西南学院大学演劇部の新入生歓迎公演は野田地図が多い。
自分がはじめてみた時も「農業少女」、タイミング的に
前の月、ちょうど池袋の東京芸術劇場であった時。
で、その時と前後して野田秀樹と中村勘三郎が組んで
なにか面白いことを9月におっぱじめる、つきましては相手役の女の子募集。
という連絡を聞いた、これが「表へ出ろぃっ!」との第一遭遇。
重ねて西南学院大学演劇部との第一遭遇とも言う。
・・・だって、東京のやつ面子的にも良かったし、行きたかったけれど
年度末、飛行機代があまりにも高かったら行ける訳、ないじゃないか。
というわけで、その代償行為で足を運んだ、ただそれだけ。
それから時間が進んで、プレオーダー対策を進め、
緻密な戦略を立ててこの戦略を粛々と実行し、
実行の途中で熊本芸文祭の演劇公演が県立劇場演劇ホール
丸のままいち公演の予定を「大人の事情」でホールinnシアターを一本、
丸のままを一本、間隔は中一日。
という恐ろしい日程になることがわかり、
生まれて初めて福岡空港以外の空港から飛行機に往復乗る、という事態が。
さらには、熊本から福岡飛び越えて枝光に衛星を見てから福岡に帰る、という
「何やってんだ、じぶん」という遠征計画が目の前に出来上がっていた。
金曜日、仕事をバタバタ上がってまだあの時は新幹線、という
便利なものがなく、水前寺駅までの有明、両数が少なくて、
遅く来たら自由席に座れない、指定席を取るにも席数が少なく
なんだかんだですぐ埋まる、確実に座りたければグリーン車。
水前寺駅について、県立劇場までタクシー、見て、泊まって、
・・・・・・というきつい日程を消化したら次から次へと別の日程がやってきて、
その日程を金と時間、それから人生をやりくりして何とか乗り越え、
出てきた課題を自分なりにこなしたら知らない間にタフになっていた。
あの時は移動移動でからだに感覚がついていかず、
感覚の糸をうまく伸ばせず、そこで、今起こっているすべてを
飲み込むことが出来ず、何をどう見ていたのかわからないことが多かった。
けれど、今はどうだい、コンディショントレーニングと言う手法を学び、
移動のやり方、なんだかんだを工夫したお陰できちんとイメージを
感覚に留めさせることができてはいる。
だからこそ、去年の秋、鹿児島のCloverという劇団がやってた
同じ演目を見たかった。
まだまだ月全体の日程作りが精度甘い。
こんな私的な話はさておき、本題に入ろうか。
野田秀樹と勘三郎のやつは表演空間からポップでサイケな色調で、
座席の作り方から「能舞台」というか、「能楽堂」を丸のまま持ってきて、
そこに「日常の家庭」を作り、なにか異様だ、という「空気の圧力」ができていた。
始まる前からこの圧力のある不思議な緊張感が全体を包んでいて、
客入れ音はあったけれど、基本的には「無音の音」が頭暈と響いている。
これが西南学院大学版になると「空気の圧力」が薄くなっていて
「こういう家庭で育たないとこういう学校には来られないのか」という
「日常」が表演空間からできていた。
そこから物語に入れば野田秀樹版は勘三郎がお能の舞をひと通りやって、
というところを西南学院大学版は謡をひと通り謡う、という所で、
「シテ方」と「謡方」という役割の違いなのかなぁ、というところが
どことなくうっすらと見えてくる作りに持ってきた。
全体的な流れも歌舞伎に、コント55号、さらにはプロレスとなんでもありを
徹底的に繰り出した野田秀樹版、どこにでもある中流以上の家庭で起こっている
「家族の仲違い」を再現した西南学院大学版という対比。
さらにセリフ回し、ムーブマイム、野田秀樹と勘三郎は
徹底的に「崩して」きやがった、ということがよくわかる、というか
それぞれがそれぞれを「わかっている」から
あそこまで崩していける、だから空気を徹底的に圧縮しきって、
「逃げ場」がないよ、どうしようという感じが時間を追うごとに
じわじわ出てきて、挙句の果てには「空腹感」と「喉の渇き」までもが
見手の体にいつの間にか入ってきて、なんかへとへとになった時に
最後の地口落ちとカーテンコール時へレン・メリルの
”You'd Be So Nice To Come Home To"を聞きながら
出演者がラムネをプシュッとして飲むところに安堵感を感じさせるほどの
凄みを感じた見後感だった。
それに対し、西南学院大学版はそういう緊張感がない分、
ゆっくり、まったりとした空気、なのだが
そういう「ええとこのお家」が持つ
「家庭円満、と見せかけて実はドロドロとしている」尖ったナイフのような
それはそれで恐ろしい緊張感がある見後感。
「若さ故の鋭さ」というものを見境なく振り回して、その見境のなさ具合が
「自分が信じられないから他者、しかも強力な他者にすがっている」
様子が西南学院大学版は強く出ている。
逆に野田秀樹版は「信じる」ってなに、「信じない」ってなに、というところを
ジリジリと問うて、自分でしか自分は救えず、自分ですら自分を救えないから
どうする、どうなる、続きはお前探せ、というメッセージを貰った。
だから後に続く「南へ」を見たかったし、また年度末の飛行機代の高さがあって、
代わりに広島で高群さんから野田メソッドのアレンジ版を体に入れ、
天辺塔の「オイル」を見、「The Bee」の英語版から
日本語版と言う流れになってしまった。
西南学院大学版も「ザ・キャラクター」や「南へ」をやることによって、
そういう流れを作ることができたら、いろいろな意味で面白いことになりそう。
あと、公演情報やなにやらをコリッチに登録していただけたら。
自分がはじめてみた時も「農業少女」、タイミング的に
前の月、ちょうど池袋の東京芸術劇場であった時。
で、その時と前後して野田秀樹と中村勘三郎が組んで
なにか面白いことを9月におっぱじめる、つきましては相手役の女の子募集。
という連絡を聞いた、これが「表へ出ろぃっ!」との第一遭遇。
重ねて西南学院大学演劇部との第一遭遇とも言う。
・・・だって、東京のやつ面子的にも良かったし、行きたかったけれど
年度末、飛行機代があまりにも高かったら行ける訳、ないじゃないか。
というわけで、その代償行為で足を運んだ、ただそれだけ。
それから時間が進んで、プレオーダー対策を進め、
緻密な戦略を立ててこの戦略を粛々と実行し、
実行の途中で熊本芸文祭の演劇公演が県立劇場演劇ホール
丸のままいち公演の予定を「大人の事情」でホールinnシアターを一本、
丸のままを一本、間隔は中一日。
という恐ろしい日程になることがわかり、
生まれて初めて福岡空港以外の空港から飛行機に往復乗る、という事態が。
さらには、熊本から福岡飛び越えて枝光に衛星を見てから福岡に帰る、という
「何やってんだ、じぶん」という遠征計画が目の前に出来上がっていた。
金曜日、仕事をバタバタ上がってまだあの時は新幹線、という
便利なものがなく、水前寺駅までの有明、両数が少なくて、
遅く来たら自由席に座れない、指定席を取るにも席数が少なく
なんだかんだですぐ埋まる、確実に座りたければグリーン車。
水前寺駅について、県立劇場までタクシー、見て、泊まって、
・・・・・・というきつい日程を消化したら次から次へと別の日程がやってきて、
その日程を金と時間、それから人生をやりくりして何とか乗り越え、
出てきた課題を自分なりにこなしたら知らない間にタフになっていた。
あの時は移動移動でからだに感覚がついていかず、
感覚の糸をうまく伸ばせず、そこで、今起こっているすべてを
飲み込むことが出来ず、何をどう見ていたのかわからないことが多かった。
けれど、今はどうだい、コンディショントレーニングと言う手法を学び、
移動のやり方、なんだかんだを工夫したお陰できちんとイメージを
感覚に留めさせることができてはいる。
だからこそ、去年の秋、鹿児島のCloverという劇団がやってた
同じ演目を見たかった。
まだまだ月全体の日程作りが精度甘い。
こんな私的な話はさておき、本題に入ろうか。
野田秀樹と勘三郎のやつは表演空間からポップでサイケな色調で、
座席の作り方から「能舞台」というか、「能楽堂」を丸のまま持ってきて、
そこに「日常の家庭」を作り、なにか異様だ、という「空気の圧力」ができていた。
始まる前からこの圧力のある不思議な緊張感が全体を包んでいて、
客入れ音はあったけれど、基本的には「無音の音」が頭暈と響いている。
これが西南学院大学版になると「空気の圧力」が薄くなっていて
「こういう家庭で育たないとこういう学校には来られないのか」という
「日常」が表演空間からできていた。
そこから物語に入れば野田秀樹版は勘三郎がお能の舞をひと通りやって、
というところを西南学院大学版は謡をひと通り謡う、という所で、
「シテ方」と「謡方」という役割の違いなのかなぁ、というところが
どことなくうっすらと見えてくる作りに持ってきた。
全体的な流れも歌舞伎に、コント55号、さらにはプロレスとなんでもありを
徹底的に繰り出した野田秀樹版、どこにでもある中流以上の家庭で起こっている
「家族の仲違い」を再現した西南学院大学版という対比。
さらにセリフ回し、ムーブマイム、野田秀樹と勘三郎は
徹底的に「崩して」きやがった、ということがよくわかる、というか
それぞれがそれぞれを「わかっている」から
あそこまで崩していける、だから空気を徹底的に圧縮しきって、
「逃げ場」がないよ、どうしようという感じが時間を追うごとに
じわじわ出てきて、挙句の果てには「空腹感」と「喉の渇き」までもが
見手の体にいつの間にか入ってきて、なんかへとへとになった時に
最後の地口落ちとカーテンコール時へレン・メリルの
”You'd Be So Nice To Come Home To"を聞きながら
出演者がラムネをプシュッとして飲むところに安堵感を感じさせるほどの
凄みを感じた見後感だった。
それに対し、西南学院大学版はそういう緊張感がない分、
ゆっくり、まったりとした空気、なのだが
そういう「ええとこのお家」が持つ
「家庭円満、と見せかけて実はドロドロとしている」尖ったナイフのような
それはそれで恐ろしい緊張感がある見後感。
「若さ故の鋭さ」というものを見境なく振り回して、その見境のなさ具合が
「自分が信じられないから他者、しかも強力な他者にすがっている」
様子が西南学院大学版は強く出ている。
逆に野田秀樹版は「信じる」ってなに、「信じない」ってなに、というところを
ジリジリと問うて、自分でしか自分は救えず、自分ですら自分を救えないから
どうする、どうなる、続きはお前探せ、というメッセージを貰った。
だから後に続く「南へ」を見たかったし、また年度末の飛行機代の高さがあって、
代わりに広島で高群さんから野田メソッドのアレンジ版を体に入れ、
天辺塔の「オイル」を見、「The Bee」の英語版から
日本語版と言う流れになってしまった。
西南学院大学版も「ザ・キャラクター」や「南へ」をやることによって、
そういう流れを作ることができたら、いろいろな意味で面白いことになりそう。
あと、公演情報やなにやらをコリッチに登録していただけたら。