平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2019年12月24日 ひれ伏して幼子を拝む

2020-03-20 21:54:28 | 2019年
マタイによる福音書2章1節〜12節
(キャンドルサービス)

ひれ伏して幼子を拝む

 ヘロデ王の時代に、イエス様はユダヤのベツレヘムでお生まれになりました。そのとき、エルサレムに、遠くの東の方から占星術の学者たちがやってきました。彼らは、エルサレムにきたとき、町行く人々に訪ねました。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」。博士たちは、ユダヤ人の新しい王を表す星を発見したので、そういう人であれば当然、都のエルサレムだろうと考えてやってきたのでしょう。
 人々は、おそらく、この博士たちが東方からやってきてエルサレムの街中で、新しいユダヤの王がお生まれになった方はどこにおられますかといって探しまわっていることを見て、そのことをうわさしたに違いありません。そのうわさは、ヘロデ王の耳にも入ることとなりました。それで、ヘロデ王は不安になったのです。自分の知らないところで、そのような人物が現れたというのは、自分の地位が危うくなるということになるわけですから、彼の不安は当然なことであったでしょう。
 ところが、その不安になったとありますが、それは彼だけではなく、エルサレムの人々も皆、同様であったとあります。新しい王が生まれたということは、これから、ユダヤ社会のなかに王位をめぐって引き起こされる内紛などを予測して、不安になったということもあったに違いありません。ただ、ヘロデ王は、このとき、このうわさを聞いて、祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただしたとありますから、ヘロデ王にとって、ユダヤ人の王となるべき次の者は、それはメシアであろうといった考えがあったことがわかります。
 メシアとは、キリスト、救い主という意味です。当時のユダヤ人たちは、メシアが現れて、自分たちの今の苦境から救い出してくださるに違いないとの期待を持っておりました。皆が、キリストを待ち望んでいたのです。しかも、それは力強いメシアでした。イスラエルのかつてのモーセやダビデ王のような人物だったのです。
 そもそもヘロデ王は、ユダヤ人ではなく、エドム人であり、そのことに負い目を感じておりました。おそらく、この時ユダヤは、ローマの植民地下にあるわけですから、ローマの意向により、ユダヤの王としてヘロデも認知されていたのでしょう。そういうこともあり、ヘロデは、ローマの後ろ盾をもって、自分が脅威と感じる者たちを、つまり自分の王位を脅かす人々を次から次に殺害したようで、そのような残忍な王としても知られておりました。
 ですから、そういった意味でも、人々は、またもやヘロデ王が、これまでのようにこのメシアに関係のありそうな者たちを殺害していくのではないかといった不安もあったのでしょう。そうなれば内紛も起こりかねません。エルサレムの民にも不安は生じたでしょうが、誰よりも不安でたまらなかったのは、何を隠そうヘロデ王その人だったのです。いずれ、このメシアと呼ばれる者が、自分の王位を奪い去ってしまう、自分が抹殺されかねない、そのような恐怖心が芽生えたのです。
 ヘロデに集められた祭司長や律法学者たちは、メシアが生まれることになっているのは、ベツレヘムですと伝えました。ミカ書の5章の一節を引用して、「ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で、決して一番小さいものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである」と、その根拠とおぼしき箇所を伝えました。
 そこで、ヘロデは、その占星術の学者たちをひそかに呼び寄せました。そして、その星が現れたのは、いつ頃だったかと確かめたのでした。ひそかに呼び寄せたというのは、ヘロデに何らかの企みがあったことをうかがわせます。後に、ヘロデにその居場所を知らせずに帰ってしまった博士たちに腹を立てたヘロデ王が、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を1人残らず殺させたということからもわかりますように、そのために博士たちから情報を得たし、居場所の情報も得ようとしたのでしょう。
 ヘロデは言いました。「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」。ヘロデにとって、この子は、王となるべき人物というよりも、メシアとして生まれてくる者だといった理解がありました。彼には、そのことの方が恐ろしかったのでしょうか。であれば、なおさら、ヘロデにとって、このメシアとして生まれてきた幼子を殺さないではおれませんでした。このヘロデ王という人物は、神をも恐れぬ者でありました。しかし、権力に執着する者はこのような行動にでる者が少なからずおります。
 ここには、メシア誕生の知らせを受けて、二通りの人々の反応が記されています。このことは、22日のクリスマス礼拝のときに扱いました野原で羊の群れの番をしていた羊飼いたちにメシア誕生の知らせての一報が入ったという話と似ています。一つは、メシア誕生の知らせを無条件に喜んで、そのことに積極的にかかわっていこうという姿勢です。羊飼いたちは、その知らせを告げた天使たちが去ったあと、「さあ、ベツレヘムへ行こう、主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と言って、ベツレヘムへでかけていくのです。
 しかし、そのことを羊飼いたちから知らされた者たちは皆、そのことを不思議に思ったとだけあり、とても喜んだといったようすではありませんでした。この博士たちがやってきたという物語も同じです。博士たちは、東方で、ユダヤ人の王が誕生したということを示す星の発見をとおして、その王を一目見よう、拝もうといった思いでエルサレムへやってきたのでした。しかし、その博士たちの話を聞いたヘロデ王も、また、エルサレムの人々も、その王の誕生、メシアの誕生を喜ぶどころか、不安をおぼえたのです。
 そしてまた、羊飼いたちは罪人としてのレッテルを、博士たちは異邦人としてのレッテルを貼られておりました。この両者は、ユダヤ人たちからは、共に、救いからもれたと思われていた人々であったのです。彼らからの知らせは、一般のユダヤの人々には喜びとしては届かず、不思議とか、不安とか、そういった感情を引き起こしただけでした。
 このお方は、闇の世に光として来られ、すべての人を照らすのであるとヨハネによる福音書には書かれているのですが、これを聞いて、ある人々は、この自分の今の苦しみをわってくれるお方がいる、この暗い状況を光に変えてくださるお方がいると思うでしょうし、一方では、今のこんなどす黒い気持ちを持っている自分など知られたくない、そっとしておいてほしいと思うでしょう。そのように、イエス様がこの世に来られたことは、すべての人のために来られたとは言いつつも、それに喜びと希望をおぼえる方と、その逆の人々がいるということです。しかし、真実は、この逆の人々にもまた救いの御手は差し延べられているのです。
 博士たちが、イエス様が誕生されたのはベツレヘムであることをエルサレムで知らされて、そこへでかけようとしたとき、東方で見た星が動き出し、先だって進んだとあります。そして、幼子のいる場所の上に止まったのでした。彼らが、エルサレムまで来て諦めるのではなく、探し回って、情報を得、ベツレヘムへ向かって一歩踏み出したときに、星が動き始めたのでした。東方で見た星が、間近に迫った状態でこの博士たちを先導したという、具体的なイメージとしては難しいお話が書かれていますが、そのとき、学者たちは、その星を見て喜びにあふれたのでした。
 それから、私たちは、イエス様には、それぞれが抱えている現場で出会うことになるということを知らされます。羊飼いたちは、野宿しながら夜通し羊の番をしていた日々の生活のその現場で、そこでイエス様誕生の知らせを受けた、博士たちは、星の観察をしていた、これも天気が許す限り毎日のことであったと思いますが、そのときにイエス様の星を見つけたのでした。そして、両者は、それで終わることをせず、そのお方がおられる所まで、でかけていき、そこで幼子イエス様にお会いすることになります。
 私たちにとって、今の私の現場はどこでしょうか。テレビなどを見ていますと、パワースポットというところがあるようですが、おそらくそういうところではないのです。それは、職場でしょうか、家庭でしょうか、学校でしょうか、病院でしょうか、施設でしょうか、喜びにあふれているところでしょうか、苦しみを感じているところでしょうか、苦闘しているところでしょうか、それぞれですね。
 羊飼いたちと博士たちは、職場でした。つまり、生きるために、毎日一生懸命になっているその場所で、イエス様と出会わされたということだったのではないでしょうか。ある人は家庭内のごたごたで東奔西走しているそのようなまっただ中がまさに現場なのかもしれません。そのようなときにイエス様に出会って喜びにあずかるのです。それも人生の大きな転換とその出会いは、なるのです。しかし、見た、それだけにとどまらず、そのお方に会いに行くのです。そして、そのお方、無力な平和の君なる乳飲み子を見出して、力に、喜びにあずかるのです。
 博士たちは、星に導かれてたどりついたその家で母マリアと共におられる乳飲み子のイエス様に出会いました。彼らは、用意してきた宝箱から黄金、乳香、没薬を取り出し、それを贈り物として献げました。黄金は王様としてのイエス様、また、乳香はそれを香のようにたいて匂いを楽しむ、つまり、煙を神様に奉げる祭司をイメージさせるイエス様、また、没薬は、死体に塗るものとしての薬であるため、十字架におかかりになったあがないの主たるイエス様、そういうイエス様の本質的なお姿を表しているようです。そしてまた、これらの宝物は、博士たちの商売道具であっただろうもと言われておりまして、そこからは、イエス様にすべてを献げ、従っていきますという自分たちの献身の行為として彼らはこれらのものを乳飲み子のイエス様に献げたのではないかというのです。
 この占星術の博士たちは、星の動きから世の中のいろいろなことに予想を立てておりました。それは、何かの法則を見出していたという点では科学者だったかもしれませんが、占い師といった側面も大きかったとも思われます。その彼らが、どうしてユダヤ人に約束されたメシアの誕生にそれほど関心を寄せたのか、また、彼らの大事にしている高価な商売道具とおぼしき宝まで持ってきたのか、また、訪れた家は、マタイでは飼い葉桶に寝かされていたとも、まして家畜小屋だったともありませんから、それは普通の庶民の貧しい家であっただろうと思われますが、そうであったとしても、そのようなところで生まれている乳飲み子をユダヤ人の王となるべき人と信じて、拝むことができたのか、いろいろと考えてみましたが、彼らはユダヤ人でないわけですから、実際のところはその理由はよくわからないところであります。
 しかし、この物語は、クリスマスの物語には欠かすことのできないものなのであります。なぜなら、このすばらしい知らせは、ユダヤ人だけではなく、異邦人にも届けられたものであることを証明しているものでもあるからです。そもそもユダヤ人とはいったいどういう人々であったのでしょうか。それは、律法を守って生活している人々であるということでした。
 彼らは、モーセがシナイ山で十戒をいただいときから、否、それはアブラハまで遡ることになりますが、神様はユダヤ人(イスラエル民族)と契約を結びました。それは、この真の神様を礼拝し、その戒めを守ることをすれば、イスラエルの民を祝福するであろうという約束でした。しかし、その契約が今や、キリストの到来によって、新しい約束に塗り替えられたのです。救いや祝福の約束は、ユダヤ人にとじられない、それは、異邦人、罪人と目されている人々、つまり、地球上のすべての人々に及ぶことになったのでした。
 そして、ひれ伏して拝んだお方は、貧しい家に生まれ、マリアに抱かれた乳飲み子でした。その乳飲み子である無力で無防備な平和の君イエス様を博士たちは拝んだのでした。ユダヤ人の王、メシアとして、ひれ伏し拝んだのでした。それだけでなく、彼らは、大切な自分たちの宝物といってよい高価なものをこのお方に献げ、これからの人生をこのお方に仕えて生きていくという気持ちを表したのでした。
 何を拝むかは、とても大事です。権力者を神として、神のようにして拝む、これは、憐れで悲しいことです。それから、お金や富を拝む人々も少なくありません。お金や富も必要な最低のものがあればいいとは思います。権力や名声を拝む方もいます。これもまた、自分に誇りや自身を持つことは悪いこととは思いません。しかし、これらは結果として与えられるものであって、これを欲して、これを目標として歩むとき、人は、往々にして間違いを犯すことになります。
 博士たちは、ユダヤ人たちからすれば異邦人でありましたが、否、だったからこそ、それまでのイスラエルの歴史や掟、その他多くの偏見にとらわれずに、真の救い主を見出すことができ、そのお方を拝むこともできました。私たち日本人もまた、当時にあっては、ユダヤ人からすれば、異邦人という範疇になったわけですが、キリストによる救いの恵みと広がりにより、その対象者になったことをうれしく思い、喜びます。しかし、それは、この幼子、乳飲み子イエス様を拝むことを意味するのです。
 このお方は、無力なお方であり、平和の君でありますが、同時に、何でも可能とされる力あるお方であり、すべての人々の救い主なのであります。私たちは、このお方にひれ伏すのです。それまで、博士たちが星について多くの知識をもち、その動きを研究して、これからの将来を考えようとしていたけれども、この乳飲み子を知り、そのお方にひれ伏したとき、それまでの価値としていたものがおそらく180度変えられていったように、私たちもまた今宵、このお方にひれ伏し、喜びに満たされて、新たなる歩みをなしていくのです。


平良憲誠 主任牧師

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