北京・胡同窯変

北京。胡同歩きが楽しい。このブログは胡同のあんな事こんな事を拙文と写真で気ままに綴る胡同お散歩日記です。本日も歩きます。

第183回 北京・(補)趙錐子胡同 春には花枝胡同という名の路地が似合うかな?

2018-03-27 11:22:46 | 北京・胡同散策
三月の中旬、春の到来とともに第161回でご紹介した趙錐子胡同(ZhaozhuiziHutong/ヂャオ
ヂュイズフートン)に再びおじゃましました。

途中、留学路を撮ったり、





スーパーの店頭を写したり、



鷂児胡同の出入口付近では、春節の時に貼られたこんなおめでたい漢字に遭遇したり、



なんとも可愛らしい消火栓に感激したり、ついついしてしまう寄り道の心地よさ。



この消火栓は昨年はなかったもの。新年になってから取り付けたようです。




今回も留学路沿いの西口から入りました。





道行く人や犬、写真を撮っているわたしや周りの建物などを双眼鏡で楽しげに眺めている男の子が
いました。



子供の頃、双眼鏡を通して眺めた“世界”はそれまでとはちがったもので、その時に
味わった気分は新鮮な驚きや不思議さに満ちた格別なものでした。この少年もそんな
気分を満喫しているのかな。


さて、余談はこのくらいにして、今回この胡同を再び訪れたのは、趙錐子胡同に入ってすぐの
ところにある一本の路地を歩くためでした。

その路地の入口。







この路地の名前は花枝胡同(Huazhihutong/フアヂーフートン)、いや、正しくは、昔、
花枝胡同という名前でした。(ちなみに、現在も北京には花枝胡同という路地のあること
をおことわりしておきます。かつて北京には同名の胡同が十本ほどあったそうです。)



細かく書くと、清の時代に
花椒営(Huajiaoying/フアジアオイン)あるいは花枝営(Huazhiying/フアヂーイン)
と呼ばれ、

その後、民国になってから
花枝胡同
と改名。

1965年、趙錐子胡同に編入されたため、その美しくも妖艶な名は消滅してしまいました。









胡同関係の本を読んでも、このごくありふれた路地になぜ花枝胡同という名前がつけられたのかわから
なかったものの、この胡同について調べている内に、ある意味でこの美しくも妖艶な名称がこの路地に
ぴったりすぎてこわくなってしまいました。





というのも、民国18年(1929年)に行われたある調査を見ますと、なんと、この短く小さい路地
内には、三軒の三等妓院、七軒の四等妓院、合わせて十軒もの妓院があったことがわかったから
なんです。

第180回でご紹介しました栄光胡同もそうでしたが、いや、それ以上に昔の花枝胡同は妓院の
凄まじいほどの密集地帯だったと言えるかもしれません。かつての北京の妓院集中区といえば
“八大胡同”ときまっていますが、どうしてどうして栄光胡同、花枝胡同などのある留学路界
隈の胡同もけっして負けてはおりません。かつてこの界隈が“小八大胡同”と呼ばれていたの
も、うべなるかな。

でも、もちろん、それは昔のこと。現在の路地には当時の面影などまったくなく、当時ここに
多くの妓院があったことなど想像すらできないことはいうまでもありません。





当時の面影の代わりにあるのは、おめでたい春聯。



今年は戌年。
ワンちゃんの絵柄が、かわいらしい。



先に、現在の路地には当時の面影などまったくなくと書きました。
しかし、わたしの錯覚でなければ、そうは問屋がなかなか卸してなんかくれそうもありません。

次の写真はこの路地の南端の入口を写したもの。
向かって右奥の建物のレンガ造りの外壁をご覧ください。



建てられた時代の古さを感じさせる角が緩やかなカーブを描く堅牢そうなレンガ造り
の外壁。これは、ひょっとして当時妓院だった建物の面影を今にとどめる一部分なの
ではないか。
見つけた時に嬉しさのあまり、
「昔の面影を見っけ!!」
などと心の内でつぶやいたわたしは、あまりにも軽すぎる。



昔、花枝胡同という路地がありました。
そこでは、毎夜、多くの美しき花々を散らすには十分すぎる厳酷非情な春の嵐が容赦なく吹き荒れて
いました。春には花枝胡同という名の路地が似合うかな?



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第182回 北京の胡同・儲子営胡同(後) 今は昔、名前の由来と住民たち

2018-03-19 10:30:07 | 北京・胡同散策
洗濯物をあとに再び胡同を歩き出すと、胡同とは切ってもきれない必須アイテム、
腰掛けがありました。



腰掛けのあるところ、日向ぼっこあり、地域住民たちの咲かせる世間話の花々ありと、
ここは大切な場所なのです。



この椅子の脇には、南方向に走る一本の路地。



これは、第175回でもご紹介した「何家胡同(ホージアフートン)」の北の出入口です。
もちろん、今回は立ち寄らず、このまま胡同歩き続行。





電動三輪車を過ぎると、按摩治療の看板。







片方の門墩(メンドン)が凄いことになっていました。



もう片方は、難をまぬかれたようです。



だいぶ使い込まれていますが、いい雰囲気の門環。






古そうなお宅がありました。





門墩(mendun/メンドン)。
傷がつけられています。













門簪に字が書かれています。
片方は「命」ですが、もう片方は不明。




門簪のあるお宅からほんの少し行くと、こんなお宅がありました。

もとは玄関だったところが、現在は外壁の一部と化しているお宅。



上に目を移すと、いかにもここは入口でしたといわんばかりの意匠。
かつては、一般住宅というよりも、なにかご商売でもしていたのかなといった雰囲気。



そのお宅の横には、こちらにいらっしゃいよ、とわたしを誘惑してやまない路地。



だって、こんなに素敵な玄関があったんだから。





彫り飾りも、なかなかイケルでしょ。





門環もいい。



門墩(メンドン)もご覧ください。








お邪魔してみました。
まず、宅門(大門とも)を入って北方向に進む。



突き当りを西方向に曲がる。



曲がったら直進せず、北側に設けられた第二門をくぐる。
すると三つの棟と中庭が現れる。



このお宅は、中庭を中心に四つの棟が中庭を取り囲む、いわゆる“四合院”住宅でした。


ある棟の内部。
ここは、イベント会場のようです。



別の棟。
住宅の改修などの絵が描かれています。



「北京天橋社区営造中心」(北京天橋地区まちづくりセンター)と書かれていました。



こちらは一般住宅ではなく、天橋地域の開発を手がける開発関係者が地域住民たちのために
開く説明会会場でした。



さまざまな事情を抱えている胡同。今後、天橋地区はどのように変わっていくのやら。
けっしてこれ見よがしではなく、まことにさりげなくその地域の歴史が息づき、そこ
で暮らす人々の生活のにおいや息遣いを感じさせる「まちづくり」であって欲しいなぁ
と、そんな楽しいもの思いにふけりながら説明会会場をあとにして、お隣を拝見。



美味しそうな長ネギ、白菜。



もう少しお付き合いいただきます。





このプレートの辺りで道が二手に分かれていました。

まずは直進。



なぜか、多くの自転車、電動バイクが置かれた一画。













儲子営胡同の東端です。
横切っているのは、鋪陳市胡同。



胡同の道端に数年前から設けられた住民の誰でもが自由に使える物干し設備「便民晾衣杆
(ビエンミンリャンイーガン)」。近頃では胡同に欠かせないアイテムの一つに。


東端出入口から西方向を撮ってみました。




続けて先ほどの表示板のところに戻り、もう一方の道を歩いてみました。



前方にワンちゃんがいます。
近づいてみました。



春になると小鳥たちが楽しくさえずり、夏になるとヘチマの葉が涼しげな日陰をつくり、
何ともひょうきんな形をしたヘチマがぶらさがる。
頭上には、そんな素敵な光景を髣髴とさせるいい感じの鳥籠と蔓巻用の棚がありました。



棚の下のワンちゃん。



しかも、その背後には「M&M'S/ エムアンドエムズ」チョコレートのキャラクター、オレンジ。



ワンちゃんの耳の色とチョコレート会社のキャラクターのそれとの一致から受けたおかしさや奇妙
な感動。それは、こういう場所で不意にオレンジに遭遇した驚き、どうしてここにオレンジがいるの、
という謎にぶち当たって味わった非現実感や不思議さや困惑を軽くこえたものでした。


ご興味をお持ちの方は、「M&M'S/ エムアンドエムズ」チョコレートのオフィシャルサイトによる、
オレンジのプロフィールをどうぞ。

〇年 齢
 ストレスでちょっと老け気味かも
〇体 重
 食べないから太らないよ(眠りもしないけどね)
〇嫌いなもの
 自分を食べようと狙っているひとたち(つまり、みんなのこと!)
〇夢
 絶滅危惧種に認定されること
〇特 徴
 通りを横切るわけでもないのに、左右を何度も確認するところ
〇欠 点
いつもみんなに追われていると思い込んでいる
〇外 見
 オレンジで、いつもキョロキョロしている
〇隠れた才能
 どこにいても腹ペコの人を見つけられる
〇口 癖
 「どうせ食べられる運命さ」




ここにも「便民晾衣杆(ビエンミンリャンイーガン)」。



ちょっと古いデザインの電動三輪車。







門墩(メンドン)







そして、わたしには似合いませんが、胡同にはなぜか似合ってしまうお洒落な
パステルカラーな自転車。



次の写真向かって右の自動車辺りまでが、儲子営胡同です。
前方は第162回でご紹介した趙錐子胡同。



もと来たところに引き返すと、先ほどのワンちゃんがいました。
そこで、ワンちゃんの写真を撮ったのですが、写っているのはワンちゃんの可愛らしい
お尻ばかり。

お尻といえば、犬の面前にこちらのお尻をつきだすと、ワンちゃんと仲良くなれるんだとか。
子供の頃に大人たちから聞いた話。



このワンちゃん、恥ずかしがり屋さんなのかな、それとも警戒心が強いのかな、正面写真を撮らせて
くれません。

地面に座り込むようにしてしゃがむと安心したのでしょうか、こちらにぐんぐん迫ってくるワンちゃん。
やっと正面写真が撮れて、よかった!!



お蔭さまでワンちゃんと仲良しになれました。さすがにお尻を突き出したりはしませんでしたが。
しばしオレンジと勝手に名付けたワンちゃんと遊んでから、帰宅の途についたんですが、
オレンジという名前をワンちゃんは気に入ってくれたかな。



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第181回 北京の胡同・儲子営胡同(前) 今は昔、名前の由来と住民たち

2018-03-10 15:22:03 | 北京・胡同散策
儲子営胡同(Chuziyinghutong/チューズインフートン)



今回は、前回ご紹介した「栄光胡同」南端から東方向に走る“儲子営胡同”を歩いてみました。




可愛らしい名前のお店がありました。
「胖子烧烤(ぱんずしゃおかお)」

胖子は「太っている人」のこと。烧烤は「焼肉」。
「おデブちゃんの焼肉店」といったところでしょうか。



名前を見ていたら小腹が空いてきたので、ならば好物の羊肉の串焼きをつまみに
軽くビールでも引っ掛けてから胡同を歩こうかと思ったのですが、残念!!



出入口には鍵がかかり、「しばらく休みます」と貼紙までがしてあるではありませんか。
仕方なく「次回、次回」と小腹の空いた自分となんとか折り合いをつけて歩き出しました。


ところで、儲子営胡同は、明と清の両代を通して「厨子営(チューズイン)」と読み書きされ、
「厨」が同音の「儲」に改められたのは、民国初年のこと。



民国初年、「厨子営」が「儲子営」になる。
理由は「厨」だと雅趣に欠けるというものだったらしいのですが、個人的には「厨」字のほうが
分かりやすいんじゃない?などと思ったりしているのですが、個人的なことはさておき、この「
儲子営」に「胡同」という二文字が追加されたのは1965年。





この胡同は上にも書いたとおり、明と清を通して「厨子営」という名前であったわけですが、由来
は実に単純で分かりやすい。「厨子」すなわち「料理人」が多く住んでいたからなのだそうです。





なお、追記しておきますと、昔この胡同には料理人のほか、妓女、力工、脚夫などが多く暮らしていた
とのこと。(力工、脚夫は、共に単純肉体労働従事者ですが、力工は建築関係の仕事に従事する者、
脚夫は、荷物運搬人を指すようです。)





断るまでもなく、この胡同は天橋地区にあるわけですが、その“天橋”について、1920年代末から
1930年代初めにかけての北京(当時は民国期で北平と呼ばれていた)を舞台にした、老舎の小説『駱駝
祥子』(「らくだのシァンツ」)は、次のように書いています。

「南へ歩き、東へまがり、また南にむかって天橋にでた。正月のあとの朝の九時すぎともなると、
 小僧さんたちがもう朝飯をすませて遊びにきていた。さまざまの露天商、芸人たちがはやくも
 ずらりとならんでいた。あちこちに人垣ができ、銅鑼や太鼓がひびきわたっていた・・・」
「ここの漫才、熊使い、手品師、祭文語り、民謡歌手、講釈師、剣術使いなどが、彼を心から笑
 わせてくれたものであった。彼が北平に執着する一半の理由はこの天橋にあった。」
 (『駱駝祥子』立間祥介訳、岩波文庫。)

天橋は、当時、物質的にけっして豊かとはいえない多くの庶民たちにとっての一大娯楽センターの様相
を呈した場所でした。それを思うと、その昔「料理人、妓女、力工、脚夫」が多く住んでいたといわれ
る儲子営胡同とは、ある意味でまさに天橋という場所にこそふさわしい胡同だったと言えなくもありま
せん。




うっ。
出入口のデザインがおもしろい。



しかも、奥が深そうです。



で、お邪魔してみました。


二階建て。



さらに奥へ。





干された洗濯物を見つけると、まるでとんでもない宝物を見つけたように写真を
撮ってしまいます。



これ以上は進めませんので、もと来たところへ戻ります。





少し歩くと、コリーがやって来ました。



一人で散歩かな?
と思っていると、急に向きを変えて行ってしまいます。

急にカメラを向けたのでビックリして、自宅に戻ってしまったのかもしれません。
申し訳ないことをしました。

ワンちゃんが戻っていったのは、ここ。



それはそうと、なにやらおめでたいことがあったようで、細い路地の入口に貼られた「双喜文字」が
実に眩しかった。



そうして、これは大きな声では言えないのですが、そのお目出度さがわたしにも感染するにちがいないと
内心ひそかに思えてしまう、そんなわたしの頭も、「双喜文字」に負けないくらいまことにもっておめで
たい。



この地で長年お店を営んで来た、といった雰囲気ムンムンの理髪店がありました。
地元の人たちに長い間愛されつづけてきたんじゃないでしょうか。



一説に、その昔、街を流して歩いた剃頭匠(ていとうしょう)の職業上の末裔だといわれる理髪店。

1645年、清が国を統治するやいなや、順治帝は「辮髪令(薙髪令)」を発布しました。
辮髪とは、頭頂部の髪だけを残して頭の周囲の髪を剃り、残した髪を長く編んで背に垂らした髪型。

内容はといえば、
「京城(現在の北京)の内外は十日以内に、各省の地方は布告書が届いてから十日以内に全員が
 辮髪の制に従うことを命ず。この布告に従う者は本朝の民であるが、従わない者は、政府の
 命に逆らう謀反人と同じであるので、重刑に処す。」
と、言ったものでした。

重刑とは、もちろん死刑のこと。辮髪令は、満州族の清朝政府が漢人に対して、忠誠と服属の証と
して強制したものですが、この時各地には「留頭不留髪、留髪不留頭」すなわち「頭を留めるもの
は髪を留めず、髪を留めるものは頭を留めず」と書かれた札が立てられたんだそうです。

そして、この時に活躍したのが、漢人たちの髪の毛を剃って歩いた剃頭匠だったわけですが、この
剃頭匠が一ヶ所に定住して店を構えたのが、現在の理髪店の始まりだったとか。

なお、この辮髪令も僧侶と道士、そして婦女だけは特例として除外されていました。


理髪店の前を通り過ぎると路地。



お邪魔してみました。







さらに奥へ。







この胡同を歩いたのは昨年2017年の12月のこと。2017年は断るまでもなく酉年だったはず
なんですが、向かって左側のお宅を見ると、玄関にはなんと2016年申年の年画が。



こんな経験は初めてなので、妙な感動を覚え、じゃあ、次のお宅は一年さかのぼって、
ひょっとしたら未年か、などと楽しくもお馬鹿な期待に胸をワクワクさせながら、次へ。



ちゃんと酉年の年画。
ガッカリするやらホッとするやら。





それにしても、申年の年画の貼ってあるお宅は、どうして2016年で時が止まってしまっているのか。

この界隈の胡同在住の方に聞いた話が頭をよぎる。
それは、この周辺の再開発をめぐる開発関係者と住民との間に生じたさまざまな問題というシリアス
なものでした。開発業者と住民との間には、部外者の目には見えない静かなバトルがくり広げられら
ているようです。



また路地が。







路地中の路地へ。





どうやら奥が深そうです。









好物の白菜や長ネギがありました。外に出しっ放しにしておくと、旨味が増すんだとか。

見上げると、洗濯物が。



干された洗濯物を見つけると、ついつい写真を撮ってしまいます。
青空を背景にした洗濯物は美しいです。
お日さまの温もり、生命の温もりを感じるからでしょうか。




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