うべプラネタリアン

プラネタリウム解説の活動を通じ、いろいろ感じたことをさまざまに語りたく....

なまりと方言....(11132)

2011年05月11日 19時50分08秒 | うべプラネタリアン
東日本大震災以降 TVからCMが消えた。今はほぼ通常にもどったけれど、当時はCMタイムは
ACのテロップを流していた。その中に、金子みすずの詩が朗読されていて、最後のフレーズは、
“「ごめんね」というと「ごめんね」という。こだまでしょうか、いいえ誰でも”だった。
この「誰でも」の読み方にひっかかった人がいる。あれでは意味がわからないと言う。
金子みすずは山口県人だったから、標準語で切り取るとニュアンスが伝らないんだという指摘だ。
なるほど、そりゃそうだと得心した。
「誰でも」は“で”から“も”にかけてイントネーションをあげる。上げたままで切る。
活字の字面ではわからないだろうが、山口県人なら、“誰でも/”と上げて読むはずだという。
もし 言葉を繋げるなら“ついぃね”と下げておさめる。“だれでもついぃね”となる。
“つい”というのはおそらく“対”の字を当てるのだろう、“同じ”という意味だ。
だれでもついぃね...わかるかなぁ、県外の人に。
“ついぃね”と続けてはイメージの広がりを制限しそうで、詩にならないなら、
“だれでもぃね”程度がいいかもしれない。あえて訳せば「誰でもそうよ」くらいな優しさ。

そうして以て、初めて詩全体のニュアンスが同一目線に落ち着く。
「誰でも」と下げて結句したのでは、上から目線となり、金子みすずらしくない。

「同じ」を「対(つい)」というのは山口の方言。
ぴったり同じというのを「まっつい」という。
「お前の答案、隣のと “まっついじゃぁ”。写したろうがゃ。しまぁかすいのぉ」
などと使う。
“誰でも/”とイントネーションを上げるのは、なまりだ。
方言は治るがなまりは治らぬ。方言は 何とか字に置き換えられるが、なまりは 書けない、「誰でも」。

今日(5/11)、大雨の中でギャラリー「野草の庭」に集まった、
金子みすずと言葉にうるさい人々の会話。 ...結構 楽しかったと みんさい。


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