北京・胡同窯変

北京。胡同歩きが楽しい。このブログは胡同のあんな事こんな事を拙文と写真で気ままに綴る胡同お散歩日記です。本日も歩きます。

第28回 熊家胡同4・1930年代の「自治政府」

2015-05-23 13:47:36 | 通州・胡同散歩
前回は、通州の胡同に生まれ育ったFさんとの再会、再再会、そしてかつてあった「鼓楼」などについて
ご紹介しました。今回はFさんと再会したおウチの前辺りから胡同歩きを始めたいと思います。(^^)/


次の写真に写っているのが、Fさんと再会したおウチの玄関。
これは5月6日に撮影したもの。



その玄関前辺りから進行方向を見るとこうなる。


Fさんと再会した1月14日撮影。
うしろ姿の方がFさんである。

少し進んで左のおウチ。



その正面。



次は上のおウチの隣。



正面。


なかなか味のある色合いをしたドア。やはり味のある手すり。


次は、ちょっと気になるツートンカラー。



正面。




よく見ると、さらに気になるものが。
アーップ!!


これは5月6日に撮ったもの。

さらにアップ!!



「新鮮やさい」と日本語で書かれたテープ。これは東京に住んでいた頃にスーパーなどで見かけたことの
ある代物ではないか。最近は見かけないが、数年前、自宅近所の「京客隆」でも見たことがある。

やはり日本語で印刷されているところがポイント。
「新鮮やさい」それは単に「日本」のイメージというだけではなく、農薬の心配ない「安心・安全」な
野菜というイメージがこの日本語で書かれた「新鮮やさい」という言葉にはあるのだろう。

かつて日本でもあったが、この小さなテープの文字を見ていると中国における農薬問題という国民一人ひとりと
直接関わりのある大きな社会問題がその背景にあることはいうまでもない。


そういえばこのテープで思い出した。
以前ご紹介した「南大街」、その北入口にある商業施設の幹線道路沿いの壁に「SEIYU」という看板が掛かっていた。



いつごろから掛けられていたものか分らないが、2005年ごろから2008年の北京オリンピック前後に見た。
当時、この「SEIYU」という文字を見て通州にも日本企業が進出してるのかと思ったものだ。
この看板もかつて通州にあったにもかかわらず今はないものの一つと言ってよいだろう。看板は時代を映す鏡。
それにしても、あれって本当に「SEIYU」のものだったんだろうか?


さらに歩みを進めよう。

次はテープのある家の前。壁がツートンカラー。



正面。


鋲打ちがしてある堅牢に見える扉。中は木材だろう。

上の前の家。


先に見た鋲打ちのしてある扉とは違い、現在よく見かけるドア。


その隣。



正面。



扉一つを見ても、そこに住む住民のことをいろいろ想像できるが、新しさと古めかしさとが混在しているのが
現在の胡同の特徴だろう。胡同は現在の北京の縮図である。


玄関脇にプランターと花壇のある家があった。



正面。



プランターと花壇。




上の2枚の写真は1月14日に撮影したもの。
どんな植物が顔を出すのか楽しみだった。


次は4月23日にこのプランターと花壇のある家の少し手前から胡同正面を撮ったものである。


散歩中のワンちゃんたちが私を追い越していった。犬やネコや小鳥、植え込みは、胡同によく似合う。
このことは繰り返し考えてみる意義のあることだ。


次は5月6日にほぼ同じ場所を撮った。
プランターや花壇がどうなっているのか気になっていたのだ。





こんなになっていた。感激した。






花壇の方も無事だ。







上の家の前辺り。




そして、左。



正面。



またもアーップ!!



門墩(mendun)だが、ずいぶん変だ(ーー;)

門墩、アーップ!!

右側。



そして、左側。



だいぶん削り取られてしまい、変形このうえなしと言ったありさまだが、これも文革の結果なのか。胡同はある意味
で北京の「博物館」よりも生きた北京を知ることのできる博物館だ。

なお、側面に「馬」のような彫り飾りが見える。摩滅していてよく見えないのだが、もし馬の上に
おサルさんなどが乗っていたならば、中国語で「馬上」、日本語で「すぐに」ということで「すぐに出世する」
ことを意味している。住人の願いが込められているというわけだ。


年季の入った手すりも撮った。




散歩中のワンちゃんに出会った。



と言うよりか、カメラを持ってウロウロしている私が、ワンちゃんの散歩道をふさいでしまっていたのかも。
ワンちゃんにはたいへん申し訳ないことをしてしまった。


それにしても胡同らしい建物だった。


さらに歩こう。

胡同正面だ。



右側にこんなものが。


花の彫り飾りがある石。これは門墩の一部と思われる。
具体的には門墩の「台座」の部分。なぜここに埋まっているのか不明。


左側のおウチ。







写真右側に写っている空調の室外機に気になるものが。



アーップ!!だ。



この貼紙、たまに街の地面などにもベッタリ貼りついていたりするが、胡同で見かけたのには驚いた。
貼る方は商売で必死なのかもしれない。しかし生きるためとは言え、こんなところに貼るのはどうよ?
「責任者出て来ーい!!」と叫びたくなるワンシーンだ。住民の方もお困りのようだった。

かつて東京の電話ボックスの中にもこの手の多量の貼紙を見たことがあるが、今はどうなっているのか。



胡同正面。



右側。




胡同正面。



左側を見ると路地奥に家。


こういうのを奥床しいというのだろう。どんなお方がお住まいなのか訪ねてみたいものだ。


隣。




ドアや窓の配置などから、これで鉄パイプ製の階段が付いていて二階建てだと東京などでもよく見かけたアパート
のように見えるのだが、気のせいか・・・。

先に見た門墩のある家とは趣がだいぶ違う。ここにはもとどのような建物があったのか。

こういう建物があるかと思えば、この建物の前はこんな感じだ。




少し進んで、胡同正面。





やはり少し進んで左を見ると・・・


お店のようだが、現在は閉店中のようだった。



このお店の前をご覧いただきたい。



角度を変えて。


今はお店は閉店中で、しかもお店の前はちょっとした物置のようになっている。思うに、まだお店が開いている
頃、ひょっとしてこの物置のような場所は店のお客や近所の人たちの集う楽しい社交場だったのではあるまいか。


こんな大きな木もあった。


季節によっては、この大木のみどりがかつてここに集う人々に木陰を提供していたのではないか。


すぐ近くにはトイレだってあり、


店の前が社交場であったという条件はそろっているのだ。

なお、横切っている道はかつて李卓吾が住んでいたこともある「蓮華寺(胡同)」である。


次の写真は、ほぼ3ヶ月後の4月23日に撮影したもの。





「磨菜刀」の男性が店じまいしていた。ひと仕事終えて場所を移動するようだ。

その葉を落とした大木はこんなになっていた。




以上ここまでが「熊家胡同」だが、ここでこの胡同の案内板をご紹介しよう。





この胡同、明初に住んでいた「熊」という富豪の名前に由来しているようだ。
ここには書かれていないが、漕運の発展に伴い回民の人たちがこの地に居住しはじめてこの胡同が形成されたと
思っていい。


文面に見られる「偽冀東防共自治政府」とは、1935年11月25日、当時非武装地帯の一部であった通州に成立した
「冀東防共自治委員会」が翌月に改組されたものである。

この政府は殷汝耕を長官としていたが、日本軍部との繋がりもある対日協力的傾向を帯びた組織であったようだ。


「委員会」および「政府」の写真。










この政府は、私の知る範囲のことを書けば、秘書・保安・外交の3処、民生・財政・教育・建設の4庁によって
構成されていた。

写真はその一部である。








1935年から2年ほど通州に置かれ、その後唐山に移されている。1938年、中華民国臨時政府に合流の結果、解消
している。

なお、この政府について、日本人や朝鮮人の密輸業者、麻薬業者、浪人などにとって天国であったという説の
あることを付記しておく。このことは、この政府の存在とともにたとえ80年ほど経っているとはいえ、通州
在住の私にとって決して看過できない肝に銘じておきたい一つとなっている。政治、経済、社会などの面は
もちろん、人心を含め有象無象のかたちとなってその影響が残っていると思量するからだ。

昨今、「日中友好」なる言葉を再び目にし耳にするようになった。しかしそれがなんのためのものか繰り返し
考えてみることを忘れてはならないだろう。もしそれが相手国及び相手国国民を単なる経済的利潤追求のため
の手段と化すための言葉であったなら、それはかつての日本政府や軍部の行なった営為と限りなく似すぎては
いまいか。もちろん経済は重要だ。だが、それだけが優先され特化された時、「日中友好」なる言葉は空文化
するだけではなく、かつてと同じ過ちを何らかの形で繰り返すことになるにちがいない。


ちなみにこの政府の所在地は、「西海子公園」のすぐ近くの現在の「三教廟」だった。



また、案内板には「水楼」で付近の住民たちが水を買っていたとあるが、この「水楼」のありかについて
今の私には分かっていない。只今、調査続行中だ。


熊家胡同で見かけた案内板を通して改めて思うことだが、この界隈の胡同は日本との関係一つをとっても重い
歴史の堆積した場所なのである。

かつてあったにもかかわらず「自治政府」は今はない。しかし熊家胡同はかつてもあったし多くの時を
超えて今もある。




5月6日,あのお店の前に行ってみた。まだお店が営業している頃の名残りの看板をカメラにおさめた。



しかしそれは、かつてあったものの貴重な記録としてではない。いつか店の営業再開とともに店の前の広場が
お客や近所の人たちの集う社交場と再びなる、そんな願いを込めてだった。



大木にはよりいっそうの青葉が繁っていた(★‿★)



季節が移り強い陽射しの照りつける頃、この大木はさらに葉を繁らせ近所の人々に豊かな木陰を提供している
にちがいない。

   
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第27回 熊家胡同3・かつて関帝廟や鼓楼があったのだ!

2015-05-11 06:11:00 | 通州・胡同散歩
今回も前回にひき続き「熊家胡同」を歩きます。


まずは次の写真をご覧ください。


これは前回もご紹介した熊家胡同と中街(胡同)とが交わるところから東方向を撮ったもの。
撮影日は5月6日。

前回ご紹介した花壇のある家の植物たちがどうなっているのか気にかかり、出かけてみた。

写真右の女性、その挙止動作やいでたちから、お見かけした時この方も胡同歩き愛好家かと思った。
実際のところは不明だが・・・。ついでに書いておけば、つい先ごろ回民胡同や清真寺胡同を歩いていたら、ゴミ箱
や電信柱の悪戯書きなどをバイクに乗って撮影している男性を見かけた。犬も歩けば棒にあたるというが、胡同を
歩いているといろいろな人に出会う。胡同歩きの醍醐味の一つと言ってよい。

次は角度を変えて。

この写真でもお分かりのように前回ご紹介した花壇や家の横側の植物たちがかなり成長していた。







花壇の植物、こんなに大きくなっていた。







家の横側。




















これからもっと咲かせることだろう。
無事に成長している姿に感激した。


枕のようなものが長くなってしまった。さらに胡同歩きを続ける。

次の写真は1月14日に撮った。



次の写真はほぼ3ヶ月後の4月23日に撮った。



次も4月23日。


ふいに男性がカメラの前に現れた。
体の大きな人だ。
ドクター・スランプ「アラレちゃん」のメンバー・栗頭先生のような大きな頭の持ち主でなくて幸いした。
栗頭先生の場合、彼が教壇に立つとその頭の大きさのために生徒たちから黒板が見えなくなってしまうのだ。
写真の男性の体が巨体だったら画面いっぱいになってしまい、何の写真かまったくわからないものになっていた
ことだろう。

頭が大きいといえば、写真で見かける大村益次郎の頭も大きい。あれは実物写真だろうか。森鴎外も大きかった。
写真の正岡子規も大きいように感じられる。子規といえば親友の夏目漱石は前頭葉が大きいそうだ。内村鑑三は
側頭葉が大きい。東大の研究室に保存されているというのを読んだことがある。私の記憶に誤りがなければ、
その本の著者は医学の専門家だが、まだ駆け出しの頃、たまたま見かけた前頭葉や側頭葉の大きな脳ミソは誰の
ものか同僚に訊いたところ漱石と鑑三のものであったという。専門家という人種の観察力の鋭さに感心させられる。

胡同歩き愛好家の私もこういう鋭い観察力が欲しい。しかし、それは無いものねだりのようなものだとあきらめている。
出来ることは穴があくほど靴底をすり減らすことだ。その間にいろいろな人や物事との出会いがあるだろう。


少し進む。1月14日に撮ったもの。



さらに少し進む。4月23日のもの。

この時は毛色の違うワンちゃんの登場だ。



左側にプランターがあるので接近。




5月6日には、こんなになっていた。
これらは自家菜園のようだ。
次にこの場所を訪れた時には、食べられてしまったあとかもしれない。











自家菜園の家の玄関。




上の家の前の壁。1月14日に撮影。



少し進み、右側の家の壁と玄関。



玄関に接近。



正面



この家は二階建てである。
平屋の多い胡同の中に二階建てがあるとその周辺の雰囲気が変わってしまうのは、いかんともしがたい。



なお、次の写真は上の家の玄関を5月6日に撮ったもの。


正月用の飾りと「貸し部屋有り」の文字。数ヶ月の間に変化があったわけだ。


次は、隣の家の出入り口を1月14日に撮ったもの。


カメラを玄関に向けた時、中から人が出てきたがそれも一興かと思いシャッターを切った。
撮り終えると同時に男性と顔が合った。驚いた。顔見知りだった。名前はFさん。昨年の夏の真っ盛りに
出会った。

通州にも「関帝廟」があったということは知っていた。しかしそれは「かつて」の話であって、現在は跡形も
ないだろうぐらいに考えていた。昨年の夏、きっかけは忘れたが、今はなくともその跡地だけでも見ておこう、
ひょっとしたら石碑ぐらいはあるかも、と思うようになった。そう思うと居ても立ってもいられない。


撮影者は不明。撮影年代は1936-1937年間。今の中倉街道西大街の西口から西方向を撮ったようだ。
1765年(清乾隆三十一年)の創建のようだが、この廟の山門は前年までここにあった旧城西門(明初創建)を利用して
いたそうである。新中国成立の初め、公安局が使用。文革期に取り壊し。正式には「伏魔大帝宮」。


場所は見当がついていた。北京ダックの大鴨梨、コーヒー&ワインの飲めるそれなりに洒落た店「站台故事」、
刀削面の「小葉(叶)鍋鍋」、お粥の「粥世家」などの飲食店や郵便局、銀行そして旧通州図書館のある
「車站路(chezhanlu)」。その車站路と中山大街と西大街とが交差しているあたりである。

この辺りだろうと歩いてみた。しかし実際に歩いてみるが確信が持てない。石碑ぐらいはと思ったのが甘かった。
なにも無い。道行く人数人にも訊いてみた。どの人からも「知らない」「分らない」という返事がかえってきた。
通州に住んでいなかったり、住んでいたとしても昔からの住人ではなかったのだ。
ごく一般的に言って自分に関係のある街でもそもそも相当に歴史などに興味・関心を持っていないかぎり、あるい
は「わが街」という思いがないかぎり過去の遺物のありかなど分ろうはずがないのだ。

「出なおすか」、半ばあきらめかけ、陽の照りつける道端にたたずんでいた時だった。目の前を自転車を転が
しながら60がらみの男性が通りすぎて行く。「この人こそ我が救世主、炎熱地獄で仏、飛んで火にいる夏の虫」。
意味不明なことを思いながら声をかけてみた。するとこの男性、にこにこと私の顔を見ながら指差した。
そこは私が何回ともなくその前を行ったり来たりしたところだった。

先にご紹介した写真のように西大街の西口に立ち、西方向を写してみた。
すると、こんな感じである。


写真左側は中山大街に通じ、前の通りは車站路である。右側にほんのすこし行くと新華書店がある。その前は新華
大街だ。

写真をご覧いただいたわけだが、写真に写っている建物が、かつての「関帝廟」すなわち「伏魔大帝宮」跡地その
ものだと言う気はない。現在と昔とではたとえば道幅などに違いがあり、その位置に変化があってもおかしくない
からだ。だから幅を持たせ、この辺りが「関帝廟」跡地だとここでは書いておきたい。

なお、北京・通州の地図をPCで調べるとこの「伏魔大帝宮」の位置がはっきりと記されているものがある。しかも
その位置が私の場合と違っていることをこの場でお断りしておきたい。誤記であろうと指摘できる私なりの根拠
はあるが、ここでは省略したい。そして、今後もより確かな情報を得るよう努めるつもりである。


さて、話をこの男性のことにもどそう。
名前はFさん。生れも育ちもこの界隈の胡同。息子さんが大連の学校で日本語を勉強したそうだ。
退職後、ある会社の手伝いをしているという。2、30分ほど立ち話となった。
「北大街に鼓楼もあったんだ。惜しいことをした」。遠くをまなざしながらそうおっしゃっていたのが印象的
だった。Fさんは、単に歴史が好きというだけではなく、通州の街とともに育ち、通州の街とともに生きてきた
お人なのだ。

Fさんのおっしゃっていた「北大街」とは、当ブログでもすでに書いたことがあるように旧通州城のメイン通り
だったところ。次に掲げる写真はかつての鼓楼である。

1900年。

8ヶ国連合軍が北京に侵入した年。通州はその通り道だった。

1936年前後。

もとの鼓楼が建てられたのがいつのことなのか確定はしていないようだが、明初という説がある。
詳しいことは省略するが、1968年に取り壊されるまでの間、焼失、復建、重建などが行なわれたのはいうまでも
ない。

1959年頃。



Fさんに熊家胡同で1月14日に再会した時、お仕事中だったので話しはできなかったが、分らないことがあったら
会社においでよ、と改めておっしゃってくださった。


今年5月6日。
上に書いたように花壇の植物たちの成長ぶりが気になり、熊家胡同に行った。逞しく育っているその姿に感激
したり、ほっとしたりした。そして、再びFさんに会った。二度あることは三度というが、お会いしたのはこれ
で三度目である。その時のFさんは初めて出会った時のように自転車を転がしてはおらず、サドルにまたがり
さっそうと私の目のまえに現れた。



思えば、人はひょんなことから良縁を得るもののようである。
通州の街について困り果てた時には、Fさんを訪ねて行くだろう。


1936年。

この写真は、通州旧城の南門の上から北方向を写したもの。
断るまでもなく写真奥の小さいがひときわ目立つ二階建ての建物は北大街にあった「鼓楼」である。

写真のほぼ真ん中に見える通りは南大街。
この南大街の右側一帯が私が現在歩いている胡同である。
ちなみに、この写真は私の中で美しい写真の一枚になっている。


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