北京・胡同窯変

北京。胡同歩きが楽しい。このブログは胡同のあんな事こんな事を拙文と写真で気ままに綴る胡同お散歩日記です。本日も歩きます。

第216回 北京・蘇州胡同(4) 日本占領下、日系おみやげ店や日本旅館があった。

2018-12-30 16:08:58 | 北京・胡同散策
1965年の地名整頓時に蘇州胡同に編入された延寿庵胡同の南出入口を出て、ふたたび
東方向に歩き始めると、アパートに沿って健康増進のための運動用具が置かれていました。











運動用具にまじってゲーム。



身体の健康だけではなく、頭脳も健やかでなくてはね、といったところでしょうか。

置かれていたのは、象棋(xiangqi/シアンチー)。
中国将棋。




上にご覧いただいた運動用具の置かれている向かい側は立派な門構えのお宅です。





可愛らしい提灯(灯籠)がさがっています。



門牌の字体が素敵でした。



この蘇州胡同106号は、一般住宅ではなく、看板は出ていませんが超市(スーパーマーケット)。



この超市の外壁に沿って少し歩いてみました。





歩いてみて、4年ほど前の蘇州胡同にはたくさんの商店が所狭しと並んでいたことを思い出しました。


たとえば、2014年10月に撮った次の写真。
写真向かって左手に見えるのが106号の玄関。
この写真を見ると、106号の西側沿いに商店が並んでいたことがわかります。



しかも、よく見るとその写り方は小さいながら、106号東側の外壁沿いにも
店舗が並んでいたことがわかります。



そして、次の写真。



右手にお店が写っていますが、ここは冒頭の写真から14番目に掲げた次の写真と同じ場所なのです。



現在は外壁に窓という外貌を呈していますが、今から4年前はお店の出入口だったんですね。


さて、上に今から4年ほど前の蘇州胡同の様子をご覧いただきましたが、次にさらに時代を
さかのぼった蘇州胡同をご紹介させていただきます。

まずは、1936年に作られた地図(複製)の一部。

名前は『The Map Of Old Beijing Folklore 1936』(中国名、老北京風俗地図)というもの、
作られたのは1936年2月、作者はFRANK DORNさんで、アメリカ人のようです。



緑色矢印の部分に“(SHOPPING)”と書かれています。

一体どのようなお店が並んでいたのかはわかりません。
しかし、地図上にわざわざ“(SHOPPING)”と書き込んであるのを見ますと、憶測の域を出ないものの、
今から80年ほど前の蘇州胡同が、ひょっとして人の往来でけっこう賑わう観光地的要素を持った商店街
ではなかったかと思われて仕方がありません。

お次は、日本占領下の1941年に「永住者乃至半永住者」や「官用、調査、留学、商用、視察、慰問」
などの目的で北京に来往する日本人のために北京で発行された『北京案内記』(昭和16年11月20日、
新民印書館発行)という本の記事。

上掲書を見ますと、当時北京にあった有名旅館として24軒の日本旅館が紹介されていて、
その内の2軒が蘇州胡同にあったことがわかります。その名称などは次の通りです。

〇鶴屋ホテル
部屋数:16
宿泊料:7円-8円
摘要:日本間

〇南洲屋
部屋数:11
宿泊料:7円均一
摘要:日本間

この本には日本旅館のほかに蘇州胡同にあった日系の土産物店も載っていて、当時の蘇州胡同にも
一軒あったことがわかります。

その名前もズバリ『北京みやげ屋』。
主に扱っていたものとして「七宝帯止」「ヒスイ宝石刺繍」「文具」が挙げられ、しかも住所まで
書かれています。「蘇州胡同68」(ただし、この住所は現在のものと異なっている可能性あり。)

いったいどんな方たちが蘇州胡同に買い物にいらっしゃったんでしょうねぇ。


ひょっとして、日傘を差したこんな方たちですかね。




上の二枚の写真は『秦風老照片館系列・北洋歳月』(広西師範大学出版)より
お借りしました。


さてさて、1936年や1937年以降の日本占領下の蘇州胡同を後に、さらに現在の胡同を歩きます。



106号院沿いの外壁を過ぎると公共トイレ。上の写真の右手手前の灰色の建物がそれ。
その横に路地があるではありませんか。



見逃すわけにはいきません。









階段を上がるべきか、それともその脇の通路を進むべきか、ちょっと迷ったのですが、階段脇の
通路に決めました。







左手に蘇州胡同98号院。





98号院の向かい側にも路地。



行けるところまで行ってみたいと思います。







これ以上は進めそうもありませんので、元のところに戻り、階段脇の通路をさらに進みます。



こちらは蘇州胡同100号院。









やはりこれ以上は進めそうもありませんので、元に戻りました。
次の写真は階段脇の通路の最端。




それでは先ほどの階段を上がってみたいと思います。



踊り場から南方向。



東南方向。



北東方向。



そして、東方向。



「胡同の空はいつ見ても広くて大きい。」
だから気持ちが良いのです。
でも、中には雨漏り防止のために厚手のビニールシートを置いている住民の方も
いらっしゃる。わたしのように暢気なことばかりは言っていられない。


当記事が今年最後の記事となります。
今年一年お付き合いくださいまして、ありがとうございました。


階段脇の通路で見かけた好物の北京の冬の風物詩、白菜。

新しい年もまた胡同でお会いいたします。
では、良いお年を。




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第215回 北京・蘇州胡同(3) 今は昔、延寿庵、八宝楼という胡同がありました。

2018-12-18 10:00:36 | 北京・胡同散策
118号院を後にして再び胡同を歩き始めると、前方に一匹のネコがいました。



名前はボス。
数ヶ月前に出会い、飼い主がいるのかいないのか分からず、もちろん名前も知りません。
「ネコ、ネコ」と呼ぶのではどうもしっくりしない。そこで勝手に付けた名前が「ポス」。
その貫禄のある容貌やのっしのっしと歩く姿から付けた名前です。



ボスはその顔は怖いのですが、その顔とはうらはらにけっこう甘えん坊将軍。
こちらがボスのそばに立ってその姿や周囲の景色を眺めていると、「ミャオ、ミャオ」と
可愛らしい声を出しながら、こちらの足に身体をすりつけてくるのです。ボスではなく、
甘えん坊将軍あるいはミャオ子と名づけた方がよかったかもしれません。



ボスの話をすると長くなるのでこの辺で切り上げますが、ボスがウロウロしている辺りの
南側には一軒の食堂。



店名を示す看板は出ておらず、そのため遠くから見ただけでは、ここに飲食店のあること
が分からないかもしれません。



メニュー。



この食堂を通り過ぎると、蘇州胡同を間に南方向と北方向に二本の道が走っています。



右手南側の道は前にご紹介した「南八宝胡同」。





上の胡同牌の向かい側には「政府便民工程/您恵万家」という公営のマーケット。



南八宝胡同とは反対側にある路地に歩みを進めてみました。





この道沿いの左手西側には手前から蘇州胡同1号楼、2号楼、3号楼と合計三棟の五階建てアパートが北方向に
並んでいます。後述しますが反対の東側もアパートです。




ところで、この蘇州胡同沿いから北方向に走る路地を『古都北京デジタルマップ』中の「乾隆京城全図」
(vol.10の0004)で探してみると、この地図が作られた乾隆15年(1750)頃、この路地が「延寿庵胡同」
という名称であったことが分かりました。

そして、さらにこの「延寿庵胡同」のほぼ真ん中辺りから右方向(東方向)へほんの少し行ったところには、
名前の由来となったに違いない「延寿庵」というお寺のあったことも知りました。

これからその「延寿庵」のあったと思しき辺りをこの目で確認するべく訪れてみたいと思います。



こちらは「蘇州胡同101号」というアパートです。



ゲート。



ゲートを入って左手には古い建物。



この建物は「伝達室」。現在ならば管理人室といったところでしょうか。

この「伝達室」の外壁にさがっていた「厳禁商販進此院内」と書かれた年季の入った木札。



伝達室の脇から北東方向を撮ってみました。
道が北方向と東方向に分かれています。



あくまで素人の見方に過ぎないのですが、問題の「延寿庵」は、上の写真正面奥に写っている建物辺り
に建っていたのではないかと思われます。なお、先に挙げた「乾隆京城全図」を見ると「延寿庵」は南
側に山門のあったことがわかります。

ついでにアパート敷地内を少し歩いてみました。
まずは、北方向へ。



物置があり、その中に気になるものがありました。



犬の大きな置物。



北方向の道沿いにはミニクーパー。



次は東方向へ。
かつてこの敷地内に「延寿庵」のあったことを知らなければそれまでのことなのでしょうが、
一度知ってしまうと不思議なもので、この何気ない中庭が特別な意味を帯びた場所に変貌し
てしまうようで、写真左手前辺りにさしかかったとき、「この辺りから北方向に延寿寺は建
っていたんだな」と歩きながら乾隆時代に思いを馳せました。





写真奥に二階建ての洋館。



「延寿庵胡同」は1965年の地名整頓時に蘇州胡同に編入されました。


さて、次は昔「延寿庵胡同」と呼ばれた路地に戻り、「延寿庵」とは反対の西側を散策してみたいと
思います。

まずは、次の地図をご覧ください。


(この地図は2007年4月に出版された『北京胡同志』(主編段柄仁/北京出版社)所収「建国門地区」地図
の一部。)

この地図を見ると、前々回ご覧いただいた中国の百度地図では「蘇州胡同」の一部となっていた道路が、
『北京胡同志』が出版された2007年頃には「八宝楼胡同」(オレンジ色矢印)という名称であったことが
分かります。

そこで、今から10年ほど前には地図に記載されているにもかかわらず、残念なことに今はなくなってし
まった「八宝楼胡同」という胡同の痕跡がほんの少しでもよいから残ってはいまいか、そんな思いを抱
いて先の「延寿庵胡同」の西側を歩いてみました。

はじめは、蘇州胡同1号楼の北側の路地から。
ちなみに、次の写真の左手に見えるのが蘇州胡同1号楼。



衣物回収機が置いてありました。



回収機の前を少し行くと「城管執法」。
ちなみに、ここは地方行政機関で「城市管理行政執法局」の略。



城管執法の周辺をウロウロしてみたのですが、かつてこの辺りが「八宝楼胡同」であったことを示す
痕跡はありません。

もう少し前へ行っても、それは同じことでした。



時代を感じさせる三輪車が停まっていました。

電動車、換電瓶などと書かれています。
ひょっとしてこの言葉たちにまじって痕跡はないものかと探してみたのですが、やはりありません。



次の写真奥を横切っているのは現在「蘇州胡同」で、かつて「八宝楼胡同」という名前であった道。
正面に見えるのは「内蒙古大厦(ビル)」。



元のところに戻ります。



蘇州胡同2号楼の脇を少し行くと、西方向に路地。
左手に見えるのが2号楼。



右手北側に「北京東条城区思必達食品店」というお店がありました。



その西隣にも看板が出ています。
ご覧のように飲み物の倉庫のようです。



ありましたよ、ありましたよ、ありました。
ご覧ください。



「奥士凱銀龍商貿公司」とあり、その下に「八宝楼店」と書かれているではありませんか。
「八宝楼」という言葉がなんと輝いて見えたことか。

まだまだあるかもしれない。そんな期待を抱かせる「八宝楼店」という文字。
力が入り「よっしゃぁ」と先へ。



「yha/china」(ユースホステル)という看板が見えてきました。





ここは「北平北京駅青年旅舎」。



屋根の隅には鳳凰に乗った仙人、仙人騎鳳に続いて二体の走獣、



門扉には中国結。



試しにケータイでこちらの住所を調べてみると、なんと「北京市東条城区八宝楼胡同12号」となって
います。ということは、現在も「八宝楼胡同」という地名は生きているのか?
これはいったいどういうことなのか。あれこれ考えながら先へ。





玄関脇のプレートには「北京京誠集団建国門房屋管理有限公司維修管段」と刻まれ、
建国門地区の地名が書かれていました。



このプレートにも「八宝楼」という文字が載っています。「八宝楼」は現役なのか。

次の写真は西方向突き当たりにある「内蒙古大大厦」。




再び昔「延寿庵胡同」と呼ばれていた道に戻り、さらに北方向へ。





左手には蘇州胡同3号楼。



右手。



屋根越しに「北京日報北京晩報」の社屋が見えます。



北端から西方向へ歩いてみたのですが、残念ながらここにはわたしの見た範囲では「八宝楼胡同」
の痕跡は見当たりませんでした。




もと「延寿庵胡同」を戻りながら先ほどの「北平北京駅青年旅舎」に電話をかけ、その住所を
確認してみました。

その時のやりとりの詳細は省いて書きますと、この青年旅舎の住所は現在「蘇州胡同2号楼北面」
とのこと。しかし、前にご紹介した「八宝楼胡同12号」でも通用するということでした。

今も「八宝楼胡同」は残っているのか、それとも残っていないのか。この点についてまとめてみ
ると、現在「八宝楼胡同」という地名は正式には残っていない。しかし、通用名(慣用名)として
は使用されている、ということになるようです。


八宝楼胡同(Babaolouhutong/バーバオロウフートン)。
この名前は1965年に付けられたもので、それ以前は「八宝楼」(1947年)という名称でした。

かつて胡同内に大きな厠所(トイレ)があり、人々に「巴巴楼(Babalou/バーバロウ/注参照)
と呼ばれていたのを後年「八宝楼」と改名したのが由来と伝えられているそうです。(注:資料
では「巴」は「 尸しかばねかんむり」の中に「巴」となっています。『北京胡同志』主編段
柄仁/北京出版社を参照)

ちなみに、この胡同は文化大革命中に「滅資胡同(Miezihutong/ミエズーフートン)」と改名され、
その後「八宝楼胡同」に戻されました。


以下に余談を二つ。
『古都北京デジタルマップ』の「乾隆京城全図」(vol.10の0004)中、「蘇州胡同」
西端近く、「麻线胡同」寄りのところに今回とりあげた「八宝楼胡同」と同様「八」
と言う数字を使用した「八調湾」という胡同名が記載されていました。「八宝楼」と
の関係で私事ながら興味深く思われたので、ここに記しておくことにしました。

もう一つ。
蘇州胡同沿い南側には前にご紹介しましたように「南八宝胡同」という胡同があり、
今回は北側に「八宝楼」という名の胡同の有無を確認することができました。
なぜ蘇州胡同の附近に「八宝」という文字のついた胡同が二本あるのか。それは、
たまたまなのか、それとも単なる偶然ではないのか興味のつきないところです。
只今思案中。




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第214回 北京・蘇州胡同(2) 名前の由来や会館などについて少し触れてみました。

2018-12-10 11:05:35 | 北京・胡同散策
蘇州胡同。








蘇州胡同134号院。



玄関脇ではスズメたちが餌を啄ばんでいました。
この餌は、住民の方がスズメたちのために用意したもののようです。

これから寒くなるから、たんと召し上がれ。



音読みで「シュウ」、訓読みで「あつまる、つどう」と読む「集」という漢字は、
「木」と「隹(ふるとり)」で出来ています。「隹(ふるとり)」とは、鳥のこと。
枝にいっぱいの鳥がとまっている様子を表したのが「集」という漢字。胡同を歩い
ていると、この「集」という字が頭をよぎります。

この134号院の前には、アパート。



134号院の隣。



正面が洋風に飾り立てられています。
かつての中国の大工さんたちが見よう見まねで懸命に造ったのではないでしょうか。



この建物はこの胡同が清末から民国期にかけて人通りの激しい繁華な場所ではなかったか、
そんなことを想像させるほんの一例です。
かつてこの胡同を訪れた人たちの目を惹きつけたり、楽しませたりしたに違いありません。


洋館とその隣の間に細い路地がありました。







右側。



こちらは、蘇州胡同126号院。





さらに奥へ。



蘇州胡同124号という門牌が貼られています。











ここで行き止まりでした。



もとに引き返し、次は上の細い路地の東隣。



こちらは蘇州胡同122号院。



一本の細い路地をはさんで、洋館と伝統的な門楼とが並んでいるのが、まことに
おもしろい。

門墩(メンドン)。



左右共にその彫り飾りが削り取られた姿が痛々しい。



目を上に移して、玄関上の屋根。



日本家屋の屋根瓦もそうですが、門楼の屋根に見られる瓦の作り出す形も美しい。





これ以上は先へ進めそうもないので、元に戻りました。


玄関の向かい側に可愛らしい消防車。
「微型消防車/胡同消防」と書かれています。



胡同は住宅密集地。しかも場所によっては道路も細い。
本格的な消防車が入るのは難しい。たとえ火災現場付近まで近づけたとしても放水準備に
時間がかかる。そこでいち早く現場に駆けつけ活躍するのが、この微型消防車。

・・・しかし、この微型消防車、当日は後輪がパンク中でした。


東方向にのびるアパート。






ところで、蘇州胡同の「蘇州」とは、ことわるまでもなく江南地方の風光明媚な水郷地帯の一つ
で、宋の時代から「天に天堂あり、地に蘇杭あり」と讃えられた、あの蘇州のこと。

明や清の時代を通じて多くの商人たちが集まり大きな商業都市として、また絹織業を中心とする
手工業都市として中国随一の繁栄を示したといわれる、あの蘇州です。

当ブログをご覧くださっている諸兄諸姉の中には、「江南」という言葉から晩唐の詩人・杜牧の
『江南の春』を、「蘇州」という言葉から唐代の詩人・張継の『楓橋夜泊』を思い浮かべる方も
いらっしゃるかもしれません。中には思わず李香蘭(山口淑子)さんの「蘇州夜曲」を口ずさんで
しまう方もおられるかもしれませんね。


先に触れました「集(シュウ)という漢字で思い出したのですが、胡同関係の本によると、明の
時代に蘇州出身者が集住し、しかも蘇州出身者のための蘇州会館まであったというのが、この
胡同の名の由来と伝えられているそうです。


「会館」という言葉が出てきました。次にこの会館なるものについて触れておきました。
ご興味をお持ちの方はご覧ください。

〇会館について

『平凡社世界大百科事典 第2版(電子版)』の「会館」の項からお借りすると、

“中国で同郷人または同業商工業者のグループが,北京はじめ異郷の都市において,相互の親睦,
経済活動,訴訟,宿泊,貧者救済,死者の葬送などの目的で建てた建物。公所ともよばれる。
会館という名称が生まれたのは明代で,明末から清代に発達したが,唐・宋時代,首都に設けら
れた地方出身の官吏・学生・商人らの集会所,宿泊所がその前身であろうといわれる。寺院の一室
を賃借りするだけの小規模なものから,広壮な敷地,建物をもつものまであり,なかには広州の
潮州八邑会館のように,設立に1600万元もかけたものもある。”

ということなのですが、内容が重複する部分もあるものの、もう少し詳しい説明として
長くなりますが『小学館日本大百科全書(ニッポニカ)(電子版)』の会館の項を次に掲げ
てみました(都合により三分割したことをお断りしておきます)。

“同郷、同業、同窓などの団体が会合や宿泊のため設けた施設。これはもと中国の明(みん)代に始
まり清(しん)代に盛行し、民国となって急速に衰退したが、日本では明治以後各地に設けられ、
今日は多くの財団が宏壮(こうそう)な施設を建設して盛んに利用されている。中国では中央政府
との連絡に地方から上京するもののため、後漢(ごかん)には洛陽(らくよう)に郡邸(ぐんてい)、
唐には長安に進奏院(しんそういん)、宋(そう)には開封(かいほう)に朝集院が設けられていたと
いうが、これは官吏専用であった。”

“商品流通が激増し、科挙の受験生も増加した明・清時代には、首都ばかりでなく地方の中心都市
にも官吏と商人との共同で会館とよばれる設備が普遍化した。記録では北京(ペキン)の蕪湖(ぶこ)
会館が明の永楽(えいらく)年間(1403~24)に創建されたというのがいちばん古いが、事実は全
国の各地方が嘉靖(かせい)(1522~66)、万暦(ばんれき)(1573~1619)のころから北京に設
置し始めたものらしい。”

“清末の『京師坊巷志(こうし)』には405の会館を記載している。その規模の大小、性格や用途は
さまざまだったが、多くは同郷団体でその地方の商人が資金を出し合い、その地方出身の官僚も
援助して経営し、貨物をもって上京する商人や受験生の宿泊所とするのが普通だった。しかし同
郷と同業とはほとんど共通しており、有力な商人や高級官僚が会館を独占する傾向があった。会
館には公所、堂、社、祠(し)などとよぶものもあり、祭神を祀(まつ)る祠堂(しどう)や共同墓
地、劇場、取引所などを設けたものもあった。ことに金融業、油業、染料、茶、塩などの同業会
館は大規模のものが多く、地方都市では度量衡 や市場の管理、警察、裁判、福祉などの事務にも
あたったが、中世ヨーロッパのギルドのように自由都市成立の中核にならなかったのは、官僚と
の癒着が強かったからであろう。[増井経夫]”

次に、北京における会館の具体例を挙げておきました。
会館が中国の歴史に大きな影響を与えた人物や出来事に深いかかわりのある施設であったことが
分かります。

〇北京の会館の具体例

南海会館

祖国を救わねばならぬ。日本の明治維新のように国のあり方を変革し、富国強兵を図らねばならぬ。
1800年代末に起こった変法運動(変法とは国の制度を改変すること)。その中心人物とされる広東省
南海県出身の康有為(1858-1927/こうゆうい、カンヨウウエイ)が官吏採用試験であった科挙受験の
ため上京、滞在。しかも清朝政府に提出した政治や社会のあり方の変革を唱える上書をしたためたの
は米市胡同内の「南海会館」。もう少し書けば康有為は南海会館内の“七樹堂”西側の康有為が“汗
漫舫”と呼んでいた部屋に寝起きしていたようです。(『北京胡同志』主編段之仁/北京出版社などを
参照)
住所は、西城区米市胡同43号。

紹興会館

1911年10月、辛亥革命がおこり、清朝瓦解。
1912年1月、中華民国成立。その年の5月中華民国臨時政府教育部員として浙江(せっこう)省紹興出身
の魯迅(1881ー1936/ろじん、ルーシュン)が上京し、1919年11月までのおよそ7年間ほどを暮らして
いたのは南半截胡同内の紹興会館。その間に中国近代文学のさきがけといわれる『狂人日記』をはじめ、
『孔乙己』『薬』などを執筆。魯迅が「魯迅」というペン・ネームを使用したのは『狂人日記』からだ
ったといわれています。ちなみに、本名は周樹人(しゅうじゅじん、チョウシューレン)。

この紹興会館は、もと浙江省山陰と会稽の二邑を合わせた「山会邑館」という名称でしたが、民国期に
入り紹興会館と改名されたそうです。魯迅ははじめ会館内の“藤花館”に居住していたのですが、後に
やはり同会館内の“補樹書屋”に移り住んだようです。(同上)
住所は、西城区南半截胡同7号。

湖広会館

会館の中にはその付属施設として、立派な演劇の舞台・戯台のあるものもあり、もともとは湖南、湖北両省
出身者が創建した湖広会館もその一つ。ここでは京劇の名優、梅蘭芳(メイランファン)もこの館内の舞台で
その名演技を披露したそうです。また、政治的には1912年には孫文がここで演説を行ったり、国民党成立大
会が挙行されたりしています。現在は北京戯曲博物館となっていますが、京劇を楽しむこともでき、そのほか
会館付属の施設を見ることができるので、かつての会館の様子の一端を知るにはもってこいの場所ではないで
しょうか。。
住所は、西条区虎坊路3号。


さて、会館に関してはこの位でひとまずきりあげ、さらに蘇州胡同を先に進みます。

先ほどご覧いただいた122号院の東隣は東城区蘇州社区衛生服務駅。
住所は、蘇州胡同120号院。


「社区」とは、本来は英語「コミュニティ」の中国語訳。この場合は、行政区画の単位を
指しています。蘇州社区には、今までご紹介してきました中鮮魚巷、北鮮魚巷、公平巷、
侯位胡同、後日ご紹介予定の麻线胡同などが含まれています。

次は東城区蘇州社区衛生服務駅東隣の118号院。







奥にやはり洋館がありました。





左方向から何やら生きものの気配が・・・





写真手前の屋根の上にネコがいました。


驚かせてしまい、申し訳ないことをしたと思ったのですが、写真を撮った後にこのネコが
「ミャオ」と可愛らしい声をこちらにかけてくれたので救われました。





左手に路地。



再び体勢を戻して。







もともとはガラス窓はなく、ここは部屋から部屋へ移動するための廊下だったのでは?
もしそうだとするとガラス窓の下の飾りは単なる飾りではなく、廊下に取り付けられた欄干の
一部で、上のガラス窓は、あとの時代に廊下を雨風から守ったり寒さを防ぐためにこの欄干を
利用して取り付けられたもの、ということになる。







垂花木楣。



当ブログをご覧になられている方の中には、この飾りを見て
「この建物、昔の北京の花街・八大胡同で見かける建物に似ていないか」、
そんなことを考えた方がいらっしゃるかもしれません。

実はわたし個人がその一人で、この連想内容に関して回を改めてふれてみたいと思っております。

ここで元に戻りました。



門扉の裏側の様子です。







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第213回 北京・蘇州胡同(1) 崇文門内大街沿い西出入口からほんの少し歩いたところまで

2018-12-04 11:05:22 | 北京・胡同散策
今回は、崇文門内大街沿いにある「蘇州胡同(Suzhouhutong/スゥーヂォゥフートン)」を散策しました。




中国の百度地図を見ますと、緑色で塗った部分が「蘇州胡同」のように思えてしまいますが、
実際にはオレンジ色の部分も蘇州胡同ですので、お歩きになる際にはご注意ください。


当日、歩き始めたのは、崇文門内大街沿い西出入口から。

散策したのは11月の下旬で、周囲の景色もすっかり秋色になっていました。
北京の秋は短く、冬の訪れが早いので、しっかりと秋色を目に焼き付けておかないと・・・。


右側(南側)角は立体駐車場、左側(北側)、東方向にのびる木立の向こう側には、内蒙古大厦(ビル)
という高級ホテル。住所は、東城区崇文門内大街2号院。


歩き始めて立体駐車場を過ぎると、石塀の向こう側に早速目を惹く建物が・・・。







華風洋館と伝統的な建物とが混在しているこの敷地は、もともとは何だったのか。



参ったなぁ、石塀沿いを行くと、次の建物が目に飛び込んできました。





傷みきったテラス。垂れ下がる枯れ蔦。





奥から渋い輝きを放つ古さびた外壁。



胡同で見かける、こんなたたずまいって、たまりませんよね。

しかし、石塀を飛び越え、手で触れることができないのが残念。
出来れば、持って帰りたいのですが・・・。



ちなみに、この洋館、7月上旬に見かけた際には、こんな風景でした。





時間をもとに戻して、上の洋館の向かい側の光景。



体勢をもとに戻して、洋館の前から北方向へ。



すると、洋館と同じ石塀越しに、またまたうっとりするような建物が。



清の末期から民国期にかけ、この胡同は当時の北京において、かなりハイカラな場所だった
のではないかと思われます。





そんなことを考えながら北方向へ少し歩くと道が二手に分かれています。



次の写真は北方向を写したもの。



左手には内蒙古大厦、右手にはアパート。ともに北方向にその敷地が延びています。
そして、直進すると麻线胡同。

今回は、まっすぐ進まずに右手のアパートのところで右折。



アパートの角地に、蘇州胡同と書かれた石造りの看板がありました。



絵柄の路面電車と牌楼。
おそらくこの胡同すぐ近くの、民国期の東単十字路の風景ではないかと思われます。



この蘇州胡同と書かれた石碑を見ると、ここから“蘇州胡同”は本格的に始まるのだ、
そんな雰囲気が濃厚でした。




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