北京・胡同窯変

北京。胡同歩きが楽しい。このブログは胡同のあんな事こんな事を拙文と写真で気ままに綴る胡同お散歩日記です。本日も歩きます。

第149回 北京の胡同・貢院二条(前) 贅沢なたたずまい

2017-06-23 10:19:28 | 北京・胡同散策
貢院二条。
今回は、地下鉄「建国門駅A出口」から建国門内大街を西に行き、社会科学院の西側を右折、
そして貢院西街をしばらく北上、右手にある胡同口から歩き出しました。






北側の家並み。

南側には、それとは対照的な高い建物。



その高い建物は、南から北へ社会科学院、北京档案館、そして様々な施設を有するマンション貢院
6号と並んでいます。写真に写っているのは貢院6号の一部。

“大都市病”に罹る以前の1990年代、北京にも高層建築物が増えたことを告げると、タクシーの
運転手さんの口から「環境問題」「公害」といった意味の言葉が返ってきました。北京が大都市病
になったのは突然なったわけではなく、すでに30年ほど前には準備されていたことで、振り返ると
あの運転手さんは先見の明の持ち主のお一人でした。ちなみに、地元通州も“病気”の進行中。


ところで、この胡同は、明、清の時代には名前の由来となった「貢院」すなわち科挙の試験場の
跡地に出来たもので、当然、当時は貢院二条という胡同はありません。
明や清時代の地図で確認してみました。ご興味をお持ちの方はご覧ください。

〇『明北京城街巷胡同図』万暦ー崇禎年間(公元1573年ー1644年)



〇『清北京城街巷胡同図』乾隆十五年(公元1750年)



その後、1947年に現在の「貢院二条」の原型となる胡同ができ、その時は「貢院四条」と呼ばれて
いました。そして、1965年に現在の「貢院二条」と改称。ただし、文化大革命中、「朝霞街二巷」
という名前になったこともあるそうです。

〇『北平旧城街巷胡同図』(1949年)



〇『北京旧城街巷胡同図』(1990年)



〇『北京旧城街巷胡同図』(2003年)


(以上の地図は『北京胡同志』より)

なお、明、清の時代は貢院があったわけですが、光緒時代の初めには最大規模となり、
具体的には、西は貢院西街、東は貢院東街、南は建国門内大街、北は東総部胡同に及
んだそうです。次の民国期初年の地図上の「貢院旧基」と書かれた青色の部分を見る
とその辺りのことが分かるかと思われます。



次の写真は「北京貢院瞭望楼」。1900年代の初めに撮影。
『映像辛亥』より。次も同じ。



「北京貢院号房」。



また、以上の地図を見ていて現在「貢院西街」と呼ばれる通りが昔は「貢院西大街」という
名称であったことが分かりました。さらに北京が「北平」と呼ばれていた民国30年(1941年)
頃発行された地図を見ると「西夾道」とも呼ばれていたことが分かります。



ちなみに、日本関連のことを書きますと、貢院西街(当時は貢院西大街)あたりには、思想家
中江兆民の息子さんで中国研究者の中江丑吉さんが住んでいらっしゃったことがありました。
丑吉さんについては機会を見つけてご紹介させていただきます。もう一つ。現在の社会科学
院の辺りには日本軍の占領時期に石造りの神社があった時もありました。


人気者、花の自転車トリオ。








右手の塀沿いに物置が、まるで昔の貢院の試験場のように並んでいます。




家庭菜園。大根、長ネギ。





北京で高いものは、オフィスビルにマンション。近頃は物価が高くなっています。
しかし、オフィスビルやマンションが建つ前から、高くて大きなものがありました。

それは、樹木。





1900年義和団事件に際して、フランス極東派遣艦隊の一員として通州に足を踏み入れ、
さらに北京を訪れた小説家のピエール・ロチ。北海公園(当時は皇室の庭園で関係者以外は
立ち入れなかった場所)にある「瓊島」(けいとう。瓊華島あるいは白塔があるので「白塔山」
とも)の山頂に登った時の感想を次のように書いています。

「眼下の北京はひとつの森に似ている。この不可解な効果について、すでに予告を受けて
はいたものの、現実は予想を上まわっていた。《黄城》の公園の外側に、家々の中庭、
庭園、街路に、こんなに樹木があるとは思っていなかった。あらゆるものが緑の海に没し
ている。遙か彼方に黒い棒を描く城壁の向こう側でも、森はまた始まり、果てしなく続く
ようだ。」(黄城とは「皇城」のこと。『北京最後の日』船岡末利訳より)

現在北京は大都市病。しかし、その一方で緑化運動も推進中です。



周囲の雰囲気に溶け込んだ、素敵なたたずまい。





出来ればこんな場所で、よく冷えたビールをグイグイッと。もちろん肴は羊肉串。

流れているのは、贅沢な時間です。


 
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第148回 ROOSEVELT広場で日本の詩人を思い出した。

2017-06-17 19:33:24 | 街角便り
通州の京通罗斯福广场(ROOSEVELTPLAZA)で一度もお会いしたことのない日本の詩人を
思い出し、写真を撮りました。撮影は今年の2月。



「わたしが一番きれいだったとき」

 わたしが一番きれいだったとき
 街々はがらがらと崩れていって
 とんでもないところから
 青空なんかが見えたりした

 わたしが一番きれいだったとき
 まわりの人達が沢山死んだ
 工場で 海で 名もない島で
 わたしはおしゃれのきっかけを落としてしまった
 (茨木のり子「わたしが一番きれいだったとき」一部より。)

茨木さん(1926年6月ー2006年2月)が終戦を迎えたのは19歳の時だったそうです。


「おしゃれのきっかけを落としてしまった」。それは中国の若者たちも同様ですが、
2017年の今、通州の若者たちもすっかり「おしゃれ」になりました。



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第147回 北京の胡同 大柵欄でアイスの女王に出会って目醒めたこと。

2017-06-14 11:25:42 | 北京・胡同散策
北京の大柵欄をぶらぶらと歩いていたら、



アイスにパクつく“アイスの女王”に出会いました。



近づいてよくよく見ると、なんと、知人のTさんではありませんか。

気が付くと、その美味そうに食べる姿についつい誘われ、わたくしも。


お店はマクドナルド、お値段は3元。1元≒16円。


うーん、夏は、やっぱり、アイスの歩き食いに限る。


 

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第146回 北京の胡同 大楊家胡同と護国寺街でこんなものに出会いました。

2017-06-09 14:25:03 | 北京・胡同散策
小椅子圏胡同を拝見した後、帰宅するため地下鉄「平安里駅」目指して新街口南大街を
歩いていると美味しそうなものがありました。



小腹がすいていたので駅の近くのベンチに腰をおろしてゆっくり食べようかと思ったのですが、
タイミングが悪く、店員さんの姿がどこにも見当たりません。



そこで、近くの護国寺街に行って何か軽く腹に入れてから帰ることにしたのですが、それならば
護国寺街の通りの名前の由来となっている護国寺跡(現在は金剛殿しか残っていないのですが)が
どうなっているのか確認し、軽食はそれからということにして、しかも、せっかくですから、こ
の日は大楊家胡同を通り抜けることにしました。

どうした訳か琺瑯びきの表示板がなく、ペンキで壁に胡同名が書かれていました。
老舎の生家のある小楊家胡同の方は大丈夫でしたよ。



歩いて行くと貼り紙がありました。



書かれた言葉はご覧のように「出門見喜」というやはり吉祥を示すお目出度い言葉。
「見喜」は喜びに会う、といったような意味でよいかと思うのですが・・・。

今までに見たことがあるのかもしれませんが、記憶になく、貼られているのが玄関ではなく、
外壁であったのが私には意外でした。



しばらく歩き、もう一つの出入口から護国寺の金剛殿に。
良かったです、以前訪れた時よりきれいに手入れがされているようなので。



次の地図は明の時代の地図ですが、このお寺は元の時代には「崇国寺」といわれ、明の時は
「大隆善護国寺」、清の時代には「護国寺」という名称でした。いずれにしても、規模の大きな
お寺さんだったわけです。



さて、金剛殿を拝見した後、横の道を抜けると護国寺街に出ました。
近くまでは来るのですが、護国寺街に立ち寄るのは久しぶり。驚きました。
前来た時よりきれいになっているし、並んでいる店舗も変わっているようです。

次の写真の建物は金剛殿の前に立っているものですが、以前はこんなデザインでは
なかったような。



そんなことを考えながら、その建物を眺めていると、なんと、サイゼリヤがあるではありませんか!!



地元通州にもあるのですが、「いつここにできたの?」と思いながら入ってみました。
軽くと思っていたのに三品も注文してしまいました。写真は撮り忘れてしまいましたが、
注文したのは次の三品。

奶油玉米浓汤(コーンクリームスープ)
米兰风味肉酱多利亚饭(ミラノ風ドリア)
自制巧克力鲜奶冻(外見はティラミスみたいなのですが、そうではありません。)

どれも美味しかったです。
サイゼリヤさん、ご馳走様でした。
(お詫び:「サイゼリヤ」を「サイゼリア」と誤記しておりました。大変失礼いたしました。6月10日)


帰宅後、「出門見喜」が気になり、清の敦崇編・小野勝年訳註『北京年中行事記』(原題『燕京歳時記』)
を調べてみると本文に次のようにありました。都合により、漢字や送り仮名などを一部現代表記にして
います。

「除夜の接神(かみむかえ)以後は即ち新年だ。最初に戸外へ出た時には必ず喜神をお迎えして拝礼する。」
ここに「喜神」とありますが、註に「喜神とは吉祥の神」とあり、さらに中国の家屋には「道路を距て門と
向かい合った場所に大抵、擡当見喜とか出門見喜とか記した文字を見るであろう。見喜とは目出たいの義で
はあるけれども、矢張り喜神を見るとの意をも寓して居る」と。

確かにこの護符の貼られた正面には次の写真に写っている玄関がありました。
道理で玄関などではなく、外壁に貼ってあったわけなのです。



私にとってもこの日は小椅子圏胡同を歩いたり、新しくなった金剛殿を観たり、サイゼリヤ
で食事をしたり、なんといっても出門見喜という言葉に出会ったりと、文字通り出門見喜の
一日となりました。

  
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