前回は、通州の胡同に生まれ育ったFさんとの再会、再再会、そしてかつてあった「鼓楼」などについて
ご紹介しました。今回はFさんと再会したおウチの前辺りから胡同歩きを始めたいと思います。(^^)/
次の写真に写っているのが、Fさんと再会したおウチの玄関。
これは5月6日に撮影したもの。
その玄関前辺りから進行方向を見るとこうなる。
Fさんと再会した1月14日撮影。
うしろ姿の方がFさんである。
少し進んで左のおウチ。
その正面。
次は上のおウチの隣。
正面。
なかなか味のある色合いをしたドア。やはり味のある手すり。
次は、ちょっと気になるツートンカラー。
正面。
よく見ると、さらに気になるものが。
アーップ!!
これは5月6日に撮ったもの。
さらにアップ!!
「新鮮やさい」と日本語で書かれたテープ。これは東京に住んでいた頃にスーパーなどで見かけたことの
ある代物ではないか。最近は見かけないが、数年前、自宅近所の「京客隆」でも見たことがある。
やはり日本語で印刷されているところがポイント。
「新鮮やさい」それは単に「日本」のイメージというだけではなく、農薬の心配ない「安心・安全」な
野菜というイメージがこの日本語で書かれた「新鮮やさい」という言葉にはあるのだろう。
かつて日本でもあったが、この小さなテープの文字を見ていると中国における農薬問題という国民一人ひとりと
直接関わりのある大きな社会問題がその背景にあることはいうまでもない。
そういえばこのテープで思い出した。
以前ご紹介した「南大街」、その北入口にある商業施設の幹線道路沿いの壁に「SEIYU」という看板が掛かっていた。
いつごろから掛けられていたものか分らないが、2005年ごろから2008年の北京オリンピック前後に見た。
当時、この「SEIYU」という文字を見て通州にも日本企業が進出してるのかと思ったものだ。
この看板もかつて通州にあったにもかかわらず今はないものの一つと言ってよいだろう。看板は時代を映す鏡。
それにしても、あれって本当に「SEIYU」のものだったんだろうか?
さらに歩みを進めよう。
次はテープのある家の前。壁がツートンカラー。
正面。
鋲打ちがしてある堅牢に見える扉。中は木材だろう。
上の前の家。
先に見た鋲打ちのしてある扉とは違い、現在よく見かけるドア。
その隣。
正面。
扉一つを見ても、そこに住む住民のことをいろいろ想像できるが、新しさと古めかしさとが混在しているのが
現在の胡同の特徴だろう。胡同は現在の北京の縮図である。
玄関脇にプランターと花壇のある家があった。
正面。
プランターと花壇。
上の2枚の写真は1月14日に撮影したもの。
どんな植物が顔を出すのか楽しみだった。
次は4月23日にこのプランターと花壇のある家の少し手前から胡同正面を撮ったものである。
散歩中のワンちゃんたちが私を追い越していった。犬やネコや小鳥、植え込みは、胡同によく似合う。
このことは繰り返し考えてみる意義のあることだ。
次は5月6日にほぼ同じ場所を撮った。
プランターや花壇がどうなっているのか気になっていたのだ。
こんなになっていた。感激した。
花壇の方も無事だ。
上の家の前辺り。
そして、左。
正面。
またもアーップ!!
門墩(mendun)だが、ずいぶん変だ(ーー;)
門墩、アーップ!!
右側。
そして、左側。
だいぶん削り取られてしまい、変形このうえなしと言ったありさまだが、これも文革の結果なのか。胡同はある意味
で北京の「博物館」よりも生きた北京を知ることのできる博物館だ。
なお、側面に「馬」のような彫り飾りが見える。摩滅していてよく見えないのだが、もし馬の上に
おサルさんなどが乗っていたならば、中国語で「馬上」、日本語で「すぐに」ということで「すぐに出世する」
ことを意味している。住人の願いが込められているというわけだ。
年季の入った手すりも撮った。
散歩中のワンちゃんに出会った。
と言うよりか、カメラを持ってウロウロしている私が、ワンちゃんの散歩道をふさいでしまっていたのかも。
ワンちゃんにはたいへん申し訳ないことをしてしまった。
それにしても胡同らしい建物だった。
さらに歩こう。
胡同正面だ。
右側にこんなものが。
花の彫り飾りがある石。これは門墩の一部と思われる。
具体的には門墩の「台座」の部分。なぜここに埋まっているのか不明。
左側のおウチ。
写真右側に写っている空調の室外機に気になるものが。
アーップ!!だ。
この貼紙、たまに街の地面などにもベッタリ貼りついていたりするが、胡同で見かけたのには驚いた。
貼る方は商売で必死なのかもしれない。しかし生きるためとは言え、こんなところに貼るのはどうよ?
「責任者出て来ーい!!」と叫びたくなるワンシーンだ。住民の方もお困りのようだった。
かつて東京の電話ボックスの中にもこの手の多量の貼紙を見たことがあるが、今はどうなっているのか。
胡同正面。
右側。
胡同正面。
左側を見ると路地奥に家。
こういうのを奥床しいというのだろう。どんなお方がお住まいなのか訪ねてみたいものだ。
隣。
ドアや窓の配置などから、これで鉄パイプ製の階段が付いていて二階建てだと東京などでもよく見かけたアパート
のように見えるのだが、気のせいか・・・。
先に見た門墩のある家とは趣がだいぶ違う。ここにはもとどのような建物があったのか。
こういう建物があるかと思えば、この建物の前はこんな感じだ。
少し進んで、胡同正面。
やはり少し進んで左を見ると・・・
お店のようだが、現在は閉店中のようだった。
このお店の前をご覧いただきたい。
角度を変えて。
今はお店は閉店中で、しかもお店の前はちょっとした物置のようになっている。思うに、まだお店が開いている
頃、ひょっとしてこの物置のような場所は店のお客や近所の人たちの集う楽しい社交場だったのではあるまいか。
こんな大きな木もあった。
季節によっては、この大木のみどりがかつてここに集う人々に木陰を提供していたのではないか。
すぐ近くにはトイレだってあり、
店の前が社交場であったという条件はそろっているのだ。
なお、横切っている道はかつて李卓吾が住んでいたこともある「蓮華寺(胡同)」である。
次の写真は、ほぼ3ヶ月後の4月23日に撮影したもの。
「磨菜刀」の男性が店じまいしていた。ひと仕事終えて場所を移動するようだ。
その葉を落とした大木はこんなになっていた。
以上ここまでが「熊家胡同」だが、ここでこの胡同の案内板をご紹介しよう。
この胡同、明初に住んでいた「熊」という富豪の名前に由来しているようだ。
ここには書かれていないが、漕運の発展に伴い回民の人たちがこの地に居住しはじめてこの胡同が形成されたと
思っていい。
文面に見られる「偽冀東防共自治政府」とは、1935年11月25日、当時非武装地帯の一部であった通州に成立した
「冀東防共自治委員会」が翌月に改組されたものである。
この政府は殷汝耕を長官としていたが、日本軍部との繋がりもある対日協力的傾向を帯びた組織であったようだ。
「委員会」および「政府」の写真。
この政府は、私の知る範囲のことを書けば、秘書・保安・外交の3処、民生・財政・教育・建設の4庁によって
構成されていた。
写真はその一部である。
1935年から2年ほど通州に置かれ、その後唐山に移されている。1938年、中華民国臨時政府に合流の結果、解消
している。
なお、この政府について、日本人や朝鮮人の密輸業者、麻薬業者、浪人などにとって天国であったという説の
あることを付記しておく。このことは、この政府の存在とともにたとえ80年ほど経っているとはいえ、通州
在住の私にとって決して看過できない肝に銘じておきたい一つとなっている。政治、経済、社会などの面は
もちろん、人心を含め有象無象のかたちとなってその影響が残っていると思量するからだ。
昨今、「日中友好」なる言葉を再び目にし耳にするようになった。しかしそれがなんのためのものか繰り返し
考えてみることを忘れてはならないだろう。もしそれが相手国及び相手国国民を単なる経済的利潤追求のため
の手段と化すための言葉であったなら、それはかつての日本政府や軍部の行なった営為と限りなく似すぎては
いまいか。もちろん経済は重要だ。だが、それだけが優先され特化された時、「日中友好」なる言葉は空文化
するだけではなく、かつてと同じ過ちを何らかの形で繰り返すことになるにちがいない。
ちなみにこの政府の所在地は、「西海子公園」のすぐ近くの現在の「三教廟」だった。
また、案内板には「水楼」で付近の住民たちが水を買っていたとあるが、この「水楼」のありかについて
今の私には分かっていない。只今、調査続行中だ。
熊家胡同で見かけた案内板を通して改めて思うことだが、この界隈の胡同は日本との関係一つをとっても重い
歴史の堆積した場所なのである。
かつてあったにもかかわらず「自治政府」は今はない。しかし熊家胡同はかつてもあったし多くの時を
超えて今もある。
5月6日,あのお店の前に行ってみた。まだお店が営業している頃の名残りの看板をカメラにおさめた。
しかしそれは、かつてあったものの貴重な記録としてではない。いつか店の営業再開とともに店の前の広場が
お客や近所の人たちの集う社交場と再びなる、そんな願いを込めてだった。
大木にはよりいっそうの青葉が繁っていた(★‿★)
季節が移り強い陽射しの照りつける頃、この大木はさらに葉を繁らせ近所の人々に豊かな木陰を提供している
にちがいない。
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ご紹介しました。今回はFさんと再会したおウチの前辺りから胡同歩きを始めたいと思います。(^^)/
次の写真に写っているのが、Fさんと再会したおウチの玄関。
これは5月6日に撮影したもの。
その玄関前辺りから進行方向を見るとこうなる。
Fさんと再会した1月14日撮影。
うしろ姿の方がFさんである。
少し進んで左のおウチ。
その正面。
次は上のおウチの隣。
正面。
なかなか味のある色合いをしたドア。やはり味のある手すり。
次は、ちょっと気になるツートンカラー。
正面。
よく見ると、さらに気になるものが。
アーップ!!
これは5月6日に撮ったもの。
さらにアップ!!
「新鮮やさい」と日本語で書かれたテープ。これは東京に住んでいた頃にスーパーなどで見かけたことの
ある代物ではないか。最近は見かけないが、数年前、自宅近所の「京客隆」でも見たことがある。
やはり日本語で印刷されているところがポイント。
「新鮮やさい」それは単に「日本」のイメージというだけではなく、農薬の心配ない「安心・安全」な
野菜というイメージがこの日本語で書かれた「新鮮やさい」という言葉にはあるのだろう。
かつて日本でもあったが、この小さなテープの文字を見ていると中国における農薬問題という国民一人ひとりと
直接関わりのある大きな社会問題がその背景にあることはいうまでもない。
そういえばこのテープで思い出した。
以前ご紹介した「南大街」、その北入口にある商業施設の幹線道路沿いの壁に「SEIYU」という看板が掛かっていた。
いつごろから掛けられていたものか分らないが、2005年ごろから2008年の北京オリンピック前後に見た。
当時、この「SEIYU」という文字を見て通州にも日本企業が進出してるのかと思ったものだ。
この看板もかつて通州にあったにもかかわらず今はないものの一つと言ってよいだろう。看板は時代を映す鏡。
それにしても、あれって本当に「SEIYU」のものだったんだろうか?
さらに歩みを進めよう。
次はテープのある家の前。壁がツートンカラー。
正面。
鋲打ちがしてある堅牢に見える扉。中は木材だろう。
上の前の家。
先に見た鋲打ちのしてある扉とは違い、現在よく見かけるドア。
その隣。
正面。
扉一つを見ても、そこに住む住民のことをいろいろ想像できるが、新しさと古めかしさとが混在しているのが
現在の胡同の特徴だろう。胡同は現在の北京の縮図である。
玄関脇にプランターと花壇のある家があった。
正面。
プランターと花壇。
上の2枚の写真は1月14日に撮影したもの。
どんな植物が顔を出すのか楽しみだった。
次は4月23日にこのプランターと花壇のある家の少し手前から胡同正面を撮ったものである。
散歩中のワンちゃんたちが私を追い越していった。犬やネコや小鳥、植え込みは、胡同によく似合う。
このことは繰り返し考えてみる意義のあることだ。
次は5月6日にほぼ同じ場所を撮った。
プランターや花壇がどうなっているのか気になっていたのだ。
こんなになっていた。感激した。
花壇の方も無事だ。
上の家の前辺り。
そして、左。
正面。
またもアーップ!!
門墩(mendun)だが、ずいぶん変だ(ーー;)
門墩、アーップ!!
右側。
そして、左側。
だいぶん削り取られてしまい、変形このうえなしと言ったありさまだが、これも文革の結果なのか。胡同はある意味
で北京の「博物館」よりも生きた北京を知ることのできる博物館だ。
なお、側面に「馬」のような彫り飾りが見える。摩滅していてよく見えないのだが、もし馬の上に
おサルさんなどが乗っていたならば、中国語で「馬上」、日本語で「すぐに」ということで「すぐに出世する」
ことを意味している。住人の願いが込められているというわけだ。
年季の入った手すりも撮った。
散歩中のワンちゃんに出会った。
と言うよりか、カメラを持ってウロウロしている私が、ワンちゃんの散歩道をふさいでしまっていたのかも。
ワンちゃんにはたいへん申し訳ないことをしてしまった。
それにしても胡同らしい建物だった。
さらに歩こう。
胡同正面だ。
右側にこんなものが。
花の彫り飾りがある石。これは門墩の一部と思われる。
具体的には門墩の「台座」の部分。なぜここに埋まっているのか不明。
左側のおウチ。
写真右側に写っている空調の室外機に気になるものが。
アーップ!!だ。
この貼紙、たまに街の地面などにもベッタリ貼りついていたりするが、胡同で見かけたのには驚いた。
貼る方は商売で必死なのかもしれない。しかし生きるためとは言え、こんなところに貼るのはどうよ?
「責任者出て来ーい!!」と叫びたくなるワンシーンだ。住民の方もお困りのようだった。
かつて東京の電話ボックスの中にもこの手の多量の貼紙を見たことがあるが、今はどうなっているのか。
胡同正面。
右側。
胡同正面。
左側を見ると路地奥に家。
こういうのを奥床しいというのだろう。どんなお方がお住まいなのか訪ねてみたいものだ。
隣。
ドアや窓の配置などから、これで鉄パイプ製の階段が付いていて二階建てだと東京などでもよく見かけたアパート
のように見えるのだが、気のせいか・・・。
先に見た門墩のある家とは趣がだいぶ違う。ここにはもとどのような建物があったのか。
こういう建物があるかと思えば、この建物の前はこんな感じだ。
少し進んで、胡同正面。
やはり少し進んで左を見ると・・・
お店のようだが、現在は閉店中のようだった。
このお店の前をご覧いただきたい。
角度を変えて。
今はお店は閉店中で、しかもお店の前はちょっとした物置のようになっている。思うに、まだお店が開いている
頃、ひょっとしてこの物置のような場所は店のお客や近所の人たちの集う楽しい社交場だったのではあるまいか。
こんな大きな木もあった。
季節によっては、この大木のみどりがかつてここに集う人々に木陰を提供していたのではないか。
すぐ近くにはトイレだってあり、
店の前が社交場であったという条件はそろっているのだ。
なお、横切っている道はかつて李卓吾が住んでいたこともある「蓮華寺(胡同)」である。
次の写真は、ほぼ3ヶ月後の4月23日に撮影したもの。
「磨菜刀」の男性が店じまいしていた。ひと仕事終えて場所を移動するようだ。
その葉を落とした大木はこんなになっていた。
以上ここまでが「熊家胡同」だが、ここでこの胡同の案内板をご紹介しよう。
この胡同、明初に住んでいた「熊」という富豪の名前に由来しているようだ。
ここには書かれていないが、漕運の発展に伴い回民の人たちがこの地に居住しはじめてこの胡同が形成されたと
思っていい。
文面に見られる「偽冀東防共自治政府」とは、1935年11月25日、当時非武装地帯の一部であった通州に成立した
「冀東防共自治委員会」が翌月に改組されたものである。
この政府は殷汝耕を長官としていたが、日本軍部との繋がりもある対日協力的傾向を帯びた組織であったようだ。
「委員会」および「政府」の写真。
この政府は、私の知る範囲のことを書けば、秘書・保安・外交の3処、民生・財政・教育・建設の4庁によって
構成されていた。
写真はその一部である。
1935年から2年ほど通州に置かれ、その後唐山に移されている。1938年、中華民国臨時政府に合流の結果、解消
している。
なお、この政府について、日本人や朝鮮人の密輸業者、麻薬業者、浪人などにとって天国であったという説の
あることを付記しておく。このことは、この政府の存在とともにたとえ80年ほど経っているとはいえ、通州
在住の私にとって決して看過できない肝に銘じておきたい一つとなっている。政治、経済、社会などの面は
もちろん、人心を含め有象無象のかたちとなってその影響が残っていると思量するからだ。
昨今、「日中友好」なる言葉を再び目にし耳にするようになった。しかしそれがなんのためのものか繰り返し
考えてみることを忘れてはならないだろう。もしそれが相手国及び相手国国民を単なる経済的利潤追求のため
の手段と化すための言葉であったなら、それはかつての日本政府や軍部の行なった営為と限りなく似すぎては
いまいか。もちろん経済は重要だ。だが、それだけが優先され特化された時、「日中友好」なる言葉は空文化
するだけではなく、かつてと同じ過ちを何らかの形で繰り返すことになるにちがいない。
ちなみにこの政府の所在地は、「西海子公園」のすぐ近くの現在の「三教廟」だった。
また、案内板には「水楼」で付近の住民たちが水を買っていたとあるが、この「水楼」のありかについて
今の私には分かっていない。只今、調査続行中だ。
熊家胡同で見かけた案内板を通して改めて思うことだが、この界隈の胡同は日本との関係一つをとっても重い
歴史の堆積した場所なのである。
かつてあったにもかかわらず「自治政府」は今はない。しかし熊家胡同はかつてもあったし多くの時を
超えて今もある。
5月6日,あのお店の前に行ってみた。まだお店が営業している頃の名残りの看板をカメラにおさめた。
しかしそれは、かつてあったものの貴重な記録としてではない。いつか店の営業再開とともに店の前の広場が
お客や近所の人たちの集う社交場と再びなる、そんな願いを込めてだった。
大木にはよりいっそうの青葉が繁っていた(★‿★)
季節が移り強い陽射しの照りつける頃、この大木はさらに葉を繁らせ近所の人々に豊かな木陰を提供している
にちがいない。
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