貢院二条。
今回は、地下鉄「建国門駅A出口」から建国門内大街を西に行き、社会科学院の西側を右折、
そして貢院西街をしばらく北上、右手にある胡同口から歩き出しました。
北側の家並み。
南側には、それとは対照的な高い建物。
その高い建物は、南から北へ社会科学院、北京档案館、そして様々な施設を有するマンション貢院
6号と並んでいます。写真に写っているのは貢院6号の一部。
“大都市病”に罹る以前の1990年代、北京にも高層建築物が増えたことを告げると、タクシーの
運転手さんの口から「環境問題」「公害」といった意味の言葉が返ってきました。北京が大都市病
になったのは突然なったわけではなく、すでに30年ほど前には準備されていたことで、振り返ると
あの運転手さんは先見の明の持ち主のお一人でした。ちなみに、地元通州も“病気”の進行中。
ところで、この胡同は、明、清の時代には名前の由来となった「貢院」すなわち科挙の試験場の
跡地に出来たもので、当然、当時は貢院二条という胡同はありません。
明や清時代の地図で確認してみました。ご興味をお持ちの方はご覧ください。
〇『明北京城街巷胡同図』万暦ー崇禎年間(公元1573年ー1644年)
〇『清北京城街巷胡同図』乾隆十五年(公元1750年)
その後、1947年に現在の「貢院二条」の原型となる胡同ができ、その時は「貢院四条」と呼ばれて
いました。そして、1965年に現在の「貢院二条」と改称。ただし、文化大革命中、「朝霞街二巷」
という名前になったこともあるそうです。
〇『北平旧城街巷胡同図』(1949年)
〇『北京旧城街巷胡同図』(1990年)
〇『北京旧城街巷胡同図』(2003年)
(以上の地図は『北京胡同志』より)
なお、明、清の時代は貢院があったわけですが、光緒時代の初めには最大規模となり、
具体的には、西は貢院西街、東は貢院東街、南は建国門内大街、北は東総部胡同に及
んだそうです。次の民国期初年の地図上の「貢院旧基」と書かれた青色の部分を見る
とその辺りのことが分かるかと思われます。
次の写真は「北京貢院瞭望楼」。1900年代の初めに撮影。
『映像辛亥』より。次も同じ。
「北京貢院号房」。
また、以上の地図を見ていて現在「貢院西街」と呼ばれる通りが昔は「貢院西大街」という
名称であったことが分かりました。さらに北京が「北平」と呼ばれていた民国30年(1941年)
頃発行された地図を見ると「西夾道」とも呼ばれていたことが分かります。
ちなみに、日本関連のことを書きますと、貢院西街(当時は貢院西大街)あたりには、思想家
中江兆民の息子さんで中国研究者の中江丑吉さんが住んでいらっしゃったことがありました。
丑吉さんについては機会を見つけてご紹介させていただきます。もう一つ。現在の社会科学
院の辺りには日本軍の占領時期に石造りの神社があった時もありました。
人気者、花の自転車トリオ。
右手の塀沿いに物置が、まるで昔の貢院の試験場のように並んでいます。
家庭菜園。大根、長ネギ。
北京で高いものは、オフィスビルにマンション。近頃は物価が高くなっています。
しかし、オフィスビルやマンションが建つ前から、高くて大きなものがありました。
それは、樹木。
1900年義和団事件に際して、フランス極東派遣艦隊の一員として通州に足を踏み入れ、
さらに北京を訪れた小説家のピエール・ロチ。北海公園(当時は皇室の庭園で関係者以外は
立ち入れなかった場所)にある「瓊島」(けいとう。瓊華島あるいは白塔があるので「白塔山」
とも)の山頂に登った時の感想を次のように書いています。
「眼下の北京はひとつの森に似ている。この不可解な効果について、すでに予告を受けて
はいたものの、現実は予想を上まわっていた。《黄城》の公園の外側に、家々の中庭、
庭園、街路に、こんなに樹木があるとは思っていなかった。あらゆるものが緑の海に没し
ている。遙か彼方に黒い棒を描く城壁の向こう側でも、森はまた始まり、果てしなく続く
ようだ。」(黄城とは「皇城」のこと。『北京最後の日』船岡末利訳より)
現在北京は大都市病。しかし、その一方で緑化運動も推進中です。
周囲の雰囲気に溶け込んだ、素敵なたたずまい。
出来ればこんな場所で、よく冷えたビールをグイグイッと。もちろん肴は羊肉串。
流れているのは、贅沢な時間です。
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今回は、地下鉄「建国門駅A出口」から建国門内大街を西に行き、社会科学院の西側を右折、
そして貢院西街をしばらく北上、右手にある胡同口から歩き出しました。
北側の家並み。
南側には、それとは対照的な高い建物。
その高い建物は、南から北へ社会科学院、北京档案館、そして様々な施設を有するマンション貢院
6号と並んでいます。写真に写っているのは貢院6号の一部。
“大都市病”に罹る以前の1990年代、北京にも高層建築物が増えたことを告げると、タクシーの
運転手さんの口から「環境問題」「公害」といった意味の言葉が返ってきました。北京が大都市病
になったのは突然なったわけではなく、すでに30年ほど前には準備されていたことで、振り返ると
あの運転手さんは先見の明の持ち主のお一人でした。ちなみに、地元通州も“病気”の進行中。
ところで、この胡同は、明、清の時代には名前の由来となった「貢院」すなわち科挙の試験場の
跡地に出来たもので、当然、当時は貢院二条という胡同はありません。
明や清時代の地図で確認してみました。ご興味をお持ちの方はご覧ください。
〇『明北京城街巷胡同図』万暦ー崇禎年間(公元1573年ー1644年)
〇『清北京城街巷胡同図』乾隆十五年(公元1750年)
その後、1947年に現在の「貢院二条」の原型となる胡同ができ、その時は「貢院四条」と呼ばれて
いました。そして、1965年に現在の「貢院二条」と改称。ただし、文化大革命中、「朝霞街二巷」
という名前になったこともあるそうです。
〇『北平旧城街巷胡同図』(1949年)
〇『北京旧城街巷胡同図』(1990年)
〇『北京旧城街巷胡同図』(2003年)
(以上の地図は『北京胡同志』より)
なお、明、清の時代は貢院があったわけですが、光緒時代の初めには最大規模となり、
具体的には、西は貢院西街、東は貢院東街、南は建国門内大街、北は東総部胡同に及
んだそうです。次の民国期初年の地図上の「貢院旧基」と書かれた青色の部分を見る
とその辺りのことが分かるかと思われます。
次の写真は「北京貢院瞭望楼」。1900年代の初めに撮影。
『映像辛亥』より。次も同じ。
「北京貢院号房」。
また、以上の地図を見ていて現在「貢院西街」と呼ばれる通りが昔は「貢院西大街」という
名称であったことが分かりました。さらに北京が「北平」と呼ばれていた民国30年(1941年)
頃発行された地図を見ると「西夾道」とも呼ばれていたことが分かります。
ちなみに、日本関連のことを書きますと、貢院西街(当時は貢院西大街)あたりには、思想家
中江兆民の息子さんで中国研究者の中江丑吉さんが住んでいらっしゃったことがありました。
丑吉さんについては機会を見つけてご紹介させていただきます。もう一つ。現在の社会科学
院の辺りには日本軍の占領時期に石造りの神社があった時もありました。
人気者、花の自転車トリオ。
右手の塀沿いに物置が、まるで昔の貢院の試験場のように並んでいます。
家庭菜園。大根、長ネギ。
北京で高いものは、オフィスビルにマンション。近頃は物価が高くなっています。
しかし、オフィスビルやマンションが建つ前から、高くて大きなものがありました。
それは、樹木。
1900年義和団事件に際して、フランス極東派遣艦隊の一員として通州に足を踏み入れ、
さらに北京を訪れた小説家のピエール・ロチ。北海公園(当時は皇室の庭園で関係者以外は
立ち入れなかった場所)にある「瓊島」(けいとう。瓊華島あるいは白塔があるので「白塔山」
とも)の山頂に登った時の感想を次のように書いています。
「眼下の北京はひとつの森に似ている。この不可解な効果について、すでに予告を受けて
はいたものの、現実は予想を上まわっていた。《黄城》の公園の外側に、家々の中庭、
庭園、街路に、こんなに樹木があるとは思っていなかった。あらゆるものが緑の海に没し
ている。遙か彼方に黒い棒を描く城壁の向こう側でも、森はまた始まり、果てしなく続く
ようだ。」(黄城とは「皇城」のこと。『北京最後の日』船岡末利訳より)
現在北京は大都市病。しかし、その一方で緑化運動も推進中です。
周囲の雰囲気に溶け込んだ、素敵なたたずまい。
出来ればこんな場所で、よく冷えたビールをグイグイッと。もちろん肴は羊肉串。
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