平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2019年11月3日 晴れ着を着せてもらう民

2020-02-23 17:46:11 | 2019年
ゼカリヤ書3章1節〜10節
晴れ着を着せてもらう民

 ゼカリヤ書の3章は、第四の幻です。預言者ゼカリヤの見た天上界の法廷の場面です。
 ところで、このゼカリヤ書の時代背景についてですが、紀元前587年、バビロニアに敗れたユダ王国は、エルサレムを破壊され、神殿を焼かれ、指導者たちが敵国(バビロニア)に強制連行され、大半の民衆が捕囚として連れ去られるという事態になりました。それから、50年が過ぎ、バビロニアに代わって勢力を持ち、諸国侵略を始めたペルシアは、寛大な植民地政策によって、それぞれの国の伝統を重んじ、宗教の自由を認め、ユダヤ民族に対しては、捕囚民を帰し、神殿の再建を国庫負担で行う旨の、キュロスの勅令を出しました。
 しかし、実際は、捕囚民のなかのバビロニアで既に生活の安定を得ていた者たちは、そのまま定住することとなり、帰ってきたユダヤ人は、貧しく気力のない者たちが多く、少しのことですぐに挫折するのでした。そして、帰ってすぐは、捕囚を免れ、エルサレムにずっと残っていた者たちや、エルサレム崩壊後、そこに住みついた異教徒たちもおり、何かと摩擦もあって、神殿再建工事は中断し、16年を無駄に過ごすこととなります。
 しかし、紀元前520年にペルシア王第3代ダレイオスのとき、神殿再建の工事を再開することになります。このときに、預言者として立っていたのが、ハガイとゼカリヤでした。ハガイは、強烈な口調で神殿再建を促し、目に見える目標を指し示すなどの力強をもって語りました。例えばハガイ書の1章の4節「今、お前たちは、この神殿を廃虚のままにしておきながら、自分たちは板ではった家に住んでいてよいのか」、8節「山に登り、木を切りだして、神殿を建てよ。わたしはそれを喜び、栄光を受けると主は言われる」
 しかし、ゼカリヤは、落胆し、自信をなくしている弱り果てた民に向かって、ハガイの預言を、広く、さらに深く理解させるために、御使いによって見せられた幻を語るという黙示的な表現を用いて、民の気持ちを導くのでした。
 ここでの幻は、第四のもので、天の法廷の光景です。原告はサタン、被告は大祭司ヨシュア、裁判官は、主の使いです。解説の御使いが、預言者ゼカリヤを法廷に連れて行き、大祭司ヨシュアが裁かれているようすを見せています。サタンが、大祭司ヨシュアが、その任にふさわしくないと神様に訴え出ているのです。彼は、罪多き者であるというのです。この大祭司ヨシュアという人物がどのような者だったのかは、あまりわかりせんが、ハガイ書の1章の1節にその名前が出てまいります。
 「ダレイオス王の第二年6月1日に、主の言葉が預言者ハガイを通して、ユダの総督シュアルティエルの子ゼルバベルと大祭司ヨツァダクの子ヨシュアに臨んだ」とあります。大祭司ヨシュアの具体的な罪状はわかりませんが、サタンの仕事は、人間の罪を告発することでした。サタンは、当初は天使の一人でありましたけれども、専ら人間の罪を告発することを彼の任と捉えていたようで、ヨブ記などにも同じように義人ヨブを神様に告発する者として登場しています。
 しかし、そのうちに、このサタンは、人間の罪を告発するために、人間を罪に誘い、罪に陥れて、その罪を神様に告発するようになり、そのような理由から堕落した天使とも言われるようになりました。確かに、罪を犯さない者はいません。まして、大祭司ですから、これから神殿再建に向けて民を一つにし、工事中の人々の心を鼓舞する立場にあります。その彼が、罪にまみれているようではどうしようもないのです。
 ちなみに、あのモーセの片腕のアロンもまた、大祭司として、用いられましたが、彼は、その前にモーセがシナイ山で神様から十戒をいただいていたとき、不安になったイスラエルの民のために、金の子牛の偶像を作るという大罪を犯したことを聖書は告げています。その彼も赦されて大祭司として用いられました。私たちもまた、サタンにかかれば、いくつでも自分の罪を指摘されることでしょう。その中には、自分の気づかなかった罪も含めると、いくらでもあることになるかと思います。
 さて、サタンは、この指導者たるヨシュアを排除すれば工事はさらに遅れることになることを想定していたと思われます。それに対して、裁判官の御使いが、サタンに次のように言いました。「サタンよ、主はお前を責められる。エルサレムを選ばれた主はお前を責められる。ここにあるのは、火の中から取り出された燃えさしではないか」。この「火の中から取り出された燃えさしではないか」というのは、どのような意味でしょうか。
 ここにあるのは、というのは、ヨシュアであり、捕囚の人々です。それは、神様に背いて、その報いとしてバビロン捕囚という辛い目に遭った人々、或いは、その子孫です。そもそもが罪ある者たちです。その罪は明らかです。しかし、彼らは、その捕囚というつらい状況のなかにあって、今や、すでに燃えさし状態になっています。そのような彼らは、今やその状態から、救い出された憐れな者たちに過ぎない、と言っているのでしょう。
 しかし、神様は、その彼らを救い出すことを選ばれた、エルサレムを選ばれたのだと、御使いはサタンに言っております。そう神様が決められた以上、サタンの訴えは退けられます。それでもなおヨシュアの罪を告発することはサタン自身が責めを負うことになるのです。彼らの罪が明らかであるにしても、これ以上は、逆に神様からお前は責めを受けることになるのだと、サタンの敗北を宣言します。
 しかし、それでも、ヨシュアの罪は罪なのです。個人的な罪もあれば、大祭司としてのなすべきことを怠ったという役職上の罪もあったかもしれません。バビロニアに敗れて捕囚として連れてこられたその原因を作った父親や祖父の代の罪をつないでいるということもあったかもしれません。ヨシュアは、汚れた衣を着て、御使いの前に立っておりました。汚れた着物を着ていたということが、罪にまみれた彼の姿を象徴的に表しておりました。燃えさしの匂いの漂うその汚れた服は、焦げ臭い悪臭ものであったでしょう。
 そのとき、御使いは、御使いに仕えていた他の者たちに「彼らの汚れた衣を脱がせてやりなさい」と言いました。彼らと言う複数形になっているのは、ここにいるのは大祭司のヨシュアだけですが、他にも、他の祭司や工事に携わることになる指導者たちもいるわけですから、彼らのことも指していたと考えられるでしょう。御使いは、「わたしはお前の罪を取り去った。晴れ着を着せてもらいなさい」と言いました。晴れ着というのは、ここでは、大祭司としての祭服です。罪が取り除かれ、大祭司としての職務に神様の命を受けて、再び就くことになりました。
 さらに、このあと、御使いは、「この人の頭に清いかぶり物をかぶせなさい」と言いました。清いかぶり物とは、大祭司の額当てで、<主の聖なる者>という7文字がこれには彫り込まれていたと言われます。5節に「彼らはヨシュアの頭に清いかぶり物をかぶせ、晴れ着を着せた」とあります。いわゆる、大祭司の叙任式がなされたという感じです。
 以上の箇所から思わされることは、まず、牧師としての私自身です。とても、神様の御用をさせていただけるような者ではないということを知らされます。ただ、神様の憐みと赦しによって、この職務に就かせていただているということです。確かに、罪ある自分の姿に思いを馳せますと、きりがありません。
 これまでも幾度となく、信徒の皆様の気持ちを顧みることもなく、多くの方々の心を傷つけてきたことでしょうか。家族に対してもそうですし、妻を悲しませたことも数知れません。釣り場の方々や職員の方々の落胆をマナーの悪さから、随分とかったことも多かったと思います。その他にも、あれこれと結局は神様を悲しませたことは数知れません。そのような者ですから、神様の赦しなくしては、牧師としての仕事は、やり続けることはできなかったと思うのです。
 6節以降の内容は何を言っているかということなのですが、つまり、この大祭司ヨシュアの神殿再建における仕事は、結局、終末的な祝福へとつながる話なのだ、ということなのです。こうしてもし、大祭司ヨシュアが、神様の道を歩み、神様の務めを守るならば、ヨシュアに、神様の家を治め、神様の庭を守る者となる、つまり、神様の神殿の管理を委ねようと言われます。そして、ヨシュア自身が、大祭司ですから当然のことですが、この神殿で仕えることも許されるというのです。それだけでなく、大祭司ヨシュアとその他の同僚の祭司たちは、終末的な救いの成就の証人にもなるであろう、ということなのです。
 その終末的な事柄というのは、一つには、8節にありますように、「わたしは、今や若枝であるわが僕を来させる」、つまり、メシア、キリスト、救い主の到来がここには示されています。それは、力なく、失意のどん底にいるイスラエルの民にとっても、また、その先頭に立って、これから神殿を再建する指導者としてのヨシュアには、大きな希望、力となるお話です。また、一つの石が差し出され、そこに神様は、碑文を刻む、そして、一日のうちにこの地の罪を取り除く、それは、神様の贖いの業がこれからすぐにでも実施されることを言っています。
 そして、10節ですが、「その日には、あなたたちは互いに呼びかけて、ぶどうといちじくの木陰に招き合う」。これは、ミカ書4章の3節から4節を念頭においた言葉のようです。「主は多くの民の争いを裁き、はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。彼らは、剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。人はそれぞれ自分のぶどうの木の下、いちじくの木の下に座り、脅かすものは何もないと万軍の主は言われる」。
 ミカ書とゼカリヤ書の10節の違いは、ミカ書が、ぶどうの木、いちじくの木の持ち主が、それぞれで、自分の木の下に座り、とあるところが、ゼカリヤ書では、「あなたがたは互いに呼びかけて、ぶどうといちじくの木陰に招き合う」となっているところです。さらに、人々の優しい心が通い合う平和な社会、姿が描かれています。これは、神様が、イスラエルの民にメシアを備え、贖罪の業が完成される終わりの日に、豊かな祝福を与えられる、実に平和で和みの世界を象徴的に表しているようです。
 今は貧しいけれども、この神殿再建の務めをとおして、いつの日か、今の生活も豊かさへと変っていくことであろう、という励ましをいただくこととなりました。
 この平尾教会も25年前の神殿の再建をとおして、多くの豊かさを神様からいただきました。大名は、新しいもう一つの神殿ですが、これにもまた携わらしていただき、大きな祝福を私たちはいただきました。そして、今度は、この25年になる平尾の会堂の大規模修理をてがけなければなりません。この作業は、苦しみではなく、私たちにとっては、さらなる祝福をいただく機会となるはずです。
 大祭司ヨシュアだけが、祭司ではありません。私たちの教派は、万人祭司です。すべての人間が、一人残らず、この作業にかかわっていくこととなります。そして、1人残らず、そこから得るであろう祝福に与ることになるのです。


平良憲誠 主任牧師

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