北京・胡同窯変

北京。胡同歩きが楽しい。このブログは胡同のあんな事こんな事を拙文と写真で気ままに綴る胡同お散歩日記です。本日も歩きます。

第58回 北京・大柵欄ノート1(明・永楽から万暦まで)

2015-10-30 12:10:51 | 北京・胡同散策
前回は、かつて北京にあった柵欄について少し書きましたが、書いているうちに北京の商業
街の中でも有名な“大柵欄”正式には大柵欄街について私自身よく分っていないことに気が
つき、遅まきながら、かつ不十分ながら調べてみました。世間では「剥いても剥いても皮ば
かり」なんて申しますが、今回の記事はそんな玉ネギ的な途中報告となっております。



(清末の「大柵欄」。『映像辛亥』より)


まず手っ取り早いところで『北京地名典』で大柵欄を引いてみますと、「明代称廊房四条胡
同」とあり、今の大柵欄のある胡同が明代にはすでにあり、当時は「廊房四条胡同」と呼ば
れていたことが分りました。
しかし、よくよく考えてみますと、これでは明代のいつ頃のことなのかが分りません。明代と
ひと口に言いましても、1368年(洪武元年)に朱元璋が応天府(今の江蘇省南京)で皇帝に即位し、
国号を明と定めてから、1644年(崇禎十七年)に滅びるまで、その間280年近くあるわけで、あま
りにも漠然としています。
そこで、ひょっとしてと思い、同書で大柵欄の北側にあります「廊房頭条」「二条」「三条」
について見てみますと、やはりこれらの胡同が「廊房四条胡同」と同じく明代にはすでにあっ
たことは分つたものの、やはり明代のいつごろなのかは分りませんでした。



(清末から民国初めにかけての「廊房頭条胡同」。『北京旧影』より)

しかし、「廊房頭条」の項を読んでいまして、のちほど掲げる『人海記』(清・査慎行撰。
引用者)という本の一節が紹介されていまして、それを読んでみますと、明初の永楽帝の時代
(1403~1424)、当時の政府がその頃衰えていた商業振興のため、現在の鐘鼓楼などに住居を
建て、商人たちを集めていたこと、また、その当時、現在の大柵欄の前身となる「廊房四条
胡同」が存在していたのかどうかは不明なのですが、「廊房四条胡同」という地名の頭に付い
ている「廊房」という言葉が商業街という意味を含意していること、つまり、明代に「廊房
四条胡同」と呼ばれていた現在の大柵欄と他の三本の胡同が明代にはすでに存在し、しかも
現在のように商業地を形成していたことの分ったのは幸いでした。

次に掲げるのが『人海記』の一節ですが、引用にあたり、『北京地名典』では簡体字、『人
海記』の原典では繁体字で書かれ、「胡同」の「胡」「同」ともに行き構えであることをお
断りしておきます。また、引用中の「廊房」という言葉について『胡同及其他』の著者・張
清常さんの解説もあわせて掲げておきたいと思います。原文はやはり簡体字です。

『人海記』より

“永楽初、北京四門鐘鼓楼等処各蓋鋪房、召民居住、召商民貨、謂之廊房・・・・・今正陽門外
 廊房胡同、尤猶此名。”


『胡同及其他』より

“廊房是明朝初年行用的詞、永楽年間、皇帝降旨、為了使百姓商贾安居楽業、蓋房給百姓居住、 
 給商人開店、這種建築総的名字叫廊房。前門大街廊房胡二三四条可能由此得名(北京天津之
 間有廊房、属河北省、坊房在一定情況下通用)。”


なお、これは余談になるのですが、先にその当時、具体的には永楽の時代、現在の大柵欄のある場所
に「廊房四条胡同」を含む四つの胡同があったかどうかは不明と書きましたが、私の調べた範囲(不十
分であることは否めないのですが)では当時の「廊房四条胡同」を含む四つの胡同について触れている
ものには出会いませんでした。ということは、「廊房四条胡同」を含む四つの胡同が当時はまだ存在し
なかった可能性があると言えなくもないのですが、しかし、調べている途中で、例えば「永楽年間展
拓南城墙時、遂将南郊一部分居民圏入城内。不過猶有大部分居民隔在新築的南墙之外。」(『北京城市
歴史地理』)という一節に出会い、永楽年間、具体的には永楽十七年(1419年)に元の大都城の南側の城
壁がさらに南側に拡張されてからも城内に入ることの出来なかった居住者たちが南側の壁の外にいた
ことが分かり、その点を踏まえて考えてみますと、その城外で生活していた住民たちが当時すでに「廊
房四条胡同」を含む四つの胡同の前身とも言える商業地を形成していたとしても何ら不思議ではなく、
少なくともその可能性のあることを書き添えておきたいと思います。


さて、ここで話しを「廊房四条胡同」が明代のいつ頃に現在の大柵欄のある場所に出現したかという
ことに戻しますが、その際、その点を探るべく次の二冊に当たってみました。

まず、『北京胡同志』(北京燕山出版社)に載っています「明北京城街巷胡同図・万暦ー崇禎・公元15
73ー1644年」で現在の大柵欄辺りを見ますと、北から南へ「廊房胡同」「二条胡同」「三条胡同」
「四条胡同」と四つの胡同がちゃんと並んでいまして、大柵欄の前身である「廊房四条胡同」が明代
の万暦元年(1573年)にはすでにあったことが分かりました。



(上から「廊房胡同」「二条胡同」「三条胡同」「四条胡同」と並んでいます。『北京胡同志』より)


次に明の張爵という人の『京師五城坊巷胡同集』を調べてみますと「廊坊胡同」「二条胡同」「三条胡
同」「四条胡同」と書かれていまして、この本は明の嘉靖三十九年(1560年)に出版されていますので、
これで「廊房四条胡同」を含む四本の胡同が、先に見ました万暦元年(1573年)よりほぼ10年前には存
在したことが分りました。

しかも、これも余談になるのですが、明政府が外城の新築に着工するのが嘉靖三十二年(1553年)、完成
するのがほぼ10年後の嘉靖四十三年(1564年)と言われていますから、外城の新築中に、言い換えますと
外城が完成する以前に「廊房四条胡同」などの胡同がすでにあったことが分ると共に、先に書きました
永楽年間にも当時の北京城の南側の壁の外に住民がいたことが思い起こされ、歴史に疎い私としまして
は驚きを禁じえませんでした。

ちなみに、外城が完成する以前当時、「廊房四条胡同」などを含む大小の通りがどのくらいあったのか
を調べてみました。そうしますと、先に挙げました『胡同及其他』という本には張爵の『京師五城坊巷胡
同集』に載っている胡同を含む大小の通りの数を調べた結果が紹介されており、それを見ますと、当時
の外城の地域には319本、当時北京の内城外城合わせて36坊あった行政地区の一つで「廊房四条胡同」
などがあります「正四坊」には43本の通りのあったことが分りました。       



(明北京外城8坊図。大雑把過ぎて分りづらいかも知れませんが、ご参考までに。引用者作製)


この43本という数字が当時の外城地域にあった8坊内でどのような位置にあるかを示すため、次に通り
の多い順に書き出しておきたいと思います。カッコ内は通りの数を示します。

 正東坊(64)・宣北坊(57)・正西坊(43)・崇北坊(35)
 正南坊(34)・崇南坊(33)・宣南坊(30)・日紙坊(23)


ついでに、内城外城合わせて36坊あった中で数が多い順に十番目まで記すと次の通り。カッコ内で「外」
とありますのは、外城地域であることを示します。

 積慶坊(87)・正東坊(64/外)・明時坊(60)・宣北坊(57/外)・大時雍坊(52)・金城坊(52)
 阜財坊(46)・正西坊(43/外)・崇北坊(35/外)・正南坊(34/外)・崇南坊(33/外)・咸宜坊(33)
南薫坊(33)

上の数字を見ていますと、当時、外城地域にあった「正東坊」「宣北坊」に大小の通りの多かったこと、
「廊房四条胡同」など四本がある「正西坊」も少なくなかったことが分ります。そこで、当時「正東坊」
「宣北坊」「正西坊」の各坊に、出来れば「廊房四条胡同」を含む四本の胡同にどのくらいの数の商店
があったのか調べてみたのですが、残念ながら私の調べた範囲ではその点について書かれた資料に出会う
ことはありませんでした。
なお、外城がまだ完成されていなかった頃の外城地域に住民がすでにいたことに関連して次の記述を挙
げておきます。「嘉靖時、“城外之民、殆倍城中”、結果導致了外城的修築。」(『北京城市歴史地理』
引用符内は孫承澤《春明夢余録》からのもの。引用者)


続けて、嘉靖期後の「正東坊」「宣北坊」「正西坊」に、出来れば「廊房四条胡同」など四本の胡同に
どのくらいの数の商店があったのかを確かめるべく、さらに調べてみました。そうしますと『北京城市
歴史地理』で興味深い記述に遭遇しましたので、次にその内容をご紹介したいと思います。

同書では、嘉靖三十九年(1560年)に出版された『京師五城坊巷胡同集』からほぼ三十年後の万暦二十一年
(1593年)出版の沈榜という人の『宛署雑記』をもとに、北京城の各坊にあった中等以上の店舗数と各坊
ごとの店舗の分布密度を調べた結果が報告されていまして、その報告を見ますと、当時、北京の内城外
城合わせて36坊あった中でも、中等以上の店舗が次の各坊に多かったことが指摘されています。

 大時雍坊・南薫坊・正西坊・正東坊・安富坊・明時坊・鳴玉坊・澄明坊
 靖恭坊・宣北坊

ここで注目したいのは何と言いましても、前に『京師五城坊巷胡同集』の出版された嘉靖三十九年(1560)頃
に外城地域の8坊内にとどまらず、内城外城合わせた36坊の中でも大小の通りが多かった「正東坊」「宣
北坊」、とりわけ「廊房四条胡同」など4本の胡同がある「正西坊」の名が、店舗の多い地域として再び
挙げられている点で、これで万暦二十一年(1593)頃には「廊房四条胡同」など4本の胡同がある「正西坊」               
に商店が多かったことが分ると共に、少なくとも大小の通りの多いことが分った『京師五城坊巷胡同集』の
出版された嘉靖三十九年(1560年)頃よりも、「廊房四条胡同」など4本の胡同が単に商店街であったという               
にとどまらず、お客で賑わう繁華な商店街であった確率が高くなったわけですが、その点をさらに調べて
みたものの、やはり残念ながら今回はその点に触れている資料を見出すことは出来ませんでした。

ちなみに、店舗の一番多い「大時雍坊」はどこか書いておきますと、だいたい正陽門(前門)と大明門(正陽門
と天安門の間、現在毛主席紀念堂の辺りにあった門)の間の西寄り一帯でして、ここには当時、最も繁華な
「盤棋街」という一画がありました。そして、この「大時雍坊」の東隣りが二番目に店舗の多い「南薫坊」
です。


(『北京胡同志』より)

なお、当時の「棋盤街」などの様子を『皇都積勝図』が紹介してくれておりますので、興味のある方はご覧
ください。toutiao.com/a4125834898">


さて、今回は明代の永楽から万暦にかけて不十分ながら“大柵欄”について調べてみたのですが、ここで今回分っ           
たことをもとに手短に感想めいたことを書いておきますと、まず、『宛署雑記』の出版された万暦二十一年(1593年)
頃に「廊房四条胡同」など4本の胡同がある「正西坊」に商店が少なくなかったこと。そして、その点に注目して
考えてみますと、短絡的であることは否めないのですが、この時期には「廊房四条胡同」など4本の胡同が単に商業
地であったというにとどまらず、人出の多い商業活動の盛んな地域であった、少なくともその可能性はあり得る、と
いうこと。
次に、時代をさかのぼり、『京師五城坊巷胡同集』の出版された嘉靖三十九年(1560年)頃に「正西坊」に大小の通           
りが少なくなかったこと。そして、この点も安易に見逃すことは出来ず、この点に注目して、通りの多いことが
すなわち店舗が多かったことを必ずしも意味していないことを承知で書けば、その頃すでに「廊房四条胡同」など
4本の胡同が先に見ました万暦時よりも以前に繁華な商業地を形成していたと考えられる余地のあること。
そして、三つ目として言えることは、嘉靖期には大小の通りの多かった「正西坊」の中ですでに商業地であった
その当時の「廊坊四条胡同」など4本の胡同こそが、その後の万暦二十一年(1593年)頃に人出の多い繁華な商業地
へとさらに成長発展するための礎であったと考えることが出来るかもしれない、ということになるようです。

以上で不十分な資料調べをもとにあの有名な“大柵欄”について今回知りえたことの報告としたいと思いますが、
調べてみて自分がいかに“大柵欄”について知らないかを思い知らされ、調べている途中で何度も自己嫌悪に陥り
ました。しかし、見方によりましては、自分は“大柵欄”について知らないという、そのことが分っただけでも
「棚からぼた餅」かなと思い、これからの励みにしたいと密かに考えております。                                                                     
しかし、今回大柵欄について調べている途中、多くの興味深いことにも遭遇しました。その一つに、8坊の中でも
「日東坊」「宣北坊」「正西坊」に大小の通りや商店がなぜ多かったのかということがありましたが、その点に
ついて書きますと話しが広がってしまいますので、今回は控えました。また、前回書きました「柵欄」について
今回知り得たことも少しあり、楽しくなってしまいました。そこで次に今回「柵欄」について知りえたことの中
からほんの少しですかご紹介しておきたいと思います。

まず、「大柵欄」について「大」があるなら「小」があってもよいではないかと思っていましたら、
ありました「小柵欄」という言葉のつく胡同が。
時代は清の乾隆帝の時。この「小柵欄胡同」、清末には「柵欄胡同」「沙欄胡同」となり、さらに清末
から民初に「沙絡胡同」、民国時以降「沙欄胡同」になっています。場所は、牛街礼拝寺の南側ですが、
再開発のため現在は残っておりません。


(画像では、見づらいかもしれませんが、とりあえず掲げておきました。『北京胡同志』所収の明の時代の地図より。)

次に「小柵欄胡同」があるんだから「中柵欄胡同」があったっておかしくないんじゃあないかと思い調べ
てみたところ、残念ながら今回は見つかりませんでした。しかし、その代わりと言ってはなんですが「横
柵欄」がありました。


(民国期初期の北京地図の複製より。)

名前の移り変わりについて書きますと、民国期に「横柵欄」。現在名は「横柵欄胡同」。1965年に今の
名前になったそうです。場所は、一部オシャレなレストランになっている「崇祝院」の近く。
ここに入りますと、智珠寺がありますが、『老北京の胡同』(晶文社)の著者・多田麻美さんのお書き
のものによりますと、この智珠寺、ベルギーのWassenhove氏が私財をなげうって、元の材料を活かし、
原型に忠実に修復したものだそうです。

そして、感激しましたのは、なんと、「大柵欄」がもう一つあつたこと。


(民国期の複製地図より。)

いつごろ名付けられたのかは分かりませんが、1965年に改名されるまであったそうです。
近くに金代に創建された「双塔慶寿寺」があったのですが、現在は残っておりません。九層と
七層の二つが並んで立つており、夜はくっつき、昼は離れるという噂があったそうです。今も健在であれば
北京名物の一つになっていたに違いありません。
ちなみに、この双塔寺の撤去につきまして『北京再造』(王軍著・多田麻美訳・集広社)に興味深い話が
載っておりますので、興味をお持ちの方はご覧下さい。


(『北京旧影』より)

もと「大柵欄」のあった場所は、地元っ子たちの待ち合わせに使われる西単の十字路近く。現在名は「鐘声胡同」。
名前の由来は近くにあります電報大楼の時報の音なんだそうです。



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第57回 紫竹庵胡同15・柵のある家、かつて柵欄のあった北京

2015-10-13 17:02:16 | 通州・胡同散歩
今回は、場所を少し戻り、次の写真右側に写っている家から始めたいと思います。




この写真には、以前ご紹介した窓がいつも開いているお店が左側に写っているのですが、右側には
出入り口の上に鉄柵のある家。

正面。



私が現在歩いているこの界隈では珍しいのではないかと思います。写真では分りにくいかも知れませんが、
玄関の上にガラスの破片まで付けられています。以前ご紹介した窓がいつも開きっぱなしのお店、しかも
店の中に人がいたためしがないお店と対照的な用心深さと言えないこともありません。鉄柵の錆び具合から
考えますと設置してからだいぶ時が経っているようですが、ひょっとして過去に夜間にでも何かあったの
かも知れません。もしそうだとすると十分に納得。それにしても、鉄柵やガラスの破片とは反対に門扉が
開けっぱなしなのはやはり昼間だからなのでしょうか。


ところで、柵のことを書きましたので、この際ですから、ついでにかつて北京の内城外城にあった柵欄に
ついて取り急ぎ調べてみましたので、簡単に触れておこうと思います。

北京でも指折りの繁華街・大柵欄街の“大柵欄”は有名ですが、あれはかつて北京にあった柵欄の一つ
でありました。


(上の写真はかつての前門外大街。右側に五牌楼が見えます。「北京旧影」人民美術出版社より)


(かつての大柵欄。「北京旧影」人民美術出版社より)


北京で柵欄が設置されたのは、外城が築かれる以前の明の孝宗弘治元年(1488年)にさかのぼります。


(ご覧のように外城のない明の初めから外城が造られた北京の移り変わりを示した図。『北京城市
歴史地理』北京燕山出版社より)

当時北京には夜間の外出などを禁じる“夜禁(宵禁とも)”政策があり、夜間には城門は閉められて
しまうわけですが、同時に盗賊などがその身を隠すのを防ぐため、大小の通りの入口にも木の柵欄が
設けられ、もちろん夜間には閉められてしまいます。


次の清朝もこの明制を受け継ぎ、防盗などのために柵欄を通りに設けています。しかし、理由として
清政府の旗民分治(満漢分治)政策により、それまで住んでいた内城から外城に移住させられてしまい、
政府に不満を抱く漢人たちから治安を守るためであったとも言われています。


(写真は、八旗兵たちが住んでいた区域。旗民分治:内城には満州八旗、蒙古八旗、漢人八旗とその
家族、仏教・道教などの寺院関係者が住み、それ以外の漢人役人や商人、手工業者などは外城に
移住させられたわけですが、雍正以後、この制度は次第に緩和されて行ったようです。地図『北京
胡同志』北京出版社より)

では、かつての北京にはどのくらいの数の柵欄があったのかと言いますと、たとえば手持ちの『北京
地名典』などによりますと、清の雍正七年(1729年)から乾隆年間(1736年~1795年)には1746座あり、
やはり清の光緒年間(1875年から1908年)では1700余の柵欄があったそうです。

ちなみに、清末の朱一新(1846年から1894年)という人の『京师坊巷志稿』という本には、大小の通りが
2077本、その内、「胡同」という名のつくものが978本という記録が見られるようですが、朱一新の生き
た時代が光緒年間と重なることに注目しつつ、2077本という通りの数と1700余という柵欄数とを並べて
計算してみるとどのような結果が出るか、ためしに計算してみるのも一興かもしれません。


(国家図書館蔵。清・朱一新 撰『京师坊巷志稿』。『北京的胡同四合院』北京燕山出版社より)


かつての北京の様子を知るための資料には色々ありますが、その中の重要なものの一つに過去に描か
れた絵があります。例えば『康煕・万寿盛典図』もその一つ。見ると胡同の入口に設けられ
た柵欄はもちろんのこと、四合院住宅と思われる家の中庭、道の真ん中で物を売る商人、大通りの店舗
の看板、井戸とその周りに集まる人々や道行く人々の様子などが分り、見ていると清の時代の北京の
街を歩いているかのような錯覚に陥り、実に楽しくなってしまいます。仮にたとえそうでなくとも、
当時の柵欄がどのようなものであったのかが分かるだけでも十分にお役に立つのではないでしようか。
ご興味のある方は、ぜひご遊覧ください。

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第56回 紫竹庵胡同14・花開く道端のエスセティクス

2015-10-08 13:26:41 | 通州・胡同散歩
門環と門扉の素敵な家から少し進むと、胡同らしい、やはり魅力的なお宅。





正面。




門墩(mendun)。



その家の主人が文官であることを示すという箱型。

周囲の彫り飾りは残っていますが、やはり動物の頭は削り取られていました。
文革の影響であることは言うまでもありません。




反対方向からも撮ってみました。





ところで、別の日に紫竹庵胡同を訪れると、上でご紹介したお宅の壁沿いに布団が
干してありました。




その上、ベビー用品が置きっぱなしに・・・。



地域の人々への無言の信頼が感じられる、胡同ならではのおおらかな光景。
でも、雨が降って来たら、どうするんだろう?

そんな時は、「下雨啦!」(シャァユイラ・ラは口+手偏に立)

通りがかりや近所の人が声をかけてくれるのだそうです。
人と人の距離が近いんですね。


茶の間が道路に溢れ出したような胡同。
そこでは、四季を通して道端の美学が満開!!
次回訪れた時、何がフートンを彩っているか想像しただけでも楽しくなってしまいます。


帰り道、胡同近くの商店街・南大街を通ると、こんなものが売られていました。






焼き芋の美味い季節が、またやって来ました。


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第55回 紫竹庵胡同13・門環と門扉 その魅力の秘密を教えてほしい!!

2015-10-04 15:00:24 | 通州・胡同散歩
門環と門扉がありました。
第49回でご紹介した室外機のある家の隣。

宮殿、王府、寺院などの門環には、魔除けの獅子の頭をかたどったものが多く、
材質は銅製。
庶民の場合、無装飾なシンプルなものが一般的。鉄製が多い。
明、清両代の北京には住宅等級制度がありました。


ところで、この長い年月使い込まれた門環と門扉。
どこか懐かしく、それでいて、なぜか新しい。
そして、見る者の眼差しをどこまでも優しく受け止めてくれる。



撮り終わった後、門扉に手を触れると温かかった。
その溜息の出るような魅力の秘密にほんの少しだけ触れることの出来たような、
そんな瞬間でした。


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第54回 通州・イルミネーション 国慶節に思う。

2015-10-02 10:37:30 | 街角便り
連休に入る少し前の夜、食事のために待ち合わせたのは、私には不似合いで気恥ずかしくなるような、
こんな場所でした。




たとえどんなに冷たい雨に濡れようと、たとえどんなに深い闇に包まれようと、輝いている。
この電飾は、そんなことを教えてくれているのかも知れません。

それにしても、建物に取り付けられた電飾が、通州、広く北京の変化、そして流される様々な
情報に遅れまい、追いつこう、あるいは、我を忘れて踊り踊らされ、あたふたしている人のように
見えてしまいます。こうなると、いつまでも満たされることのない、イルミネーション・ラブ。

国慶節。
楽しい連休をおすごし下さい。


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