鋪陳市胡同(PuchenshiHutong/プーチェンシーフートン)
昨年の9月下旬におじゃました時には、やはり昨年の春頃から始まった改修工事が続行中で
写真もろくに撮らず、あわただしく急ぎ足で通り過ぎてしまいました。でも、収穫がまった
くなかったかというとけっしてそうではありませんでした。たとえば、予想もしていなかっ
たアヒルのヤヤに会えたこと。
アヒルがいたので飼い主さんに名前をお訊ねしたところ、「ヤヤ」ということがわかりました。
首をかしげながら行儀よく飼い主さんとお客さんの会話に聞き入るヤヤ。
「今回もヤヤに会えるかな」、そんな期待を胸に鋪陳市胡同に再びおじゃましてみました。
当日は永安路沿いにある南出入口から入りました。
出入口の一部を除き、改修工事もすっかり終わり、立派な地名表示板や説明板が取り付けて
あります。
建物の外壁には新しいタイルが貼られ、屋根瓦なども新しく葺き替えられていました。
建物の外壁には、なんと、『清明上河図』(一部)のレリーフが。
『清明上河図』
北宋(960-1127)の都、開封のにぎわいを描いたものといわれています。作者は宮廷画家だった張托端。
北宋文化の絶頂期、徽宗帝(在位1100-1125)のために描かれ、その精密に描かれた都市風景は同時代の
西洋にもないそうです。ちなみに、オリジナルは北京の故宮博物院所蔵。
東側の塀にも。
胡同関係の本によりますと、この胡同は、明、清、民国期を通して多種多様なものを扱う小商人たちが
露店を開いていたとのこと。そして、清の乾隆帝の時代には、貧しい労働者が仕事を求めて集まる場所
でもあったので、その名も“窮漢市”と呼ばれていたそうです。
窮漢市。この名は清末まで続くのですが、光緒帝のときには、ほかに補拆(ブーチャイ)市あるいは
補陳(ブーチェン)市とも呼ばれていました。
それが民国の時期に“鋪陳市”となり、胡同の二文字が付くのは1965年からでした。
なお、1965年以前、この胡同内には、天匯夾道、十八寓、小眼鏡、任家頭といった小胡同があったのですが、
1965年の地名整理の折、鋪陳市胡同に編入されました。
路地がありました。
上に、1965年にこの胡同に編入される以前、この胡同内には、天匯夾道、十八寓、小眼鏡、任家頭といっ
た小胡同があったことを書きました。民国期に発行された地図の中には、“鋪陳市”の中にこれらの小胡
同の名前が書かれているものがあり、その地図によりますと、この路地は1965年以前「任家頭」と呼ばれ
ていた胡同ではないかと思われます。
ちなみに、この任家頭は、清末の朱一新『京師坊巷志稿』に記載のある任家頭胡同のことではないかと思
われます。おじゃましてみましたので、興味ある方はご覧ください。
元に戻り。
歯医者さんがありました。「牙科(yake/ヤーコー)」というんですね、中国語で。
鳥籠の中のおしゃべりな九官鳥が、道行く人を楽しませてくれていました。
ひょっとして飼い主さんはこのお宅の方かな。
見上げると鳥小屋が。
もとお寺だったという建物の一部。
胡同関係の本によりますと、名前は、観音禅寺。
創建がいつなのかは残念ながら分からなかったのですが、1750年頃に作られたといわれる『乾隆京城
全図』を見ますと「観音庵」(地図では旧字体)という寺院がありました。もしその寺院がそれだとする
と、その時からでもすでに250年以上は経っていることになります。
北京について調べていて実に惜しまれるのは、これまでの数々の戦乱や政変、激しい社会環境の変化に
よって、歴史ある多くの貴重な建造物などが消え失せてしまっていること。たとえ残っていたとしても、
新しく改修されたり、復元されたものが多いのです。
この奇妙な形で残された観音禅寺の一部を見ていると、北京の歴史環境の厳しさの一端を垣間見るよう
な、そんな気がいたします。
次回はこのお寺の跡地にお邪魔したいと思います。昔の面影が少しでも残っていてくれればよいのですが。
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昨年の9月下旬におじゃました時には、やはり昨年の春頃から始まった改修工事が続行中で
写真もろくに撮らず、あわただしく急ぎ足で通り過ぎてしまいました。でも、収穫がまった
くなかったかというとけっしてそうではありませんでした。たとえば、予想もしていなかっ
たアヒルのヤヤに会えたこと。
アヒルがいたので飼い主さんに名前をお訊ねしたところ、「ヤヤ」ということがわかりました。
首をかしげながら行儀よく飼い主さんとお客さんの会話に聞き入るヤヤ。
「今回もヤヤに会えるかな」、そんな期待を胸に鋪陳市胡同に再びおじゃましてみました。
当日は永安路沿いにある南出入口から入りました。
出入口の一部を除き、改修工事もすっかり終わり、立派な地名表示板や説明板が取り付けて
あります。
建物の外壁には新しいタイルが貼られ、屋根瓦なども新しく葺き替えられていました。
建物の外壁には、なんと、『清明上河図』(一部)のレリーフが。
『清明上河図』
北宋(960-1127)の都、開封のにぎわいを描いたものといわれています。作者は宮廷画家だった張托端。
北宋文化の絶頂期、徽宗帝(在位1100-1125)のために描かれ、その精密に描かれた都市風景は同時代の
西洋にもないそうです。ちなみに、オリジナルは北京の故宮博物院所蔵。
東側の塀にも。
胡同関係の本によりますと、この胡同は、明、清、民国期を通して多種多様なものを扱う小商人たちが
露店を開いていたとのこと。そして、清の乾隆帝の時代には、貧しい労働者が仕事を求めて集まる場所
でもあったので、その名も“窮漢市”と呼ばれていたそうです。
窮漢市。この名は清末まで続くのですが、光緒帝のときには、ほかに補拆(ブーチャイ)市あるいは
補陳(ブーチェン)市とも呼ばれていました。
それが民国の時期に“鋪陳市”となり、胡同の二文字が付くのは1965年からでした。
なお、1965年以前、この胡同内には、天匯夾道、十八寓、小眼鏡、任家頭といった小胡同があったのですが、
1965年の地名整理の折、鋪陳市胡同に編入されました。
路地がありました。
上に、1965年にこの胡同に編入される以前、この胡同内には、天匯夾道、十八寓、小眼鏡、任家頭といっ
た小胡同があったことを書きました。民国期に発行された地図の中には、“鋪陳市”の中にこれらの小胡
同の名前が書かれているものがあり、その地図によりますと、この路地は1965年以前「任家頭」と呼ばれ
ていた胡同ではないかと思われます。
ちなみに、この任家頭は、清末の朱一新『京師坊巷志稿』に記載のある任家頭胡同のことではないかと思
われます。おじゃましてみましたので、興味ある方はご覧ください。
元に戻り。
歯医者さんがありました。「牙科(yake/ヤーコー)」というんですね、中国語で。
鳥籠の中のおしゃべりな九官鳥が、道行く人を楽しませてくれていました。
ひょっとして飼い主さんはこのお宅の方かな。
見上げると鳥小屋が。
もとお寺だったという建物の一部。
胡同関係の本によりますと、名前は、観音禅寺。
創建がいつなのかは残念ながら分からなかったのですが、1750年頃に作られたといわれる『乾隆京城
全図』を見ますと「観音庵」(地図では旧字体)という寺院がありました。もしその寺院がそれだとする
と、その時からでもすでに250年以上は経っていることになります。
北京について調べていて実に惜しまれるのは、これまでの数々の戦乱や政変、激しい社会環境の変化に
よって、歴史ある多くの貴重な建造物などが消え失せてしまっていること。たとえ残っていたとしても、
新しく改修されたり、復元されたものが多いのです。
この奇妙な形で残された観音禅寺の一部を見ていると、北京の歴史環境の厳しさの一端を垣間見るよう
な、そんな気がいたします。
次回はこのお寺の跡地にお邪魔したいと思います。昔の面影が少しでも残っていてくれればよいのですが。
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