開いています。

信者さんや関係者が利用するのは、ほとんどこの門のようです。





「清真古寺」とあります。


先の垂花門沿いの外壁にも「清真古寺」とあったので、この門をこの寺院の山門(正門、大門)と考えても
よいかも知れません。そう言える理由を他に三点あげておきます。

門簪に装飾が施されていますが、先の垂花門には装飾がありませんでした。

門墩にも違いが見られます。




垂花門の場合、「獣吻」という動物の頭のようでしたが、ここで見られるのは、獅子の体全身です。獅子の方
が格が上と言ってよいようです。

そして、もう一つは「垂花」がないことです。


でも、もしこの門を正門だとすると前に見た北門よりも小さ目な点が気になります。その辺のことは後ほど
にして、先に進みます。



胡同正面。




角度を変えて。





少し進んで、壁沿いに。





壁正面。








清真女寺です。




やはり、垂花門。


ということは、一般的に考えて、二番目にあるべき門が道路に面して置かれているということになります。



正面。


この「清真女寺」の門簪は、先ほどのものと同じく装飾されています。「清真寺胡同」で見たものには装飾は
ありません。               
門墩の上に乗っているのは、すぐ前に見ていただいたものと同じく、獅子の全身。「清真寺胡同」でご覧いた
だいたものより豪華です。


門の前で写真を撮りながら、こんなことあんなことを考えていると、後ろを静かではありますが誰かが通りすぎ
て行く気配。振り向くと、独特の衣装をまとった女性信者さんがお一人、人気のない胡同を足早に清真寺の入口
に向かっていくところでした。





次回は清真寺の門をくぐりたいと思います。

それでは、よい週末を。


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