北京・胡同窯変

北京。胡同歩きが楽しい。このブログは胡同のあんな事こんな事を拙文と写真で気ままに綴る胡同お散歩日記です。本日も歩きます。

第209回 北京・侯位胡同(前) ある老板が住んでいたという洋館に遭遇しました。

2018-10-29 10:02:23 | 北京・胡同散策
今回は、侯位胡同(HouweiHutong/ホウウェイフートン)を散策しました。



当日歩き出したのは、前回ご紹介した「北鮮魚巷」沿いにある東出入口から。




まずは、名称や形状の移り変わりについて、ざっとご紹介させていただきます。

〇明の時代
次の地図を見ると、その名称は不明ながら胡同自体はあったことが分かります。



上の地図は、2007年刊『北京胡同志』(主編段柄仁/北京出版社)所収
「明北京城街巷胡同図 万暦ー崇禎年間(公元1573-1644年)」より。
オレンジ色の部分が「侯位胡同」です。


〇清の時代
『デジタル・シルクロード|古都北京デジタルマップ』所収「乾隆京城全図」で確認したところ、
上掲の地図と同じくその名称は不明ですが、上掲の地図と同形であることが分かりました。
地図は著作権の都合により省略しました。

ご興味をお持ちの方はご面倒ですが、次のURSにてご覧ください。
https://dsr.nii.ac.jp/beijing-maps/
「乾隆京城全図」の「0004 乾隆京城全図:vol.10」です。

〇民国期から現在まで
1947年から現在名が使われているようですが、文化大革命中に一度「前鋒胡同」という名称に改められた
ことがあるそうです。

なお、「侯位胡同」という名称にみられる「侯位」という言葉から、この胡同には高い位の人物が
住んでいて、そのことが名前の由来かな? と考えていたのですが、残念ながら不明であったことを
お断りしておきます。

次の地図は、同上書所収「北平旧城街巷胡同図(1949年)」からお借りしたもの。
オレンジ色の部分。明や清の時代とは違い、東西方向に走る道の西側の部分が消失しています。


次の地図は同上書所収「建国門地区」よりお借りしたもので、時代は2007年頃。


次の地図は「百度地図」より。



さて、冒頭で「侯位胡同」と書かれたプレートをご覧いただいたわけですが、このプレートは
実は冒頭より二枚目の写真左手に写っている公共トイレの外壁に貼られていたもの。

その外壁には、こんなプレートも貼られていました。



「名称」とあるところに注目すると、このトイレの名前が「侯位胡同14号対」ということが確認
できます。「侯位」の「侯」の字が「候」になっている点に関してはさておいて、普段考えても
みなかったことなのですが、トイレにもちゃんと名前がついている点がおもしろい。お蔭さまで
世界がひろがったような、なにかとっても得した気分で今回の胡同歩きのスタートを切ることが
できました。(^O^)/



次の写真は先ほど登場した「侯位胡同14号」の屋根越しの風景。



秋の胡同の風物詩の一つ、ザクロ(石榴)が実っていました。



ザクロは一般的に豊穣や多産を象徴していると言われているので、胡同にいかにもふさわしい景色だ
と、つくづく感じ入った次第です。そういえば、ザクロは鬼子母神が右手に持っていましたね。



次の写真に写っているのが、侯位胡同14号院の玄関。



次の写真はその柱に貼られていた門牌。もう少しで見落とすところでした。






屋根の一部にも細かい植物模様が施されていました。往年の邸宅の立派さを想い起こさせる
一部かもしれません。


次は14号院の向かい。



わたし好みの雰囲気いっぱいで感激しました。



今にも“何か”出て来そうです。


個人的感想はさておいて、こちらの洋館、もともとの住所はわからないのですが、現在は前回
少し触れた蘇州胡同16号院内の一部ではないかと思われます。

上にご紹介した14号院と洋館の前から少し行くと、右を向いても左を見てもアパートが
ありました。










当日は国慶節の少し前だったので国旗がひるがえっています。



この国旗があったのは10号院。



玄関の上には円形の鏡。


余談ですが、胡同でこの鏡に合うたびに思うことは、儒教、仏教、道教、陰陽五行説、おそらく
それ以上に古くからあるさまざまな民間信仰について、もっと知るように努めないと、という柄
にもないことなのです。小人閑居して不善をなす。不善ばかりなしてまいりました。少年老い易く、
学なり難し。もうとっくに老いております。学などこれっぽっちもありません。しかし、胡同歩き
と同じく、生きることにゴールなく、トライあるのみ。


と、いうわけなので10号院沿いの道端に置かれた可憐な植物群を撮りましたのでご覧ください。







可憐な植物群の先には「福」の字の貼られた玄関。





この福の字を撮った後に気付いてしまいました。



屋根越しに、なんだかわたしを惹きつける華風洋館があるではありませんか。




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第208回 北京・北鮮魚巷 少しだけですが、残っていました。

2018-10-22 16:07:28 | 北京・胡同散策
中鮮魚巷を歩いていた時に出合った男性が、
「南鮮魚巷はもうありませんよ。」
そして、
「北鮮魚巷は残っているけど、ほんのこれだけ」
と、両手で残っている胡同部分を示しながらその短さを教えてくれました。

中鮮魚巷に続いて「北鮮魚巷(Beixianyuxiang/ベイシエンユィシヤン」を歩いてみたのは、
男性が教えてくれた「ほんのこれだけ」を自分の目で確かめるためでした。

まずは、この胡同の名称や形状の移り変わりをご紹介させていただきます。

〇清の時代

「土地廟下坡」。「下坡」は「シアポー」と読み、下り坂を意味しています。

次ぎの地図は2007年4月発行『北京胡同志』(主編段柄仁/北京出版社)所収
「清北京城街巷胡同図乾隆十五年(公元1750年)」より。
緑色の部分が「土地廟下坡」。



〇民国期

同上。次の地図は上掲書所収「北平旧城街巷胡同図(1949年)」より。



〇新中国成立後

1965年に現在名「北鮮魚巷」に改名されました。
次の地図は2007年に発行された上掲書所収「建国門地区」からお借りしたもの。
そのため現在の「北鮮魚巷」とは違っていることをお断りしておきます。

緑色の部分が、2007年頃の「北鮮魚巷」。



〇「百度地図」上に見られる2018年現在の「北鮮魚巷」。緑色の部分が「北鮮魚巷」。
上の2007年頃に比べると短くなっているのがわかります。2018年現在の地図では
北が「麻线胡同」からはじまっているのに対して2007年頃の地図では、北が「麻
线胡同」よりさらに一本北側の胡同からはじまっています。




さて、次ぎの写真は、中鮮魚巷北出入口のすぐ近くにある南出入口から北方向を
撮ったもの。

左手の塀の中は蘇州胡同61号院という、ちょっとおしゃれなアパート群。



左手に写っているのも、やはり蘇州胡同61号院の一部。



お次の写真の駐車場の東側に見える白い建物は「北京信誼酒店」という宿泊施設の
一部かと思われます。


このホテルは2012年11月開業で、客室が122部屋もあるそうです。住所は郵通街9号。

“北鮮魚巷”という胡同を歩きはじめたばかりだというのに、右を向いても左を見ても「北鮮魚巷」と
いう住所表示は見当たりません。ちょっと不安になってきました。




上の写真左手の電信柱に、やっとのことで「北鮮魚巷」という表示を発見。
現在歩いているところが確かに「北鮮魚巷」であることがわかり、ほっとしました。



電信柱の先に「御麒麟烤鸭店」という、北京ダック店がありました。



住所が表示されていないので携帯でこのお店について調べてみました。
すると「北鮮魚巷61号」とあったので、やはりほっとしました。
でも、それもつかの間。

この住所、なにか怪しく、おかしい。

このお店の「北鮮魚巷61号」という住所番号が、先にご紹介した「蘇州胡同61号院」の番号と
重なっています。これは単なる偶然か。



このお店、只今休業中とのこと。今後どうなるのか、まったく不明です。


北京ダック店の脇に「地鉄快餐」というファーストフード店がありました。





お店のデザインが地下鉄の車両になっているところが、なんとも可愛らしい。
しかし、現在は北京ダック店と同じく休業中のようで、しかも今後どうなるのかも
さっぱりわかりません。

住所もちゃんと表示されていないので、やはり調べてみました。
すると、「蘇州胡同38-1附近」(360地図より)と、まことに曖昧な書き方。
なんとも情けない話。


地鉄快餐の向かい側。「北京信誼酒店」の外壁の様子。





地鉄快餐の前をほんの少し行くと、左手に路地がありました。



ここは、後日ご紹介予定の「侯位胡同」です。



さらに少し歩くと、ありました、ありました。やっとありましたよ。





こちらのお宅の玄関には、「北鮮魚巷13号」と書かれた門牌がちゃんと貼ってありました。
まちがいありません。たしかにここは「北鮮魚巷」。これで安心。



しかし、ひょっとして、中鮮魚巷で出会った男性が「ほんのこれだけ」と教えてくれた
現在残っている「北鮮魚巷」の部分とは、こちらの「北鮮魚巷13号」から次にご覧いただく
この胡同の北出入口までのことだったのではないか。



上の写真の奥を横切っているのは「麻线胡同」。
大きなビルは「英大国際大厦」というオフィスビルで、建てられたのは2009年。
住所は建国門内大街乙18号院。



もし、この胡同が門牌の貼られている「北鮮魚巷13号」から北出入口のところまでだっ
たとしたら、「北鮮魚巷」の地図は次のようになってしまいます。

オレンジ色の部分がそれ。



今回歩いてみてわかったことは、「2018年の今、たしかにここは北鮮魚巷だ!!」と
自信を持って言えるのが、上の地図のオレンジ色の部分だけだ、ということでした。

このオレンジ色の部分は、たとえて言えば、再開発という嵐の中でわずかに消え残ったロウソクの炎、
といったところでしょうか。

いけないと思いつつも、そんなことを考えてしまうと、当日は見上げれば一面の青空だったにも
かかわらず、柄にもなくちょっとおセンチになってしまいました。

北鮮魚巷。
少しだけでも残ってくれてありがとうー(^O^)/


結びとして、次に北出入口から南方向を見た北鮮魚巷をば。





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第207回 北京・中鮮魚巷(後) 民間手工芸品”中国結”のある風景

2018-10-18 15:00:00 | 北京・胡同散策
今回は、前回の続きになりますが、その前に中鮮魚巷の名称や形状の
変遷をざっとご紹介させていただきます。

〇清の時代
現在「中鮮魚巷」と呼ばれる路地の南側にあった「南鮮魚巷」
と合わせて「鮮魚巷」という名称でした。


緑色の部分が「鮮魚巷」。地図は2007年4月発行『北京胡同志』(主編段柄仁/北京出版社)所収
「清北京城街巷胡同図乾隆十五年(公元1750年)」より。

〇民国期
同上。


緑色の部分が「鮮魚巷」。地図は上掲書所収「北平旧城街巷胡同図(1949年)」より。

〇新中国成立後
1965年、上に見た「鮮魚巷」が「南鮮魚巷」と改名。
その後、北京駅西街がつくられたため、「南鮮魚巷」が北と南に分割される。
1977年に北側の「南鮮魚巷」が現在の「中鮮魚巷」と改名される。


緑色の部分が「中鮮魚巷」、赤色の部分が「南鮮魚巷」。地図は上掲書所収「建国門地区」より。
なお、赤色の部分である「南鮮魚巷」は現在は残っておりません。


さて、次ぎの写真は、国旗が北からの風にひるがえっていた19号院前から北方向を撮ったもの。



日本語でいえば、“昭和レトロ”感あふれる、年季の入った観音開き扉がありました。
わたし好みの木製で、しかも塗装の剥げ落ち具合に思わず言葉を失うほどなのです。


NHKの朝ドラで見かけるような、やはり昭和レトロ感ムンムンなへアースタイルに
同様な衣装を身につけた、しかも「どうよ、これがトドメだ」と言わんばかりのお
顔立ちそのものがやっぱり昭和レトロ感いっぱいの女優さん演じるヒロインが今に
も扉を開けて出てきて、青空を見上げてニッコリと微笑みそうでした。

ちなみに、かつてのNHKの朝ドラ『おしん』、中国では1985年に中国語吹き替えで
放送されたのですが、聞くところによると、なんと!! 北京では視聴率70パーセント
を軽くこえていたとか。いったい中国全体で何億人の人たちが涙したのでしょうか。

おしん役が音羽信子さんの時、画面にこけし人形が何気なく出ていたのをわたしは
いつまでも忘れられません。あの場面を北京の人たちも観ただろうか。


次ぎの写真、白い建物は「北京国机(機)快捷酒店」の一部。
このホテルは、1974年から営業。住所は後日ご紹介予定の蘇州胡同30号。

ホテルの外壁沿いに、看板が。





「足浴MASSAGE」。日本で言うと、足ツボマッサージ店といったところでしょうか。

矢印が指しているのは、こちら(↓)。



中鮮魚巷17号院内。



ちゃんと「足浴」という札もぶらさがっております。



次はお隣の15号院。

大きな雨どい(横樋)。



出入口からの突き出し具合が立派なので、思わず感心、シャッターを切ってしまいました。



雨水が滝のように流れ落ちる様子は、さぞかし壮観でしょうね。

昭和十六年発行の『北京案内記』(新民印所館)に「雨後の胡同」という、記事が載っていました。
この本は、日本占領下の北京で出版されたもの。いささかの誇張ありかな、と思われますが、
舗装される以前の北京の様子の一端を知る事例として、ご参考までに次に書き抜いてみました。
引用に当り旧漢字は新漢字、旧仮名遣いは新仮名遣いにそれぞれ改めています。

“雨後の北京の道の泥濘は全く言語に絶している。雨が降ると支那人は役所へも出て来ない。
訪問の約束を破っても「その日は雨が降ったから」と云えば、それが立派な理由になる。こ
の泥濘が天気になると急に黄塵に変って濛々と大地を覆うのである。”


道路上に突き出した雨樋の斜め前。
シーツが陽を浴びて気持ちよさそうに干されていました。



そんなシーツも撮影後突然の風にひるがえりました。



一時も同じ表情でいてくれない胡同と同じです。




なぜか同じ色で、やはり同じく新しいドアのお宅が四軒並んでいました。





あと少しで中鮮魚巷も終点です。
次ぎの写真の奥を横切るのは「蘇州胡同」。





灯籠(提灯)のさがるこちらは、雑貨店。





ノドが渇いたのでスポーツドリンクを買いました。



追記10月19日
値段は4元。1元約16円から17円。ちなみに、通州の自宅アパート内のお店では、4.5元です。



次ぎの写真は、蘇州胡同沿いから写した北出入口。





出入口に中国でよく見かける縁起物で装飾品“中国結”がさがっていました。



中国結の歴史などに関して触れておきますと次の通りです。ご興味をお持ちの方はご覧ください。

〇中国結の歴史的移り変わり
その起源は不明ながら、
1、発掘された中国戦国時代(紀元前400年頃)の銅製の壺に縄を結んだ文様がレリーフ状に
施されているのが確認されている。
2、後漢時代(25年から220年)になると、宮廷において結びの色や形状の違いによって身分
を表すものとして取り入れられ、衣服等につけられるようになった。
3、隋から唐時代(581年から907年)は、結び工芸の第1流行期とされ、宮廷工芸のひとつと
して栄えた。
4、宋時代(960年から1279年)の肖像画には、結び工芸で装飾した椅子が描かれており、家具
にも結び工芸を取り入れている様子が確認できる。
5、明時代(1368年から1644年)の後期には、結び工芸が刺繍で施された椅子披が使われている。
6、清時代(1616年から1912年)には、結び工芸の第2流行期を迎え、一般庶民にも結び工芸が
広まった。
7、清滅亡後
1912年の清の滅亡により衰退していくも、陳夏生(後述)が結び工芸を体系づけたことで、
中国結びとして再び中国の生活に取り入れられるようになっていった。

以上は、『中国結の要素を取り入れた生活用品提案のための調査研究』(日本デザイン学会デザイン
学研究 BULLETIN OF JSSD 2014電子版)からほぼそのままの形でお借りしたものです。

〇中国結という名称
上掲書によりますと、「中国結」という名称はもともとはなく、1981年、台湾の日常に根付いていた
中国結を体系的にまとめた陳夏生によって「中国結」という名称がつけられたそうです。

〇基本的結びと変化結び

上掲の『中国結の要素を取り入れた生活用品提案のための調査研究』(日本デザイン学会デザイン学研究
BULLETIN OF JSSD 2014電子版)には、基本的結び17種類や変化結び6種類、そしてそれぞれの結びの
名称やその結びに込められた願いが絵入りで紹介されています。名称を覚えるのも容易ではありませんが、
楽しいです。ご興味をお持ちの方はご覧ください。

URLは次ぎの通り。
www.jstage.jst.go.jp/article/jssd/61/0/61_281/_pdf/-char/en


中国結の写真を撮っていると、この胡同内のホテルにお泊りの女性観光客お二人が
やってきました。



これからお出かけのようです。
一方わたしはといえば、次ぎの「北鮮魚巷」を歩きました。



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第206回 北京・中鮮魚巷(前) 植物紋様の美しい雀替や蘇式彩画に出合いました。

2018-10-08 10:05:26 | 北京・胡同散策
今回は、中鮮魚巷(Zhongxianyuxiang/ヂョンシエンユィシヤン)を散策してみました。

場所は、次ぎの地図をご覧ください。


上の地図は、2007年4月に発行された『北京胡同志』(主編段柄仁/北京出版社)所収「建国門地区」
より。緑色の部分が「中鮮魚巷」です。


中鮮魚巷には、出入口が二箇所あり、
一つは蘇州胡同沿いの北口、もう一つは北京駅西街沿いの南口。

当日は、南出入口から歩き始めました。



この日は、国慶節休みに入る二日前。
青空の下、国旗がひるがえっていました。
国慶節は十月一日、国慶節休みは十月一日から七日までになっています。





なんと奥床しいことでしょうか。
左手にヘチマが頭上を覆う路地がありました。



この路地の斜め前方にも、路地。





横批には「吉星高照」と書かれていました。






こちらは旅館のようです。





「天賜庭院精品酒店」。


住所は、中鮮魚巷10号院。
宿泊料金は、400元から900元ぐらい。


この旅館の前辺りには公共トイレ。
トイレの脇には、物置が並んでいます。



ホテルの横。



国旗がひるがえっています。



ひるがえった国旗が電線にからまってしまいました。



この日は青空ではあったのですが、その方向、強弱が一定していない風が吹いていました。

こちらのお宅は中鮮魚巷8号院。



玄関前には、椅子とテーブルが置かれています。
電気メーターが9台。電気メーターの数は、この敷地内に暮らす戸数をしめしています。

外壁には
「居民重地
禁止喧嘩」
と書かれたプレートが貼ってありました。



旅先という非日常の中、解放感にひたった近くのホテルの観光客が、路上でついつい大声で騒いで
しまう、おそらくそんなところではないでしょうか。

貼られたプレートの新しさから見て、上のような文言の書かれたプレートを貼らなくてはならないのは、
おそらく数年前から見られるようになった国内および国外への旅行ブームの影響かと思われます。

自戒を込めて、誇張を恐れずに言えば、この旅行ブームでニコニコ顔なのは、主に旅行している観光客
自身や宿泊施設の経営者とその関係者、そして断るまでもなくインパウンドがどうしたとかアウトバウ
ンドがなんたらかんたらなどとかしましい旅行会社とその関係者、また、「北京の人気スポットはここ!」
あるいは「胡同にあるお洒落なレストランはここ!」などと銘打ちながらも、実は胡同それ自体のことなど
はどうでもよく、しかもどこまで実感に基づいて書いているのかまことに怪しげな観光地飲食店情報満載
の旅行ガイド本関係者だけ、と言ってよく、観光地で観光客などとは無関係に日常生活を送っている人たち、
あるいは日常生活を営む場所である胡同で暮らす多くの人たちにとって観光客やその関係者はどのような
位置づけがなされているのか、いったい観光客とは何者なのか。

わたし自身を含め、観光客やそれに関連する人たちの質が問われる今日的な問題をこの一枚のプレートは
ささやかながら提議している、と言って良いかもしれませんね。そして、このプレートに書かれた文言が
ありがたいことにいささかなりとも旅行者の質の向上に一役買っていることは、言うまでもありません。

と、しまりもなく長々と書いてきたものの、このプレートをきっかけにしてもう少し書けば、思えば胡同
は今までも常に“何者”かと闘ってきたし、今も闘っているし、これからもきっと闘っていくのではないで
しょうか。

ちなみに、「喧嘩」という字は、日本語の意味とは違い、「がやがやと騒がしい。大声で叫ぶ」と言った
意味の言葉です。


さて、上にご紹介したプレートの前は19号院。



国旗がひるがえっています。



門墩(mendun)。





これだけ立派な門構えのお宅なので、玄関を入って正面に外部からの視線の遮断、魔除けの
働きを持つといわれる「影壁'yingbi/インビー)」があってもおかしくないのでは、と思っ
たのですが、この19号院にはそれがないのが意外でした。

もともとなかったのか、解放後取り払われてしまったのかは不明です。



さらにおじゃましてみました。





見上げると、傷んではいるし、地味なデザインでもあるのですが、落ち着きのある洒落た電燈設備の一部が
ありました。



もし、この電燈設備の一部を取り付けたのが、この四合院住宅に住んでいたもとの住民だとすると
これから中庭におじゃまするのが、いっそう楽しみになってきました。







まずは、西側東向きの住宅を拝見しました。







植物紋様の美しい雀替(じゃくたい)が目に飛び込んできました。

雀替とは、梁などの横架材と柱が直角に交わるところに置かれ、横架材と柱を連結する働きを持つ
建築部材の一つ。



繊細な曲線の流れるような形状の植物紋様にしばし時の経つのも忘れてたたずんでしまいました。

眺めているうちに「ゴシックの影響かな?」とも思ったのですが、本当のところは不明です。



しかし、ゴシック建築を彩る植物紋様と四合院住宅に見られるそれとの関係について、
一度はちゃんと向き合う必要が個人的課題としてわたしにはあるようです。


次に、北側南向きの住宅を拝見しました。



出入口や写真右側に見られるガラス窓のデザインが素敵ですよね。




上を見上げると、民間住宅に見られる蘇式彩画がありました。
描かれているのは、中国の山や湖のようです。



東側にも彩画がありました。



こちらに描かれているのは、植物模様。



この四合院住宅の施主や彩色した職人たちの意思とはかかわりなく、2018年の今は、色彩鮮やかだっ
たにちがいない昔日の美しさは失われ、彩色された当時の美しさとは異質な、時の経過を想い起こさ
せる深い味わいや幽玄の美しさをたたえていました。


こちらの知識や経験の不足によって見落としてしまったこと、他の事情によって記録することの
出来なかったことがまだまだたくさんあったかと思いますが、当日はこの辺でもと来たところに
もどりました。

次ぎの写真正面に見えているのは、東側西向きの住宅の一部です。
住宅の一部が新しい材料で改修されています。









いったいどういうカラクリのために生じた現象かはわからないのですが、中庭にいた時には無風状態
だったのにもかかわらず、玄関前に戻ってくると中庭にいたときとはまったく違い、国旗が北からの
風にぱたぱたと音をたててひるがえっているのが、不思議でした。



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