北京・胡同窯変

北京。胡同歩きが楽しい。このブログは胡同のあんな事こんな事を拙文と写真で気ままに綴る胡同お散歩日記です。本日も歩きます。

第66回 北京・晩秋の北京のホテルでヴィスコンティを思い出した。

2015-11-26 08:30:02 | 街角便り
イーグルスの楽曲『ホテル・カルフォルニア』を、
アーヴィングの小説『ホテル・ニューハンプシャー』を、
そして、ヴィスコンティの映画『ベニスに死す』の舞台となったホテルを思い出した。





ホテルのサロンをじっくりと見せてくれたヴィスコンティ。あの場面が観たくて何度も
映画館に通ったものだ。
私にとってあの作品の主役は、音楽の先生でもなく、もちろんあの少年でもない。
あの映画の主役は、あのサロンの場面なのだ。





「ヴィスコンティなら胡同をどうやって撮るだろう?」
そして思う。いつか夢の中にヴィスコンティが現れて「私ならこう撮るね」と教えて
くれると。
そんな愚にもつかないことを北京のホテルで考えている自分が可笑しかった。
ヴィスコンティと胡同との結びつきも不思議だ。

屋外に出ると、まだ秋だというのに、もうすっかり冬の寒さだった。
北京の秋は足早に過ぎていき、また耳たぶが千切れてしまいそうな冬が来る。
マイナス1、2度などではまだまだ暖かい。
“You must change to remain the same.”と言ったところだろうか。


  
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第65回 通州・南大街で軍大衣と柿売りオジさんに出会った。

2015-11-23 08:23:11 | 街角便り
まだ11月だというのに、雪まで降り、もうすっかり冬のような寒さ。
数週間前、胡同歩きの帰り、近くの商店街・南大街に寄ったら、店先に軍大衣が
吊るして売られていた。







しばらく行くと、その軍大衣、いやミリタリー風コートを着た柿売りの男性がいた。
売っていたのは、ウエストのくびれた蓋柿だ。この柿、凍柿子にして一度は食べて
みたいと思っているのですが、手間ひまがかかりそうなのでまだ試みたことはあり
ません。



柿や棗を見ると作家の老舎を想い出し複雑な気持ちになる。しかしこの日は写真を
撮らせてもらったお礼に柿を3個買い求めた。
私が外国人であったためでしょうか、どうしたことか、その渋い顔に笑みを浮かべ
ながら3個も無償でくれたのです。

喜んだのも束の間、紙袋に入れてくれるわけでも、紙包みに包んでくれるわけでも
ありません。コートの左右のポケットに3個ずつ入れると両方のポケットはぱんぱん。
お陰で手を入れる隙間がなくなってしまったのには、困った。
しかし、両手を寒さに晒しながら歩いていてもそれほど冷たさを感じなかったのは、
やはり何といっても柿売りのオヤジさんの心意気が嬉しかったからだ。
柿はカラダを冷やすといいますが、時に温かくなることもあるようだ。


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第64回 紫竹庵胡同21・胡同グラフィティ 左回り

2015-11-20 10:03:02 | 通州・胡同散歩
今回は前回ご紹介したシャッターと石臼のある家の前辺りから胡同正面を撮った写真から
歩き始めます。




前方左の家。





ドアと把手。
馴れ親しんだ場所への回帰と未知との遭遇との予兆に充ち溢れたもの。




上のドアの斜め後方に路地。



季節によって玄関脇の植え込みには様々な花が咲き、実を結ぶ。
朝顔、オシロイバナ、バラ、糸瓜、冬瓜、トマトなどなど。中には食用ホオズキもある。
昨年、初めて食用ホオズキを食べた。玄関脇の植え込みにホオズキらしきものを見つけた。
眺めていたら住民の方が「食べられるよ」と一粒くれた。口に含むとほんのりと甘いのだが、
まだ時期が早かったのだろう、苦味が強かった。

同じ路地でも季節によってこんなに雰囲気が違う。



今年1月に撮った。北京の冬の厳しさをつくづく感じる。しかし、冬の中にすでに春は孕まれている。
冬は再び花を咲かせ実を結ぶための籠りの季節なのだ。




路地の辺りから進行方向を撮った写真だが、右側に物置。



煉瓦の織り成す模様の美しさに目が眩むようだ。

物置の壁に子供たちが描いた絵があった。











胡同の壁と道端は子供たちの社交場。


















子供たちの絵の周りを地球は回っている。

ちなみに地球は、公転・自転ともに左回り。
子供たちもその遊びの中で左回りが好きなようだ。
そして、今回の記事の頭にほんの少し顔を出している
石臼も左回りである。
   
  
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第63回 紫竹庵胡同20・上馬石から再び石臼への旅

2015-11-18 11:01:01 | 通州・胡同散歩
写真は、前回ご紹介した大きな石臼の一部のある辺りから進行方向正面。
撮影は2015年1月。




右側の家。



正面。



住所表示板、中国語で門牌(menpai)が二枚貼られている。
一枚は「紫竹庵胡同」とあり、もう一枚には、「紫竹庵」とある。
この胡同の名前の移り変わりが反映されている。ただ、プレートの新しい方が「紫竹庵」と
ある点が興味深い。

階段の両脇に置かれた長方形の石に注目していただきたい。
この界隈の胡同ではよく見受けられるものだ。
この二つの石、私にはかつて地位の高い人たちが使用した「上馬石(shangmashi)」の
名残りのように思われる。
次の写真が「上馬石」である。写真は『北京的胡同四合院』(北京燕山出版社)より。


「上馬石」とは、馬に乗り降りする時に使う石製の踏み台。

次の「上馬石」は首都博物館に展示されていたもの。
彫り飾りのある豪華なもの。なお、石の前に置かれた説明書きは背後の壁に掛けられている
泰山石敢当のもの。




上の家から少し行くと、右側に路地。



行き止まり、袋小路。中国語で「死胡同」。


上の写真の路地斜め前、清楚な白いドアの家。
今年1月に撮影。



次のものは今年9月に撮った。



幸い住民のお一人がいたので中を少し拝見することが出来た。


私が現在歩いている界隈の胡同に見られる住宅の外観は、北京で見かけるそれのように決して
豪華なものではない。しかし、玄関をくぐり一歩内部に入るとよく整っていることは特筆に値
するように思われる。北京は人とモノの集積地だが、それらの移り変わりの速度が速い。それ
に対して郊外にある通州はそれらの変化がゆったりしている。こんなことも影響しているのか
も知れない。

その隣は、やはり路地。



次の写真は、白いドアの家の少し前から胡同正面。
撮影は今年の6月。




少し進んで、路地の辺りから前方。
今年1月に撮影したものだ。


次の写真もほぼ同じ場所から撮影。撮影日は今年の4月である。




クルマの先、右側の家。明るい青色のドアが印象的だった。


この家の階段の両脇にも長方形の石がある。




青色のドアの家の前にシャッター設備のある家があった。
撮ったのが今年の1月だったので厚手のカーテンが掛けてある。



同じ家を斜め手前から写した。
撮影は今年の6月。シャッターがおろしてあった。





ここで留意したいのは、シャッターがおろされていることではない。そうではなく写真左下を
ご覧いただくとお分かりのように前回もご紹介した石臼の一部がごく自然に置いてある点だ。
この界隈の胡同の住民の心の深層には石臼が置かれているのかも知れない。


   
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第62回 紫竹庵胡同19・石臼と井戸のある風景

2015-11-13 13:03:00 | 通州・胡同散歩
饅頭、焼餅、水餃子、包子、油条、ワンタンなど、どれも小麦粉を原料とするが、小麦を
製粉するための石臼は食生活に欠かせない道具の一つであった。


(朝、散歩がてら立ち寄った老家老餅。左から「油条」、「豆腐脳」。合わせて4元。)


前々回ご紹介した階段の段数三段の家に沿って歩いて行くと、石臼の一部が置いてある。



さらに歩くとやはり、ある。







この国の石臼や小麦とのつき合いは長い。
上にご紹介したのは回転式石臼の一部だが、この形式の石臼が戦国時代(B.C403~B.C221)の遺跡
から発見され、小麦の栽培の始まるのが前漢の時代(B.C206~B.C33)からだと言われている。

ところで、饅頭や焼餅などの食品を作るためには水分を必要とするが、水道が敷設される以前、
北京には三種類の井戸水があり、水道が敷設されてからも一般家庭では井戸水を使っていた。

苦水の井戸。
甜水の井戸。
半甜半苦の二性子と呼ばれる水の井戸。

苦水とは、飲めない水。
いわゆる硬水と呼ばれるもので、カルシウム塩、マグネシウム塩を多量に含んだ水だろう。
甜水とは、飲める水。
半甜半苦の二性子の水とは、飲もうと思えば飲めないこともない水といったところだろうか。

日常生活の中で、苦水で洗濯し、二性子の水で食事を作り、甜水で茶を飲んだ。


(『映像辛亥』よりお借りした写真だが、解説には「京師的公共水井」とある。「京師」とは北京。
二つの滑車(双轆轤)で水を汲み上げている。撮影は清末である。)

甜水を売る「井水窩子(井窩子とも)という水屋があった。その水を各家庭に運ぶ「倒水的」
とも「三哥」とも呼ばれる水運びもいた。


(『旧影北京』より。このような一輪車で水売りが各家庭に水を運んだようだ。)


石臼と井戸には、共通点がある。たとえば、石を使うことだ。
阿南・ヴァージニア・史代さんが石臼と井戸に使われる石を紹介している。阿南さんが石景山区
の上石府村を訪れた時の体験だ。出典は『木と石と水が語る北京』(ネット版「人民中国」。
原典は『古き北京との出会い』五洲伝播出版社)

阿南さんは石府村を訪れた時、石工でもあり採石会社のボスでもある高雨雲さんに出会ったという。
その高さんの言葉を次に書き抜いてみよう。

「こいつは漢白玉石と違って繊細な彫刻には向いていない。いや、この豆青石はその
 パワーで選ばれるのだ」。

「北京の井戸石の95%は石府村の石だ」。
そして、石臼の石について「この石は汚染されていない。それに水分も吸収しない。だからこの石
臼で挽いた穀物は香ばしいのです。中国全土から需要がありますよ」。
この村では、石を砕く際、ダイナマイトなどは使っていない。

なお、阿南さんの記事によれば、この村の石は800年も前に盧溝橋に使われ、清代の記録では、こ
の村の石はとりわけ高く評価されているという。天壇の石段、市内随所にある庭園の橋、門トンな
ども造ったそうだ。

私が目の前にしている石臼。これらの石臼の一部も「石府村」の石を材料として作られたのだろ
うか。これは私の宿題なわけだが、それにしてもこれらの石臼の一部はなぜここに置かれている
だろう。
以前、胡同に何気なく置かれている石臼の一部を見て、「クルマ除けだな」と考えたこともある。
しかし本当にそうなのだろうか。というのも、クルマ除けにしてはその置かれている場所が見当
違いのように思われる場合もあるからだ。以前、外城地域の胡同では、大きな石臼の一部が壁に
埋め込まれているのを見たこともあった。

たとえば、次の写真の右下に写っている石臼の一部は、一枚目の写真のものだが、この場所では
「クルマ除け」として場所違いのように思われる。

            

次の大きな石臼は二枚目のものだが、この場合も、上のものと同様である。



穀物は私たちが生命(いのち)を維持していくための重要な作物だが、石臼はその穀物との結びつき
が実に長く、そして強い。
石臼。それは穀物との結びつきが強いがゆえに、ひょっとして五穀豊穣への願いが込められ、同
時に無病息災などに通じる、クルマ除けならぬ「厄除け」「邪気払い」という人々の悲願を担って
ここに置かれているのではないのか。道端に佇んで石臼の一部を見つめていると、ふとそんな思い
が脳裏をよぎる。これでまた謎が一つ、宿題が一つ増えたわけだ。
ちなみに、東京にいる蕎麦好きな友人に問い合わせてみたところ、石臼を使って作った蕎麦、豆腐、
抹茶などはそうでないものより美味いのだそうだ。石臼を使っていた頃の中国の人々は現代人より
も味覚が発達していて美味な粉製品を食べていたのかもしれない。



(写真の井戸は、通州三教廟にあるもの。作られた年代は不詳。2013年撮影。通州はかつて運河の街
としてその名を広く世に知らしめてきたが、その一方、その長い歴史の中で多くの災禍を蒙って来た
地域でもあった。それは通州で暮らす人々の痛苦でもあったはずだ。この井戸は、どんな歴史を目の
当たりにして来たのだろう。通州にお立ち寄りの際、ご覧いただければ幸いである。)


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