北京・胡同窯変

北京。胡同歩きが楽しい。このブログは胡同のあんな事こんな事を拙文と写真で気ままに綴る胡同お散歩日記です。本日も歩きます。

第187回 北京・鋪陳市胡同(前) 仕事探しなら“窮漢市”へどうぞ。

2018-04-24 12:58:34 | 北京・胡同散策
鋪陳市胡同(PuchenshiHutong/プーチェンシーフートン)

昨年の9月下旬におじゃました時には、やはり昨年の春頃から始まった改修工事が続行中で
写真もろくに撮らず、あわただしく急ぎ足で通り過ぎてしまいました。でも、収穫がまった
くなかったかというとけっしてそうではありませんでした。たとえば、予想もしていなかっ
たアヒルのヤヤに会えたこと。

アヒルがいたので飼い主さんに名前をお訊ねしたところ、「ヤヤ」ということがわかりました。

首をかしげながら行儀よく飼い主さんとお客さんの会話に聞き入るヤヤ。





「今回もヤヤに会えるかな」、そんな期待を胸に鋪陳市胡同に再びおじゃましてみました。


当日は永安路沿いにある南出入口から入りました。



出入口の一部を除き、改修工事もすっかり終わり、立派な地名表示板や説明板が取り付けて
あります。



建物の外壁には新しいタイルが貼られ、屋根瓦なども新しく葺き替えられていました。









建物の外壁には、なんと、『清明上河図』(一部)のレリーフが。



『清明上河図』
北宋(960-1127)の都、開封のにぎわいを描いたものといわれています。作者は宮廷画家だった張托端。
北宋文化の絶頂期、徽宗帝(在位1100-1125)のために描かれ、その精密に描かれた都市風景は同時代の
西洋にもないそうです。ちなみに、オリジナルは北京の故宮博物院所蔵。

東側の塀にも。










胡同関係の本によりますと、この胡同は、明、清、民国期を通して多種多様なものを扱う小商人たちが
露店を開いていたとのこと。そして、清の乾隆帝の時代には、貧しい労働者が仕事を求めて集まる場所
でもあったので、その名も“窮漢市”と呼ばれていたそうです。



窮漢市。この名は清末まで続くのですが、光緒帝のときには、ほかに補拆(ブーチャイ)市あるいは
補陳(ブーチェン)市とも呼ばれていました。



それが民国の時期に“鋪陳市”となり、胡同の二文字が付くのは1965年からでした。



なお、1965年以前、この胡同内には、天匯夾道、十八寓、小眼鏡、任家頭といった小胡同があったのですが、
1965年の地名整理の折、鋪陳市胡同に編入されました。




路地がありました。



上に、1965年にこの胡同に編入される以前、この胡同内には、天匯夾道、十八寓、小眼鏡、任家頭といっ
た小胡同があったことを書きました。民国期に発行された地図の中には、“鋪陳市”の中にこれらの小胡
同の名前が書かれているものがあり、その地図によりますと、この路地は1965年以前「任家頭」と呼ばれ
ていた胡同ではないかと思われます。

ちなみに、この任家頭は、清末の朱一新『京師坊巷志稿』に記載のある任家頭胡同のことではないかと思
われます。おじゃましてみましたので、興味ある方はご覧ください。



















元に戻り。



歯医者さんがありました。「牙科(yake/ヤーコー)」というんですね、中国語で。









鳥籠の中のおしゃべりな九官鳥が、道行く人を楽しませてくれていました。











ひょっとして飼い主さんはこのお宅の方かな。



見上げると鳥小屋が。







もとお寺だったという建物の一部。



胡同関係の本によりますと、名前は、観音禅寺。



創建がいつなのかは残念ながら分からなかったのですが、1750年頃に作られたといわれる『乾隆京城
全図』を見ますと「観音庵」(地図では旧字体)という寺院がありました。もしその寺院がそれだとする
と、その時からでもすでに250年以上は経っていることになります。



北京について調べていて実に惜しまれるのは、これまでの数々の戦乱や政変、激しい社会環境の変化に
よって、歴史ある多くの貴重な建造物などが消え失せてしまっていること。たとえ残っていたとしても、
新しく改修されたり、復元されたものが多いのです。

この奇妙な形で残された観音禅寺の一部を見ていると、北京の歴史環境の厳しさの一端を垣間見るよう
な、そんな気がいたします。



次回はこのお寺の跡地にお邪魔したいと思います。昔の面影が少しでも残っていてくれればよいのですが。




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第186回 北京・居仁里胡同 賽金花さん、あなたの出番です。

2018-04-18 16:32:30 | 北京・胡同散策
居仁里胡同(JurenliHutong/ジゥレンリフートン)



この胡同が形成されたのは民国期、その時の名は「香廠居仁里」。
その歴史は長く見積もっても100年とちょっとの小胡同。しかし、ここには、北京っ子にとって
忘れることが出来ない女性がかつて住んでいて、しかも終焉の地となったところでした。

その女性こそ、さまざまな伝説に彩られた名妓、賽金花。

場所は、前回ご紹介した霊佑胡同の一本西側。



霊佑胡同と同じく、その出入口周辺にも改築、改修のため住民の気配を感じさせない雰囲気が
ありました。





賽金花。
その生年は、1864年あるいは1872年ともいわれ、出身地も江蘇省蘇州または安徽省黟県とも
いわれています。幼少の頃の名前は、趙三宝また趙霊飛。



子供の頃から利発な女の子であったようで、しかも美貌の持ち主。
しかし、13歳(15歳とも)に家の事情で“清倌人”に。清倌人(qingguanren)とは、一般的に
さまざまな教養を身につけ、詩も詠み絵も描くといった広く芸事に通じた接客女性、ホステスさ
んのこと。

もう少し書きますと、その時の賽金花さんは、たとえば「芸は売っても体は売らぬ」といわれる
日本の芸者、芸妓さんの立場とちょっと似ている、といって良いかもしれませんね。



さて、そんな賽金花さん、その翌年にある男性に落籍されることになりました。
落籍した男性の名前は洪钧(ホンジュン)さん。同治7年(1868)の科挙の試験の主席合格者で、
エリートコースをまっしぐら。賽金花さんは、この洪さんの第三婦人になったのです。



その後、1880年代の終わり頃、ロシア、ドイツ、オーストリア、オランダ四国全権公使と
してヨーロッパに赴任することになった洪さんに帯同してヨーロッパに行き、主にベルリン
で公使夫人としての数年間の生活を送りました。幼少の頃より利発で、しかもさまざまな教
養、技芸を身につけた金花さんのことですから、洪さんを補佐する公使夫人としての役割を
十分に果したのではないでしょうか。



帰国後まもなくしての1893年洪钧さんはこの世を去るのですが、その後、金花さんは洪家
を離れ、上海や天津、そして北京で妓院を開設、公使夫人経験者として妓界に返り咲き、
大いにその名声をあげたといわれています。



さて、時代は下って義和団事件が起こった1900年。
1900年6月、義和団が北京を占領しますが、これに対し二ヵ月後の8月、イギリス、アメ
リカ、ドイツ、フランス、オーストリア、イタリア、ロシア、日本の八カ国連合軍が北京
に入り、義和団を鎮定し北京を占領。

この時、当時の清朝政府の実権を握っていたのは西太后ですが、その肝心の西太后は光緒帝、
政府の要人たちとともに「これは、まづい」と思ったのか紫禁城を捨て、およそ3000の官兵
に護衛されて西安に逃亡。その当時、無政府状態になった北京では連合軍兵士による市民に対
する暴力や略奪事件が続出したそうです。

そして、そんな北京にあって北京の人々のために活躍したのが賽金花さんでした。









上に、連合軍兵士達が北京の人々に暴力を振るったり、略奪事件を起こしたりしたことを
書きましたが、その問題の連合軍の司令官はワーテルゼーという元帥でした。



ここで話しは金花さんのベルリン滞在時にさかのぼるのですが、その時金花さんは、真偽
のほどはさておき、いかにも伝説の名妓にふさわしいドラマチックな体験をしました。

それは、彼女が馬車に乗ってベルリン郊外を散歩中、その馬車の馬が暴れ出してしまったので
すが、その馬を鎮めてくれた一人のドイツの将校と出会ったというもの。なんと、金花さんを
暴れ馬から救ったその将校こそが、奇しくも連合軍司令官として北京に滞在していたワーテル
ゼー元帥その人だったのです。





ワーテルゼー元帥が、金花さんの経営する妓院があった外城を、たまたまドイツ軍の巡邏区域
だということでまわっていた時、金花さんは元帥に再会。その時、連合軍兵士たちの北京の人々
への乱暴や略奪行為に心をいためていた彼女は、兵士達に乱暴や略奪をやめさせるよう元帥に懇
請。そのお蔭で外城では、他の地域にくらべより一層治安が保たれ、俄然兵士たちの悪行が見ら
れなくなり、金花さんの名声はたかまるばかりでした。









その後のことをざっと書きますと以下のとおり。

連合軍が引き揚げたあと、金花さんは上海に行き、曹瑞忠さんという方の夫人の一人に。しかし、
曹さんは数ヵ月後に亡くなってしまいます。

その後、彼女は昔からのお客であった、民国政府参議員、魏斯霊さんの援助を受け、北京の前門外
の櫻桃斜街で同棲生活を始めます。そして、民国6年(1917年)、名前を原名の趙霊飛に改め、上海
に行き、魏斯霊さんと当時はまだ珍しかった教会での結婚式を挙げました。しかし、この魏さんも
結婚4年後の1921年に亡くなってしまいました。







そうしてその後、再び北京に戻り、終の住み処となる居仁里16号で二十年近く暮らすことになり
ました。なぜかその暮らしぶりはまるで人との関わりを避けるかのようなひっそりとしたものだっ
たそうです。









賽金花さんは、1800年代の後半から1930年代の激動の時代に波乱に満ちた一生を送った女性の
一人。わたしはそんな金花さんのことを考えるたびに、金花さんが公使夫人としてベルリンに滞
在した時に出会い、義和団事件に際して北京で再会したといわれるワーテルゼーの次の言葉を思
い出さざるを得ないのです。

当時、連合軍司令官だったワーテルゼー元帥は、こんなことを書いています。

“中国の上層階級や役人は世界情勢に暗いうえに腐敗しきっているが、四億の民衆はいわば
 「神の子孫」という自尊心に富み・・・無限の生気にみちており、勤勉で利口であり、戦
 闘心も旺盛である。こんどの義和団運動では、山東・直隷で、少なくとも十万人がそれに
 参加している。その敗北は、武装が不備であっただけのことである”(ウィルヘルム二世
 への「中国分割に関する奏議」。『中国近現代史』小島晋治/丸山松幸著より引用)

この記事を読むたびにわたしは思うのです。賽金花さんは、ワーテルゼー元帥のいう「四億の民衆」
の中でも、とりわけ立派に生きた女性だったのだと。



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第185回 北京・霊佑胡同 皇帝!! それはあんまりでしょ。

2018-04-10 13:42:48 | 北京・胡同散策
霊佑胡同(LingyouHutong/リンヨウフートン)。



この胡同の名前を見たり聞いたりすると、胸がときめく。
のちに触れるように、この胡同の歴史には中国歴代皇帝の中でも、ある意味あまりにも人間臭
い皇帝が関係しているからなのですが、その皇帝の人間臭さ、その凄まじいまでの退廃ぶりが
放つ黒い輝きの魅力といったら、こちらの平凡な頭がくらくらっとするほどです。


当日は、永安路沿いにある南出入口から歩き始めました。



昨年の春ごろから、この界隈の胡同も改修、改築が始まり、この胡同の出入口付近も現在は
住んでいる方もなく、ただひっそりとした建物の形骸だけが改築の行われるのを待っている
といった様子です。



さて、この胡同は、明の時代、この胡同内に“霊佑宮”という道観つまり道教の寺院があった
ことに由来しますが、この道観は初め十方道院といい、その規模たるやいたって小さなもので
あったようです。



その道観も、明の万暦三十年(1602)には規模も大きくなり、名前も真武廟と改名。



そして、真武廟と改名されてから、およそ10年後の万暦四十一年(1613)、太監すなわち宦官の魏
学顔によってさらに土地も拓かれ、高閣大殿も造営され、しかも、なんと、当時の皇帝神宗万暦帝
(在位1572-1620)から、めでたくも「護国霊佑宮」の名称を賜っています。霊佑宮という名が地
名として使われるようになったのはこの時から。



その後、清、中華民国、新中国とこの名は引き継がれていくのですが、清の康煕帝(在位1661ー
1722)の時代には、内城東華門外の灯市が一時霊佑宮のそばに移され、ここ霊佑宮は灯市で賑わっ
たこともあるとか。





なお、1937年前後には当時の警察局の占有地となり、1949年の解放後にも警察関係の施設が置かれ、
宗教施設として本来の働きはしていなかったようです。残念ながら、今はもう取り壊され、その姿を
見ることはできません。現在の霊佑胡同になるのは、1965年の地名整理時からでした。


ひと気のない建物の間を抜けると、お店が並んでいました。



こちらは「上海時装」という、しゃれた名前のファッション関係のお店です。



ちょっと覗いてみました。



どうやら、こちらは仕立て直しなどを専らとするお店。

ミシンを前に作業中の社長さん。



カメラに向かって終始笑顔のサービス精神旺盛な社長さん。でも、体はたえず動かしていて、
その動きにはまったく無駄というものがありません。さすがプロだな。店の中にお客さんから
依頼されたたくさんの衣服が所狭しと天井から下がっていたのも、納得。



お店を出ると、また、あった。



こちらは「京源家電」という家電の修理屋さん。
修理用工具をお手入れ中の社長さん。





この社長さんには、道案内もまかせなさーい。



そこで、わたしもついて行くことに。





ところで、勤勉で貯蓄倹約につとめること、それはごく一般的に言って美徳のひとつですが、その
度合いや方向性に誤りがあると美徳変じて悪徳となり、その主体が一国の経営者である皇帝であっ
たりした場合、その国の存亡にもかかわる重大事となってしまいます。



先に明の万暦帝神宗の名をあげましが、ある歴史家によりますとこの皇帝は、希代の吝嗇漢、貪財漢
であったとのこと。



たとえば、何か理由を見つけては、我欲を満たす、ただそれだけのために国庫の金を取り上げ、その
反対に戦費をどうひねり出したらよいのか困り果てている財政当局にはびた一文ださなかったり、罪
ある宦官が皇帝に賄賂を贈れば金に目がくらんで、その罪をおおらかにも許し、それをとがめる役人
には廷杖を加えたり、俸給の支払いを惜しむあまり、大臣や高級官吏の欠員ができてもそのままの状
態にしておいたり。

皇帝のやりたい放題はそれだけではありません。



たとえば、銀など掘りつくされすでに廃坑になっている銀山の採掘にその手足となっていた宦官を
送り込む。それだけでも凡人のわたしは首をひねりたくなるのですが、この親分にしてこの子分と
いったところでしょうか、その宦官たちがこれまた、やりたい放題。銀など出ないとわかると、宦
官たちは国税である商税、塩税、店舗税など、取れるものならなんでも人民から取り立て、また、
貴重品が眠る貴人の墓を掘り起こしたり、金持ちの邸宅や良田に鉱脈があると言っては脅迫し、人
妻や娘までをも取り立てたり。もちろん、宦官たちの数々の並はずれた悪行を弾劾した地方官もい
たにはいたのですが、反対に逮捕されてしまうしまつ。そして、怒り狂った人民の中には、暴動を
起こして宦官を殺してしまうものもいたとか。



以上のように国や人民のことなどまったく眼中になかった神宗ですが、おのれの欲望を満たすため
には惜しみなく金を使うという、とびきりの人間臭さを発揮しました。

たとえば、墓づくり。
北京から40キロほど行ったところにある「定陵」と呼ばれる現在観光地になっている陵墓がそれ。
地下20メートルの深さ、前、中、後の三室、全長八十八メートルの豪華絢爛たる地下宮殿というべ
きこの陵墓完成には六年の歳月を要し八百万両の巨費を投じたといわれています。



皇帝としてあるまじきかずかずの所業を見かねたある役人は「皇帝!! それはあんまりでしょ」と思っ
たかどうかはわかりませんが、その上奏文に
「由来酒を好むと腹を腐らし、色を恋すれば命をちぢめ、財を貪れば人間が堕落し、感情に溺れると
 人をあやめるものだが、この四つの悪を兼ねそなえたもの、それは陛下だ」
と書いたそうです。もちろん、この役人、ただではすまされません。廷杖のうえ、追放の憂き目にあっ
てしまいました。追放されてしかるべきは、皇帝その人であったのに。


またお店がありました。
室内装飾のお店。



理髪店、いやいや美容院と呼んだほうがいいかな。



女性はもちろん、おしゃれに気をつかう男性たちも、今やこういうお店に通っています。

このお店、隣接する空き地には値段表がありました。





お店によってはカットだけで35元以上はするんじゃないかなと思うんですが、こちらは25元、
日本円で400円程度とお廉くなっております。でも、わたしが通う理髪店はもっと廉く、カット、
洗髪、髭剃り、合わせて20元なり。もう十年以上通いつめる、信頼の出来るお店です。

理髪店を撮っていると、縫いぐるみのような可愛らしい大きなワンちゃんがやって来ました。



犬用ハーネスには、
「わたしはおとなしく、人に噛みついたりなんかしません」
と書かれています。



そのメッセージには、飼い主さんの、周りの人たちへの何気ない気遣い、愛犬へのゆるぎない愛情が
込められているようで、微笑ましかったです。



写真奥は、この胡同の北端。



清の時代に作られた『乾隆京城全図』を見ますと、現在の胡同の北端辺りに霊佑宮の山門があり、
そこから北方向へ敷地が拡がっていたことが分かります。

次の写真は、北端から南方行を撮ったもの。
現在の霊佑胡同は、霊佑宮がまだ現役として活躍している頃、人々が詣でるための参道の役割を
果たしていたと言ってよいかも知れません。



人民に対して率先垂範してしかるべき皇帝ですが、その皇帝であった神宗が垂れた、あまりの人間
臭さ、退廃ぶり。明王朝は神宗病没二十四年後の1644年(崇禎17年)に幕を閉じることになるので
すが、それが神宗の垂れた範のお蔭であったかどうかはさておいて、わたしにとって気になって気
になって仕方がないのは、やはり、この胡同と神宗皇帝との関係。

先に、万暦四十一年(1613)、太監すなわち宦官の魏学顔によってそれまで以上に土地も拓かれ、高
閣大殿も造営され、当時の皇帝神宗からはめでたくも「護国霊佑宮」の名称を賜ったことを書きまし
た。

たしかに、皇帝から「護国霊佑宮」という立派な名称を賜ったのは、めでたいことだったと言えるかも。
でもなぁ、皇帝やその手足となって働いた宦官たちの非道の数々をかえりみると、このめでたさに関し
ても、ついついつぶやきたくなってしまう。「皇帝!! なんか、とっても胡散臭いんですけど。」



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第184回 北京・達圆鏡胡同 春はそぞろにうつらうつら

2018-04-03 16:28:32 | 北京・胡同散策
春になると頭の中に霞たなびき、足のつま先から薄くなった髪の毛の先まで全身そわそわむずむずしてきて、
じっとしていられなくなってしまいます。

そこで、

「そうだ!! 達圆鏡胡同に行こう!!」

ということで、バスと地下鉄7号線を乗り継いで商店街留学路へ。

さて、留学路に無事に到着したのはよいものの達圆鏡胡同へ直行とならないところが、やはり春。
朝食後それほど時間が経っていないというのに山西面館という看板が目に飛び込んでくると
「腹減ったゾ」
とばかりに、つい、ふらふらっとお店に入ってしまう節操、緊張感のなさ。



注文したのは、牛肉麺。



刀削面は、うまい。
春なので一層うまいと感じてしまうのかもしれません。
完食。
値段は18元なり。ちなみに、日本円で300円程度。

その後、急に眠気に襲われ、
「完食しなければよかったなぁ」
そんなことを心の内でつぶやきながらも一念発起、買い物客が連れているワンちゃんを
撮ったり、



行列のできる饅頭店を写したり、春はそぞろ歩きが俄然気持ちよい。



たどり着いたのは留学路の南端。南端を横切るのは永安路。永安路を東方向へ。



永安路沿いには後日ご紹介予定の居仁里胡同、霊佑胡同、以前ご紹介した大喇叭胡同、
小喇叭胡同、何家胡同、永勝巷、福昌里と並んでいます。目的の達圆鏡胡同があるのは、
それら胡同の東端にある鋪陳子胡同沿い。


達圆鏡胡同(DayuanjingHutong/ダーユエンジンフートン)の出入口と表示板。



表示板には「不通行」、つまり「通り抜けられません」と書いてあるのが、心憎い。



表示板を撮っていると、足元につぶらな瞳のワンちゃんが。



胡同関係の本によりますと、この胡同は長さ74メートルほどの小胡同。





笑顔と足元がつぶらな瞳のワンちゃん同様可愛らしい素敵な女性がいらっしゃった。



お名前はLさん。
たいへん気さくな方なので助かった。残念だったのはこの胡同について分からないことがあった
のに、初対面ということもあり、うかつにも遠慮してしまいお訊ねしなかったこと。
次回の再会時にはお訊ねしたい。







この胡同がいつごろ形成されたのかは不明なのですが、清末、朱一新(1846年ー1894年)の
『京師坊巷志稿』には「小胡同曰大小眼鏡胡同」とあり、細かい説明は省略しますが、当時
この胡同が現在の胡同名と同音の「大眼鏡胡同」と書かれ呼ばれていたことが分かります。



その後どうなったのか。
『北京胡同志』所収1949年の北京地図を見ますと「達圆鏡」とあり、現在名になったのは、
どうやら地名の整理が行われた1965年以降のようです。



先に清末「大眼鏡胡同」という名前であったことを書きましたが、その名称が面白すぎる。
でも、なぜこの胡同と「眼鏡」という言葉がむすびついたのか、残念ながら不明。



そして、1949年の地図にある「達圆鏡」という名前の由来に関しても、これまた不明。
不明、不明とまるで靴の中に小石が入っているようで、どうにも気持ちが悪い。
前にご紹介したLさんにお訊ねしたかったのが、まさにこれらの点であったことは
いうまでもありません。



「ソーリー、ソーリー」
という英語と自転車がわたしの脇を通りすぎて行きました。



道端に置かれたプランター。









まだ、ちょっと寂しいですが、これからミドリがぐんぐん伸び、その成長ぶりを
観るのがたのしみです。

この細い路地にも物干し設備がありました。



そして、ニャンコ。



このニャンコ、前にご紹介した「小喇叭胡同」で見かけたネコと同じく警戒心というものが
まったくありません。住民の方たちみんなに可愛がられている模様です。



いまは東京で活躍していて、数年前まで一緒に胡同を歩いた知人が、
「ネコが住みやすいところは、いい場所いい街」
そんな意味のことを言っていたのを思い出し、けだし名言と改めて思う。

年代物のお宅。











一番奥のお宅の玄関脇にも、たくさんの植木鉢。



春の心はそぞろ歩き。
「達圆鏡」で「円鏡に達す」。
すると森羅万象をちゃんと映し出す、ゆがみのないたいらで円い鏡になる、あるいは、そのような境地に
到達する、とその意味を考えることが出来るのかもしれません。

靴の中の小石を取り除くことができるかどうかはわかりませんが、達圆鏡胡同という地名には、ひょっと
してそんな意味があるのかな? と思い、ついでながら書いてみました。

達圆鏡胡同。
ここは、幅も狭く長さも短い路地。でも、ほんとうは底知れぬ深ーい意味を秘めた場所なのかも。

帰り際、こっくりこっくりしている二ャンコの正面写真を撮らせてもらいました。



春のうつらうつら、ニヤンコとご一緒に。



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