神話的思考
土器の器形や模様を順序立てて並べているのが研究の主体に思える。
そこには縄文ヒトの心というものは感じられない。
土器に縄文の心が滲んでいても研究の対象になっていない。
いったい土器の器形や模様をどのように見ているのかである。
形や模様を単なるデザインとしか見ていないからである。
モノを描いたり造ったりする時に実際に見たものでないと作れないと思う。
土器の発展といって複雑で怪奇なモノを求めることなど無かったと思いたい。
縄文ヒトがその場に立っていて周りを眺めながら自分たちの住んでいる環境を見ている。
自然界に感謝するという気持ちを持って眺めている。
感謝と再生を願う土器の器形や模様をどのように表現するかデザインを考えている。
専門家も土器を眺めれば気が付くはずである。
縄文ヒトと同じ意識が持てると考える。同じヒトである。
「土器の器形は地形」(仮説)
「土器の模様は環境」(仮説)
どのように土器を作ると自然界が表現されるか土器の形と模様について縄文ヒトは思索しているにちがいない。
些細な形や模様にも意味があることを忘れてはならない。
それは縄文ヒトの心というものを十分に視野に入れて自然を把握して土器を見ていなかったと感じる。
そしてわからない面を呪術だとか神話的思考という文言で片付けている。
神話的思考は現在人の勝手な思考である。
縄文楽 浄山
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