マタイ福音書9章35節~10章4節
主のまなざし
「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた」。こうした聖書の内容は、イエス様の活動をまとめる形で語られています。だいたいにおいて、イエス様はもっぱらこのようになさっていたのでしょう。
イエス様はくまなく宣教して回りました。ちなみに、私は、この平和地区一つとっても、一軒一軒回ったことはありません。もし、そのようなことをすれば、どのような反応が返って来るか予想いたしますと、つい二の足を踏んでしまいます。見ず知らずの人と会話を交わすことすら、危険な時代です。玄関先でも見ず知らずの人と話すなど、とてもとても敬遠されがちな時代です。
それでも、何千分の一の確率を求めて、でかけていくべきなのでしょうか。現代はそうでなくても、いろいろな団体やセールスがありますから、誤解を受けて、逆効果になる可能性もあります。
むしろ、そのことを私たちは懸念しているのです。せいぜい、特別集会があるときに、一軒一軒にチラシを配布するくらいです。よく、二人一組で回っているある異端と目されている宗派の方々がおられますが、それは自分の救いにかかわるノルマであったりしますから(今はわかりませんが、一頃はそうでした)現象だけをみて、あの人々は熱心によくやっていると考えてはなりません。
そこには誤った思想がよこたわっているからです。しかし、イエス様が私たちに基本を示されているということは、理解しているつもりです。
ですから、先のような理由から、受身であるかもしれませんが、教会に来ていただくことを一番のこととして私たちは願って、伝道の活動をしているのです。イエス様も会堂で教えられていました。
しかし、これもまた、イエス様は、「会堂で教え」とありますが、一つの会堂だけではなく、当時ありましたユダヤ教の会堂をあちらこちら回って、神の国についてのお話をされていたのでした。
それでいきますと、やはり、イエス様はでかけていっているのです。ただ、じっと待っていたのではありませんでした。町や村を残らず回って、あちらこちらの会堂で教えられたのでした。
このようなことを考えていきますと、私たちには、でかけていくということはやはり教えられているということなのです。ですから、教会は開拓伝道の夢をいつも持ち続けております。教会は、人々がイエス様の話しを聞きに来るのをただじっと待っているだけではよろしくありません。でかけていくというスピリットは求められています。
そうしますと、どのような方法が今の時代、あるでしょうか。先ほどのように、見ず知らずの方の家を訪問することは難しい時代です。そこで、今、実際私たちのしていることは、じっとして待っているのではなく、積極的に教会に来ていただくように働きかけて待っている、そういうことになっているのです。
そのために今の私たちに考えられる、できるだけの手立てを考えているのではないでしょうか。そして、そのために教会は動いているのです。
もちろん、教会の存在の意味は、礼拝があり、それ以外に、個々人の信仰の育成や信仰生活の継続、やすらぎ、慰め、平安、励まし、いろいろとあるのですが、伝道をしていくということは教会の使命として与えられているのです。
あと、でかけていくというとき、一人一人が、この世に遣わされているのですから、遣わされたそれぞれの生活の場でイエス様を宣べ伝えていくのです。また、社会におけるボランティア活動なども、直接にはイエス様を語るというわけでありませんが、間接的にそれは、イエス様を証ししているのですから、でかけていってイエス様を語っているといってもいいのではないでしょうか。
いずれにしろ、私たちは、この箇所から伝道する者、伝道するときの原点、精神のようなものを教えられていることは間違いありません。
そして、イエス様は、御国を宣べ伝えていくときに、ほぼ同時に、「ありとあらゆる病気や患いを癒された」、とあります。これは、今の私たちにはできませんし、求められているとも思えません。しかしときに、こうしたイエス様のやり方をまともに理解して、説教をしたあとに、病の癒しの行為をされる牧師たちもいます。
しかし、現代にとって、それは何の意味があるのかは、再度吟味しなければならないでしょう。病の癒しを祈ることはもちろん私たちは致します。それを願い、できれば癒されて苦しみから解き放たれる事を願います。
しかしそのときは癒されたとしても、いずれは、死んでいくことになります。確かに、権能として、当時の弟子たちにイエス様は癒しの力を与えられました。
しかし、当時は、現代のようにしっかりとした医者のいない時代でしたから、それも、病というのは、罪によるもの悪霊の力と思われていましたから、それらに勝利した者たちとしての証しを示さねばならなかったということがまずはあったのではないでしょうか。
今は、医療技術の進歩によって、病はある程度克服できるものになっています。それは医師や医療従事者が担ってくださいます。しかし、いずれ必ず訪れる死に勝利できるものではありません。
そもそも、どうしてイエス様が病人を癒されていったかといいますと、それは、神の国の支配はこの世で見捨てられたと思われているような人々にも、すべてに及ぶということや、その神様の支配に与ることが救いであるということ、また、病の癒しといった奇跡物語は神の国の先取りとして示されたのだという理解があります。
現在、病の癒しを願い求めても、そのときは、癒されることが神様の御心に適って治るということもあるでしょう。しかし、その方もまた、いずれ死を迎えることになるのです。ですから、私たちが伝道していく際に、現在求めるべきことは、癒しは癒しでも魂の癒しではないでしょうか。
イエス様が神の国を伝えていったときに、そこには魂の癒しが同時になされたのでした。病の癒しが与えたものは、それは肉体の癒しに止まらずに魂の癒しになっていたのではないでしょうか。ですから、イエス様もあなたの罪は赦されたというような言い方を病気を治すときにされたのでした。
しかし、イエス様が、神の国を宣べ伝えるときに、そこには、ほんとうには魂の癒しが生まれていたのです。あたかもセットのようにして、それは与えられたのでした。もちろん、すべての人々がそうであったかというと、そうではありませんでした。
自分たちの義を誇っていた律法学者やファリサイ派の人々はむしろイエス様の話しに反感をおぼえ、なされる業を悪霊の頭の力によって行っていると悪口を言ったのでした。しかし、弱り、疲れ、打ちひしがれている者には、まさに魂の癒しが与えられたのです。
それから、イエス様は「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれました」とあります。イエス様はまず、彼らに目を止められました。
そして、イエス様には、そこに集まってきた群衆の姿は、飼い主のいない羊のように映ったのでした。そして、彼らに対して深い憐れみを抱かれたのでした。飼い主のいない羊とはどのようなものでしょうか。
それは、危険がいっぱいの状態であるということです。明日の命もわかりません。牧草地や水場をどうやって見つけたらいいのでしょうか。他の肉食動物からいとも簡単に命を狙われるということです。守ってくれる者が誰もいない、命の危うさから守ってくれるものは何もないということです。右往左往して、疲れ果て、息絶え絶えになっているのでしょう。
エゼキエル書の34章には、イスラエルの牧者についての警告が書かれてあります。この場合の牧者とは、支配者、王様ということなのでしょうが、彼らは、羊であるイスラエルの民を養おうとしない、顧みないと神様から非難されています。
神様は「お前たちは弱い者を強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらなかった。わたしの群は、すべての山、すべての高い丘の上でさ迷う。また、わたしの群は地の全面に散らされ、だれひとり、探す者もなく、尋ね求める者もない。・・わたしの群は略奪にさらされ、わたしの群は牧者がいないため、あらゆる野の獣の餌食になろうとしている」(34:4~8)と言われています。
そして、11節では「まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする」。ここに書かれてあることを読みますときに、イエス様の、病を癒されたということや「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」という事柄が、まさに真の牧者、神様のお姿と一致するのです。
イエス様は、こうした人々にまず目を止められました。イエス様は、私たちにも目を止められているでしょうか。
私たちは、今、「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている」でしょうか。そのとおりです。主よお助けください。と言われる方には、主はあなたの存在に目を止められ、あなたを憐れんでくださり、共におられ、深い慰めを与えてくださるでしょう。そうでない方々はどうなのでしょうか。
大切なことは、イエス様は、群衆の姿をそのように捉えられたというところにあるのではないでしょうか。イエス様の目には、単に病気や患いをもっている人だけではなく、罪の中にある群集をみて、弱り果て、打ちひしがれている者たちと見なされたのではないでしょうか。
それも、そこにいた一人一人にイエス様は目を止められたのです。イエス様がご覧になられたというところに、そもそも私たちの救いがあるのです。
そして、イエス様は弟子たちに言われました。「収獲は多いが、働き手が少ない。だから、収獲のために働き手を送ってくださるように、収獲の主に願いなさい」と。イエス様には、救われるべき者たちが何と多いことか、そのように映りました。それなのに、救いへ導く働き手が少ない。収獲は、私たちのすることではなく、神様がなさることです。
しかし、神様の手伝いをする者は足りないのです。そこで、イエス様は、その働き手を神様が送ってくださるように願い求めなさい、と弟子たちに言われたのです。つまり、そうした働きをする者は、神様が送ってくださる、派遣してくださるということです。神様からの派遣でなければ、その人は、収獲のお手伝いをすることはできません。
しかし、私たちのバプテスト派は、万人祭司ですから、すべての者が宣教に遣わされているという理解ですから、キリスト者は牧師だけでなくすべての者が、神様から宣教に遣わされているということになります。
それを裏付けるかのように、10章では、神様に働き手を送ってくださるように願いなさい、と言われた弟子たち自身が、今度は、イエス様から、宣教に使わされるのです。そして、そのときに、イエス様が行っていた病の癒しなどの権能を授けてもらうのでした。私たちもまた、宣教をするときには、イエス様からのお力をいただいているのです。
私たちは、イエス様が教えてくださった神の国を語ることも大切ですが、しかし、そのイエス・キリストによって救いがもたらされたことを、今はむしろ、語ることが求められています。そのとき、語る相手の魂の癒しが同時になされるように祈りましょう。
そして、遣わされた12人の弟子たちについて書かれています。いろいろな人々がいたことがわかります。そして、いずれも当時の社会にあって、名も無き人々であったということです。
ペトロのような漁師もおりました。徴税人をしているマタイがいました。徴税人は、当時は、ユダヤ人同胞には、ローマの手先になって税金を集める裏切り者でありましたし、集めた税金を自分の懐に入れている者たちもいて、罪人というレッテルを貼られていました。また。ローマ帝国の支配からユダヤの地を解放しようと戦っていた、ゲリラといっていいかもしれませんが熱心党の一人でシモンという人物もおりました。
そして、イエス様を裏切ることになった弱いユダもいたのです。いろいろな職業、思想の持ち主がイエス様に召し出されて、弟子として遣わされることになりました。
いずれの人々もこの世的に、何か優れたところを持っている人々ではありませんでした。聖書はむしろ、わざわざ当時の時代のなかでは負と思われるような形容詞を用いて弟子たちの幾人かは紹介しているのです。徴税人だったとか、裏切り者と言っているのです。
しかし、これらの人々が、神の国の宣教に遣わされることになりました。そうであるなら、いかなる人々も、主が用いられるときに、その人は力を与えられ、整えられていくのですから、自分にはできないと言ってはならないのです。弱さの塊で、イエス様に忠実についていけそうになるという予感があったとしても、今このとき、皆さんは、確かにイエス様に遣わされているのです。
この国には、救われるべき人々は、大勢おります。「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」。主のまなざしは、すでに一人一人に降り注がれております。
それなのに働き人は少ないのです。働き人を送ってくださいと主に祈ると共に、自らもまた、主に遣わされて、この主のまなざし、福音を伝えるべく、その働き人の一人とになってまいりましょう。
主のまなざし
「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた」。こうした聖書の内容は、イエス様の活動をまとめる形で語られています。だいたいにおいて、イエス様はもっぱらこのようになさっていたのでしょう。
イエス様はくまなく宣教して回りました。ちなみに、私は、この平和地区一つとっても、一軒一軒回ったことはありません。もし、そのようなことをすれば、どのような反応が返って来るか予想いたしますと、つい二の足を踏んでしまいます。見ず知らずの人と会話を交わすことすら、危険な時代です。玄関先でも見ず知らずの人と話すなど、とてもとても敬遠されがちな時代です。
それでも、何千分の一の確率を求めて、でかけていくべきなのでしょうか。現代はそうでなくても、いろいろな団体やセールスがありますから、誤解を受けて、逆効果になる可能性もあります。
むしろ、そのことを私たちは懸念しているのです。せいぜい、特別集会があるときに、一軒一軒にチラシを配布するくらいです。よく、二人一組で回っているある異端と目されている宗派の方々がおられますが、それは自分の救いにかかわるノルマであったりしますから(今はわかりませんが、一頃はそうでした)現象だけをみて、あの人々は熱心によくやっていると考えてはなりません。
そこには誤った思想がよこたわっているからです。しかし、イエス様が私たちに基本を示されているということは、理解しているつもりです。
ですから、先のような理由から、受身であるかもしれませんが、教会に来ていただくことを一番のこととして私たちは願って、伝道の活動をしているのです。イエス様も会堂で教えられていました。
しかし、これもまた、イエス様は、「会堂で教え」とありますが、一つの会堂だけではなく、当時ありましたユダヤ教の会堂をあちらこちら回って、神の国についてのお話をされていたのでした。
それでいきますと、やはり、イエス様はでかけていっているのです。ただ、じっと待っていたのではありませんでした。町や村を残らず回って、あちらこちらの会堂で教えられたのでした。
このようなことを考えていきますと、私たちには、でかけていくということはやはり教えられているということなのです。ですから、教会は開拓伝道の夢をいつも持ち続けております。教会は、人々がイエス様の話しを聞きに来るのをただじっと待っているだけではよろしくありません。でかけていくというスピリットは求められています。
そうしますと、どのような方法が今の時代、あるでしょうか。先ほどのように、見ず知らずの方の家を訪問することは難しい時代です。そこで、今、実際私たちのしていることは、じっとして待っているのではなく、積極的に教会に来ていただくように働きかけて待っている、そういうことになっているのです。
そのために今の私たちに考えられる、できるだけの手立てを考えているのではないでしょうか。そして、そのために教会は動いているのです。
もちろん、教会の存在の意味は、礼拝があり、それ以外に、個々人の信仰の育成や信仰生活の継続、やすらぎ、慰め、平安、励まし、いろいろとあるのですが、伝道をしていくということは教会の使命として与えられているのです。
あと、でかけていくというとき、一人一人が、この世に遣わされているのですから、遣わされたそれぞれの生活の場でイエス様を宣べ伝えていくのです。また、社会におけるボランティア活動なども、直接にはイエス様を語るというわけでありませんが、間接的にそれは、イエス様を証ししているのですから、でかけていってイエス様を語っているといってもいいのではないでしょうか。
いずれにしろ、私たちは、この箇所から伝道する者、伝道するときの原点、精神のようなものを教えられていることは間違いありません。
そして、イエス様は、御国を宣べ伝えていくときに、ほぼ同時に、「ありとあらゆる病気や患いを癒された」、とあります。これは、今の私たちにはできませんし、求められているとも思えません。しかしときに、こうしたイエス様のやり方をまともに理解して、説教をしたあとに、病の癒しの行為をされる牧師たちもいます。
しかし、現代にとって、それは何の意味があるのかは、再度吟味しなければならないでしょう。病の癒しを祈ることはもちろん私たちは致します。それを願い、できれば癒されて苦しみから解き放たれる事を願います。
しかしそのときは癒されたとしても、いずれは、死んでいくことになります。確かに、権能として、当時の弟子たちにイエス様は癒しの力を与えられました。
しかし、当時は、現代のようにしっかりとした医者のいない時代でしたから、それも、病というのは、罪によるもの悪霊の力と思われていましたから、それらに勝利した者たちとしての証しを示さねばならなかったということがまずはあったのではないでしょうか。
今は、医療技術の進歩によって、病はある程度克服できるものになっています。それは医師や医療従事者が担ってくださいます。しかし、いずれ必ず訪れる死に勝利できるものではありません。
そもそも、どうしてイエス様が病人を癒されていったかといいますと、それは、神の国の支配はこの世で見捨てられたと思われているような人々にも、すべてに及ぶということや、その神様の支配に与ることが救いであるということ、また、病の癒しといった奇跡物語は神の国の先取りとして示されたのだという理解があります。
現在、病の癒しを願い求めても、そのときは、癒されることが神様の御心に適って治るということもあるでしょう。しかし、その方もまた、いずれ死を迎えることになるのです。ですから、私たちが伝道していく際に、現在求めるべきことは、癒しは癒しでも魂の癒しではないでしょうか。
イエス様が神の国を伝えていったときに、そこには魂の癒しが同時になされたのでした。病の癒しが与えたものは、それは肉体の癒しに止まらずに魂の癒しになっていたのではないでしょうか。ですから、イエス様もあなたの罪は赦されたというような言い方を病気を治すときにされたのでした。
しかし、イエス様が、神の国を宣べ伝えるときに、そこには、ほんとうには魂の癒しが生まれていたのです。あたかもセットのようにして、それは与えられたのでした。もちろん、すべての人々がそうであったかというと、そうではありませんでした。
自分たちの義を誇っていた律法学者やファリサイ派の人々はむしろイエス様の話しに反感をおぼえ、なされる業を悪霊の頭の力によって行っていると悪口を言ったのでした。しかし、弱り、疲れ、打ちひしがれている者には、まさに魂の癒しが与えられたのです。
それから、イエス様は「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれました」とあります。イエス様はまず、彼らに目を止められました。
そして、イエス様には、そこに集まってきた群衆の姿は、飼い主のいない羊のように映ったのでした。そして、彼らに対して深い憐れみを抱かれたのでした。飼い主のいない羊とはどのようなものでしょうか。
それは、危険がいっぱいの状態であるということです。明日の命もわかりません。牧草地や水場をどうやって見つけたらいいのでしょうか。他の肉食動物からいとも簡単に命を狙われるということです。守ってくれる者が誰もいない、命の危うさから守ってくれるものは何もないということです。右往左往して、疲れ果て、息絶え絶えになっているのでしょう。
エゼキエル書の34章には、イスラエルの牧者についての警告が書かれてあります。この場合の牧者とは、支配者、王様ということなのでしょうが、彼らは、羊であるイスラエルの民を養おうとしない、顧みないと神様から非難されています。
神様は「お前たちは弱い者を強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらなかった。わたしの群は、すべての山、すべての高い丘の上でさ迷う。また、わたしの群は地の全面に散らされ、だれひとり、探す者もなく、尋ね求める者もない。・・わたしの群は略奪にさらされ、わたしの群は牧者がいないため、あらゆる野の獣の餌食になろうとしている」(34:4~8)と言われています。
そして、11節では「まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする」。ここに書かれてあることを読みますときに、イエス様の、病を癒されたということや「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」という事柄が、まさに真の牧者、神様のお姿と一致するのです。
イエス様は、こうした人々にまず目を止められました。イエス様は、私たちにも目を止められているでしょうか。
私たちは、今、「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている」でしょうか。そのとおりです。主よお助けください。と言われる方には、主はあなたの存在に目を止められ、あなたを憐れんでくださり、共におられ、深い慰めを与えてくださるでしょう。そうでない方々はどうなのでしょうか。
大切なことは、イエス様は、群衆の姿をそのように捉えられたというところにあるのではないでしょうか。イエス様の目には、単に病気や患いをもっている人だけではなく、罪の中にある群集をみて、弱り果て、打ちひしがれている者たちと見なされたのではないでしょうか。
それも、そこにいた一人一人にイエス様は目を止められたのです。イエス様がご覧になられたというところに、そもそも私たちの救いがあるのです。
そして、イエス様は弟子たちに言われました。「収獲は多いが、働き手が少ない。だから、収獲のために働き手を送ってくださるように、収獲の主に願いなさい」と。イエス様には、救われるべき者たちが何と多いことか、そのように映りました。それなのに、救いへ導く働き手が少ない。収獲は、私たちのすることではなく、神様がなさることです。
しかし、神様の手伝いをする者は足りないのです。そこで、イエス様は、その働き手を神様が送ってくださるように願い求めなさい、と弟子たちに言われたのです。つまり、そうした働きをする者は、神様が送ってくださる、派遣してくださるということです。神様からの派遣でなければ、その人は、収獲のお手伝いをすることはできません。
しかし、私たちのバプテスト派は、万人祭司ですから、すべての者が宣教に遣わされているという理解ですから、キリスト者は牧師だけでなくすべての者が、神様から宣教に遣わされているということになります。
それを裏付けるかのように、10章では、神様に働き手を送ってくださるように願いなさい、と言われた弟子たち自身が、今度は、イエス様から、宣教に使わされるのです。そして、そのときに、イエス様が行っていた病の癒しなどの権能を授けてもらうのでした。私たちもまた、宣教をするときには、イエス様からのお力をいただいているのです。
私たちは、イエス様が教えてくださった神の国を語ることも大切ですが、しかし、そのイエス・キリストによって救いがもたらされたことを、今はむしろ、語ることが求められています。そのとき、語る相手の魂の癒しが同時になされるように祈りましょう。
そして、遣わされた12人の弟子たちについて書かれています。いろいろな人々がいたことがわかります。そして、いずれも当時の社会にあって、名も無き人々であったということです。
ペトロのような漁師もおりました。徴税人をしているマタイがいました。徴税人は、当時は、ユダヤ人同胞には、ローマの手先になって税金を集める裏切り者でありましたし、集めた税金を自分の懐に入れている者たちもいて、罪人というレッテルを貼られていました。また。ローマ帝国の支配からユダヤの地を解放しようと戦っていた、ゲリラといっていいかもしれませんが熱心党の一人でシモンという人物もおりました。
そして、イエス様を裏切ることになった弱いユダもいたのです。いろいろな職業、思想の持ち主がイエス様に召し出されて、弟子として遣わされることになりました。
いずれの人々もこの世的に、何か優れたところを持っている人々ではありませんでした。聖書はむしろ、わざわざ当時の時代のなかでは負と思われるような形容詞を用いて弟子たちの幾人かは紹介しているのです。徴税人だったとか、裏切り者と言っているのです。
しかし、これらの人々が、神の国の宣教に遣わされることになりました。そうであるなら、いかなる人々も、主が用いられるときに、その人は力を与えられ、整えられていくのですから、自分にはできないと言ってはならないのです。弱さの塊で、イエス様に忠実についていけそうになるという予感があったとしても、今このとき、皆さんは、確かにイエス様に遣わされているのです。
この国には、救われるべき人々は、大勢おります。「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」。主のまなざしは、すでに一人一人に降り注がれております。
それなのに働き人は少ないのです。働き人を送ってくださいと主に祈ると共に、自らもまた、主に遣わされて、この主のまなざし、福音を伝えるべく、その働き人の一人とになってまいりましょう。