饅頭、焼餅、水餃子、包子、油条、ワンタンなど、どれも小麦粉を原料とするが、小麦を
製粉するための石臼は食生活に欠かせない道具の一つであった。
(朝、散歩がてら立ち寄った老家老餅。左から「油条」、「豆腐脳」。合わせて4元。)
前々回ご紹介した階段の段数三段の家に沿って歩いて行くと、石臼の一部が置いてある。
さらに歩くとやはり、ある。
この国の石臼や小麦とのつき合いは長い。
上にご紹介したのは回転式石臼の一部だが、この形式の石臼が戦国時代(B.C403~B.C221)の遺跡
から発見され、小麦の栽培の始まるのが前漢の時代(B.C206~B.C33)からだと言われている。
ところで、饅頭や焼餅などの食品を作るためには水分を必要とするが、水道が敷設される以前、
北京には三種類の井戸水があり、水道が敷設されてからも一般家庭では井戸水を使っていた。
苦水の井戸。
甜水の井戸。
半甜半苦の二性子と呼ばれる水の井戸。
苦水とは、飲めない水。
いわゆる硬水と呼ばれるもので、カルシウム塩、マグネシウム塩を多量に含んだ水だろう。
甜水とは、飲める水。
半甜半苦の二性子の水とは、飲もうと思えば飲めないこともない水といったところだろうか。
日常生活の中で、苦水で洗濯し、二性子の水で食事を作り、甜水で茶を飲んだ。
(『映像辛亥』よりお借りした写真だが、解説には「京師的公共水井」とある。「京師」とは北京。
二つの滑車(双轆轤)で水を汲み上げている。撮影は清末である。)
甜水を売る「井水窩子(井窩子とも)という水屋があった。その水を各家庭に運ぶ「倒水的」
とも「三哥」とも呼ばれる水運びもいた。
(『旧影北京』より。このような一輪車で水売りが各家庭に水を運んだようだ。)
石臼と井戸には、共通点がある。たとえば、石を使うことだ。
阿南・ヴァージニア・史代さんが石臼と井戸に使われる石を紹介している。阿南さんが石景山区
の上石府村を訪れた時の体験だ。出典は『木と石と水が語る北京』(ネット版「人民中国」。
原典は『古き北京との出会い』五洲伝播出版社)
阿南さんは石府村を訪れた時、石工でもあり採石会社のボスでもある高雨雲さんに出会ったという。
その高さんの言葉を次に書き抜いてみよう。
「こいつは漢白玉石と違って繊細な彫刻には向いていない。いや、この豆青石はその
パワーで選ばれるのだ」。
「北京の井戸石の95%は石府村の石だ」。
そして、石臼の石について「この石は汚染されていない。それに水分も吸収しない。だからこの石
臼で挽いた穀物は香ばしいのです。中国全土から需要がありますよ」。
この村では、石を砕く際、ダイナマイトなどは使っていない。
なお、阿南さんの記事によれば、この村の石は800年も前に盧溝橋に使われ、清代の記録では、こ
の村の石はとりわけ高く評価されているという。天壇の石段、市内随所にある庭園の橋、門トンな
ども造ったそうだ。
私が目の前にしている石臼。これらの石臼の一部も「石府村」の石を材料として作られたのだろ
うか。これは私の宿題なわけだが、それにしてもこれらの石臼の一部はなぜここに置かれている
だろう。
以前、胡同に何気なく置かれている石臼の一部を見て、「クルマ除けだな」と考えたこともある。
しかし本当にそうなのだろうか。というのも、クルマ除けにしてはその置かれている場所が見当
違いのように思われる場合もあるからだ。以前、外城地域の胡同では、大きな石臼の一部が壁に
埋め込まれているのを見たこともあった。
たとえば、次の写真の右下に写っている石臼の一部は、一枚目の写真のものだが、この場所では
「クルマ除け」として場所違いのように思われる。
次の大きな石臼は二枚目のものだが、この場合も、上のものと同様である。
穀物は私たちが生命(いのち)を維持していくための重要な作物だが、石臼はその穀物との結びつき
が実に長く、そして強い。
石臼。それは穀物との結びつきが強いがゆえに、ひょっとして五穀豊穣への願いが込められ、同
時に無病息災などに通じる、クルマ除けならぬ「厄除け」「邪気払い」という人々の悲願を担って
ここに置かれているのではないのか。道端に佇んで石臼の一部を見つめていると、ふとそんな思い
が脳裏をよぎる。これでまた謎が一つ、宿題が一つ増えたわけだ。
ちなみに、東京にいる蕎麦好きな友人に問い合わせてみたところ、石臼を使って作った蕎麦、豆腐、
抹茶などはそうでないものより美味いのだそうだ。石臼を使っていた頃の中国の人々は現代人より
も味覚が発達していて美味な粉製品を食べていたのかもしれない。
(写真の井戸は、通州三教廟にあるもの。作られた年代は不詳。2013年撮影。通州はかつて運河の街
としてその名を広く世に知らしめてきたが、その一方、その長い歴史の中で多くの災禍を蒙って来た
地域でもあった。それは通州で暮らす人々の痛苦でもあったはずだ。この井戸は、どんな歴史を目の
当たりにして来たのだろう。通州にお立ち寄りの際、ご覧いただければ幸いである。)