平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2019年11月24日 宝と呼ばれる者たちのなすべきこと

2020-02-24 22:53:14 | 2019年
マラキ書3章13節〜24節
宝と呼ばれる者たちのなすべきこと

 神様が、人々に言います。「あなたたちは、わたしにひどい言葉を語っている」。それを聞いた人々が言うのです。「どんなことをあなたに言いましたか」と。こうした会話は、私たちもよく致します。
 私が、何をあなたに言ったというのでしょうか。えてして、傷つけた方は、傷ついた方のその傷がよくわからないのです。よく言われるように、人の足を踏んでいる者は、踏まれている人の痛みに気づかないことがよくあります。神様から、あなたがたは、私に対してひどい言葉をはいていると言われても、えっ、いったい私たちが、神様の気にさわるようなことを何か言いましたっけと、すっとぼける者もいるでしょうが、ほんとうにそれに気付かない者も多いと思います。
 そこで神様が、人々(あなたたち)が何と言ったかを指摘されるのです。「神に仕えることはむなしい。たとえ、その戒めを守っても、万軍の主の御前を、喪に服している人のように歩いても何の益があろうか。むしろ、我々は高慢な者を幸いと呼ぼう。彼らは悪事を行っても栄え、神を試みても罰を免れているからだ」。
 しかし、この言葉をはいた人々の言っていることに、共感をおぼえないではおれないという人は、少なくないかもしれません。こんなに神様に仕え、神様を礼拝しているのに、罪を犯さないように生活しているのに、そうでない者たちの方がむしろ多くの利益を得、裕福に暮らしている、それどころか、彼らは巧妙な形で、悪事さえ働いているのに、何の咎めも受けることがない、と思うのです。
 このような人々は、主に権力をもっている人々に、多くの者たちは見るのではないでしょうか。現代の世情を見てもそのようなことを思わされることは山ほどです。最近の話では、お花見に公のお金を使って、自分の選挙運動をしているのではないかと言われても、するするとそうした問題をうまくわかしていく政治家もおります。かけそば問題、忖度の問題が出たときもそうでした。高慢な者が、悪事を行っても栄え、神様を試みても罰を免れています。一般市民の生活は、豊かだとはとても思えませんし、生活水準は落ちてきていると言われます。
 そして、このようなことはいつの時代でも変わらず起こってきました。そして、民衆の怒りは、正義が行われない社会、不平等な社会、むしろ、悪を行っている者たちが栄える社会へ、向けられていきます。信仰を持っている者たちは、それは、神様がそのことを許しておられるからだと考えます。
 自分たちは、神様に仕えていて、戒めを守り、神様の前に礼拝を捧げ、ひれ伏しているのに、何のよきこともなく、むしろ、そうしていない高慢な者たちが、悪事を行って栄え、神様を試みるような振る舞いをしても罰せられないでいる、そのうち、いっそ自分たちも彼らのようでありたいと皮肉めいたことを思うほどになっていきます。それで、結局、神様を責めるようなことを考えたり、述べたりするのです。確かに、世の中で起こる事象には、神様が直接かかわっている事柄もあれば、それは、まったく人間の罪のなさる業だということもあるはずです。
 そのとき、特に、神様を畏れ敬う者たちが、互いに語り合いました。そして、主は自分たちのこのつぶやきに耳を傾け、その言い分を聞かれたことを知らされるのです。そして、これらの神様を畏れ敬う人々のために記録の書が書き記されたのでした。これは、一種の約束のようなものです。あなたがたが心配しているようなことにはならないというのです。つまり、こうした人々の神様への不信にも似た問いに対して、まずは、その問いを無視することなく神様はそのつぶやきを取り上げ、その問いに、丁寧に答えていかれるというのが、このマラキ書のひとつのスタイルになっています。
 マラキ書の1章の2節には、「わたしはあなたたちを愛してきたと主は言われる。しかし、あなたたちは言う。どのように愛を示してくださったのか、と」。人々のこうした不満を神様はとりあげ、それらについて応答されています。そして、このマラキ書をもって旧約聖書はとじられていますが、その最後は、神様がもたらされる終末のときを表しており、そこでは、きっちりとした裁きがなされ、正義が行われることが記されています。
 神様は、ここでまず、神様を間接的に非難している人々に「あなたたちは、わたしに、ひどい言葉を語っている」と言われます。それはつまり、的外れだと言われるのです。神様は、今は、彼らを放置しているかのように見えるけれども、終末のときが来れば、それ相応の裁きをきっちりと与えられるとあります。
 正しい人と神に逆らう人、神に仕える者と仕えない者、高慢な者と悪を行う者、その区別は、はっきりとなされる予定だと言われます。初めに、神様を畏れ、神様に仕える敬虔な者たちがどのようになるかが語られます。「わたしが備えているその日に、彼らはわたしにとって宝となると、万軍の主は言われる。人が自分に仕える子を憐れむように、わたしは彼らを憐れむ」と言われます。私たちが、神様を畏れ、神様に仕える敬虔な者であるならば、私たちは、神様の宝となる、何とありがたいことではないでしょうか。そして、次に、それらの神様を畏れ敬う者たちは、「正しい人と神に逆らう人、神に仕える者と仕えない者との区別を見る」ことになります。
 さらに、終末のそのときに高慢な者、悪を行う者に与えられる出来事を語ります。彼らは、すべてわらのようになる、つまり、神様は彼らを燃え上がらせ、根も枝も残さないようになるのです。厳しい裁きの姿が描かれています。そして再び、神様を畏れ敬う人に触れられ、「あなたたちには、義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある。あなたたちは牛舎の子牛のように、躍り出て飛び回る」。正義の太陽が昇り、これまで正義が行われないために苦しめられていた人々が、いやされることになると言います。そして、これまで牛舎にとじ込められて不自由だった子牛が、自由をえて喜び踊り出て飛び回るように、あなたがたも、自由になった身を思い切り喜ぶことになるというのです。
 さて、そこで、こうした終末が訪れて、神様の裁きが、きっちりとなされ、神様の正義が行われることになるというのですが、それでは、それまでの間、この世にある私たちは、どうすればよいかということです。一つには、このように、最後まで、神様を畏れ敬うこと、神様に仕えることは当然のことであります。
 それでは、イエス様は、何と言われているのでしょうか。今日は、世界祈祷週間をおぼえる礼拝をも守っております。使徒言行録の1章の3節から11節を本日の招詞で読んでいただきました。そこには、弟子たちに、エルサレムに留まって、神様が約束してくださっている聖霊を待ちなさいとあります。そのことを聞いていた弟子の一人が、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねます。聖霊がくだるときが、終末ということになりますか、と聞いたのでしょう。
 しかし、イエス様は、「父がご自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない」と言われました。つまり、それは、私たちにはわからなくてよいということです。それにもかかわらず、私たちの中には、再臨のイエス様がこられて、終末となるのはいつなのかということをずっと調べている者たちもおります。
 しかし、そうした試みはことごとくはずれてきました。なぜなら、ここに書かれているように、「父がご自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない」からです。誰にも、わかりません。いつ終末になるかなどを考えるのは、意味のないことです。ただ、このことだけは言えるのです。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりではなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」。ここに、終末が来るときまで、私たちキリスト者の歩む道が示されていると思うのです。
 それは、地の果てに至るまで、キリストの証人となるという働きです。キリストの証人とはいかなる人々のことを言うのでしょうか。それは、まずは、イエス様が、私たちのためになしてくださった出来事を語り伝えることがあるでしょう。イエス様が、御語りになった言葉や神の国について話すこともあるでしょう。また、キリストの証人となるというのは、自分の日頃の生活や仕事ぶり、発言などをとおして、イエス様を指し示すこともあります。イエス様がなさったように、弱り果てた方や心に深い傷を負っている方に寄り添うこともあるでしょう。イエス様が、私たちに模範を示されていることを、私たちもまた行うのです。
 マラキ書の3章の23節、24節「見よ、わたしは、大いなる恐るべき主の日が来る前に、預言者エリヤをあなたたちに遣わす。彼は父の心を子に、子の心を父に向けさせる。わたしが来て、破滅をもって、この地を撃つことがないように」。エリヤは、終末のときに、来て、神様がこの世界を撃つことがないように、破滅からこの世界を守るために遣わされるとあります。しかし、実際は、それはエリヤではなく、イエス様でした。
 イエス様が、その神様の怒りから私たちを救うために、自ら十字架におかかりになりました。エリヤの働きは、それはイエス様の働きといってよいかと思いますが、「父の心を子に、子の心を父に向けさせる」というものです。それは、父と子が対立するのではなく、相応が、互いに理解を示すということです。それは、愛するという行為です。その愛する行為こそは、イエス様によって、可能となるというのでしょう。マラキ書の最後は、イエス様を指し示しております。
 私たちは、この世にあって、終末のそのときまで、イエス様を指し示すという働きを負わされています。世界祈祷週間のことのとき、地の果てに至るまでというので、世の宣教師たちは、自国に留まることをせず、海外にでかけて、必要とされるそれぞれの国々で、その国の求めに応じて、宣教の活動を行っています。私たちのカンボジアに派遣されている嶋田和幸宣教師、薫宣教師は、今は、オフィース教会で教会学校において、こどもたちの教育にかかわっておられます。少しずつ教会学校に来る子供たちも増え、いろいろと楽しいプログラムを考え、こどもたちが少しでも興味を持てるようにと、教材などにも工夫をこらしておられます。
 国際ミッションボランティアとして、ルワンダで平和構築のために働いておられる佐々木和之さんは、間接的ではありますが、イエス・キリストを二つの民族の和解という作業をとおして示されております。世界宣教の意味は、己の国だけでは、到底知ることのなかった出来事を、宣教師の先生方をとおして、いろいろと知らせていただき、間近にそれぞれの国が抱えている問題や苦しみを共有することにあります。
 それは、一方通行ではなく、日本と宣教師が派遣されている国の双方が互いを理解し合い、愛するという行為に至るのが理想です。宣教師を派遣している国も、その方々を受け入れている国も、立場は同じです。与える側と、与えられる側という構図ではありません。私たちは、宣教師を派遣している国々と宣教協約を結んでおりまして、相手国の要望に応じる形で、奉仕をすることになっております。その報告を聞いて、私たちも励まされ、豊かにされています。
 マラキ書の主を畏れ敬う者たちは、「神に仕えることはむなしい」と思うこともあったのです。しかし、イエス・キリストの十字架を知る私たちは、この十字架のイエス様に押し出されてこの世で神様に、そして、この世の人々に仕えていきます。そこにおいては、神様に仕えることにむなしさを感じることはないのではないでしょうか。
 高慢な者がいかに悪事を働き、富をむさぼろうとも、それらの人々のことは、裁き主である神様にお任せし、私たちは、神様の救いの宣教に励むことです。ただし、これらの神様を畏れることのない人々の救いもまた、私たちの務めであることは間違いありません。マラキ書の最後は、「わたしが来て、破滅をもって、この地を撃つことがないように」との救いの宣言をされておりますから、神様を畏れない者たちもまた、救われることを私たちは願うべきなのでしょう。
 ただし、日本の国におけるキリスト教の広がりは、実に、難しいのが実情です。むしろ、消滅しかかっている教会さえあります。福岡でも、数年前まで300万円未満の一般会計状況であった教会は3つであったものが、昨年度、8つに増えました。ある意味では、日本の宣教状況は、世界の中でも最下位かもしれないのです。なぜなら、これほど、自由に宣教活動ができるにもかかわらずこの状況だからです。私たちに託された宣教の業に励みましょう。わたしの宝とまで言ってくださる神様に報いたいと思います。


平良憲誠 主任牧師

最新の画像もっと見る