広場に引き返した私は、広場の真ん中に立ってぐるりと辺りを見回したり、以前ご紹介したトイレの
脇にやはり以前のように立ってみた。
私がした忘れ物なるものが何だったのか。
私はうかつにも見落としていたのです。
それは写真に見える黒の油性インクで書かれた数字だったのです。
それを思い出させてくれたのが、前回もご紹介した壁の一部に白のチョークで書かれた数字であったことは
いうまでもありません。
私にはこの計算の過ちを笑う気にはなれません。私自身が見落としをし、それを気付かせてくれたのは
このたわいもない過ちを犯している数字なのですから・・・。
話を黒の油性インクで書かれた数字に戻せば、これは胡同にお住まいの人たちが書いたものではありません。
もちろん、胡同の子供達の書いたものでもない。
具体的な職種名はあげませんが、ある種の業者の仕業なのです。
この黒の油性インクで書かれた数字。それは、例えば先にご紹介した白のチョークで書きつけられたものとは
明らかに違います。
月並みな言い方をすれば、雲泥の差、月とスッポン。当ブログのロゴである月からの使者・兎児爺(tuerye・トゥアルイエ)
もその首を縦に振ってくれること、疑う余地などまったくありません。
子供たちが書きつけたものは実にたわいのないもの、と私には感じられるのです。
計算の過ちが、おもしろい。マルを書いてその中にバツが書かれている所など、この壁の前での子供たちのやり取りが
目に見えるようで実にほほえましい。
何と言ってもチョークを使っている点が、いい。子供たちは子供達なりに気を遣っているのでしょう。
雨が降れば消えてしまう代物です。
それに子供たちの落書き一般について私の知る限りのことを言えば、子供たちの落書きは書かれている場所の範囲が
子供たちの遊び場所という、いたって狭い範囲に限られているのです。
それに対して、ある種の業者が黒の油性インクで書いた数字は、チョークで書いたものとは違い消えにくいし、
消すには手間ひまがかかるのです。
それに子供たちの落書きとは違い、書かれている場所の範囲が実に広い。所かまわず、人の目のつくところなら
どこにでも書かれているのです。
例えば、今回もご紹介した数字が書かれている壁は、私がやっとの思いで狭い路地を抜け広場に出たすぐの所だし、
さらにさかのぼってやはり前にご紹介した次の写真を確認の意味で掲げておこうと思います。
これは、私が劉菜園に入り最初に見た突き当りの光景。ドアの左側にやはり黒の油性インクで書かれているのは、
ご覧の通りです。
ついでに次の写真もご覧ください。
これは、私が前回狭い路地を抜け出た所で目にしたもの。
次は、広場から回民胡同の東端への出口手前のおウチを撮影したもの。
次は、前回ご紹介した門柱です。
以上の三枚の写真で注目していただきたいのは、壁や門柱にペンキが塗られているところです。
これは、油性インクで書かれた数字を隠すためにその上から塗られたものなので、応急処置的なものなのでしょうが、
これ自体も無残といえばあまりに無残な光景と言えなくもありません。
もちろん元凶は、黒の油性インクで書かれた数字であることを見逃すわけにはいきません。
私には、いくら私がノー天気だからといって、これらの油性インクで書かれた数字に向かって、たとえば、
「もっと丁寧に書かんかい! もっとカラフルに書いたらどうなんだ~!!」
などと、笑い飛ばすことはできません。
気が弱く臆病な私は、これらの黒の油性インクで書かれた数字を見ていると何だか呪われたような気持ちになってしまうのです。
だって、私の心の中では、黒の油性インク=黒のマジック=黒魔術なんですから・・・。
呪われた私は工場排水のようにどろどろになって川や海に流れ込み、そのどろどろになった私を魚が食べ、今度はそのどろどろになった
私を食べた魚もどろどろになり、さらにそのどろどろになった魚を今度は水鳥や人間が食べ、そのどろどろになった魚を食べた水鳥や人間もどろどろになり、そのどろどろになった水鳥や人間をさらに他の動植物や人間たちが食べてどろどろになっていく。
あらゆる動植物や老若男女が仲良く手をたずさえてどろどろになっていく負の食物連鎖は、おっかないです。
でも、ある種の業者がこの呪われた黒の油性インクで壁などに数字を書きつけてしまうのは、仕方のないことなのかもしれません。
彼らは生きるために必死なのです。
生きるために手段など選んでいるいとまなどないのです。
それに、何事にも歴史性というものもあり、ある出来事が生起するには不断の歴史の積み重ねがあってのことなのです。
万里の長城が一朝一夕で出来上がったのではないように、ふって湧いたように突然この世に現れ出たものではないのです。
それに私は以前、次のような記事を目にしたことが・・・。
記事の書き出しは、
中国を代表する名門大学のひとつ、北京大学構内にある慈済寺山門遺跡が落書きでいっぱいだ。
文化財として、もはや「息も絶え絶え」の状態。
というもので、油性インクや修正液で書かれた落書きも多く、中には、「9年後には、北京大学に入るぞ」などという書き込み
もあるというのです。(2013年/06/19(水)・サーチナ)
さらにさかのぼり、こんな記事も・・・。それは、
北京・故宮博物館の文化財、具体的には太和門近くに置かれている胴の水がめに「梁斉斉ここに参上」と
落書きされていたというものなのです。(人民網日本語版・Feb25 2013)
そもそも北京大学の学生だからといって文化的人間だという理由がないように、その大学への受験生だからといって、
やはり文化的であるとはいえず、文化を語る人間だからといってその人間が必ずしも文化的人間だとは言えないように、
文化財の見学者だからといって、やはりその見学者が文化的人間だという保証はどこにもないわけですが、それぞれの
落書きに込められた気持ちに違いはあるにせよ、受験生と文化財見学者、そしてある種の業者、これら三者がやはり
仲良く手をたずさえるように落書きにいそしんでいるのは私には興味深い。
これらの人たちは、早くおウチに帰ってママにお尻をぺんぺんしてもらうのがよいのかも・・・。
そうでなければこの困った仲良しさんたちには、これ!!
☆☆ 月にかわってお仕置きよ! ☆☆
・・・と書いたものの、上に見た黒の油性インクで書かれた呪わしい落書きなど、実は私がした忘れ物といっても
しょせん小さな忘れ物に過ぎません。私は広場にもっと大切で大きな忘れ物をしていたのです。
断るまでもなく、それを思い出させてくれたのは、あの壁の一部に白いチョークで書かれた数字です。
広場に立ってまわりをぐるりと見渡すと、ありました。
子供がチョークで書いた、たわいもない落書き。
こんなものも・・・。
拡大して見るとこんな感じ・・・。
そして、私は次の落書きを見たのです。
秋の陽射しを浴びた壁に白のチョークで書かれた落書きを見て、
「宇宙一美しい壁だな」
と、心の中でつぶやく私。
しかし、同時に、私は一つの過ちを犯していることに気付きました。
私は以前、この広場にドデンと置かれている石について、周辺住民の交通の邪魔にならぬようクルマ除けとして
置かれたものだと考えていました。私は、単純に過ぎたのではないか。
この広場は、胡同の子供たちが安心して遊ぶことの出来る遊び場所で、石はその安全性を確保するためにこそ置かれている
のではないか・・・?
もちろん、目の前の壁は何も答えてくれません。
でも、私は確かに聞いたのです。
それは、壁からあふれ落ちんばかりの子供たちの笑い声でした。
その笑い声を聞いた私は、やはりこの広場は子供たちの遊び場所だな、と嬉しくもあり、得意でもあったのです。
でも、次の瞬間、冷水を浴びせかけるようなこんな自問があったのです。
「この壁もいつか大きな力で踏み倒され、こなごなにされてしまうのではないか。仮にそうならなくとも、
やがて子供たちも大きくなり、この壁から笑い声も消え、大きくなった子供たちが白のチョークを黒の
油性インクに持ちかえて胡同の壁に数字を書き付ける大人になってしまわないという保証はどこにもないでは
ないか?」
私はそうだともそうではないとも答えることができませんでした。私には分らなかったからです。
私という人間はやはり分らないことの集積地だったのです。
もちろん、壁は何も教えてはくれません。
答えることの出来ない私は、しばらく秋の陽射しを浴びた壁をだらしなくぼんやりと眺めていました。
そうしていると、私は内心の声を聞いたのです。
その声は私にはまことに不似合いで、私自身いささか気恥ずかしくなるようなものでした。
でもその時、私には一つのことだけは確かに分ったのです。
この壁を背負えるでっかい背中が欲しい。