平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2006年1月29日 壁を取り除くための風

2006-07-22 01:56:33 | 2006年
使徒言行録11章1~18節
    壁を取り除くための風

 ある種の価値観によって、私たちの目は往々にしてふさがれていることがあります。八方ふさがりになって、もうどこにも道を見出すことができなくなることがあります。私たちの視野は、首の角度を30度変えただけで、随分と変わってくるものではありますが、その首を回すということがなかなかできないのであります。
 当時のエルサレムにいたキリスト者たちも、それまでの律法の呪縛からすっかりと解放されたわけではありませんでした。律法の世界が示す価値観のなかで長い間生活をしてきていたのですから、イエス様によって、新しい価値観や世界観に生きるようになっていたはずなのですが、全く完全にというまでには至っておりませんでした。
 特に、エルサレムに住むキリスト者たちは、ユダヤ人からキリスト者に改宗した者たちでしたから、まずは、キリスト者になる前提として、自分たちと同じように割礼を受けてユダヤ人になってからだと、考える者たちもいたのです。
 しかも、ユダヤ人たちは、異邦人たちと一緒には、食事をすることもありませんでした。食べ物を口にするためには、食べていい食物、それも清められた状態で食べることが求められていました。イエス様は、当時、罪人と見られていた人々と食事を共にされましたから、それ一つ考えただけでも、異邦人と一緒に食事をすることに自由になってもよさそうなものでした。
 異邦人は、そのような規定のなかでは生きていませんから、どうしても、異邦人たちと食事をすることは、汚れが移るというような意識にユダヤ人たちは、ならざるをえませんでした。そして、そうした律法は未だにあちらこちらで彼らの生活のしばりになっていたのでした。
 さて、異邦人たちがイエス・キリストの福音を受け入れたことをエルサレム教会の人々は耳にしました。しかし、それを喜ぶよりも、ペトロが彼らと一緒に食事をしたということが、どうもエルサレムの教会の人々には気になったようです。
 どうしてペトロは、そのようなことをしたのかと非難する者たちがいました。律法という価値観のなかで、生きていた彼らが、イエス様の福音によって変えられたとしても、一期にすべてのものが変えられたということではなかったのです。
 私たちもそうではないでしょうか。キリスト者になっても、相変わらず、あることに固執していたり、あることからは、解放されていなかったり、ある種の欲望には相変わらず囚われていたりといろいろです。
 政治経済、国際情勢などに対する考え方もキリスト者になったのだから、皆が同じかといいますと、そうでもありません。生活スタイルもまた、同じではありません。違うのです。ですから、キリスト者になったといっても、それまでの殻や壁を壊すことは、お互いにそう簡単ではありません。
 しかし、そのような私たちの価値観や双方にある壁を取り壊してくださる方がおられます。それもまたイエス様なのですが、今日の聖書の箇所から教えられることは、そのイエス様が、復活のあと、自分に代わるものをあなたたちにあげようといわれて天に挙げられたわけですが、その約束してくださったもの、つまり、今もなお共にいて働いてくださるの神様の力、聖霊が、私たちから壁を取り除いてくださるものとして描かれています。
 この聖霊の働きによって、私たちは、この私たちが抱えている現実、八方ふさがりの現実であれば、それを乗り越えさせていただくことになるのです。愛のない自分であれば、愛の強い者に変えてくれるのです。今、なお頑なな心の壁をすっかりと取り除いてくださるのです。
 ペトロもまた、聖霊の働きによって目を開かされたのでした。彼はヤッファの町に滞在していたとき、幻を見たのです。彼のところに風呂敷のような大きな布が四隅をつるされて下りてきました。そこに、ユダヤ人にとっては、汚れているとされる動物があれこれと入っていたのです。そして、その動物たちを屠って食べよという声が、天から聞えてきたというのです。
 彼は、「とんでもないことです。清くないもの、汚れたものは口にしたことがありません」と言いました。それに対して「神が清めたものを、清くないなどと、あなたは言ってはならない」という声が天から返ってきたのでした。そして、そういうことが三度も起こりました。三度もというのは、何度も何度も、徹底した迫りがあった、そういうことだったのでしょう。「神が清めたものを、清くないなどと、あなたは言ってはならない」この言葉は、単に食べ物の話ではありませんでした。
 これは、異邦人を受け入れなさい、あなたがたが、汚れている、救いはほど遠いと考えていた異邦人を受け入れなさい、神様はすでに彼らを清められています、そうお答えになったのでした。
 ローマの信徒への手紙の7章6節でパウロは、「しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、霊に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです」と言っています。今なお共にいて働いておられる霊の言葉に耳を傾けるべきあることを教えられます。
 丁度、そのとき、カイサリアからイタリア隊のローマ軍の百人隊長だったコルネリウスという人物に遣わされた者たちがやってきて、一緒に来てくれませんかというのでした。そして、聖霊もまた、「ためらわないで、一緒に行きなさい」というので、ペトロはコルネリウスの家に行きました。そこでは、コルネリウスはコルネリウスで、天使から、「ヤッファに人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。あなたと家族の者すべてを救う言葉をあなたに話してくれる」と告げられていたことがわかりました。
 そして、ペトロがイエス様による福音について、話し出すと、あのペンテコステのときに、使徒たちが聖霊をいただいときのように、聖霊が彼らの上に降りてきたのをペトロは見たのでした。彼は、咄嗟に「ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは聖霊によってバプテスマを受ける」と言われたイエス様の言葉を思い出したのでした。
 聖霊の働きがすでに彼らの上にありました。「聖霊によらなければ誰もイエスは主であるとは言えないのです」とコリントの信徒への手紙の12章3節には書かれていますが、私たちもまずは、聖霊のお働きがあって、救いに導かれ、主告白ができるようになり、その次にバプテスマを受けるという順番を踏んでいます。まさに、聖霊の働きが先に私たちには臨んでおります。
 それで、ペトロは、すでに神様の救いの業が彼らの上に臨んでいるのであれば、その証としてのバプテスマを授けることができないという理由はもう何もないと考えたのでした。確かに、先に働かれている神様の御業を彼が止めることができるはずもなかったのです。
 ペトロはエルサレム教会の者たちに「主イエス・キリストを信じるようになったわたしたちに与えてくださったのと同じ賜物を、神が彼らにもお与えになったのなら、わたしのような者が、神がそうなさるのをどうして妨げることができたでしょうか」と言っています。
 しかし、意外だったのは、この話を聞いた、エルサレムの教会の人々の反応でした。「それでは、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えくださったのだ」と言って、神を讃美した、というのです。それまでの彼らの頑なな気持ちがすっかりと打ち崩されておりました。あった心の厚い壁がすっかりと取り除かれていたのです。
 異邦人などに、どうして神様の救いが臨むはずがあるだろうか、考えていたエルサレム教会のキリスト者たちが、そうではない、神様の救いはユダヤ人に限らず、異邦人であろうが誰であろうが、あまねく人々に臨んでいるということを知らされたのでした。これはそれまでの認識を覆されるとても大きな出来事でした。
 私たちは、自分の抱いている価値観を壊すことはとても難しいことだと考えます。それまで信じてきたものを捨てて、新しい価値観に生きていくのは、それまで自分の中にあったものだけでは到底難しいでしょう。それは、新しい情報を得るとか、外からの強い力が働くということがなければ難しいのではないでしょうか。それはまた、勇気のいることです。
 しかし、その認識を覆させ、新しい認識を持つように、心を開き、そのとおりの選びや行動へと押し出してくださるのは、聖霊であります。ペトロを初め、エルサレム教会の人々は、聖霊の働きによって、自分たちのそれまでの価値観がひっくりかえってしまいました。
 エルサレム教会の人々は、まさか、神様が、異邦人にも自分たちと同じような聖霊を降り注がれるとは、思ってもみませんでした。異邦人に聖霊が降り注がれるということが、あったというのですから、それもペトロの証言です、信じないわけにはまいりませんでした。
 イエス様は、マルコによる福音書の3章の28節29節で「はっきり言っておく。人の犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠の罪の責めを負う」ということを言われました。ですから、彼らも聖霊の働きがあったことをおいそれとは否定することはできませんでしたし、現在に生きる私たちもそうなのであります。
 聖霊の働きが先にあって、私たちのもうこれ以上はどうしようもないと思っていた頑なな気持ちや事柄、価値観が変えられたということを、皆さんも、幾つか体験されたことがあるでしょう。あれは、確かに聖霊のお働きではなくて、何だろう、そう思われるようなことがあったことでしょう。
 私の知っている人のことですが、その人は、どうしても赦せない人がおられました。私は、その方が赦せないと考えている人のことも存じておりましたので、私は、それほどに彼女はあなたに対して悪感情を抱いているとか、意地悪をしているとかは思わないですが、と言っても、一向に私の言うことに耳を傾けてくださるということはありませんでした。むしろ、私がそれはあなたの思い過ごしではないでしょうか、と言うとますます話がこじれていくのでした。
 しかし、ある晩、夢のなかで、神様はその方に、神様の御心を示されたのです。それは、彼女と和解するようにというメッセージでした。それも神様は、お二人が和解につながるところの壮大な歴史をその方にお見せになって、神様の御心を示されたのです。それによって、その人は、神様の御心、ご計画を知りました。そして、彼女と和解しようという気持ちになったのでした。
 こういうときに、大切なことは何でしょうか。そうしたことを経験したことでしょうか。もちろん、そうでしょう。しかし、それよりも、もっと大切な事柄があるのではないでしょうか。つまり、聖霊の働きによって送られたメッセージというのは、そのことによって私たちに神様の愛を示されるということなのではないでしょうか。神様の御心を知ったということなのです。異邦人を神様は自分たちと同じように愛されている、それがわかったのです。
 そして、すでに救いに与ったエルサレムの教会のあなたがたは、彼らを受け入れなさい。あなたがたの愛を、彼らに示しなさい、そういうことでした。私たちは、自分に与えられた聖霊体験を大事にしたいと思います。
 しかし、同時に、それは何のためであったかというと、自分に神様から注がれている愛を知らされるためであり、それによって、自分の頑なさから解き放たれ、他者を受け入れるためであります。私たちが、神様からまず愛されているということを聖霊は教えてくれます。
 それから、その体験は、自分のそれまでを捨てさせ、造り変え、主の与える新しい命に生かしてくださいます。それから、他者へと思いを開かせてくださいます。神様の愛は、己自身の完結のためだけではありません。他者との関係性、他者に向けられる思い、愛、そうしたものへと発展させてくださるのです。

 ヨハネによる福音書の3章で、イエス様は、霊を風にたとえました。「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」。
 聖霊は自由に働かれるのです。そして、その聖霊の力に押し出される者もまた自由に振舞うのです。自分に囚われることなく、この世の価値観に囚われることなく、自由に振舞うのです。ただ、神様の愛に押し出されての動きです。その愛を他者へと運ぶ動きです。
 私たちの壁を取り去るために吹いてくる聖霊の働きに目をとめましょう。私たちもその風に吹かれて、愛を運んでまいりましょう。聖霊の働きがこの身に起こるように、祈りましょう。主にすべてを委ねて歩んでまいりましょう。

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