気軽に茶道をしてます。

日々のお稽古とともに、できるだけ手作りのお菓子で
お茶を楽しんでいる様子や、四季折々の変化もお伝えします。

薬師寺花会式、今晩の鬼追式で結願を

2017-03-31 16:52:05 | 日記
今年初めて20℃を超え、暖かかった昨日と打って変わり
今日は冷たい雨の弥生晦日になりました。
玄関の木蓮は、吉祥天女さんに負けじと微笑んでおります。

すっかり忘れておりました。薬師寺さんでは3月25日から
花会式(修二会)の法要で、今晩の「鬼追式]が結願、
十種の造花(自然の染料を用い、杜若,菊,百合,梅等)が
ご本尊に供えられるところから花会式と呼ばれ、
HPより
お水取りと並び、奈良の春を告げる行事の一つです。
また薬師寺の写経道場前の「薄墨桜」が気になりますね。

庭では、満開のさんしゅゆに大小の水滴が・・・

天乙女椿も急に咲きだし一面花・花・花状態に

近くの保育園や小学校の桜はと思い傘をさし散歩に
ソメイヨシノは???

オオシマザクラ?石垣沿いは暖かいのか一輪二輪三輪と
  
白い花が雨に濡れて寂しそう
染井吉野は咲かなかったのかなーと思い、とぼとぼと・・
帰り道突然、逆光ですが二輪ほど目にとまります。
近所の御家のソメイヨシノが咲きだしております。
でも、開花宣言は標準木で5輪以上だとか、

悲しけり雨露光る蕾花』愚句

この30日には、大和文華館の「三春瀧桜」や
奈良・大和郡山城の染井吉野の桜は30日に咲いたそうで
奈良気象台の開花宣言は明日4月1日になるのでしょう。


平城京跡の桜はまだ

2017-03-30 16:11:15 | 日記
孫二人がお泊りにきており、ついでに
塾の春期講習のため、送り迎えもお願いされており、
今の子供たちは、忙しいですね。
朝に一人だけ送って行った帰り道、平城京跡の桜は?
寒気が入り、開花予想日は3月31日にずれておりますが
どうなのでしょうか?、駐車場へ車を止め、見回すも
このあたりには桜の木が見当たりません。
芽吹き始めた柳を背景に、遠くに朱雀門が、

春霞を通し第二次大極殿跡から、朱雀門がぼっと

桜を探したいのですが、もう一人孫が家で留守番
遠くまで行けませんが、遺構展示館近くから、
第一次大極殿を眺めます。遺構と大極殿
  
大極殿をアップにしてみます。

早く咲いてくれないと・・・
大阪の桜は、午後3時過ぎに開花発表がありましたね。
明日、きっと奈良に開花発表があるでしょう。
満開は、4月5日過ぎとの予報がありますが・・・、

万葉集に大宰府から奈良の桜を詠んだ歌が思い出されます。
あをによし奈良の都は咲く花の
       にほふがごとく今盛りなり
』小野老朝臣
「青丹吉 寧樂乃京師者 咲花乃 薫如 今盛有」
この歌の歌碑は、奈良市と大和郡山市の境、「羅城門跡」
近くの公園にあります。実は朱雀門再建のため、
近くにあった公園から此処へ移設されてしまいました。

もう少し、考えて頂ければ良いですのに。

近くの保育園のソメイヨシノの桜です。
夕方にも一輪も咲いてくれませんでした。残念!
明日には咲くでしょう。期待

堺のお昼ご飯は「げこ亭」

2017-03-29 11:38:01 | グルメ
大阪・堺の「さかい利晶の杜」の千利休茶の湯館へ伺ったおり
着いたのは11時過ぎで、「さかい待庵」の見学は1時からに。
お昼はということで併設されている豆腐と湯葉「梅の花」へ
孫は不満そうな顔、では堺発祥のうどん「美々卯」も近いから
と言うと・・・、長男がスマホで探しだしたのが、”げこ亭”
それも何回も言うのです。相方の頷くので仕方ありません。
長男に歩く間にこの店について教えてくれ、5分ほどで、
『ゲコ亭』とペンキで大書された本通りの店に着きますが、
誰もいません。張り紙が・・・

直ぐ側の横道には新しい店『銀シャリ屋げこ亭』さんが、
やはり店先に数人並ばれておりました。
暖簾に「げこ亭」と、外からもキッチンが覗けます。
  
店先に飾り?輪かんじきに古いストック、
富山で小学校のスキー山、竹スキーにこれでしたね。

(栃木の雪崩事故、若い命が本当に悲しいことです。合掌) 

次から次へと人が出てこられるので、並ぶこと数分で、
店のなかへ、オープン・キッチンになっています。
奥にあの有名な、煉瓦のかまどと窯、御櫃が並んでおります。
 
アルミのお盆まで10分程かかり、セルフサービスなんです。
好きなおかずをこの上に並べるシステムで、
メニューが上に張り出されておりました。
かんと煮とはおでん(一品150円)で、おかずは丸皿と角皿で、
焼きさば、ぶりの照り焼き、フライ等・・・
卵焼き(200円)が目の前で焼かれており、つい手も

最後に味噌汁(ワカメ100,シジミ200)とご飯(一杯150円)を
よそってもらい、伝票を渡していただくのですが、
四人揃って、なかなか席が空かず、やっと席に付けました。
相方は鮪の造り(500),漬物,ご飯2膳(300)ワカメ汁で計1000円
マグロは中トロ風と赤身があり、一切れ赤見だけでしたが
美味しくお奨めです。(長男はぶりの照り焼きがお奨めと)

私はおでん3品(450),茄子,卵焼き,焼き鯖,ご飯で計1300円?

焼き鯖も美味しく魚系はお奨め、お奨めと言えば最後にご飯、
ご飯は炊き立てで次から次へと焚かれており、仙人と呼ばれた
引退された村嶋さん直伝の炊き方になり、口に含みますと
ゲコ亭独自ブレンドのコシヒカリとササニシキ特有の繊細な
甘みと旨味が漂いますが、やや水分が・・・(好みですから)
独り言(我が家の伊賀焼の土鍋での富山のコシヒカリのご飯は
  美味しいですから、あまり感動は、ご飯好きの人は良いかも)
またおかずはやや甘いかも、好みですからね。
お会計は、子供一人を含む4人で4500円にも。
ちょっとのつもりが、つい手が出ますね。

お雛様も今日まで、ご苦労様

2017-03-28 18:27:21 | しつらえ
今日の昼からの立礼の稽古で、弥生月はお終いの予定で、
奈良の桜はまだかと、春休み中の孫と連れ立って花探しを
兼ねて散歩中、桜の蕾の先が・・・
でも咲きだした白木蓮を見つけました。
 
少しだけいただき、玄関に飾らせていただくと、
  
お雛様も迷惑そうで、大きすぎ?、
一時だけになりますので、我慢してくださいね。

小間のしつらえは、立礼で、ここもお雛様が迷惑そうに
この週末には仕舞いますよとお願いをし
  
菓子も、桜きんとんをつくり、奈良の桜の
開花予想日は31日、『初桜』と名付けました。
 
あっ、メールが来ているのに気付くとキャンセルに・・・
御菓子はちゃっかりと孫のお腹に、ごちそうさまですって。

有難くこの頂いた時間で、お雛様を納めさせて頂きました。
そしてお買い物に出かけますと、吹き抜けの広場には上から
咲いた桜の樹々が吊られ、その向こうには第一次大極殿が、
春の夕日を浴びて輝いておりました。
 3Fより
駐車場からは、はっきりと東大寺大仏殿から二月堂
そして若草山も遠くに・・・
 
本当に日が長くなりましたが、まだまだ寒く、
もう少し暖かくなりませんでしょうか。

月ヶ瀬と文人達、特に富岡鉄斎の関わり

2017-03-27 15:33:02 | 美術館・博物館
先日のこと月ヶ瀬梅渓を訪れておりますが、27日現在の
開花情報は、湖畔沿いは「散り始め」、山手は「見頃」に、
文人達も訪れた月ヶ瀬へ一度おいで下さい。

はじめて世に紹介されたのは神沢基蜩「翁草」1773年で、
天下の名勝として知らしめたのは伊勢津藩の儒学者
斎藤拙堂で、1830年に「梅渓遊記」、1852年に
紀行文「月瀬記勝」が特に広まった紀行文とされております。
続き日本外史を著された頼山陽 も1831年に訪れておられ、
扁額『萬玉亭』頼山陽・作も残されており、
萬玉亭の由来を示す「萬玉亭楳帖」で梅花図は小石樫園さん
扁額梅の資料館蔵
明治に入り、1870年に田能村直人「墨梅図」画幅や
梅の資料館蔵 
福沢諭吉や伊藤 博文、そして
明治大正の儒学者・文人画家の富岡鉄斎の名も
1836年~1924年、天保から大正まで10の元号を生き抜き、
座右の銘は『万巻の書を読み、万里の道を往く
死ぬまで読書を欠かさず全国を旅され、この月ヶ瀬には27歳で
初めて足を運ばれ、月ヶ瀬梅渓に魅せられたお一人です。
45歳、56歳、62歳と三回も絵を描くため来られており、
代表作として
月瀬図巻(50歳代、清澄寺蔵)や
月瀬図巻一部
月瀬図巻(複製)梅の資料館蔵
梅渓放棹図(70歳1905年、助成院蔵)
梅渓放棹図
賛は”月ヶ瀬梅渓を描こうと何度も仙境(月ヶ瀬)を訪れ、
 再三描いたが納得のいく画はひとつも描けていない。
 人は徒労を笑うが、私はひとりそれを楽しんでいる。”と

名士観梅図(81歳1916年、奈良市資料保存館蔵)
名士観梅図
10年程前に月ヶ瀬村に「清荒神・清澄寺」さんの好意により
梅の資料館へと寄贈されていましたが、奈良市との合併に伴い、
奈良市資料保存館での保存になっております。

鉄斎は、生涯二万点に及ぶ絵画作品に上るそうですが
清澄寺には、37世法主・坂本光淨師のコレクションによる
鉄斎美術館』も併設されています。
また奈良県の大和文華館にも60点ほど所蔵されており、
昨秋の『鉄斎』生誕180年記念・大和文華館コレクション展も
催されるほどで、隠れた美術館になりますね。

鉄斎漬け、そんな訳ではないのですが、明日のお稽古にむけ
玄関の色紙は、『伊勢海老図』富岡鉄斎筆、明治37年69歳に
4月に海老を贈られた御礼に書かれておりますが、
現在伊勢海老の旬は、10月から1月までなのです・・・?
 
賛は、程敏政(ていびんせい)の詩で、鉄斎の心情が・・

利晶の杜の立礼呈茶席は「南海庵」

2017-03-26 18:51:28 | 散策
今日は昼から奈良は雨の予報ですが、朝からお稽古に、
昨日、今週の自宅稽古のお菓子を作ろうとしましたが、
妙案が浮かびません。というのも
昨日伺った「さかい利晶の杜」の立礼呈茶席では
「桜花」天神餅さん
  
軸は、「柳緑花紅」ですっかり春模様
  
今日のお稽古にお伺いしてからに・・・

朝から釣り釜ですので、炭付花月之式、そして
濃茶付花月之式二回と、帰る頃には雨が落ちてきており、
帰り着いたらもう午後4時半
ああそうでした、菓子は「桜薯蕷饅頭」樫舎さんで
さあどうしましょうか。パンも作らなくてはいけませし、
でも疲れたので明日にしましょう。

今日は利晶の杜の続き、立礼席と千利休茶の湯館を紹介します。
立礼呈茶席(表千家・裏千家・武者小路千家)は受付横からで、

入りますと、「南海庵」という扁額が掛っており
堺・南宗寺住職の田島碩應老師命名だそうです。

大宗匠命名の四畳半茶室「無一庵」と同様に開館式2015.3.20で
千玄室大宗匠自ら、二つの扁額を除幕され、献茶もされております。
今日は裏千家さんの当番日の点茶盤で、お点前も終わりに。
 
お道具は、お伺いすることができず、写真だけ。 
  

次は、千利休茶の湯館へ、入ってすぐのパネルと南蛮船

利休の茶会の床の再現、今市屋敷四畳半、永禄6年(利休42歳)
 
聚楽屋敷四畳半、天正18年(利休69歳)
 

表千家から寄贈された「扇面流水絵茶碗」
第17代永楽善五郎で、箱書きも14代而妙斎さんに

屋敷跡から発掘された茶碗
韓国製 中国製天目

旧暦2月28日利休忌に因んで、書状が展示されておりました。
千利休画像(複製)、春屋宗圓賛、長谷川等伯筆

千利休書状(複製)天正13年以降
「早梅の文」:早梅を送られた御礼
早梅の文
千利休書状(複製)古田織部宛、天正13年
焼茶碗=楽茶碗を娘婿経由で渡すことを
焼茶碗の文
豊臣秀吉朱印状(複製)、利休に宛てた書状
病床に伏した利休に心静かに療養せよとの見舞い状

利休居士号偈(写真)仙嶽宗洞筆、今日庵1595年

残念なことに、堺市は1945年3月13日に堺大空襲をうけ、
壊滅しており、文化財が少ないことですね。
なお利休忌は、
3月27日:表千家、翌28日:裏千家、武者小路千家にて
点てられたお茶を供えられ、合掌、黙祷が奉げられます。

「さかい待庵」のさかい利晶の杜へ

2017-03-25 18:27:50 | 美術館・博物館
朝から急なことですが、長男が大阪堺市へ用事で行くと聞き、
二年前に開館され一度伺いたかった「さかい利晶の杜」に、

旧暦2月28日は利休忌ですので遺徳を偲ぶことが出来ます。
相乗りして11時過ぎ、「さかい利晶の杜」に車から降りますと
奈良より2~3度は暖かいのです。アリガタイ
表 
内部にはボランティアガイドさんが、ジオラマで戦前の
堺の紹介を懇切丁寧にされております。
  
受付で、「さかい待庵」の特別観覧をお願いすると、
呈茶を含め千円でセット券の午後1時が空いておりました。
それまでどうしましょう。
まず、道路向かい側にある「千利休屋敷跡」へ
 
屋敷跡には椿の井戸が残り、椿の炭を底に沈めていたとされ、
井戸屋形は利休縁の大徳寺山門の古い部材で建てられています。 
 

午後1時になり、土壁で服が汚れ防止?のため専用の法被を着て  

最初に国宝待庵の問題点、4尺の床と1寸3寸4分の炉との
食い違う様態を、さかい待庵の床の様態に決定するまでの
過程の説明を受けます。
真の茶室とされる紹鷗四畳半図、
ヒノキの角柱に鳥の子紙の貼付け壁で、宗易は北側から南側へ、
晴れ(非日常)の茶を目指す転機に、炉は1尺4寸
紹鷗四畳半図
国宝、妙喜庵「待庵」、四畳半の真の茶室に対し、二帖の草庵
利休作で唯一残る茶室、炉は1尺3寸4分角、隅丸炉に
妙喜庵「待庵」
宗旦筆の待庵図
炉の寸法は、1尺3寸4分

関白様の二帖敷図
待庵の狭い炉はなぜかという答えが・・・

国宝待庵の隅炉と床廻りでは、
床を4尺5寸幅と縮小すると、床柱にかからず、
1寸4尺の炉が切れます。

さあ、『さかい待庵』へ(写真禁止)
内部に座らせていただきました。

床柱は桐材の丸太になり、土壁は中塗り仕上げで、
苆を表面に浮だたせ、煤で黒く燻りをつけており、
窓も、竹剤を一筋だけつかわれており、
腰紙も、裏側にした江戸時代の暦になります。
暗い中にも、障子紙を通した光が、心を穏やかに。
そして
軸は『老古錐』、
今は利休居士の号の由来とされる
「利心、休せよ」(才能におぼれずに老古錐の境地を目指せ)
と考えられているなかからです。
躙り口は大きなものになっておりました。

側面と屋根側です。
 
全体の外観です。

最後にもう一つ、観たかった茶室が、『無一庵』
豊臣秀吉の北野大茶湯にて、利休居士が作ったとされる
四畳半を復元されたものです。
茶会で使われており、残念で再行ですね。

桜桃(ゆすらうめ) の花咲く散歩道で昔を

2017-03-24 11:03:33 | 散策
昨日、16日の合格発表を見届けた白木蓮の樹
もう咲いたのかと遊歩道を歩いておりますと、
ウグイスの鳴き声が保安林から響きます。
春で日差しは暖かいのですが、吹く風は冷たい日に、
ソメイヨシノ桜(開花予想は30日、本当でしょうか)は、
膨らんだ蕾も寒そうに・・・
でも早咲きの河津桜は強い風で枝が揺れるも、花は
 河津桜
学校は春休み、塀越しに目を・・・残念ながらまだで、
突然ファインダーの中に学生が、
クラブ練習の学生達で、こちらを見て笑っており、
恥ずかしく、慌ててその場を立ち去ります。
この白木蓮は、入学試験・合格発表を経て入学式それから
3年間のあなたたちの学校生活を、見守ってくれていますよ。
3/16 3/23
遊歩道を少し進むと、毎年早く咲きだす紫木蓮があるのです。
白木蓮より10日ほど遅く咲きだすと言われる紫木蓮なのに、
濃紫色の花びらがすこし、開花するのはもう直ぐですね。
紫木蓮(マグノリア)
また遊歩道にピンク色の蕾と内側が白い花がこぼれており、
桜桃(ゆすらうめ)』、
もう半世紀前のこと、花ではなく、
初夏、赤く実ったあの甘酸っぱい味が・・・
田舎のおばあちゃんのやさしさを思い出します。
 
後れじとゆすらの梅も花ごろも
            石塚友二
正岡子規は、こんな句も詠んでおります。
『蝶飛んでゆすらの花のこぼれけり』
あっという間に、満開になるでしょう。

風が強く、寒いのか蝶は見当たりませんが、
「ツー、ピー、ツー、ピー」と鳴き声とともに
白いほっぺたに黒いネクタイをつけたような姿
『シジュウカラ(四十雀)』が2羽、
囀り合い、時おり「ヂヂヂヂ」と違う鳴き声が、
離れないので、恋の季節なのでしょう。
 
コミュニケーションが取れる鳥として有名で、
久しぶりに、相方(六十爺)の話も聞いてあげなくては?
と思いつつ、何気なく苔を撮っていると、
 
急にワンちゃんが、話しかけてきます。
友達の家に伺ったばかり、
服に匂いが残っていたからでしょう。

明月記に「赤気」の記述からオーロラ金魚

2017-03-23 14:23:02 | 日記
鎌倉時代、幸運にも京都でもオーロラが見えたとする
明月記・藤原定家(1162-1241)』が日本最古の記録であると
国立極地研究所等の研究発表がなされました。
日本で古くはオーロラは「赤気」「紅気」などと表されており、
この明月記では
”建仁四年正月十九日(1204年2月21日)天晴(中略)
 秉燭以後、北并艮方有赤気、其根ハ如月出方、色白明、
 其筋遙引、如焼亡遠光、白色四五所、赤筋三四筋、”

極地では全天を駆け巡るダイナミックなオーロラになりますが、
低緯度地域・北海道や北東北地方では暗赤色のオーロラとして
確認されることがあるそうです。しかし明月記のようにさらに
緯度の低い京都でも見られた原因は地磁気軸のずれになります。
現在磁北は北米大陸側ですが、1200年代は反対側の日本方に
位置し、また太陽の活動も重要で、この2000年間では
一番観測し易かった年代になったとのことです。
ただ2016年に磁極のポールシフトが確認されており、
何年あるいは何千年先、南北磁極の転換も?・・・
地球の将来を考え出すと、生物には怖い話になるのでしょう。

またオーロラでは数々の伝説や神話が生み出されていますが、
特に北欧神話では、「夜空を駆けるワルキューレたちの甲冑の輝き」
だとされ、ワーグナーのオペラ「ニーベルングの指環」4部作、
序章に次ぐ第一日「ワルキューレ」はそのものの名が。
実は「ニーベルングの指環」4部作を観劇する計画中、
でも4部作全てで15時間に及ぶため、体力に自信が?
どうなることでしょうか。

先日用事で、大和郡山市の「やまと郡山城ホール」へ伺ったおり、
  
玄関に、自動改札機が・・・
改札機の中になんと金魚です。
赤・紅・白・黒など様々な色の金魚が煌めいておりますね。
 
その他にも、電話ボックスや自販機もあるそうです。

なお金魚にも「オーロラ」という珍しい品種が平成になり、
オーロラ朱文錦と江戸地金の交配により生み出され、
見た目は朱文錦に近いが、尾は四つ尾であり、
成長するに従い、各ヒレは更に大きく、長く伸びます。

名の謂れは
当初、平成1号と呼ばれていたが、アクア雑誌の女性記者に
「オーロラのような輝きのある金魚ですね」からだそうです。

つくしと「田道間守」

2017-03-22 14:35:00 | 散策
先週の土曜日の夕方、奈良・唐招提寺の西北にある歴史の道
垂仁天皇陵の脇を通り、歩いておりますと、柵の向こうに
土筆(つくし)が。日当たりのよい南側の土手ですから
先っぽがほころびており、池面に映り込む御陵の杜も。
でもカワウが餌を探して潜っては、掻き消します。
御陵(みささぎ)に昔も今も土筆たつ
              愚句
 
また、江戸中期の俳人、黒柳召波もこんな句を
つくづくしほうけては日の影ほそし
  
土筆は江戸時代の古句には「つくづくし」と詠んだものが多く、
「つくしんぼ」「筆の花」とも詠まれ、こんな季語も
「土筆野」「土筆摘む」「土筆和(つくしあえ)」。
土筆摘みは、昨年も3月下旬でしたから、今年も頑張って
採ってこなくてはなりませんね。
昨年作った土筆の干菓子、残りもあと少しですが、
 
昨日の立礼でもお出ししております。
 
そういえば、御菓子で思い出したこと・・・
土筆があがった垂仁天皇陵、
周囲を水濠に囲まれた全長227mの大型前方後円墳ですが、

お濠の南東に小島が浮かんでいます。

この島は菓子と縁のある方「田道間守」のお墓とも。
伝説は、帰化人の田道間守は垂仁天皇のために不老不死の果物
”ときじくのかぐのこのみ”(非時香具菓、今の橘)を探す命を、
受け、9年間中国南部からインド方面を探し回り、持ち帰りしも、
天皇はすでに崩御されており、墓前で殉死の道を選ばれた。
そのことを哀れんで、そばの小島に葬られたと伝えられている。
古代の菓子が「果物」の意味もあるところから
菓子神・菓祖とする信仰が兵庫の中嶋神社にあり、
全国各地に分社され、京都の吉田神社もその一つです。
でも
奈良でお菓子の神社といえば『漢国神社(かんごうじんじゃ)』の
境内の『林神社』なんです。
日本で初めてまんじゅうをつくられた林浄因がお祀りされており、
林浄因の命日・4月19日には毎年、恒例の「まんじゅう祭り」も
執り行われ、全国から菓子業者があつまり銘菓が奉納されます。

美味しいものを頂けるのは、先人の知恵の塊、
本当にありがたいものですね。感謝!