チャリ乗り文造の備忘録

~釣りとロードとベガルタと~

妄想?計画?中山道をチャリで。

2020年01月23日 17時49分00秒 | チャリの話、ライドとかグッズとか。
本文は最後の数行です。
あとは私見をダラダラと書いてます。

先日のブログにも書きましたが、日曜早朝に"徳川葵三代"の再放送をやってます。

この作り方は良かったと思います。
冒頭から関ヶ原の戦いを流し、そこから時代が遡ってドラマが進んでゆく、と云う手法。
で、その関ヶ原の戦いでは徳川秀忠の遅参がクローズアップされてます。
でも本当に遅参だったのでしょうか?

徳川家康は知略・謀略に長け、合戦に於いても石橋を叩いて渡るタイプでしょう。
そんな家康が徳川軍の主力の2/3を秀忠に預けた状態で、流れで関ヶ原で合戦に及んだとは考え難いと思います。
合戦の場が関ヶ原という点。
コレは石田軍の動きから前日に決まったと云うのが定説。
しかし家康のタイプから綿密に錬られてこの地が選ばれたのかと考えられます。
またこの合戦では徳川軍は自軍の1/3と、あとは石田三成憎しで纏まった豊臣恩顧の大名の連合軍。
家康は高台院対策を充分にやってはいたのでしょうが、もし高台院が三成にお味方を!と言えば一気に家康は形勢不利になる状態。
なので家康は負ける事も織り込み済みだったと思います。
では負けた時にどうするか?
自刃して、ではなく逃げて逃げて捲土重来を来すタイプの武将だと思います。
ではどうやって江戸まで逃げるか?
陸路は東海道と中山道しかありません。
どちらも三成軍に抑えられると逃げ場がなくなります。
家康は本能寺の変の際には伊賀越で明智軍から逃げてきました。
その経験から必ず逃げ道は用意していたのではないでしょうか?
その逃げ道が中山道では?
だからこそ秀忠が率いる徳川軍本体の、それも最強軍と言われ絶対に寝返ることのない自軍の将兵だけを中山道に残したのではないか?
そしてだからこそ直ぐに逃げられる中山道に繋がる関ヶ原と云う地が合戦場に選ばれたんじゃないか?と私は想像しています。

江戸時代に中山道、東海道を始め五街道ありました。
サイクル雑誌の企画やチャリ乗りの方々も東海道や中山道をチャリで走破しているみたいですね。
是非私もこの暇な時期に中山道を走ってみたいと思ってます。

スタートをどこにするか?
日本橋からではなく、先ほどの上田城攻めからの秀忠のルートを走りたいな!と思ってます。
上田城攻めの本陣の小諸から北国街道〜追分〜諏訪にしようかな?
ゴールは起点の三条大橋ではなく関ヶ原にしようかな?とか妄想が広がってます。
コメント
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