平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2019年12月1日 主があなたと共におられる

2020-02-25 21:47:29 | 2019年
ルカによる福音書1章26節〜38節
主があなたと共におられる

 マリアとはいったい何者だったのでしょうか。ダビデの末裔のヨセフのいいなづけであった人物です。それでは、なぜ、彼女がヨセフのいいなづけになったのでしょうか。その経緯についてはわかりません。マリアの親類にエリザベトという女性がおりました。エリザベトは、祭司ザカリアの妻でした。このザカリアとエリザベトは、二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかったとあります。
 それでも、彼らには子供がなく、エリサベトは不妊の女性で、しかも二人とも既に年をとっておりました。しかし、神様の憐みにより子供が与えられました。その子は、イエス様の道ぞなえをしたバプテスマのヨハネです。エリサベトが親戚筋の者だったからといって、マリアがヨセフのいいなづけに選ばれた根拠と言えるでしょうか。マリアは、自分のことを身分の低い者と言っています。マリアが、それまでどのような女性であったのかは、今述べた以上のことはわかりません。
 しかし、彼女がイエス様の母として選ばれたとき、身分の低い女性とありますから、そのような貧しい状況のなかで、生活をしていくのがいっぱいいっぱいで、十分な教育や知性を磨く機会には恵まれなかったのではないかと思われるのです。ところが、まず、天使ガブリエルから受胎告知を受けたときの毅然とした態度と神様から選ばれた者として、その運命を受け入れていく姿勢には、驚くほどの知性と潔さがうかがわれるのです。
 ルカに描かれているマリアは、気高く意志の強い人です。その潔さと気高さが描かれている聖書箇所をもう少し見てみます。そこには、生まれてくる子が「偉大な人となり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼にダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない」人物になるということと、その人物を「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む」という形で、マリアは身ごもることになるとあるのですが、それらの非常に信じがたく驚くべき内容のお話を彼女は天使ガブリエルとの会話の後に、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と言って、これから自分の身に起こることを潔く受け入れていくのです。このような姿です。そして、特に知性ということで言うならば、マリアの賛歌と言われる箇所には、それが溢れているように思えます。
 マリアとは何者!という問いは、神様が救いの御手を差し延べてくださり、選んでくださったこの私は何者なのですか、という問いにつながります。それは、どうして、このような私をも、救いに与らせてくださり、イエス様の弟子として招いてくださったのですか、という問いです。マリアは、ヨセフと違って、ダビデ王の血筋の者ではありません。エリサベトが親類ですが、エリサベトはアロン家の娘の一人であったと言います。
 アロン家は、おそらく、あのモーセの兄にあたるアロンにまで遡ることになるのでしょうか。実際のところはわかりません。そのこととマリアがどのような関係にあるのか、わかりません。マリアは、自ら述べているように、このとき、身分の低い者であったということです。それに、マリアの夫のヨセフもまた、ダビデ王の末裔ではありますが、このときは大工が彼の仕事でありまして、当時の社会にあってはどちらかというと彼もまた貧しい暮らしをしていた庶民の一人に過ぎませんでした。
 私たちが、キリスト者として招き入れられたのは、救いを得るためでした。果たして、この私は、それだけの値打ちのある者なのでしょうか。私は、何者なのでしょうか。神様が創造されたその他大勢の一人に過ぎません。この私に神様は神様の大事な仕事を任せられるのでしょうか。ただし、この世界にあっては、この私は唯一の存在です。イエス様にとって、私たち一人一人の命の価値は、皆同じであり、誰ひとりとして失われてはならない命なのです。
 それは、見失った羊、迷い出た一匹の羊のたとえ話、なくした銀貨のたとえ話、放蕩息子のたとえ話などからも知らされています。神様にとって、私たちは、誰ひとりとして失われてはならない存在なのです。一人一人が高価な存在です。光輝くから高価で大事な存在であるのではありません。光輝くどころか、真っ黒で罪に覆われているのが私たちです。その私たちを神様は愛してくださり、さらに、このときのマリアのように、ご自身のご計画のために用いてくださるのです。
 マリアは、このとき、遡れば著名な誰それの血筋の者だから、イエス様の母に選ばれたのではありません。親戚筋のエリザベトは、モーセの兄、後に祭祀を司るレビ一族の先駆け者となったアロンの末裔だったかもしれませんが、マリアとどれほどの親戚筋の者だったのかはわかりません。いとこだったのか、叔母にあたる人だったのか、もっと遠い親戚だったのか、それらについては、記されてはいません。そこにはたいした理由づけはないかもしれないのです。聖書が述べているのは、マリアが自ら言っているように、自分は身分の低い者だということです。
 ですから、マリアがどうしてこのとき、イエス様の母として選ばれたかは定かではないのです。ヨセフのいいなずけとなったというだけでした。しかし、なぜ、ヨセフのいいなずけとして選ばれたかは繰り返しますがわかりません。その選びの根拠は、ほとんどわからないのです。なぜ、わたしなのですかといった問いには、わからないというのが聖書です。
 どうしてこの人なのか、ということについては、わからないというのが、正直なところです。ですから、この類については、もう考えなくてもよいということなのでしょう。私たちが救われたのは、私たちに救われる何かの根拠や理由があったからではありません。そういった意味では、マリアには何もなかったというのが真実では、ないでしょうか。
 ただし、マリアが称賛される理由はあります。それは、神様からの使命を受け入れたからでした。このマリアの受け入れるという行為がなければ、人類救済の物語は、始まらなかったか、別の形で成されたかもしれないのです。
 ところで、この天使ガブリエルの話を受け入れることは、そう簡単なことではありませんでした。「あなたは身ごもって男の子を産む」と言われたときに、マリアは、咄嗟に、「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」と言ったのでした。婚約はしていたものの、まだ、一緒に生活はしていなかったようです。ガブリエルは、「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む」という形において、子どもを宿すということになるというような内容のことを述べました。
 ですから、それが、いったいどういうことかという不安がまず生まれたことでしょう。それから、次は、子どもを宿したということになると、ヨセフとの夫婦関係はどうなるのか、という不安も生じたと思います。そして、ヨセフの理解を得ることができなければ、彼女が窮地に立たされることになるのは時間の問題でした。姦淫の罪を犯したということにもなりかねませんでした。
 天使ガブリエルは、マリアのところへ来たとき、「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」と、挨拶しました。マリアは、この言葉に戸惑いました。ガブリエルは、「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる」と言いました。天使は、マリアの反応をちゃんと読んでおりました。
 ですから、まず、「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」とすべてのこれから起こる一連のまとめを先取りして最初にこれらの言葉を届けたのです。この出来事は、この二つの文に尽きるからです。「おめでとう、恵まれた方」そして、「主が共におられる」この二点です。
 そして、ガブリエルのマリアの次なる予測は、マリアの抱く恐れでした。ですから戸惑うマリアに「マリア、恐れることはない」と続けました。説明をしたあとに、結論を述べるのではありません。これこれこうだから、よかったね、あなたは恵まれた方ですよ、おめでとう、ではありませんでした。また、これこれこうだから、マリア、恐れることはありませんよ、ではなく、マリア、恐れることはない、そこから始まりました。
 まず、最初に強調したいことを語り、それから、その理由を述べているのですが、「おめでとう、恵まれた方」、「恐れることはない」、これは、主からいただいた仕事をする者は、誰もがいただく言葉ではないでしょうか。私たちもまた、教会において、与えられた働きや奉仕をする者は、この結論から始まっております。「おめでとう。恵まれた方。主が共におられる」、「OO、恐れることはない」です。
 私たちの喜びは、神様が、この取るに足りない私を選んでくださった、招いてくださった、用いてくださった、そのようなことのなかにあります。これらのことに尽きると思います。マリアは、1章の47節、48節でこのように述べています。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも、目を留めてくださったからです」。
 そして、与えられた神様からの使命を果たすことです。使命というのは、一人一人に与えられています、例えば、パウロが、教会というものは人間の体にある一つ一つの肢体が合わさってできたようなものだと言いました。それぞれの肢体には、役割があります。一つ一つの肢体が自分の働きをなしたときに初めて、体全体が、スムーズに動き、いろいろな動きが可能となり、健康が保たれることになります。
 神様は、そのように一人一人に教会を造り上げていく機能、働きを託されています。それは、果たすべき使命といっていいかもしれません。同時に、それは、この社会にあって、神様がなすべきこととして、キリスト者たちに与えている使命の場合もあることでしょう。その使命の一つと言っていいかと思いますが、いろいろな形の支援に、キリスト者たちは携わっています。
 マリアは、この天使ガブリエルが述べたことを自分の神様から与えられた使命として、受取ました。もちろん、そうした思いに至らせるために、ガブリエルは、結構な理屈をもって、彼女を説得しようとしました。あなたのあの親戚のエリサベトも、不妊の女性と言われ、もう年齢も高くなって、とても子どもの産めるというような状況ではありませんでしたが、今は、もう子どもを宿し、既に6ヶ月になっているのですよ。
 神様にできないことは何一つないのです。わかりましたか、そのような具合でした。そして、ついに、マリアは、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と、神様が自分になそうとしていることを受け入れていくのでした。神様が、何かを私たちをとおして成そうという場合、あれこれと手立てをとおして、そのことがなるようにしてくださいます。いくら拒んでみても、それが神様の御心であるならば、神様が思っている方向にことは動いていくというのが、私たちがいただいている信仰です。
 そして、神様からの使命を私たちが受けたときは、神様が共におられるから、何とかなります。神様が、よいようにしてくださいます。神様が行き詰っても、道を開いてくださいます。マリアは、この苦境をこれから、あれこれと乗り越えていくことになりますが、そのときどきに、神様が共におられるゆえに、そのことが可能になっていくのです。絶体絶命のピンチもあるわけですが、それらを乗り越えていくのです。
 私たちの人生も同じです。教会に与えられる試練も同じです。神様が共におられますから、何とかなるのです。そのためには、まず、神様によって与えられる使命や試練を、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」といった姿勢が、それを受け入れていく姿勢が、求められます。
 そして、イエス様が、このようなマリアと、そして、ヨセフと共におられることになりました。これがクリスマスです。最初のクリスマスは、まさに、このようなマリアと、そしてヨセフとの間にありました。そこにインマヌエルの神様がおられたのです。インマヌエルの神様がいなければ、二人の危機的な関係はすぐにでも終わっていたことでしょう。しかし、マリアが神様からの使命を受け入れていったときから、神様は確実にいつも共におられました。マリアともヨセフとも、そして二人の間におられました。
 「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」。そして、このクリスマスのインマヌエルの出来事は、今を生きる私たちの上にもあります。そして、与えられた使命に生きるとき、恐れるな!との激励をいただきながら、前へと歩みを進めていけるのです。


平良憲誠 主任牧師

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