北京・胡同窯変

北京。胡同歩きが楽しい。このブログは胡同のあんな事こんな事を拙文と写真で気ままに綴る胡同お散歩日記です。本日も歩きます。

第219回 北京・蘇州胡同(7) 日本占領下の臨時政府とその要人ノート(その二)

2019-01-25 11:58:12 | 北京・胡同散策


庭の一画に今にも壊れてしまいそうな物置小屋のある洋館の向かい側には
二層のアパートがありました。





そして、通路を挟んでその向かいには伝統的な住宅。





わたしが佇む時代の隔たりを感じさせる二種類の建物の間の路地は、まことに不思議な
空間。

多少の混乱や戸惑いを伴いながらも色も匂いも音も違う時代をいとも簡単に行ったり来
たりできてしまい、時によっては、ほんの少し手間をかければ自分と違うさまざまな時
代を生きた人々と、たとえかりそめであったとしても出会うことができてしまう。さま
ざまな時間旅行のできる胡同はおもしろいなぁと思う。





前へ進むと直ぐに行き止まり。そこで元のところに引き返し、次は北端にあった出入口の中へ。







やはりおじゃましてみました。







行き止まりなので前にご覧いただいた飲食店のところまで戻り、続けて南方向にものびる蘇州胡同を
歩いてみることにしました。






【今から80年ほど前のこと】

梨本さんが初めて王克敏に会ったのは1937年12月7日の夕方、場所は蘇州胡同にある王希清という方
の屋敷の応接室でした。

そして、その時、王さんの口から出たのは、こんな言葉でした。

“「私の新政権に対する条件は、華北だけの地方政権ではなく、中央政権として、蔣介石の
国民政府に代わるものです」”

これから設立するのは、なんと蔣介石が君臨する国民政府に取って代わる中央政府なのだいう。

この時の王克敏さんは64歳。しかもこれは今から80年ほど前の話。知力、体力、気力などが今の64歳
よりも衰えていてしかるべきかと思われるのですが、王さんの言葉にこもるただならぬ熱量や気魄はい
ったいどこから生じてくるのか。

この時の王克敏の様子をスケッチすれば、黒い色眼鏡の奥の片目には鋭い光を宿し、その全身にはまさ
に「妖気」がゆらゆらと漂っていた、といってよいかもしれませんね。

しかし、その一方で王さんは醒めた現実認識の持ち主でもあったようです。

“「今は中央政府にふさわしい人が一人もおりません。政治はその徳がないならば、退くべき
です。その人を得て、初めて中央政府は成立します。しかし、政治は現実です。それまで
待っていられません。したがって、今度樹立する政府は臨時的のものです。人材があって
政府の運営がうまくゆくようになったら、われわれは故山に帰去すべきです」”

「今度樹立する政府は臨時的のもの」で「人材があって 政府の運営がうまくゆくようになったら、わ
れわれは故山に帰去すべきです」という王克敏さんの国政に対する誠実な姿勢や思慮深さはさておいて、
蔣介石の国民政府に取って代わる「中央政府」にふさわしい人材が一人もいないと言うならば、たとえ
臨時であったとしても現実的問題として新政府に集まる人材はどのような人たちなのか。

“「(前略)華北には旧い政客がたくさん残っています。この人たちは何もできませんが、今の
 状態で無視しては、新政府はできません。暫定的にこの人たちと一時妥協する外はありま
せんが、これがなかなか大変なことです」”

王さんの言う、何もできない華北に残る旧い政客たちとは、より詳しくはどんな人たちなのか。梨本さん
の人物評は手厳しい。

“北京の治安維持会の江朝宗のように、清朝以来の家系を誇る政客や、斉燮元(さいしょうげん)、
王揖唐(おういっとう)等のように、北洋軍閥、政客の残党たちが無数にいる。そして、彼らは
虎視眈々として、いかなる餌でものがすまいと狙っている。蔣介石のように、実力をもって政
権を樹立したのなら、これらの古老を一蹴することはいとも容易である。しかし、王克敏のよ
うに、何らの実力も背景も持たずして、新政府を組織しようとするものにとって、華北に苔の
ようにこびりついている古老政客を一応は相手にしなければならないことは、当然覚悟しなけ
ればならないことだ。しかも、彼らは時代の流れも政治も経済も解さないが、保身自衛のため
の権謀術数には驚くべく敏感であり、老練である。王克敏が嘆声をもらすのも当然である。”

こんなことを言っては、上に紹介されている古老たちに申し訳ないのですが、これらの古老たちは、当時
の中国が抱える問題に適切に対応できる実力もなく、国民から支持される声望もすでに失っているような
人たち、しかも厄介なことに己一身のことばかりにかまけるあまり、国民のことなど顧みることのできな
い人たちばかり、というわけなのです。

たとえていえば、これらの人たちの集まる新政府とは、老朽化した廃材を寄せ集めてつくった急ごしらえ
のポンコツ船、しかも「船頭多くして船山に登る」という昔の諺を地でいきかねないような危うさを抱え
た代物なのです。この船は目標としている港に無事に辿りつくことができるのでしょうか。いや、それ以
前に船出と同時に自壊してしまうのではないか。仮に自壊を免れたとしてもこの船がこれから船出する海
にはその行方を阻む大きな波が立っていたのです。

思えば、当時の中国というわだ闇の支配する大海原には、幾つもの波濤が存在していました。たとえば、
一致抗日を旗印に手を組んだ蔣介石の国民政府や中共軍、それらを下から支える中国各地に澎湃として沸
き起こった中国民衆の中国ナショナリズム。もちろんそれだけではありません、王克敏率いる新政府を自
国の国益のためになんとか自由に操ろうと必死な日本の軍人たちのさまざまな策動。

“「(前略)日本は正式に協定したこと以外は、たとえ軍人であっても干渉も容喙しないという
ことを固く約束しましたが、日本の軍人はなかなかそんなことを承知する筈はありません。
今後、いろいろと面倒なことを言ってくることは明らかです。わたしは最初が肝要です。そ
んなことには断じて妥協しません」”

もし妥協しなければ、抗日だ、やれ反日だと日本からは叩かれ、妥協してしまえば文字通りの傀儡に成り
下がり「漢奸(売国奴)」の烙印を押されて、中国民衆の支持は得られないこと必定です。「断じて妥協は
しません」という言葉は、己はけっして操り人形ではないという王克敏さんの断固たる意思表明ですが、
では、中国と日本の板挟みになってしまう王克敏さんの新政府はいったいどのような航跡を描いて見せて
くれるのか。

王克敏さんを中心とした老朽化した廃材を寄せ集めてつくった新政府という船が、まがりなりにも政府と
しての体裁をととのえ、晴れがましい儀式とともにいつ何どき襲い来る大波に呑み込まれてしまうかも知
れぬ大海原に船出したのは1937年12月14日のことでした。


【現在のこと】

大きな洋館に沿って北方向にのびる路地を引き返し、その出入口まで来ると、その向かい側には
幹から生え出た枝のように南方向にのびる一本の路地があります。



このように幹からのびる枝のような路地は多くの胡同に見られるわけですが、思えば胡同散策と
は、これらの枝に見られる木の葉や花の美しさ、果実のうま味を賞玩する贅沢な営為といえるか
も知れず、なかにはこれらの葉や花や果実の美しさやうま味に驚嘆し、さらにはそれらの成り立
ちに好奇の目を輝かせる方がおられても何ら不思議なことではないのかもしれません。



ぽっかりと小さな空き地がありました。



その空き地の北、東、南の三方に住宅があり、ここはカタカナの「コ」の字のようになっています。

奥の方に、何やら、人間以外の生きものの気配。



ニワトリ。



エサをついばむニワトリはわたしの事など眼中にありません。


やっぱりここは胡同だな!!

ニワトリの反対側には「洗衣店」、断るまでもクリーニング屋さん。


ごく普通に見えて、よくよく眺めてみると決して普通ではないのかも、と思えてしまう出入口。
一般的に伝統的住宅の側壁の部分にはドアなどあるはずがないとわたしなんかは思ってしまうん
ですが、そういう固定観念に縛られず、伝統的住宅の側壁の一部をくり抜いて出入口をつくって
しまったところが柔軟性に富んでいるといえなくもありません。



ニワトリや洗衣店をあとにさらに南へ。

左手。
窓のところに「美髪美甲」と書かれた理髪店。日本風にいえば美容室&ネイルサロン。





さらに行くとアパート。





道が左方向にカーブを描いていました。




【今から80年ほど前のこと】

梨本さんの『中国のなかの日本人』には、新政府の組織やその顔ぶれの氏名や略歴についての記
述がありありますので、ご参考までに次に書き写してみました。これは、梨本さんが王克敏さん
と2回目、具体的には新政府成立式の二日前の12日に会った時、王さんから得た情報をもとに書
かれたもの。

“「非常に不満足な新政府をつくることになったが、どうも人がいないのでやむを得なかった」
と彼は、新政府の組織にやや不満の色を示しながら、次のように語った。”

“新政府は大総統制とし、大総統は適当な人を得るまで空席とする。各部門は、議政委員会、行
政委員会、司法委員会とし、議政委員長には湯爾和、行政委員長には王克敏、司法委員長に董
康が就任する。部長(大臣)は適任者のない部は当分欠員とし、司法部長朱深、治安部長斉燮元、
文教部長王揖唐が決定した。”

“議政委員長の湯爾和は五十八才、日本の金沢医学専門学校の出身で医学博士、昭和元年、顧維
釣内閣に内務総長(この時王克敏は財務総長)となり、その後 冀察政務委員会委員をも勤め、王
克敏とは旧知の関係であった。司法委員長董康は七十才、前清の進士、大正九年、靳雲鵬(きん
うんぽう)内閣の司法総長、顔恵慶内閣の財務総長となり、その後、政界を引退して上海法科大
学院長を勤めるかたわら、律師を開業していた。治安部長斉燮元は北洋軍閥の生残り、司法部長
の朱深、文教部長の王揖唐はいずれも地方政客の逸才。--以上の顔触れの中に、戦後の中国の
経営に堪え得る器量と才幹を併せもった政客は一人もいない。しかし、人材がいないからと言っ
てうっちゃっておく訳にもいかないので、あとから補充することにした。新政府の中心となる行
政委員長および行政部長は王克敏が兼任して、実際において、新政府の運営は王克敏の独裁のよ
うなものである。その間に急いで有為の材を揃えることに力を尽くしたい、と王克敏は繰返し語
った。”

「以上の顔触れの中に、戦後の中国の経営に堪え得る器量と才幹を併せもった政客は一人もいない。」
とあるように王克敏さんが中心となって設立される新政府は、大きな内憂を抱えていた訳ですが、その
新政府には次に掲げる梨本さんと王さんの次の会話に見られるような外患、喫緊の問題もありました。

“「新政府で一番肝要なことは、華北の民族産業を発達せしめること、眼前に迫っている難民に生活
を与えることですが、これはきわめて急を要します。この部門はどうなんですか」
このことだけは、人材を待ってなどと言っていられない急務なので、私は王克敏にただした。
「私もこの部門を一番重要視しています。これは王蔭泰を措いては、今のところ一人も適任者はあ
りません。そこで至急梨本先生のご尽力をお願いしたいのです」
王克敏は熱いお茶を飲んで、再びこの問題に触れ、
「経済問題、難民救済(注)、農業問題は、新政府の当面の急務です。これを王蔭泰に担当してもらっ
て、梨本先生に補佐してもらえば、私も安心です。その他の政治的なむずかしい問題は、私が身を挺
して処理します」
と言った。”

王蔭泰というのは、当時上海で弁護士をやっていて王克敏さんとは旧知の仲、ご覧のように王克敏さん
の信任の厚い人物。そして、この人物を新政府に引っ張り出すために協力を依頼されたのが梨本さんで
した。

結局引っ張り出しには成功し、農業問題などに詳しい梨本さんも王蔭泰さんを補佐することになってし
まうのですが、ここで留意していただきたいのは、何と言っても王克敏のあげる「経済問題、難民問題、
農業問題」。これらの問題が新政府成立後にどのような展開を見せるのか、それは他日とりあげる予定
です。

(注)「難民」という言葉が出ていますが、この難民の発生と関係の深いのが自然災害。王克敏の新政府
が統治した河北、山東、山西、河南などを含む各地域で発生した自然災害、1935年(民国24年)から19
37年(民国26年)の3年間だけを見ても次のようなものがあったようです。引用は鄧雲特著、川崎政雄訳
『支那救荒史』(昭和十四年一月二十八日発行、生活社刊)。

〇1935年(民国24年)、「揚子江並に黄河が氾濫し、湖北、湖南、江西、安徽、河北、山東、河南、
江蘇の八省の罹災民は二千五十九萬五千八百二十六人」、「河北、江西、江蘇、河南、湖北、浙江、
福建、山西、安徽、江蘇、陝西、湖南等の十二省に旱害あり、又虫害は八省六十八縣、疫、風、雹の
各害は十二省八十九縣に及び、農作物の被害割合は百分の五十四」、「浙江、福建、廣東、雲南、
陝西、山西、甘粛、寧夏、奉天等の九省に出水」、「山西、陝西、山東、安徽の四省には旱魃」。

〇1936年(民国25年)、「河南省の汲縣以北は蝗害によって農作物は殆んど食ひ尽され、河北省では、
旱害と大風により麦苗は枯死するか又は萎縮して、罹災民は樹葉又は野菜の實を食した。河南及び
四川の両省でも旱魃があり、秋の収穫なく、罹災者は八萬七千五百四十八人であった」。

〇1937年(民国26年)、「安徽、陝西、四川、河南、雲南、廣西、寧夏、貴州、山東、甘粛等に旱魃
あり、罹災者は樹皮又は楡の葉によって餓を充したが、四川及び河南は特に酷烈で、四川省では餓死
者三千余人、罹災民三千余萬人を出し、又罹災縣数は四十一縣で全省の十分の九を占めている。更に
河南省では罹災民は千余人に達し、被害数は数十余で全省罹災区域の三分の一を占めた。河南、福建
、廣東、河北の各省では悪疫が流行し、廣東省定安縣ではペストによる死亡者は計算し得ない程であ
った。河南省の孟津、エン(焉に阝)稜、洛陽等の各縣では、風害によって麦苗が被害を受け、秋収全
く不可能となり、更に家屋の損壊も無数で、罹災者は三十余萬人に及んだ。甘粛省及河南西部各縣で
は飢民は妻子を売つて日を過し、餓死者は道に溢れ、乞食者は一萬余人に達した」。


【現在のこと】



右手には、気をつけないと見逃してしまう魅力的な住宅。





こちらは蘇州胡同78号院。



玄関の上の飾り。







胡同には、生活の匂いや音や色を確かな手応えと共に感じさせてくれる歴史やアートが溢れかえっています。
時に、それらが手には負えないほどの体積や容積をもった世界であることもあるのですが、しかし、そんな
ことにたじろぐことなく立ち向かってみる価値は十分すぎるほど。

おじゃましてみたいと思います。







中庭北側の建物。









次は西側です。



洋館の屋上につくられた部屋。
洋館の前につくられた物置とも生活部屋とも見分けのつかない小屋。
その小屋の屋根から突き出している二股にわかれた樹木。



西側建物の出入口。



次は南側。




78号院をあとに再び歩きだしました。







写真の奥を横切るのは、第199回と第200回でご覧いただいた三源胡同。


【今から80年ほど前のこと】

新政府の成立式が晴れがましくも挙行されたのは、1937年12月14日、場所は中南海にあった
「居仁堂」でした。


(「居仁堂」のもとの名称は「海晏堂」。清末の最高実力者、西太后が外国からの女性の賓客
をもてなした所で、民国になって「居仁堂」と改名。民国初めの実力者、袁世凱が応接所とし
て使用していた建物でもあったそうです。写真は「海晏堂」。『秦風老照片館系列・北洋歳月』
広西師範大学出版)

梨本さんはそのときの様子を以下のように書いています。

ちなみに、新政府の宣言の中に登場する「民国」という文字の抜け落ちた「中華臨時政府」とい
う名称が、当時一般的に使用されていたものなのか、あるいは「中華臨時政府」という名称には
新政府の何らかの意図が込められているものなのか、または「民国」という言葉が他の理由で脱
落してしまったのかは現在のわたしには不明であることをお断りしておきたいと思います。

“昭和十二年十二月十四日の午前十一時から、北京市中南海公園の深い木立ちに包まれた居仁堂
において、新政府の成立式が挙行された。私と朱華とは後方に参列した。”

“王克敏を先頭として、前清時代からの政客で、壮年の頃、西太后から特別の寵を受けたという
現北京市長の江朝宗、前清時代、張子洞に従って政界に進出、大正十三年唐紹儀内閣の財務総
長、次いで国務総理までやった高凌霨、湯爾和、王揖唐、朱深、董康、斉燮元等の各委員が参
列し、さすがに軍服の日本軍人は遠慮してか姿を見せず、わずかに外交関係、実業関係からの
来賓が祝辞を呈するのに止どまった。”

“白いひげを長くたらした董康は、黒い紋緞子の大掛児(たあかある)を着て式の進行を司どった。
式は順次どおり進められた。董康が、新政府によって国旗に制定された五色旗をするすると屋上
高く掲揚した。満場の拍手が起った。董康は血色のよい老顔をにこにこさせながら、座に戻って
きた。次いで、胸まで垂れるような白いひげをそよがせながら、長身に大掛児を着こなした湯爾
和が静かに立って、壇上に上り、手にした奉書の書き物をひろげた。新政府樹立宣言を読み上げ
ようとするのだ。さっと緊張した空気が流れて、しわぶき一つきこえない。満場水を打ったよう
な静けさである。さすがに湯爾和も緊張してか、いささかふるえ声で宣言書を読み始めた。要旨
はこうだ。”

“「国民政府は一党専制、国民の意思を蹂躙して対外戦争を招き、今や敗戦連続、四億の民を塗炭
の苦に陥れている。民の苦難を救い、国家の機能を回復するために、われわれは新政府を設立し
た。政府は徳高く、才の秀ずる人の下に、ひろく人材を集めるために大総統制とし、今後、天下
に賢才を求める決心でいる。それまでは臨時の意味において、『中華臨時政府』とする。この政
府の下に、天下有為の人材が来たり投ずるならば、われわれは故山に起臥して、農を耕すを惜し
む者ではない」
宣言が終ると、息づまるような緊張から解きほぐされて、拍手が急霰のように起った。”




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第218回 北京・蘇州胡同(6) 日本占領下の臨時政府とその要人ノート(その一)

2019-01-14 10:57:24 | 北京・胡同散策
【現在のこと】

前回ご覧いただいた飲食店の東側に、北方向にのびる一本の路地がありました。





出入口のところに「此路不通、請勿穿行」(この先行き止まり)と書かれた貼り紙。






少し歩くと97号院。





と、いうことは前回ご覧いただいた飲食店は99号院ということのようです。

97号院の向かい側。



何気なく民国風。





次は95号院。





だいぶ手が加えられていますが、奥に洋館らしき建物が見えたのでおじゃましてみました。





この建物は、ひょっとして前回ご覧いただいた次の大きな建物の一部なのでは、と思われます。




【今から80年ほど前のこと】

“今や六十四才、五尺足らずの短身痩躯、その上、片眼がつぶれていつも黒い色眼鏡を
かけている。一見、不気味な妖気が漂ようが如き人物である。”(梨本祐平『中国のな
かの日本人』1969年、同成社より)

名前は、王克敏(Wan kemin、ワンクゥミン)。

1937年7月7日に起こった蘆溝橋事件(中国では七·七事变)のほぼ5ヶ月後の12月14日に北京に
成立した中華民国臨時政府の行政委員長、3年後の1940年3月に組織された汪兆銘を首班とする
南京国民政府に臨時政府が吸収され、そのかわりとして成立した華北政務委員会の委員長などを
つとめた人物。

お断りするまでもなく、中華民国臨時政府、華北政務委員会という二つの組織は、その主要メン
バーのほとんどが中国人ばかりであったにもかかわらず、日本の息がかかっており、まるで自分
の意志(意思)など持たないあやつり人形のように日本にあやつられてしまった政権でした。


【現在のこと】





こちらは93号院。



奥に先にご覧いただいた洋館と同じ建物。



手前の住居部分は、昔は奥に見える洋館の庭だったのでは、と思われます。





もともとはベランダだったのではないかと思われるところに取り付けられた木枠の窓。
現在は部屋として活用していらっしゃるようです。



もともとはどんな方たちがこの階段を行き来したのでしょうか。
石段に足をかけると足もとから当時の人々の靴音やささやきが聞こえてきそうです。





半地下室の窓。
そういえば、前回ご覧いただいた洋館にもありました。



93号院の出入口に戻り、出入口越しに見える洋館の姿を撮ってみました。



屋上やベランダに建増ししている様子がわかります。
住宅や経済などもろもろの事情はさておいて、合法と非合法のあわいにぴーんと張られた
一本の綱の上を渡る危うさを秘めたこんな光景に出遭うと、その発散するある種の逞しさ
や強靭さに圧倒されてしまう。


【今から80年ほど前のこと】

ところで、上掲書によりますと、著者である梨本祐平さんが初めて王克敏さんに会ったのは、王さんが
臨時政府を設立するために、それまで暮らしていた上海から北京にやって来た1937年12月7日の夕方。
場所は、驚いたことには北京の胡同。

“自動車は東城の閑雅な胡同(胡同とは日本の横町の意味であるが事実は自動車の出入の
自由な小通路)の「王宅」と標札に書いた朱塗りの大きな門の前に停った。自動車の警
笛が鳴ると、門は内側から開けられて、ボーイが二人先頭に立って、美しい庭樹に蔽わ
れた豪奢な応接間に案内した。
 間もなく王克敏が痩躯をあらわした。黒い色眼鏡をかけ、大掛児(たあかある)を着て
いる。”

上の記事を目にした時には、胸はワクワク、眼はキラキラッと。
なにしろ舞台となっているのが胡同なもので。

「朱塗りの大きな門」とあるので王さんがいらっしゃったのが四合院住宅であったことは判るのですが、
しかし「閑雅な胡同」って、具体的にいったいどこの胡同なのか。

それが判明するのは、梨本さんが二回目に王克敏さんのいる「王宅」を訪れる次の場面。

“12日の朝、王克敏が泊っている王希清の家から、朱華(著者の知人で王克敏の協力者。
引用者)と私に直ぐに来てほしいという電話があった。
私たちは直ぐ仕度をして洋車(人力車のこと。引用者)で蘇州胡同の奥深い王氏の家に
行った。先日の豪奢な応接室で再び王克敏に会った。”

閑雅な胡同、それがなんと蘇州胡同であるという不意打ちを喰らったこの時ばかりはさすがに言葉を
失ってしまった始末。たとえ日本のあやつり人形だったとしても、かりそめにも中華民国臨時政府の
行政委員長や華北政務委員会の委員長という重責を担った人物が今から80年ほど前の蘇州胡同で起臥
していたなんて。


【現在のこと】

93号院をあとにさらに前へ。



外壁の白い部分はタイル。
今は自転車置き場になっていますが、ここは以前、その用途は不明ですが、部屋になっていたようです。
違法建築であるため撤去されてしまった模様。



少し行くと大きな玄関。



さらに歩き、こちらは89号院。



やはり奥に洋館が見えますので、おじゃましてみました。





右下に地下室の窓が見えます。



出入口越しに撮ってみました。



さらに行くと、



大きなゲート。







庭の一画には、廃材を寄せ集めて作ったような、決して立派とはいえない、
それでいて逞しい力を秘めた小屋がありました。




さて、この蘇州胡同に日本旅館やみやげ物屋のあったことは前に書きましたが、今回から数回に分けて、
現在の胡同の様子をご覧いただきながら、やはり日本占領下の蘇州胡同で起臥していた、日本にゆかり
ある王克敏という中国人政客や中華民国臨時政府、あわせて王克敏さんや臨時政府の内部やその周りに
群がった魑魅魍魎たちの生息振りの一端を上掲の『中国のなかの日本人』に基いて覗いてみたいと思い
ます。



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第217回 北京・蘇州胡同(5) 公然の秘密たる非合法な営業が繰り広げられていた。

2019-01-06 10:23:35 | 北京・胡同散策
好物の白菜をあとにして再び歩を進めると、何やら大きなゲート。







顧みれば2014年10月に撮った写真にもこのゲートは写っていました。
しかし、注目していただきたいのは、何といってもゲートの西隣に肉屋さんがあったこと。


こちらのお店を経営なさっていらっしゃったのは、どうやら回族の方だったようです。
そのため扱っているのは牛肉と羊肉で、豚肉はおいてありません。

余談になりますが、今年の干支は「猪(イノシシ)」。しかし、中国では「猪」は「zhu(ヂュー)」と読み、
豚のこと。だから中国では本年はブタさんの年なのです。
ちなみに、「イノシシ」は「野猪(yezhu/イエヂュー)」。


時間を現在に戻してゲートを通り過ぎると、



理髪店がありました。


しかし、看板が出ておりません。
なにやら規制があるようです。

しかし、理髪店のシンボルマーク、サインポールはグルグルと回っていました。
サインポールの回っていない理髪店なんか、理髪店とはいえませんよね(笑)


理髪店のサインポールといえば、天橋地区の校尉営胡同で見かけた理髪店が懐かしい。





サインポールが逆さまに取り付けられてしまったため、“HAIR”という文字が逆立ちしてました。


逆立ちした“HAIR”という文字が発散するゆるーい空気のなかでサインポールが穏やかに
グルグルと回転していました。このゆるさのまんま、ずーっと営業していただきたいなぁ。


理髪店のシンボルマーク、サインポールといえば舶来物。
斜め前に洋館が建っていました。





どうやら下の写真に写っているのがこの洋館の表玄関のようです。
上の写真で言いますと、中華風石塀の向こう側になります。



角度を換えて。



窓の部分を最上階から地下室まで撮ってみました。











この建物、建てられたのはおそらく民国期だと思うのですが、通りに面した半地下にある出
入口前の屋根や柱の部分はひょっとしてずっと後の時代に取り付けられたものでは、といっ
た雰囲気が濃厚でした。




上の大きな洋館から東隣に目を移すと、これまた民国期の産物かなと思える建物。







こちらは飲食店になっております。
前にご覧いただいた理髪店同様に店名を書いた看板がありません。
やはり、何らかの規制あり、といったところでしょうか。




ゆるーい字体がなかなかいいですね。


実はこの飲食店、2014年にはこんな感じでした。
同じ建物とは思えません。





先にご紹介した飲食店と同じ経営者なのかは未確認なのですが、2014年の場合、
現在のお店とは違い、店名や特色料理をしめすこれ見よがしの大きな看板がお店
の前面をドーンと飾っていたのです。

それに引きかえ現在のお店の、何とつつましやかでおとなしいことか。



思えば、2014年頃までの蘇州胡同はこのようなお店が軒を連ねる、パワフル、エネルギッシュ、
エキサイティング、そんなカタカナ語のとても似合う通りでした。しかし、現在この通りに櫛
比しているのはお店たちにかわって車列なのです。

ほとんどのお店が消えうせたり、あるいはおとなしく改築したのは、本当のところは分からぬ
ものの、違法というのがその理由のようです。現在違法駐車しているクルマもいっぱいあるの
ですが・・・。


ここで時代を遡って、昔の蘇州胡同で繰りひろげられていた過酷で、哀切きわまりなく、そして
したたかでもあった非合法な店舗営業ぶりのブラックなひとコマをほんの少しでも覗いておくの
も北京で暮らす大人のたしなみといえるかもしれません。

『北京旧事』(余釗著、学苑出版社)によりますと、義和団事件の際の八カ国連合軍による占領
後の北京の胡同、具体的にはかつての東交民巷公使館区近くの船板胡同、蘇州胡同、鎮江胡同
(現在の東西鎮江胡同)などには、外国人向けの妓院があり、そこで働く妓女達のほとんどは白
系ロシア人や日本人で、対するお客といえば公使館区内の外国人たちだったそうです。

上の記事に関してもう少し書けば、民国期の社会調査によりますと、上掲の船板胡同、蘇州胡同、
鎮江胡同などにあった妓院は私設のもの、つまり非公認非合法のもので、にもかかわらず、お客
は外国兵が多いということで、警察は干渉せず(あるいは干渉できず)、それらの妓院の存在は公
然の秘密であったようです(『北平娼妓調査』《社会学会》第5巻、1931年6月)。

警察も見て見ぬふりをせざるえなかった公然の秘密たる非合法な営みが日々繰り広げられていた
かつての蘇州胡同一帯、今回はそれら胡同の過去の記憶のひとコマとして黒い輝きを放つ深淵を
ほんの少し覗きこんでみました。


さてさて、新しい年になり、本日はもう一月の六日。ご覧くださっている皆さまにおかれまして
は日々お元気でお過ごしのことと存じます。

明けましておめでとうございます。


近所のマーケットの売り場では今年の干支、ブタさんがご覧のように並んでいました。

本年ものんびりと当ブログを綴ってまいる所存でおります。遅々とした歩みではありますが、
旧年同様お付き合いください。本年もどうぞよろしくお願い致します。




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