平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2013年10月20日 主が一歩一歩を備えてくださる

2014-05-26 22:39:20 | 2013年
箴言16章1~9節
主が一歩一歩を備えてくださる

 箴言(教訓の意をもつ短い区。戒めとなる言葉)は、旧約聖書のなかでも、ヨブ記、コヘレトの言葉などと同様、知恵文学というジャンルに含まれるものです。箴言の知恵は、基本的には道徳的教えとして理解されています。格言(簡単に言い表した戒めの言葉)を集めているといった様相をも呈しています。聖書のなかで、何か生きる上で、すぐ役に立つような言葉はないか、簡単に探すとすれば、箴言などは、いいかもしれませんね。
箴言のなかでも、この16章からが第二部と言われます。
 この箴言は、冒頭に、「イスラエル王、ダビデの子、ソロモンの箴言」とあります。ソロモンという王様は、たいへん知恵に富んだ人物だったと言われています。そうだとすれば、時代設定は、ソロモンが生きていた頃となりますが、それでも、箴言25章の1節に「これらもまた、ソロモンの箴言である。ユダの王ヒゼキヤのもとにある人々が筆写した」とあり、この頃に編集された可能性があります。しかし、実際は、ペルシャの法に対する適応が語られていたりするために、捕囚時代のあと、イスラエルの賢者たちが活躍した時代に編集されて、紀元前300年から250年の頃に、現在のような形にまとめられたのではないかと言われています。
 そして、特にこの二部は、宮廷での行為と言葉が、基本的に強調されているため、宮廷の学校で、語られたものが記されていると理解されています。
 さて、1節「人間は心構えをする。主が舌に答えるべきことを与えてくださる」というのは、それは、「主が舌に答えるべきことを与えてくださる」というのですから、人が、心のうちにある考えを言葉として表現するときに、神様がそこには介入されるのであるということです。当時、賢者たちは、宮廷での計画を立てることに特に関心がありました。しかし、その計画を受け入れられるようにするのは、神様であり、神様がよい結果へと導く者であることを知っていました。
 そして、3節「あなたの業を主にゆだねれば、計らうことは固く立つ」とあり、自らの労働を神様に帰することによって、自分たちの計画は確かなものとされるだろう、と考えています。それから2節の「人間の道は自分の目に清く見えるが、主はその精神を調べられる」というのは、人は、自分の考えや行っていることがすばらしく、自分はまっすぐに正しいことを行っていると考えてしまいがちですが、宮廷の賢者は、純粋さや正しい道徳的性格を身につけるには自分たちの能力には限界があることを知っています。そして、究極的には神様こそが人間の精神を測り、人間の弱さ、その限界を知っていることを理解しています。
 そして、4節ですが、「主は御旨にそってすべての事をされる。逆らう者をも災いの日のために造られる」というのは、神様は、ご計画のままにすべての事柄をなされるのです。すべてのことの中には、自然災害や一人の凶悪な指導者による多くの人々の虐殺、そうしたものまでもが含まれるかどうかは、わかりません。
 ヨブ記の天上界の神様がサタンにヨブに対してなされるもろもろの災いを許可する話は、まさに、神様が、何らかの意図をもって、そのように私たちになされるのだと考えざるをえませんし、そこには、自然災害で死んでいったヨブの子どもたちや病気で苦しむヨブ自身の姿が描かれています。また、それらがもとで、妻との関係も壊れてしまいます。しかし、それらは、神様が、サタンにそのことを許したからだと描かれているのです。神様は、ヨブを試みに遭わせられたのです。
 その一方、重労働に苦しむイスラエルの人々の助けを求める叫び声に神様は耳を傾けられるのです。そして、エジプトから脱出させるためにモーセを指導者としてお立てになるのです。神様は、それまでは、彼らの苦しみを知らなかったのでしょうか。神様はあたかもそのとき、ようやく、彼れの痛みを知った、そのような表現がなされています。すべては、神様の御旨にそってなされたのであれば、初めてイスラエルの人々の苦しみに気付かれたかにみえるこの神様の反応をどのように考えたらよいのでしょうか。すべてのことは神様のなせるわざである、否、そうではない、これらのことは、人間が、神様との関係を考えるときに、ずっと続いていく問いのように思われます。
 ただし、岩波訳では、「ヤハウェは、すべてのものを自分の目的のために造った、邪悪な者をも、災いの日のために」となっています。このように訳されますと、実に明瞭になります。あのイエス様が語られた、「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである」(マタイ5:45)を思い起こします。このみ言葉からは、神様は、私たち自身も、一人残らず、神様の目的のために造られたのだということが明らかになり、それはそれでとてもうれしいお話です。
 しかし、邪悪な者をも災いの日のために造った、というのは、どういうことでしょうか。災いの日というのは、神様の審判の日ということのようです。イエス様を裏切ったイスカリオテのユダなどが、そうしたことになるのでしょうか。いずれにしても、ここでは、神様の主権が語られているということになります。
 神様は、人間の罪の裁き手であるばかりでなく、あらゆるものをある目的のために存在するようにする創造者であります。そして、逆らう者に、「災いの日」を経験させることをするのだと、語られているということです。
 5節、「すべて高慢な心を主はいとわれる。子孫は罪なしとされることはない」。心のおごり高ぶる者は、皆、神様の嫌悪するところとなります。そして、その子孫においてもなお、罪がないなどということにはなりません。そこまで、含めて、神様から罰せられるのです。前、私たちは、神様がもう本人の罪以外問わない、子孫までその罪を問うことをしないと、言われている御言葉を学びましたが、それとは、相反することがらがここでは、語られています。まさに、律法に謳われているところです。
 6節「慈しみとまことは罪を贖う。主を畏れれば悪を避けることができる」。ある人の、人をいつくしむ心と真実によって、罪を犯した者は、その罪を覆われることになります。そしてまた、神様を畏れることによって、人は、悪から離れることができます。「主を畏れることは、知恵の初め」、と箴言1章7節にはできてきます。
 7節「主に喜ばれる道を歩む人を、主は敵と和解させてくださる」。主に喜ばれる道とはどのような道でしょうか。神様の御旨にかなった歩みをする人、聖書の御言葉に従って、人生を歩む人、おそらく、そのような人のことでしょう。そして、そのような人を神様は、敵と和解させてくださるというのです。ご褒美のようにそのことが言われているわけは、どういうことなのでしょうか。それは、人は、敵対する人がいるということほど、苦痛なことはないからです。すべての人と仲良く生活できるならば、それにこしたことはありません。
 ところが、長い人生を歩み進めていくと、いくらでも、敵対してしまう人がでてくるものです。その相手と和解ができるならば、それはどんなにか、喜ばしいことでしょうか。イスラエルの人々は、周りはいつも敵といっても過言ではなかったと思います。なぜならば、彼らは真の神様と契約を結びました。そうした民族は、彼らをおいて他になかったからです。周りは、バアルの神をはじめ、異教の偶像の神々にひれ伏す人々でした。ですから、周辺の諸国民と平和に、ときには和解して生活を送るというのは、イスラエルの人々にとって、彼らが存在していく限り、常なる課題でした。
 8節「稼ぎが多くても正義に反するよりは、僅かなもので恵みの業をする方が幸い」。ちょっとこれは、わかるようで、わかりません。岩波訳では、「義のうちにある僅かなものの方が、公正を欠く多くの収入よりもよい」となっています。岩波訳では、「恵みの業」という言葉がでてきません。代わりに「義のうちにある」、と訳されています。訳でこんなにも意味がわかりやすくなるものかと思います。
 1節から9節のなかで、この8節だけが、主、神様という言葉がでてきません。しかし、義という言葉は、神様を指しているとも考えられます。「神様は義である」ということです。岩波訳の用語解説に「義は、正義の実行者に認められる救いの根拠であって、神と人間の正しい関係である。この関係に誠実に応える神は義である」とあります。
 9節「人間の心は自分の道を計画する。主が一歩一歩を備えてくださる」。これは、1節とかなり似たような内容になっています。人間は、自分のこれからの人生の道をいろいろと計画します。このように進みたい、自分の人生設計を綿密に立てる人もいることでしょう。しかし、それらの道を整えてくださるのは、神様です。足取りの一歩一歩を導いてくださるのは神様です。
 自分の人生、明日はどうなるかわからない、毎日、毎日、その日暮らしという方もおられます。否、そうならざるをえない状況の中に追い込まれている方々もおられることでしょう。しかし、自分の人生設計をかなり具体的に立てて、一歩一歩、確実に前進していると現在は充実感を味わいつつ、暮らしている方もおられるでしょう。人間は、自分の道を計画するものです。仕事をしている方は、仕事上の計画、目標があるでしょう。子どもたちは、将来の夢や就きたい職業があるでしょう。親も子供も、互いに期待することがあり、特に親は家族全体を含めた人生設計を立てることもあります。
 しかし、計画どおりにならないのが人生です。何が起こるかわかりません。そもそも、明日の命があるかどうかの保証など、ありません。自然災害もあります。突然の事故も起こります。病気にもなります。人間関係だって、ずっと良好だとは限りません。家族も子どもが結婚したり、就職したりして、一人減り、二人減りと、わが家のように、そのうちいなくなるのでしょうが、それが、いつ来るのかは、はっきりしません。すべては、神様が備えてくださるのです。その道は、自分が描いていたものとは、かなりズレているかもしれません。しかし、それでも、その道は、神様が備えてくださったものです。
 私たち人間は、自分で計画を立て、これは正しい道だと傲慢にも考えます。そのとき、神様に逆らって歩んでいることもあるでしょう。神様を畏れないで、歩んでいることもあるでしょう。多くを得ようと、義に反して、歩んでいることもあるでしょう。しかし、その道は、ことごとくうまくいきません。それが、うまくいくのは、すべてのことを主に委ねるときです。謙虚になって、神様の義を求め、神様を畏れつつ、歩むときです。すべてのことは、神様が備えてくださると信じ、神様が一歩一歩を導いてくださるのだと信じ、歩むときです。何をすれば、神様に喜んでいただけるのか、その神様の願う御心を求めて歩もうとするときです。
 箴言の16章1節から9節のみ言葉はそのように私たちに語りかけてきます。
 今、平尾バプテスト教会は、私が牧師として就任してから、一番の大きな課題に取り組んでいるといってもいいのではないかと思っています。その課題とは、二つの場所を用いて、一つの平尾バプテスト教会という群れを作っていくというものです。これは、私たちの教会に与えられたヴィジョンであり、チャレンジです。当面の目標は、大名での活動が軌道に乗り、安定した働きを行っていくこと。二つの場所が、同時に成り立っていく状況を造り出すことです。
 今、平尾教会は、いろいろな試みをこれまでにもまして、あれこれと行い、四苦八苦している最中ですが、うれしいことは、2013年度は、大名クロスガーデンを訪れる方々が、おそらく年間、8000人以上には、なるであろうということです。これは、礼拝に来られた方々も含まれますが、多くは、大名を使って行われたコンサートや何らかの集会やイベントの催し物などに来られた方々です。これらの方々には、礼拝に代表の方が出席してもらう、教会案内をプログラムの中に挟んでもらうなど、福音の種を蒔いてはいますが、もっと効果的に確実に、それもなるべく自然な形で、行うにはどうすればよいか、などはこれからの課題です。
 しかし、大切なことは、このような私たちの心構え、精神、計画を神様が神様の御旨に照らして、義としてくださることです。神様が、私たちの計画を、それでよいと言ってくださることを祈ります。最終的には、神様が、道を開き、道を整えてくださることがなければ、ことは成就しないでしょう。そのためには、私たちは、これからも、ますます神様を信頼し、神様に私たちのすべてを委ねていくことをしなければならないでしょう。そして、神様に尋ね求めること、神様の御声に耳を傾けること、祈る思いを一つにすることを心がけていくことがさらに必要です。「人間の心は自分の道を計画する。主が一歩一歩を備えてくださる」のです。


平良師

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