北京・胡同窯変

北京。胡同歩きが楽しい。このブログは胡同のあんな事こんな事を拙文と写真で気ままに綴る胡同お散歩日記です。本日も歩きます。

第222回 北京・蘇州胡同(10) 日本占領下の臨時政府とその要人ノート(その五)

2019-04-08 11:00:23 | 北京・胡同散策
では、おじゃましてみたいと思います。



緊張感とワクワク感がないまぜになっております。







左側に通路があったので、まずは行けるところまで行ってみたいと思います。



まだまだ行けます。







突き当たり。



ここまでやって来たところで、住民のお一人とばったり。

拙い中国語でお訊ねしたところ、洋館は短くとも100年は経っているとのこと。
わたしは、目を輝かせながら、「そうでしょ、そうでしょ」とご機嫌。

「不通」と書かれた文字が気になっていたので、中に入って写真を撮りたい旨を伝えると、
「大丈夫、大丈夫」という言葉をニコニコ顔で返してくださった。

わたしもニコニコ顔で、いよいよ洋館へ。

ワクワクしてます。




【今から80年ほど前のこと】

梨本さんの『中国のなかの日本人』によりますと、1938年(昭和13年)に「北支那開発会社法」
なるものが内閣から発表されたそうなんですが、その業務目的を同書から写してみると次の通
りなんですよ。

「 1、交通運輸及び港湾に関する事業
2、通信に関する事業
3、発送電に関する事業
4、鉱産に関する事業
5、塩の製造、販売及び利用に関する事業
6、前各号の外北支那に於ける経済開発を促進するため、特に
統合調整を必要とする事業。
と華北の経済のほとんど全般にわた」っており、しかも、この業務目的を遂行するために、
「華北交通、華北電信電話、竜煙炭礦、華北塩業、北支産金、(以下略ー引用者)」などの子会
社62社を設立することになっていたそうです(注1)。

梨本さんはこの「北支那開発会社法」について「私は憤懣に堪えなかった」と同書の中で
書いているんですが、理由は次のようなものでした。

「国家を興すためのもっとも主要なる条件は、その民族産業を興すことにあることはいう
までもないが、この北支那開発会社法が実施されるとするならば、華北の民族産業どこ
ろの話ではない」とし、続けて、かなり激しい語調で、
「史上、征服国家が被征服国家を圧迫した例においてもこんなにはげしい収奪はけっして
なかったであろう」
と書いていらっしゃるんですね。

先に梨本さんの「私は憤懣に堪えなかった」という感想を書きました。しかし、この会社法
を知った時の臨時政府の中心人物だった肝心の王克敏や王蔭泰にしてみれば梨本さんの「憤
懣に堪えなかった」どころの話ではなかったはずです。

それは、単に、この会社法が実施されれば華北の重要産業のほとんどを日本が掌握してしま
うから、という理由からだけではなく、この会社法を中華民国臨時政府のあずかり知らぬと
ころで、日本政府が計画してしまったからなのです。

梨本さんによると、1938年(昭和13年)3月に日中提携による華北経済開発の最高機関として
「華北経済協議会」なるものが設置されていたんですが、日本政府はこの協議会をまったくの
蚊帳の外において会社法を計画してしまったんですね。しかも、この協議会について調べてい
る内に分かったことなんですが、この協議会の会長を務めていたのは、なんと、中華民国臨時
政府行政委員長の王克敏さんその人だったんですよ(注2)。

これじゃ、王克敏やその右腕だった王蔭泰にとっては、たまったもんじゃありません、踏んだ
り蹴ったりだったんじゃないでしょうかね。

では、王克敏や王蔭泰のこの時の反応は具体的にどうだったのか。『中国のなかの日本人』は
次のように伝えています。

“ある日、行政部秘書科長周大慶から、王委員長が至急お会いしたいといっている旨の電話が
かかってきた。さっそく出てゆくと、王克敏は、
「華北交通は作戦中ですからやむをえなすとしても、北支那開発会社に対して、あなたは
どうおかんがえですか?」
と声は怒りにふるえている。また顔の色も青ざめている。
私は仕様もなく、ただ沈黙しているより外はなかった。王克敏は言った。
「これでは、私たちは本当の漢奸(売国奴ー引用者)です。政府は必要ありません」
私には彼の怒りをなだめる策はなかった。しかし、彼は冷然として顔色を少しもほぐそうと
しない。私はくれぐれも、彼に隠忍を求めて、早々に辞去した。”

辞去した後、梨本さんは続けて実業部に王蔭泰を訪ね、王克敏の怒っていることを伝え、彼
になだめ役を頼むのですが、対する王蔭泰は次のように言ったそうです。

“「王委員長の怒るのは当然です。経済部門は全部開発会社の傘下に入り、地方には特務機関、
新民会、合作社、宣撫班が地方行政を遮断する。--これでは政府の必要がない。私も今
まで隠忍してきましたが、これ以上この政府にとどまっていることはできない」”

続けて梨本さんは次のように書いています。

“これでは王国敏をなだめるどころではなく、自分が辞表を出す心算でいる。私は王蔭泰引っ
ぱり出し役として、まことに相すまぬ気持がいっぱいになった。
「あなたを上海から無理に引っぱり出してきて、こんな状態の中に苦しませることは、私
としては何とも申し訳がない。あなたに会わす顔もない」
と私は頭を下げた。すると彼は、
「いや、そんなことは問題にしていない。私も自分で考慮した結果決心をしたのだから、そ
のことは少しも心配はいらない。ただ、政府の了解もなく、華北の産業機構のすべてを開発
会社に経営させて、中国人の企業も許さないということは、実質的には日本が中国を経営す
ることとしか思えません」
と言う。”

ちなみに、梨本さんは同書のなかに、「北支那開発会社案」について、北支派遣軍参謀長
山下奉文少将との興味深いやりとりを載せていますので、次に写してみました。

“翌朝(王国敏や王蔭泰と会った翌日を指すー引用者)、北支派遣軍参謀長山下奉文少将を訪ね
た。(中略)今の華北の状況について、彼の意見をたたいたり、場合によっては王克敏、王蔭
泰と話し合ってもらおうと思ったのである。山下少将は口を開くなり、
「梨本君、北支那開発会社案はひどいなあ。あれじゃ、王克敏としては立つ瀬がないだろう」
と彼の方から切り出した。私は少し意外に思いながら、
「現地軍は開発会社案には関係なかったんですか?」
と問い返すと、
「現地軍は、華北経済協議会以外には何も知らない。あれは内閣だけでやった仕事だろう。
もちろん、陸軍も参加しているだろうが、計画は全部内閣だ。軍もあれでは宣撫工作なんか
できなくなる」
と言った。”

“私は王克敏、王蔭泰の憤慨が常ではなく、二人とも辞表を出して引退する決意であることを説
明した。じっと聞いていた山下参謀長は、沈痛な語調で、
「今、華北で一番肝要なことは治安を維持することだ。この時、臨時政府が紛糾したのでは、
すべてが滅茶滅茶だ。しかし開発計画については、現地軍としてはどうしようもない。事前
に相談があったのなら、あんなことは絶対させなかったのだが、今となってはどうも方法が
ない」
と言い、困惑した顔をしている。”


(注1)日中戦争当時、北支那開発株式会社の社業に従事していた社員有志の皆さんが当時の
ことを書き綴った貴重な記録『北支那開発株式会社之回顧』(昭和五十六年十月一日発行、
編集者/発行者槐樹会刊行会)に、「北支那開発株式会社設立の経緯」という 記事が載っ
ています。次に写してみました(引用に当たって、一部表記を改めています)。

“昭和十二年七月七日に勃発した日華事変を契機として日本の大陸政策は日満華ブロック経済へ
の発展を目標として遂行された。
特に華北蒙彊の地は日満両国と一体化した新たな総合計画経済の中に組み込まれる事となった。
昭和十三年三月十五日閣議決定の北支那開発株式会社設立要綱には次のように述べられている。
「帝国政府決定の北支那経済開発方針に基き日満北支経済を緊密に結合して北支那の経済開発を
促進し以って北支那の繁栄を図り併せて我国国防経済力の拡充強化を期する為北支那開発株式
会社を設立するものとす」
又、設立趣意書は当社設立の事情を次のように述べている。
「・・・抑も北支那の地域たる広大肥沃の土地と一億の人口とを擁し極めて豊富なる鉄、石炭、
塩、電力等の資源を未開発なるが儘に包蔵す。今之と我国の資本及技術を緊密に結合するに於
いては、支那民衆の生活を安定向上し、日支提携長久の基礎を確立すると共に我国防資源の供
給を豊富にし、我国経済力の補強拡充に資すること甚大なるものあるべし。之を以て北支那に
於ける経済開発は緊急の要事にして、就中交通運輸、港湾、通信、発送電、鉱産及塩等の基礎
産業乃至国防産業の如きは最も速に之が開発を促進し、其の統合調整を図るの要あり。ここに
当会社は北支那経済建設の先導者として此等事業に対する投資及融資を行い以て其の経営を統
合調整せんとす。(以下省略ー引用者)」
北支那開発株式会社は前述したような経緯により誕生したのである。即ち第七十三議会を通過し
た北支那開発株式会社法(昭和十三年四月三十日法律第八十一号)に準拠し、郷誠之助氏を設立
委員長とし、同年十一月七日の創立総会によって設立されたものである。”

(注2)「華北経済協議会」関連の記事を次に掲げておきました。北支那方面軍の行政顧問、湯澤
三千男さんが「北支那協会」の定例会で語った言葉です。ただし、「華北経済協議会」が
「日華経済協議会」となっています。引用は次の論文より。『「華北分離工作」以降の中国
における「傀儡政権」の財政構造』〔平井廣一、北星学園大学経済学部北星論集第50巻第
2号(通巻第59号)(2011年3月)抜刷〕電子版。

“経済の発展、それをどうしてやるかという問題です。支那側では現在金を出せない。そこで金は
大部分日本から出さなくてはならないということになります。経済の開発、これは日本の意思で
出来る丈け実行する・・・そこで考え出したのが日華経済協議会といふ合作機関であります。
・・・これは、根本は何処迄も日本の指導であらうと云ふのでありますから日本に実権を与えて
貰はなければならない。面子上王克敏氏が委員長〔会長〕になっておりますが、副委員長〔副会
長〕の平生氏が実権を握るといふ訳であります。結局は何うしても日本側が発案して、それをや
って行く・・・そのために軍内に経済委員会といふものを別に拵へて、それには各方面の専門家
が参加する・・・極端に申しますると、日華経済協議会といふものは、私は支那政府以外の政府
であらうかとも思ふのであります。・・・〔支那〕政府以外の政府で経済開発を主管する処の別
の政府があるのだと思ふ。”
 

【現在のこと】

いよいよ中へ。

ワクワクしすぎて、もう倒れそう。



中は意外と明るく、ほっとしました。

西方向に通路がのびています。



足元に敷きつめられたタイル。



向きを変えて南方向。



傷んではいますが、素敵な木製の手すりがありました。



階段。
手すりのカーブの美しさにしばし見惚れる。

静かに、そして丁寧に一段一段あがっていきます。



靴底を通して伝わる柔らかい感触といい、古さゆえに放つ軋む音といい、
忘れがたい階段に出合えてよかった。

踊り場で。

壁沿いに穿たれた窓から射し込む陽射しがまぶしい。





やはり静かに、そして丁寧に階段をくだり、一階へ。



出入口の足元には、やはりタイル。



タイルを跨いで、外へ。



ご覧いただいているのは、南方向の様子です。



突き当りまで行くと、東方向と西方向にそれぞれ通路がありました。

東方向。



西方向。



洋館の裏側。





元に戻り、玄関の裏側。



再び、北京国際職業教育学校の門前に戻ってきました。




【今から80年ほど前のこと】

北支那開発会社ならびにそれに関連した出来事について、『中国のなかの日本人』は
次のように伝えています。

“日本の国家資本と独占資本の混成児である北支那開発会社は、交民巷(大使館地域)に
看板を掲げ、さっそく製鉄、石炭、塩等の資源開発を開始した。この会社は確実な利益
配当が保証され、払込資本金の十倍までの社債の発行権が与えられていた。その強力な
資本をもって、中国系の大会社を次々に子会社として統合し、中国人の所有者たちは、
事業の経営から除外された。中興、大同、保晋、井陘、宣化等の諸炭礦をはじめとして、
石景山の製鉄所、宣化の鉱山等も後に開発会社の参加に入った。開発会社が積極的に事
業開始に乗り出すと、鐘紡、東洋紡、日清製粉、大同電力、大倉組、浅野セメント、小
野田セメント、王子製紙、トヨタ自動車等が巨大な資本を擁して、中国人の工場を買収、
統合に乗り出した。彼らの先頭には、常に銃と剣とが立っていた。昭和十三年は、こう
して終った。
日本の経済支配は確立された。王克敏の怒りもむなしかった。”

王克敏を首班とする中華民国臨時政府は、たとえ彼らの思惑がいかなるものであれ、
こうして傀儡政権および漢奸という汚名の泥沼の中に沈んでいったのです。



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