先日のこと月ヶ瀬梅渓を訪れておりますが、27日現在の
開花情報は、湖畔沿いは「散り始め」、山手は「見頃」に、
文人達も訪れた月ヶ瀬へ一度おいで下さい。
はじめて世に紹介されたのは神沢基蜩「翁草」1773年で、
天下の名勝として知らしめたのは伊勢津藩の儒学者
斎藤拙堂で、1830年に「梅渓遊記」、1852年に
紀行文「月瀬記勝」が特に広まった紀行文とされております。
続き日本外史を著された頼山陽 も1831年に訪れておられ、
扁額『萬玉亭』頼山陽・作も残されており、
萬玉亭の由来を示す「萬玉亭楳帖」で梅花図は小石樫園さん
扁額梅の資料館蔵
明治に入り、1870年に田能村直人「墨梅図」画幅や
梅の資料館蔵
福沢諭吉や伊藤 博文、そして
明治大正の儒学者・文人画家の富岡鉄斎の名も
1836年~1924年、天保から大正まで10の元号を生き抜き、
座右の銘は『万巻の書を読み、万里の道を往く』
死ぬまで読書を欠かさず全国を旅され、この月ヶ瀬には27歳で
初めて足を運ばれ、月ヶ瀬梅渓に魅せられたお一人です。
45歳、56歳、62歳と三回も絵を描くため来られており、
代表作として
月瀬図巻(50歳代、清澄寺蔵)や
月瀬図巻一部
月瀬図巻(複製)梅の資料館蔵
梅渓放棹図(70歳1905年、助成院蔵)
梅渓放棹図
賛は”月ヶ瀬梅渓を描こうと何度も仙境(月ヶ瀬)を訪れ、
再三描いたが納得のいく画はひとつも描けていない。
人は徒労を笑うが、私はひとりそれを楽しんでいる。”と
名士観梅図(81歳1916年、奈良市資料保存館蔵)
名士観梅図
10年程前に月ヶ瀬村に「清荒神・清澄寺」さんの好意により
梅の資料館へと寄贈されていましたが、奈良市との合併に伴い、
奈良市資料保存館での保存になっております。
鉄斎は、生涯二万点に及ぶ絵画作品に上るそうですが
清澄寺には、37世法主・坂本光淨師のコレクションによる
『鉄斎美術館』も併設されています。
また奈良県の大和文華館にも60点ほど所蔵されており、
昨秋の『鉄斎』生誕180年記念・大和文華館コレクション展も
催されるほどで、隠れた美術館になりますね。
鉄斎漬け、そんな訳ではないのですが、明日のお稽古にむけ
玄関の色紙は、『伊勢海老図』富岡鉄斎筆、明治37年69歳に
4月に海老を贈られた御礼に書かれておりますが、
現在伊勢海老の旬は、10月から1月までなのです・・・?
賛は、程敏政(ていびんせい)の詩で、鉄斎の心情が・・
開花情報は、湖畔沿いは「散り始め」、山手は「見頃」に、
文人達も訪れた月ヶ瀬へ一度おいで下さい。
はじめて世に紹介されたのは神沢基蜩「翁草」1773年で、
天下の名勝として知らしめたのは伊勢津藩の儒学者
斎藤拙堂で、1830年に「梅渓遊記」、1852年に
紀行文「月瀬記勝」が特に広まった紀行文とされております。
続き日本外史を著された頼山陽 も1831年に訪れておられ、
扁額『萬玉亭』頼山陽・作も残されており、
萬玉亭の由来を示す「萬玉亭楳帖」で梅花図は小石樫園さん
扁額梅の資料館蔵
明治に入り、1870年に田能村直人「墨梅図」画幅や
梅の資料館蔵
福沢諭吉や伊藤 博文、そして
明治大正の儒学者・文人画家の富岡鉄斎の名も
1836年~1924年、天保から大正まで10の元号を生き抜き、
座右の銘は『万巻の書を読み、万里の道を往く』
死ぬまで読書を欠かさず全国を旅され、この月ヶ瀬には27歳で
初めて足を運ばれ、月ヶ瀬梅渓に魅せられたお一人です。
45歳、56歳、62歳と三回も絵を描くため来られており、
代表作として
月瀬図巻(50歳代、清澄寺蔵)や
月瀬図巻一部
月瀬図巻(複製)梅の資料館蔵
梅渓放棹図(70歳1905年、助成院蔵)
梅渓放棹図
賛は”月ヶ瀬梅渓を描こうと何度も仙境(月ヶ瀬)を訪れ、
再三描いたが納得のいく画はひとつも描けていない。
人は徒労を笑うが、私はひとりそれを楽しんでいる。”と
名士観梅図(81歳1916年、奈良市資料保存館蔵)
名士観梅図
10年程前に月ヶ瀬村に「清荒神・清澄寺」さんの好意により
梅の資料館へと寄贈されていましたが、奈良市との合併に伴い、
奈良市資料保存館での保存になっております。
鉄斎は、生涯二万点に及ぶ絵画作品に上るそうですが
清澄寺には、37世法主・坂本光淨師のコレクションによる
『鉄斎美術館』も併設されています。
また奈良県の大和文華館にも60点ほど所蔵されており、
昨秋の『鉄斎』生誕180年記念・大和文華館コレクション展も
催されるほどで、隠れた美術館になりますね。
鉄斎漬け、そんな訳ではないのですが、明日のお稽古にむけ
玄関の色紙は、『伊勢海老図』富岡鉄斎筆、明治37年69歳に
4月に海老を贈られた御礼に書かれておりますが、
現在伊勢海老の旬は、10月から1月までなのです・・・?
賛は、程敏政(ていびんせい)の詩で、鉄斎の心情が・・