平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2019年11月10日 平和の主イエス・キリスト

2020-02-24 17:12:20 | 2019年
マルコによる福音書11章1節〜11節
平和の主イエス・キリスト

 今日は、礼拝の中で児童祝福式を行いました。招詞で読んだ箇所は、人々が、自分の子供を祝福してもらおうと、イエス様のところに連れて来たとき、弟子たちが、この人々、つまり、親と子どもたちでしょうか、彼らを叱ったというのです。当時は、子供と女性は、人の数にも入れてもらえないという時代でした。子供や女性の人権など、ほとんど考えられない時代でした。
 この日、弟子たちは、ただでさえ大勢の人々がイエス様の周りには集まってきていたのですから、そのような子供連れの親たちを邪魔者として扱い、軽んじ、叱ったのだろうと思います。ひょっとしたら、イエス様の周りに集まっていたのは、成人の男性たちがほとんどだったかもしれません。
 ところが、それを見ていたイエス様は逆に弟子たちに憤りまして、彼らに「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」と言われて、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福されたのでした。
 2000年前のことです。当時のユダヤ社会は、父権制度の強かった時代であり、子どもや女性の人権なども、ほとんど考えられていなかったのです。このときも、連れてきた親たちとありますが、それらは母親が多かったのではないでしょうか。ですから、逆に弟子たちを叱ったイエス様の対応されたようすを、人々は、かなりの驚きをもって見ていたはずです。
 それからまた、子供のように神を受け入れるというのですが、それはどういうことでしょうか。この場面での子供の姿を言っておりますから、そこからの子どもの姿を考える必要があります。だだをこねているとか、ひねくれている子供の姿ではありません。素直に親に連れられ、親子共々、イエス様を信じ、イエス様のところへやってきて、祝福してもらおうとしている無垢な態度です。あるいは、子供は親の守りと養いがなければ、生きていけないのですから、親にすべてを委ねきって生きているそのような子どもの姿、それは、すべてのことを神様に頼りきって、委ねて生きていこうとしている人の姿勢と似ています。
 そして、イエス様自身も、このような当時としては、誰もが思いもよらない受け入れの態度で、これらの親子に臨んだのでした。そして、大切なことは、弟子たちをはじめ大人である者たちこそが、特に、成人男性こそが、このような子供やそれを願う親たちのように、神の国を求め、受け入れる姿勢をもつことが大事だと教えたのでした。そうでなければ、むしろ、神の国には入れないことを伝えました。もっと言いますならば、それだけでよい、何かこれこれのことをしなければ神様の御国に入ることができないということではないのです。真実にそのことを願う思いがあれば十分だということでしょう。
 ところで、日本でも、子供の誕生を祝うとか、祝福と成長を願って、お宮参りとか、七・五・三というものをします。世界中のどこででも、このような願いがまず親にあり、こうした子供を祝福する、子供の誕生を祝う、子供の成長を願う、儀式といったものはあるのでしょう。ですから、昨今の児童虐待のニュースは、実に、いたわしいといいますか、親としての心が育ってないのですから、とんでもない世の中になってきているのだと思います。
 子供は、神様がそのご夫妻に預けられた大切な命であることを忘れないでいただきたいと思います。キリスト教では、今日のような聖書の箇所、イエス様が、子供を祝福されたということを記念して、このような児童祝福式も行っています。しかし、本質的なことは、子供ではない、大人のあなたたちこそが、これらの子供のように神の国を素直に受け入れる者、すべてを神様に委ねきって生きていく者でなければ、神の国には入ることができないということでありました。
 さて、このような子供とその子供を連れてきた親たちを受け入れたイエス様は、平和の主とも呼ばれます。イエス様はこれからいよいよ十字架におかかりになるというときに、エルサレムに入城するのですが、そのときのさまが、マルコによる福音書の11章の1節から11節に描かれています。そのお姿は、敵意にあふれる当時のユダヤ社会の指導者たちを前にして、緊張し、戦闘態勢に入っているといったお姿ではありません。それどころか、イエス様は、子どものろばに乗って入城したのでした。
 マルコによる福音書11章7節からのところに書かれていることは、このゼカリヤ書の預言が成就した箇所となっています。まず、マルコによる福音書の方ですが、「二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。『ホサナ。主の名によって来られた方に、祝福があるように。我らの父ダビデの来たるべき国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ』」。ホサナとは、救いが私にあるように、という意味です。
 いかに、このとき、民衆が、イエス様を歓迎し、喜んだかがわかります。ところで、ここには、世の王様の戦争に勝利して凱旋するような風景はありません。沿道に多くの人々が立ち並び、楽隊があり、騎馬隊があり、槍をもった兵士たちの行進、そういったものでありませんでした。
 イエス様の場合も、沿道には多くの人々が歓呼してホサナと叫んでいるのですが、彼らは、自分たちの上着を道に敷いたり、野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いたりして、強いられてそのようなことをしているのではなく、自らの意思でイエス様を心から迎えている、敬意を払っている、喜んでいる民衆の姿です。
 そして、エルサレムに入城してきたイエス様は、子供のろばに乗って、おそらく大きく左右に揺られながら入城してきたのでした。ろばは荷物を運ぶ動物であり、ときに人も乗りましたが、そのようなろばを用いて戦争をするなどといったことは、とても考えられませんでした。ろばは、戦争の道具ではありません。ゼカリヤ書の9章9節から10節には「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。
 彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗って来る。雌ろばの子であるろばに乗って。わたしはエフライムから戦車を、エルサレムから軍馬を絶つ。戦の弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ、大河から地の果てにまで及ぶ」とあります。子供を無条件に迎え入れるお方は、軍馬ではなく、ろばに乗ってくる平和の主でもあります。それもたくましい大人のろばではなく、さらによたよたと弱弱しい子どものろばに乗っていたのでした。
 それはあたかも力なきもの、いと小さき者を共に歩もうされるイエス様でした。皆様はこれまで白馬に跨ったどこかの為政者の姿を見たことがあるでしょう。いろいろな国の王様や為政者が、そんな姿で写真とか絵画になっています。ナポレオンのアルプスを馬で超える姿も有名な絵画として残っていますね。馬は、戦いの道具の一つでした。ゼカリヤ書の「わたしはエフライムから戦車を、エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ」とありますように、この子供のろばに乗ってくる王様は、戦争の道具を絶たれる平和を携えてやってくる方なのです。
 昨今の世界の多くの国々が格差社会となっており、かの国の大統領に代表されますように指導者たちは、そのなかで人々の対立や分断をやたらとあおる傾向にあるように思います。本気で平和を構築しようとしている指導者はわずかです。多くは、自分の国の利益しか求めようとはしません。それも一部の人間の利益に片寄っているかもしれません。
 その結果が、例えば、このような温暖化の地球を作りだしております。世界の国々が、互いが協力して、本気で、こうした地球温暖化現象に歯止めをかけなければ、おそろしい気象状況はますます激しさを増すことでしょう。自らが、平和を脅かす状況をあちこちに作り出しておいて、力こそ、武力こそ平和を構築するすべと言わんばかりです。そして、民衆は、貧しさやいろいろな形の差別を前にしても、何のすべもないというのが実情ではないでしょうか。
 当時のユダヤ社会は、祭司長や律法学者、ファリサイ派の人々が権力の座にあり、そうした指導者たちは、いわゆる神殿体制のなかで、律法を守ろうとしない、律法をないがしろにしている人々に、救いからもれた罪人のレッテルを貼り、彼らを排除していきました。律法というのは、当時の生活規範、宗教規範のようなものであり、その律法に則して生活をしている人々は正しい人、そうでない者たちは罪人といったレッテルが貼られていました。
 律法を守ることのできない者、守ろうとしない者たちの中には、日々の苦しい生活を立てていくために、どうしても律法を守ることのできない者たちもおりました。そこで、イエス様は、律法学者やファリサイ派の人々の律法を守られない者たちを、罪人たちと非難する態度やありようを逆に批判、否、ときには非難していきました。イエス様は、むしろ、罪人ともくされる人々と食事を共にしていきました。
 当時のユダヤ人たちは、汚れが移るという理由から、決して、罪人ともくされる人たちとは、食事をするなどしませんでした。イエス様は、自分がこの世に来たのは、正しい者を招くためではなく、罪人を招くためであると述べました。彼らの救いと解放を告げられていかれました。そのうち、イエス様は、指導者たちからは敵意を抱かれるようになり、その結果、十字架につけられるということになりました。イエス様がなさったことは、当時の秩序をみだす行為であると為政者たちにはうつりました。
 イエス様が、これから自分の身に起こるであろうことを覚悟したなかで、この子ろばに乗ってエルサレムに入城する姿には、私たちの学ぶべきものがあります。イエス様は、平和の象徴のような無垢で弱そうな子ろばに乗っておりました。それは、力で、武力で、彼らの過ちを正そうという姿ではありませんでした。平和を構築するときに、平和的でない方法でそれを得ようということ自体が間違っていることがわかります。平和を構築するには、平和的な手段を使うことです。イエス様が、その模範となられました。イエス様は、十字架におつきなるときも、実に無抵抗でした。しかし、そのことを、後にキリスト者たちは、私たちの罪のために、イエス様は十字架におかかりになったのだと、理解するようになりました。
 子供の成長を願い、その命を大切にする姿勢は、親のうちに生まれます。神様が、備えてくださった人間の感情です。しかし、その感情もまた、昨今は、残念なことではありますが、へたをすればそのような親としての心を持ち合わせていないといった時代になってまいりました。彼らもこの社会のひずみの犠牲者であるかもしれないのです。しかし、ゼカリヤ書の9章には、神様の遣わされる方が、いかに優しい平和の主であるかが、描かれています。
 世の親たちは、この王にこそ、イエス様にこそ、学ばなければならない時代であるかと思います。それは、ご自分の創造された人間の一人の命を惜しまれるイエス様の姿です。再度、9章の10節に目をとおしてみたいと思います。「わたしはエフライムから戦車を、エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ、大河から地の果てにまで及ぶ」。戦争ほど、悪に満ちたものはありません。戦争は、すべてのものを奪い、悲しみと絶望を与え、敵意と憎しみを人の心に蔓延させます。
 イエス様の言葉にこのようなものがあります。マルコによる福音書8章34節、35節「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」。マルコによる福音書12章31節「第一の掟は、これである。イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、あなたの神である主を愛しなさい。第二の掟は、これである。隣人を自分のように愛しなさい。この二つにまさる掟はほかにない」。
 いつの時代もそうであったのでしょう。人は、自分の命だけを大事にしようとします。自分の国だけ、自分の家族だけ、自分の子どもだけ、そうしたありようは、結局のところ、その大事にしようとしたものさえ、失うことになりかねません。他者のいのちを大事にする、他国を大事にする、他人の家族や子どもを大事にする、そうすれば、自ずと自分の国が、自分の家族が、自分の子どもが大事にされることになってくる、神様から愛される者になる、イエス様のありようは、まさに他者のためでした。
 イエス様は、平和を勝ち得るために、人殺しの道具ではなく、平和の象徴のような子ろばを用いられました。全世界の人々の命を得るために、自分の命を失われました。しかし、そうしたイエス様をご覧になられた神様は、その命を復活させられました。他者のために何かをしたからといって、それは損ではありません。何かを失うことではありません。天に宝を積む行為であり、それは、神様によって、報われる行為であるのです。
 今の時代、親である私たちがどう生きるか、そのことが、これからどう子供たちが育っていくかにかかっています。
 世の親は、自分たちの利益のために強力な武器を手にして戦いに臨もうとします。会社でもどこでそうです。キリストに従う者は、キリストの平和のために、他者との平和を勝ち取るために、無力で弱い者として、平和的な手段を用いて、ただひたすら神様の祝福を信じ、神様にのみより頼んで、その戦いに臨みます。


平良憲誠 主任牧師

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