北京・胡同窯変

北京。胡同歩きが楽しい。このブログは胡同のあんな事こんな事を拙文と写真で気ままに綴る胡同お散歩日記です。本日も歩きます。

第229回 北京・洋溢後巷 賄賂政治ならお任せを。

2019-05-30 11:40:39 | 北京・胡同散策
洋溢後巷(Yangyihouxiang/ヤンイーホウシアン)

その名を見てもおわかりのように、前回ご紹介した洋溢胡同の一本北側にあった胡同。

明の時代は、冠帽胡同(GuanmaoHutong/グアンマオフートン)。
次の清の時代は、「冠」が「官」となり、官帽胡同((GuanmaoHutong/グアンマオフートン)。
民国期も官帽胡同。

日本占領下の官帽胡同には、日本料理店がありました。
名前は、登喜和
住所は、官帽胡同五
(『北京案内記』昭和十六年一月発行、新民印書館から引用)

新中国になってもそのままだったのですが、1965年に洋溢胡同に編入された際、洋溢後巷と
改名され、1990年以降に消えてしまいました。


この胡同、冠帽胡同、官帽胡同と呼ばれていたその由来が楽しい。

中国史上、賄賂政治でその名を馳せる一人、明朝の権臣、厳嵩(げんすう)が住んでいて、
貢物をもった富豪や貴族が官位欲しさにわんさか彼の邸宅を訪れた、という言い伝えが
由来。(『北京地名典(修訂版)』王彬、徐秀珊主編、中国文聯出版社)

厳嵩(1480年ー1567年)は、道教に狂信するあまり国政をかえりみなくなった世宗(嘉靖帝、
在位1521年ー66年)に代わり、子の厳世蕃などを手先として国政を専断し、賄賂政治を繰り
広げていたそうです。1562年(嘉靖41年)、官位を剥奪され獄に入れられた時に没収された
財産は、土地数万頃(けい、一頃は約6ヘクタール)、金銀財宝、書画骨董の数は人々を驚か
せるに十分であったとか。(『モンゴルと大明帝国』愛宕松男、寺田隆信、講談社など)


うえの写真は、建国門内大街沿いにある「中国農業銀行」の入るビル。
下の写真。
向かって左に英大国際大厦(ビル)、その前にある平屋の建物は于謙祠と北側の塀。
中国農業銀行や于謙祠の塀の前に緑地帯があり、そしてその北側に歩道があるので
すが、洋溢胡同と洋溢後巷は、この緑地帯と歩道のあたりに並んでいたのではない
かと思われます。


明、清の地図で見ると、次の通り。

明代

地図は、『北京胡同志』(主編段柄仁、北京出版社)所収のもの。以下同じ。

清代


ところで、先にご覧いただいた冠帽胡同並びに官帽胡同の由来には、ちゃんと“落ち”が
ついているから、可笑しい。

厳嵩が住んでいた胡同の西端には南北に走る胡同があった。その名は銀碗胡同(地図に
よっては南銀碗胡同、北銀碗胡同とも)。

由来は、厳嵩が官位を剥奪された後、落魄した彼が銀製のお碗を持って、その通りの出入
口で乞食(おもらいさん)をしていたからなのだそうです。

この“落ち”には、悲しいまでに時代を超えてあとからあとから地の底から湧いてくる黒い
笑いが息づいているような。



にほんブログ村


にほんブログ村



第228回 北京・洋溢胡同 開国大典、天安門楼上の大灯籠

2019-05-23 12:04:32 | 北京・胡同散策
前回ご紹介させていただいた“于謙祠”。ここには正門である南門のほかに西側に
も出入口があるのですが、その西門から北方向へほんの少し行ったところには、
一枚のプレートが貼られていました。


上の写真は西門ですが、普段は閉ざされているようです。

住所は、西裱褙胡同甲23号。


この西門沿いには、次のプレート。



今は消え失せてしまった胡同名が書かれていました。
「街巷名称、洋溢胡同」。

名前だけでも、よくぞこうして残ってくれたものだと思わず洋溢胡同という文字を
指先で触れてしまいました。
名前だけでも残ったのは、ひょっとして于謙パワーの効能か?
そんなことも心によぎったのも確かなのですが、しかし、同時に心のどこかに次の
ような思いもあったことは間違いありませんでした。

ワガママな物言いで恐縮ですが、この界隈に、昔、洋溢胡同や西裱褙胡同などの胡同
があったことをこれこれしかじかとそれなりに記した(決して材質の豪華なものでなく
ともよいので)説明板を貼って欲しい。


洋溢胡同(YangyiHutong/ヤンイーフートン)。
前回ご覧いただいた西裱褙胡同の一本北側にあった、崇文門内大街から北京站街
まで走っていた胡同。

明の時代は、揚州胡同。

地図は、『北京胡同志』(主編段柄仁、北京出版社)所収のものを使用。以下同じ。

次の清の時代に、羊肉胡同と改名されています。


民国期に、洋溢胡同。


1990年、同じく洋溢胡同。


そうして、2003年には、消えてしまいました。


ここで、今は消え失せてしまった洋溢胡同に関係するエピソード一つをば。

今から70年前の1949年10月1日、天安門楼上で毛沢東さんによって中華人
民共和国の成立が宣言されました(開国大典)。

その時、楼上の柱と柱の間には、巨きな提灯(大灯籠)がさげられていたのですが、この
装飾を依頼され、考案したのは、華北軍区文工団に所属する劇団、抗敵劇社で舞台装置
を担当していた二人の日本人であったそうです。(注)

しかも、このお二人、住んでいたのは、なんと洋溢胡同。

ちなみに、大灯籠を制作したのは、昔、紫禁城で宮灯つくりに携わっていた、老人とその
お弟子さんだったそうです。(竹内実『北京 世界の都市の物語』文藝春秋などを参照。)

けっして一筋縄でいかないのが歴史理解てすが、上のエピソードはわたしにとって、歴史
のもつ奇奇怪怪さや重層性をつくづく思い知らせてくれる大切な一コマになっています。
そして、たとえ今は地上から消失してしまった胡同であったとしても、調べてみると驚き
で目をみはるような物語が秘められているのだということを再認識させてくれるきっかけ
を与えてくれたのがはじめにあげた洋溢胡同と書かれたブレートでした。于謙祠にお出か
けの際、プレートもご覧いただければ、嬉しいです。

(注)さげられていたのは、春節などで見かける丸い灯籠をさらに大きくしたもの。
この灯籠の形状は、伝統的なものではなく、この時の2人の日本人の影響によ
るもの、という説があり、中国の灯籠の歴史について調べてみるのも面白いの
ではないでしょうか。書きもらしにより、5月24日追記。胡同窯変。


にほんブログ村


にほんブログ村



第227回 北京・西裱褙胡同 明代ロマンチズムと地名の名残り“于謙祠”

2019-05-20 10:02:45 | 北京・胡同散策
明の時代、表背胡同(BiaobeiHutong/ビアオベイフートン)という、西は崇文門内
大街から東は現在も残る古観象台の北側まで走る一本の胡同がありました。

地図を見ると、現在の崇文門内大街が当時は「崇文門里街」と呼ばれていたことが
わかります。古観象台とは、現在の天文観測所に該当。


地図は、『北京胡同志』(主編段柄仁、北京出版社所収「明北京城街巷胡同図
万暦ー崇禎年間 公元1573ー1644年」)を使用。

表背(のち裱褙)業者(日本語では表具師)が多くいたというのが地名の由来。当時の官吏
登用試験「科挙」の試験場「貢院」が近く、書画を売買する人が多かったというのが、表
具師の多かった理由なのだそうです。

ところで、昆曲(昆劇)ファンにはおなじみの『牡丹亭』ですが、その作者、湯顕祖がこ
の胡同に一時仮住まいしていたそうで、ここはなんともロマンチズムの香気漂う場所なの
です。

湯顕祖《とうけんそ。1550年(嘉靖29年)ー1616年(万暦44年)》は、江西臨川の出身で、
万暦11年(1583年)の進士。明代劇作家の第一人者と目され、『牡丹亭』(『還魂記』と
も)はその代表作。

江蘇南京や浙江遂昌などで官途についたのち、江西臨川沙井巷(させいこう)の清遠楼玉
茗堂に隠棲し、演劇、詩文を執筆。『牡丹亭(ぼたんてい)』『紫钗記(しさいき)』『邯
鄲記(かんたんき)』『南柯記(なんかき)』を合わせて《玉茗堂四夢》または《臨川四夢》
と呼ばれているそうです。

ちなみに、彼は、26歳の時に第一詩集『紅泉郵草』、翌年第二詩集『雍藻(ようそう)』
(散逸)を刊行し、さらに詩賦集『問棘郵草(もんよくゆうそう)』を刊行。若い頃に陽明
学に親しみ、引退後は思想家李卓吾とも交際があったとか。

〇『牡丹亭』の内容

南安太守杜宝(とほう)の娘杜麗娘(とれいよう)が夢の中で書生の柳夢梅(りゅうぼうばい)
と密会し、彼を思うあまり病いの床に伏して、自画像を形見に残す。嶺南の秀才柳夢梅は
たまたまその杜麗娘の自画像を入手し、夢で彼女の魂と密会する。のち杜麗娘は蘇生し、
2人は結ばれて夫婦となり、さらに曲折を経て幸福な結末を迎える。
(以上、参照、引用は、『中国文学史・明清近代』主編張俊、北京師範大学出版社、『中
国歴史文化事典』主編孟慶遠、訳小島晋治、立間祥介、丸山松幸、新潮社など)


この表背胡同、次の清の時代になると表記が変わり「裱褙胡同」。


地図は、『北京胡同志』(主編段柄仁、北京出版社所収「清北京城街巷胡同図
乾隆十五年 公元1750年」)を使用。

裱褙胡同と表記されていた時代、具体的には1903年(光緒29年)、この胡同内に言語
学者王照によって「官話字母義塾」が設立され、「字母拼音官話書」が出版されまし
た。

王照さん《1859年(咸豊9年)-1933年(民国22年)》は、康有為らの変法運動失敗後日本
に渡り、帰国後日本語の仮名にならって官話字母を作るなど、近代漢語拼音(ピンイン)字
母研究に尽力した言語改革運動の先駆者。

続いて、清の最後の皇帝宣統帝の時代(1908年ー12年)になると、この胡同は東と西に
分かれ、その状態のまま次の民国期に。


『最新北京市街地図』(東京アトラス社編纂、昭和十三年四月五日発行、複製)を使用。

「西裱褙胡同」と改名されたこの胡同には、梅蘭芳の芸に手を加え、その芸を世界に
認めさせることになる劇作家、演劇理論家の斉如山《1875年ー1962年》さんが住んで
いたことがありました。住所は、西裱褙胡同31号。

日本関係のことを書きますと、日本占領下(1937年ー1945年)の「西裱褙胡同」には、
喫茶店と食堂を兼ねた日系のお店や組合がありました。

名称は、「大国」
住所は、西裱褙胡同三八

喫茶店と食堂を兼ねている状況について、『北京案内記』(昭和十六年一月発行、新民
印書館)の記者は次のように書いています。
「北京の喫茶店は東京のそれの様にお茶を呑ませて閑談とする様なところは
極く少ない。殆んど喫茶店であり食堂でもあるのは現地的特質と云つてよい。」

組合の名称は、「北京日本料理店組合」
住所は、西裱褙胡同四六

そうして、1990年頃から2000年代の初めにかけて、裱褙胡同は東西ともに北京の胡同
から姿を消えてしまい、その代わり現在は現代的なビルが立ち並んでいます。

ところで、それらビルの谷間に“于謙祠”があるのをご存知の方は意外と少ないのでは
ないでしょうか。





于謙《1398年(洪武31年)-1457年(天順元年)》は、銭塘(浙江杭州)の出身で、明の
時代、モンゴル軍の攻撃から北京城を守った人。




銭塘(杭州)の故居の紹介がありました。浙江省杭州にも于謙祠があるということなので、
杭州にお出かけの際には、ぜひお立ち寄りください。


于謙さんは、山西、河南地方で巡撫をしていたこともあり、黄河治水工事に
あたったこともあったそうです。上の写真は、鎮河鉄犀の写真。

鎮河鉄犀が展示されていました。


展示されているのは、レプリカだと思うのですが、仮にそうだとしても
気しない、気にしない。

可愛らしい顔なので、アップ。



火銃も展示されています。




説明書に「レプリカ」と明記されていますが、これも気にしない、気にしない。

敷地内に建物は4、5棟あるのですが、展示室は現在三室。門を入ってすぐの建物の一階、二階、
そして裏に一室。


写真は、裏側の展示室と二階に行く階段。

于謙さんや当時の時代状況を知ることができ、充実した時間を過ごすことが出来ました。
近くに出かけた際には、再訪したい建物です。

〇于謙について

1449年(正統14年)、モンゴルのオイラート(瓦刺)の首領エセン(也先)が侵攻。正統帝
英宗は当時権力をほしいままにしていたといわれる王振の勧めで親征するのですが、土
木堡(河北省懐柔県)で大敗を喫し、明軍は玉砕、肝心の皇帝英宗は捕虜になってしまう
という大失態を演じてしまいました。

この敗報が北京に伝わると明廷は騒然となり、危機感に包まれた朝廷には、南京遷都を唱
える者もいたものの、于謙は北京籠城を主張。于謙の意見によって北京籠城と決まり、皇
太后の令旨により、英宗の弟郕(せい)王を帝位につけ、于謙は残された軍隊によって北京
城を死守、北京城を包囲したエセンの兵を一歩も城内に入れなかったそうです。

1450年(景泰元年)、エセンは和を願い、英宗を返還。英宗は帰還後、上皇となるのですが、
紫禁城の東南にある南宮に幽閉され、不遇をかこつ身となってしまいます。

1457年(景泰8年)、クーデターが勃発。それは、将軍石亨(せきこう)、官僚徐有貞(じょゆ
うてい)、宦官曹吉祥(そうきっしょう)らが景泰帝の病いに乗じ、英宗を皇帝に復位させる
というもの。その時、景泰帝を擁立した于謙は北京城を敵から守った名臣であったにもかか
わらず、反逆罪のかどで逮捕され、死刑に処せられてしまいました。当時の重罪人の通例と
して、妻子は辺地に流され、財産は没収。清貧に甘んじていた于謙の財産は、景泰帝から賜っ
たもののほか、家財らしいものはなにもなかったそうです。

英宗没後、皇太子見深(けんしん、憲宗成化帝)が位をつぎ、この時代に于謙は復権をはたし
ています。


昔、西裱褙胡同のあったあたりは、現在、住所は建国門内大街。しかし、“于謙祠”の
住所名は、西裱褙胡同となっています。門牌号は23号。

今から570年ほど前に于謙が北京城を守ったように、やはり于謙さんが西裱褙胡同と
いう地名を守ってくれているのかもしれませんね。



にほんブログ村


にほんブログ村




第226回 北京・喜慶胡同 カササギと一本のエンジュの木

2019-05-09 11:10:06 | 北京・胡同散策
北京を旅する人は、かならず槐(エンジュ)の木を見かけるはずだ。

明治42年の『北京誌』(清国駐屯軍司令部)には「城内に成長する喬木はほとんど
槐(エンジュ)と楡(ニレ)というも過言にあらず」とあり、昭和の日中戦争下の
北京に在留した日本人は「北京の街路樹は、中国歴代の為政者が、幹を切る者は
首を、枝を折る者は腕を、切るとの峻厳な施策を以て、苦心惨憺の結果今日の大
木に生育したものである」(『北支那開発株式会社之回顧』槐樹会刊行会)と書い
ている。大切に育てられた街路の樹とは、槐の木を指す。

また、幸運な旅人は街路の樹を飛び交う鹊(カササギ)の美しい姿に眼をみはる
にちがいない。

鹊(カササギ)とは、七夕の夜、牽牛、織姫の逢瀬のために、その翼で橋をつくる
といわれる、人々に喜びをもたらす御目出度い鳥。

昔、一本の老いた槐の木があり、その樹上に常に鹊が巣を作っていたという。今回
とりあげる胡同が、明の時代「喜鹊胡同(XiqueHutong/シーチュエフートン)と呼
ばれた由来なのだそうだ。

地図を見ると、前回ご覧いただいた「麻线胡同」の東口から現在の「北京站街」まで
あったことが判る。


地図は、『北京胡同志』(主編段柄仁、北京出版社)所収のものを使用。


時代が下り、清の時代「喜雀胡同(XiqueHutong/シーチュエフートン)」と改名。


地図、同上。


次の中華民国では、なぜか「喜鹊胡同」という名称が復活しているのが興味深い。

ちなみに、日本との関連で書いておけば、日本占領時、この胡同内には日本の医院
があった。

名前は、「坂口医院」。
住所は、喜鹊胡同二号
(『北京案内記』昭和十六年一月発行、新民印書館より)。


『最新北京市街地図』(東京アトラス社編纂、昭和十三年四月五日発行、複製)を
使用。


そして、復活した「喜鹊胡同」は1965年に「喜慶胡同(XiqingHutong/シーチンフートン)」
となる。しかし、この「喜慶胡同」は25年後の1990年に取り壊しの憂き目に遭遇。その跡地
には、北京市邮区中心局や天元大厦などが建てられた。天元大厦は、現在、湖南大厦(HUNAN
HOTEL)となっている。

決して正確とはいえないが、「喜慶胡同」があったのは次の地図のオレンジ色の
点線部分。

地図は百度地図。

もし、北京を旅する旅人に北京站近くに立ち寄る時間があったならば、昔、喜慶胡同
があった辺りをぜひ訪れてほしい。きっと、樹上に鹊の巣のある一本の老いた槐の木
を幻視するにちがいない。



にほんブログ村


にほんブログ村



第225回 北京・麻线胡同 民国期の政治家の邸宅や“カフェー”があったとか。

2019-05-03 10:50:21 | 北京・胡同散策


上の写真は、北鮮魚巷の北口前から西方向を撮ったもの。

地図は省略しますが、麻线胡同は、蘇州胡同の一本北側、現在の北鮮魚巷の北口
前から西方向に崇文門内大街まで走っています。

この胡同の北側には、東から英大国際大厦、北京日報社・北京晩報社、民生銀行
などの現代的な大型ビルが立ち並んでいて、ちょっと胡同らしくないなぁ、とい
う声も聞こえてきそうです。


この胡同の東側には、英大国際大厦。



その西側には北京日報社・北京晩報社の社屋。




その西側には、民生銀行。


この民生銀行の南側には、ファミリーマートも。


現在、改修中なのか閉店なのかは不明。


次の写真の奥を南北に走っているのは、崇文門内大街。





しかし、それら現代的な大型ビルの南側の一画には、
「確かにここは麻线胡同なのだ」
と実感させてくれるたたずまいが実につつましく残っているのです。



右手の手前は麻线胡同18号院。



正面は、16号院、14号房と書かれていました。



左側(東側)に向きを変えて。
奥へ行ってみたいと思います。





こちらは16号院。



さらに奥へ。





右手のお宅は14号院。



行き止まりは、12号院。




ところで、この胡同内3号院には、清末から民国期にかけての政治家・唐紹儀、梁敦彦のお二人
が住んでいたとか。

〇この二人に関するエピソード

1911年辛亥革命がおこり、翌12年1月、孫文を臨時大総統とする中華民国が南京に樹立。
同年2月、清朝最後の皇帝宣統帝が退位。紆余曲折を経て、3月孫文に代わって袁世凱が
中華民国臨時大総統に就任すると同時に国務総理の地位についたのが唐紹儀でした。

この唐さん、その在任が、なんと2、3ヶ月という短い期間で辞表を出し、北京を離れて
しまいます。袁世凱が1915年に皇帝に即位すると退位を促す電報を打ったといわれてお
り、1917年、広州に革命軍政府(大元帥孫文)が成立すると参加し、軍政府の財政部長に
指名され、翌年には、軍政府が大総統制から7総裁制の集団指導制に移行すると、唐さん
も総裁の1人に任ぜられているのて、当時臨時大総統であった袁世凱と唐さんとの間には
政見をめぐって大きな隔たりがあったのかもしれません。

その後、3号院に住んだのは梁敦彦という、唐紹儀と同じく政治家。
この人は、1917年7月に起った張勲らによる清朝復辟(位を失った君主が復位すること)の
際の協力者の一人で、内閣議政大臣兼外交部尚書に任命されるのですが、クーデターはわ
ずか12日間で失敗。失敗後は天津へ逃亡しています。(この張勲らによる復辟事件の裏事情
が、元皇帝、溥儀さんの『わが半生 上』筑摩書房、原題は『我的前半生』には書かれていて
おもしろい)。

この人の時に邸宅は改築され、邸内には伝統劇や踊りなどの出来る東屋などもあり、かなり
贅を凝らしたものであったあったとか。

この3号院邸宅は、1984年東城区文物保護単位となりましたが、2004年に解体、その後移築
(移築された年月日は不明)、現在はその一部が東四五条に残っています。

さて、次に日本占領下の麻线胡同の様子を少し覗いておきたいと思います。

当時、この胡同内には二軒の日本旅館があったというから日本人のわたしとしては驚き。
部屋数や料金は次の通り。

〇松風舘
部屋数ー十三。
宿泊料ー七円から八.五円。

〇増田旅館
部屋数ー十六。
宿泊料ー七円から九円。

宿泊施設あれば娯楽施設あり、というのが通例ですが、この胡同内には大人の娯楽施設
「カフェー」もありました。カフェーといっても、もちろん、現在の喫茶店のことでは
ありません。当時の言葉で言えば「女給さん」のいる酒場のこと。夜な夜な鼻の下を長
くした殿方たちの顔が目に浮かびますね。

当時出版された北京ガイド本の記者さんは「カフェー」についてこんなことを書いて
います(引用に当り、一部表記を変えています)。

“日本の所謂カフェーなるものは支那人にとつては実に奇異なるものであらう。支那側
にも八大胡同にカフェーに相当する妓院があるが、彼女らは芸妓であり、娼妓である
のだから別として、芸妓でもなく、娼妓でもないカフェーの女給なるものは、女招待
の訳語があっても一般の支那人には不可解な存在である。”

“ところで北京には三十数軒のカフェーがある。栄枯盛衰の烈しい商売ではあるが、事
変後林立し消滅した数は幾何に上るだらうが、夜毎の胡同にネオンの毒々しさを投げ
つけて、勇壮な軍歌流行歌のメロディーに一瞬ほのかな郷愁を誘はれてふらふらと扉
を押すものもなきにしもあらずと云ふわけで相当の繁盛だ。”

“一流カフェーと云はれる、北京會館、新興、富士、太陽、聚和等は設備に於て美人女
給を揃へて居る点で内地のそれに決して劣らない。”(『北京案内記』昭和十六年一月
発行、新民印書館から引用)

ということで、麻线胡同にあったカフェーの名前と住所は次の通り。

〇店名は、緑水
 住所は、麻线胡同十三号。
(今行ってもダメですよー、今はもうありませんよー)

麻线胡同。



明の時代は、麻縄胡同(MashngHutong/マーションフートン)。
清の時代に麻线胡同(MaxianHutong/マーシエンフートン)。
その名は民国期を経て現在に及ぶ。

「麻线胡同はもうなくなってしまったのよ」という住民のお一人の言葉が今も耳の奥に
残っています。



にほんブログ村


にほんブログ村