マルコによる福音書5章1~20節
ゲラサという地は、ユダヤ人たちからすると辺境の地であり、異邦人の住むところでした。豚を飼っていたということからも、汚れたといったイメージがあります。ユダヤ人たちには豚は汚れた動物でしたから。しかし、イエス様は、どのようなところにも、福音を携えて行かれました。「一行は、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた」。私たちは、教会で、人々を待つことも必要ですが、世俗の中にどっぷりと入っていって、そこで、福音を語り伝えることはもっと大事であると教えられないでしょうか。私たちは、DCGで今わずかなりとも、そのような試みをしています。
この時代、この地方で、この男ほどに凄まじい人生を送っていた者もいなかったのではないでしょうか。汚れた霊に取り付かれていると思われていたこの男の存在は、非常に有名だったのでしょう。ですから、その彼がイエス様の憐れみによって、元来の人間性を取り戻した、清くさせられたという奇跡物語は、語り継がれ、聖書に記されることになったのだと思われます。
彼は、一般社会の中からは、疎外された存在でしたが、しかし同時に、彼は、ローマ帝国といった存在との対比の中では、ローマの支配の中にあったこの村の代表、村そのものを表しているといった考え方もできないではありません。彼は、村のはずれの墓場を生活の場としていました。というよりも、村の人々が、この男を自分たちの生活の場においておくことができなかったのでしょう。
彼は、あまりにも凶暴でした。彼は、共同体の外の村はずれの墓場に繋がれることになりました。しかし、繋ぎ止めようとして、足枷や鎖をつけましたが、それで縛られても、それを引きちぎってしまうのでした。彼は、昼夜、墓場や山で叫んだり致しておりました。そのような彼を村の人々は、どうすることもできませんでした。自分たちに危害さえ加えなければいいと諦めていたことでしょう。どのような内容のことを彼が叫んでいたのかは、書かれてありませんが、それは叫んでいるということで、言葉としては不明瞭なわけのわからない内容であったのでしょう。
それとも、深い憎しみがあって、誰かをののしっているようなものだったのでしょうか。彼はとても苦しかったのです。自分でもどうしてよいのかわからなかったことでしょう。そして、誰も近づくことができないほどの凶暴さが彼にはありました。それだけでなく、石で自分をうちたたいたりしていました。自傷行為は心理学的な見地から言えば、いろいろな分析ができるのでしょうが、このような人間らしさのひとかけらもなくなった、獣と化した自分を、自らも受け入れることはできなかったのです。他者へ危害を加えかねないだけでなく、自分自身、己を破壊したいと思っておりました。明らかに、この男は、幸せというものから見放された遠いところで生活をしていたのでした。
この男は、「汚れた霊に取りつかれた人」であったと記されています。当時は、そのようにしか表現のしようがなかったのです。おそらく精神的な病を負っていたであろうこの男に対して、何の治療の方法もなく、彼は、汚れた霊がついているとの他の人々が貼ったレッテルを自己理解として人生を歩まざるを得ませんでした。大事な視点だと思うのですが、彼が、自らの責任で、こうなったというよりも、汚れた霊が彼をこのようにしていたのだ、と聖書は言っているのです。汚れた霊とは何か、です。
現代において、汚れた霊とはいったい何でしょうか。人を苦しめる災い、人を苦しめる病、人を人としない扱い、人としての尊厳を奪ったり、人から人を愛する心や神様を愛する心を奪っていくもの、迷信や不条理な出来事、そういったものもあるでしょう。人を罪に誘っていくこと、人へ恐怖を与えていること、人から平和や平安を奪っていること、幸せを奪い去っていくもの、原発事故による被災、テロ行為、それらを汚れた霊と言う言葉で表現することもできるでしょう。
そのように汚れた霊に取り付かれている男の住む村へ、イエス様一行がやってきました。彼は、イエス様を遠くから見ると、走り寄ってひれ伏しました。ずっと奥の深いところにいる彼が、救いを求めていました。しかし、その一方で、汚れた霊に支配されていると自分のことを理解していた彼、否、汚れた霊に成りきっていた彼は、「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい」と言ったのです。
それは「汚れた霊、この人から出て行け」と言われたイエス様の言葉に応答したものでした。イエス様は、彼に会うなり、「汚れた霊、この人から出て行け」と言われたようです。そして、イエス様が彼に名を聞くと、レギオンと答えました。レギオンとは、ローマ帝国の6000人くらいの軍隊の単位の呼び名でした。それほどにたくさんの汚れた霊がこの男には取りついているということでした。
当時、ローマの兵隊たちは、地方の要所要所に、駐屯をしていました。そういった地方には、ローマの兵隊たちに出ていって欲しいといった願いが、当然ありました。このお話は、汚れた霊としての見方をされているローマの兵隊たちが湖でおぼれて滅び去るということを暗示している物語といったとらえ方もできます。いずれにしても、これほどの多くの汚れた霊に、この男は支配されていました。汚れた霊でいっぱいで、どうしようもない状態にこの男が置かれていたことを物語っています。
これほどたくさんの汚れた霊に取り付かれているからには、もう、彼の回復は絶望的でした。この汚れた霊に取り付かれていた男というのは、この男にこのローマの圧政に苦しんでいるこの地方を代表させているかもしれません。それに対して、イエス様は、「汚れた霊、この人から出ていけ」と言われたのでした。自分をあたかも汚れた霊と理解していた男にとって、それは、とても困ることでした。これまでの自分の存在が危うくなるからです。
私たちは、イエス様に出会って、自分を抑圧しているいろいろなものから解放されたいのです。真実に自由になりたいのです。彼は、繋がれていた足枷も鎖も引きちぎり、自由なように見えましたけれども、内面は汚れた霊に支配されて、非常に苦しかったのです。彼自身、今や、どす黒い汚れたもので、心もあふれんばかりになっていたことでしょう。本当の自由を得たかったことでしょう。澄んだ自分を取り戻したかったでしょう。ですから、真実の自分は救いを得たいとイエス様のところへ、一目散に走り寄ってきました。しかし、一方で、それを阻む、汚れた霊の存在がありました。
イエス様は、当時の人々が、理解しやすいように表現したり、理解しやすいようなやり方でことを進めていきました。汚れた霊というものが存在すると理解していたこの時代のこの地域のこれらの人々には、そのことを前提に話しをなさいました。イエス様は、豚の群れに入ることを願った汚れた霊たちに、それを許しました。
この地方の人々が、豚を飼っていたというところから、この地は、ユダヤ人たちからすると異邦人の土地であることがわかります。豚は、ユダヤ人たちには、汚れた動物でした。その汚れた動物に、汚れた霊が入ったということになります。そうしますと、豚の群れは、湖になだれ込み、おぼれて死んでしまいました。湖、海というところもまた、汚れた霊の棲む場所でした。汚れた霊は、汚れた豚に入り、汚れた霊が棲んでいる湖の底に沈んで行きました。そのような筋のお話になります。
この話を聞いて、レギオンと呼ばれるローマの兵隊たちの群れが、このような形で無様に滅び去ったというようなイメージを受けて、痛快さを覚える者もいたことでしょう。豚がおぼれて死んだ後には、汚れた霊から解放された、否、病を癒されて、服を着、正気になって座っている男がおりました。服を着ているとわざわざ書かれているのは、これまでこの男が、裸同然でいたということがわかります。
また、座っているというのは、じっと座っているなどということがこれまではなかったことを暗に示しています。ようやく、この男は、多くの汚れた霊から解放された、病が癒されたのです。正気に戻って、人間性を取り戻したのでした。イエス様との出会いが、私たちから一切のどろどとした汚れたものを取り除いてくださいます。
これらの成り行きを見ていた人々は、他の人々に一連の出来事を話しました。そうしましたら、聞いた者たちは、イエス様に、この地方から出て行って欲しいと願いました。それは、イエス様が、いたらまた同じような騒動が起きないとも限りません。たくさんの豚を失うことになるかもしれません。豚は彼らには生活の糧でした。どうしようも手の付けられない男を正気にしたイエス様を絶賛し、正気を取り戻した男のことを喜ぶのではなく、自分たち自身の生活のことを真っ先に心配したのでした。
イエス様は、神の国についてお話をされる方でもありましたし、病気を癒すことのできるお方でもありましたが、自分たちの日常の生活が危うくなることへの懸念から、人々はイエス様にいて欲しいとは思わなかったのでした。村の人々は、先ほども申しましたように、これまでほんとうに苦しんできたひとりの憐れな孤独な男が、正気に戻ったことを喜ぶことよりも、自分たちの生活が脅かされることをむしろ心配致しました。否、それは、村人たちのそれぞれにすくっている汚れた霊が恐れを抱いた結果だったとも言えるのです。
それから汚れた霊を追い出してもらった男は、このあと、イエス様について行きたいと願いました。男には、帰る家がなかったのでしょう。家族や知人たちからも、遠の昔に関係を切られていたかもしれません。あるいは、これまで、差別され、人々から遠ざけられてきたゆえに、汚れた霊が出ていったからといって、病にかかる以前のように、人々が、自分に接してくれるだろうとは、思えなかったのかもしれないのです。癒されたからといっても、差別されることからは解放されないと思ったのです。ですから、彼は、イエス様たち一行と一緒に行きたいと願ったのではないでしょうか。もちろん、単純に、この方についていきたいと思っただけだった、とも考えられますが。ところが、イエス様はそのことをお許しになりませんでした。
イエス様は、彼に、「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい」と言われました。イエス様は、あるときは、病が癒されたことを誰にも言ってはならない、と言われました。この男の場合は、自分の身内の人々に自分の身に起こったことを知らせるように、言われました。イエス様は、この男は、地域共同体から疎外されておりましたから、何としてでも、もう一度、元の生活の場に戻っていくことを願われました。彼が、墓場でつながれていた、否、暴れまわって、それさえもできない状態であった、それは、彼自身の責任ではなく、彼に取り付いた汚れた霊の仕業であったのだと、聖書は語ります。
汚れた霊が出ていき、正気を取り戻した今、彼は、元の生活の場に戻っていき、そこに再び受け入れられることこそが、必要でした。「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことを知らせなさい」とイエス様は言われました。
そうです。彼には、帰る家があったのです。身内がいたのです。そもそも、なぜ、彼がそのようなことになったのか、聖書は、彼がこれこれの生活をして、多くの人々に迷惑をかけて、そして、結局自暴自棄になった、自分の責任で、このようなことになってしまったのだ、とは一言も述べていません。彼に、汚れた霊が、しかも、数多くの汚れた霊が取りついたのだとしか述べていません。彼の責任ではないのです。彼は憐れでありました。その彼がイエス様の御力によって解放されたのです。
その彼は、まず、元いた場所へ、そこに戻って、親や兄弟たちに受け入れてもらう必要がありました。そして、誰もが見捨ててしまったこの男を憐れんでくださったお方がおられたことを伝えよ、誰もなしえなかったことをされた方がおられたことを伝えよ、そう言われたのです。
この男の身に起こったことは、イエス様がキリストであるという一つの証しでした。イエス様が、汚れた霊を追い出されました。彼は、苦しみから解放され、本来の自分を取り戻しました。そして、イエス様がどのように自分を憐れみ、自分にかかわってくださったかを語りました。こうしたイエス様との直接の出会い、その証しこそが、イエス様を真実に語ることになります。イエス様は、このとき、この男が、もとの生活の場に戻り、そこで受け入れてもらうことを強く願われました。そうして初めて、彼は、幸せになれるからです。
私たちにもまた、同じです。イエス様が、私たちの人生になさってくだったことを他の人々に語り伝えるのです。家族の者たちに、知人たちに語り伝えるのです。誰もがなしえなかったことをこのお方はしてくださった、そのことを伝えるのです。それは、今、ここで、生きて働いてくださっているイエス様(聖霊とお呼びした方がいいのかもしれませんが)を語ることになります。
平良師
主があなたにしてくださったこと
ゲラサという地は、ユダヤ人たちからすると辺境の地であり、異邦人の住むところでした。豚を飼っていたということからも、汚れたといったイメージがあります。ユダヤ人たちには豚は汚れた動物でしたから。しかし、イエス様は、どのようなところにも、福音を携えて行かれました。「一行は、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた」。私たちは、教会で、人々を待つことも必要ですが、世俗の中にどっぷりと入っていって、そこで、福音を語り伝えることはもっと大事であると教えられないでしょうか。私たちは、DCGで今わずかなりとも、そのような試みをしています。
この時代、この地方で、この男ほどに凄まじい人生を送っていた者もいなかったのではないでしょうか。汚れた霊に取り付かれていると思われていたこの男の存在は、非常に有名だったのでしょう。ですから、その彼がイエス様の憐れみによって、元来の人間性を取り戻した、清くさせられたという奇跡物語は、語り継がれ、聖書に記されることになったのだと思われます。
彼は、一般社会の中からは、疎外された存在でしたが、しかし同時に、彼は、ローマ帝国といった存在との対比の中では、ローマの支配の中にあったこの村の代表、村そのものを表しているといった考え方もできないではありません。彼は、村のはずれの墓場を生活の場としていました。というよりも、村の人々が、この男を自分たちの生活の場においておくことができなかったのでしょう。
彼は、あまりにも凶暴でした。彼は、共同体の外の村はずれの墓場に繋がれることになりました。しかし、繋ぎ止めようとして、足枷や鎖をつけましたが、それで縛られても、それを引きちぎってしまうのでした。彼は、昼夜、墓場や山で叫んだり致しておりました。そのような彼を村の人々は、どうすることもできませんでした。自分たちに危害さえ加えなければいいと諦めていたことでしょう。どのような内容のことを彼が叫んでいたのかは、書かれてありませんが、それは叫んでいるということで、言葉としては不明瞭なわけのわからない内容であったのでしょう。
それとも、深い憎しみがあって、誰かをののしっているようなものだったのでしょうか。彼はとても苦しかったのです。自分でもどうしてよいのかわからなかったことでしょう。そして、誰も近づくことができないほどの凶暴さが彼にはありました。それだけでなく、石で自分をうちたたいたりしていました。自傷行為は心理学的な見地から言えば、いろいろな分析ができるのでしょうが、このような人間らしさのひとかけらもなくなった、獣と化した自分を、自らも受け入れることはできなかったのです。他者へ危害を加えかねないだけでなく、自分自身、己を破壊したいと思っておりました。明らかに、この男は、幸せというものから見放された遠いところで生活をしていたのでした。
この男は、「汚れた霊に取りつかれた人」であったと記されています。当時は、そのようにしか表現のしようがなかったのです。おそらく精神的な病を負っていたであろうこの男に対して、何の治療の方法もなく、彼は、汚れた霊がついているとの他の人々が貼ったレッテルを自己理解として人生を歩まざるを得ませんでした。大事な視点だと思うのですが、彼が、自らの責任で、こうなったというよりも、汚れた霊が彼をこのようにしていたのだ、と聖書は言っているのです。汚れた霊とは何か、です。
現代において、汚れた霊とはいったい何でしょうか。人を苦しめる災い、人を苦しめる病、人を人としない扱い、人としての尊厳を奪ったり、人から人を愛する心や神様を愛する心を奪っていくもの、迷信や不条理な出来事、そういったものもあるでしょう。人を罪に誘っていくこと、人へ恐怖を与えていること、人から平和や平安を奪っていること、幸せを奪い去っていくもの、原発事故による被災、テロ行為、それらを汚れた霊と言う言葉で表現することもできるでしょう。
そのように汚れた霊に取り付かれている男の住む村へ、イエス様一行がやってきました。彼は、イエス様を遠くから見ると、走り寄ってひれ伏しました。ずっと奥の深いところにいる彼が、救いを求めていました。しかし、その一方で、汚れた霊に支配されていると自分のことを理解していた彼、否、汚れた霊に成りきっていた彼は、「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい」と言ったのです。
それは「汚れた霊、この人から出て行け」と言われたイエス様の言葉に応答したものでした。イエス様は、彼に会うなり、「汚れた霊、この人から出て行け」と言われたようです。そして、イエス様が彼に名を聞くと、レギオンと答えました。レギオンとは、ローマ帝国の6000人くらいの軍隊の単位の呼び名でした。それほどにたくさんの汚れた霊がこの男には取りついているということでした。
当時、ローマの兵隊たちは、地方の要所要所に、駐屯をしていました。そういった地方には、ローマの兵隊たちに出ていって欲しいといった願いが、当然ありました。このお話は、汚れた霊としての見方をされているローマの兵隊たちが湖でおぼれて滅び去るということを暗示している物語といったとらえ方もできます。いずれにしても、これほどの多くの汚れた霊に、この男は支配されていました。汚れた霊でいっぱいで、どうしようもない状態にこの男が置かれていたことを物語っています。
これほどたくさんの汚れた霊に取り付かれているからには、もう、彼の回復は絶望的でした。この汚れた霊に取り付かれていた男というのは、この男にこのローマの圧政に苦しんでいるこの地方を代表させているかもしれません。それに対して、イエス様は、「汚れた霊、この人から出ていけ」と言われたのでした。自分をあたかも汚れた霊と理解していた男にとって、それは、とても困ることでした。これまでの自分の存在が危うくなるからです。
私たちは、イエス様に出会って、自分を抑圧しているいろいろなものから解放されたいのです。真実に自由になりたいのです。彼は、繋がれていた足枷も鎖も引きちぎり、自由なように見えましたけれども、内面は汚れた霊に支配されて、非常に苦しかったのです。彼自身、今や、どす黒い汚れたもので、心もあふれんばかりになっていたことでしょう。本当の自由を得たかったことでしょう。澄んだ自分を取り戻したかったでしょう。ですから、真実の自分は救いを得たいとイエス様のところへ、一目散に走り寄ってきました。しかし、一方で、それを阻む、汚れた霊の存在がありました。
イエス様は、当時の人々が、理解しやすいように表現したり、理解しやすいようなやり方でことを進めていきました。汚れた霊というものが存在すると理解していたこの時代のこの地域のこれらの人々には、そのことを前提に話しをなさいました。イエス様は、豚の群れに入ることを願った汚れた霊たちに、それを許しました。
この地方の人々が、豚を飼っていたというところから、この地は、ユダヤ人たちからすると異邦人の土地であることがわかります。豚は、ユダヤ人たちには、汚れた動物でした。その汚れた動物に、汚れた霊が入ったということになります。そうしますと、豚の群れは、湖になだれ込み、おぼれて死んでしまいました。湖、海というところもまた、汚れた霊の棲む場所でした。汚れた霊は、汚れた豚に入り、汚れた霊が棲んでいる湖の底に沈んで行きました。そのような筋のお話になります。
この話を聞いて、レギオンと呼ばれるローマの兵隊たちの群れが、このような形で無様に滅び去ったというようなイメージを受けて、痛快さを覚える者もいたことでしょう。豚がおぼれて死んだ後には、汚れた霊から解放された、否、病を癒されて、服を着、正気になって座っている男がおりました。服を着ているとわざわざ書かれているのは、これまでこの男が、裸同然でいたということがわかります。
また、座っているというのは、じっと座っているなどということがこれまではなかったことを暗に示しています。ようやく、この男は、多くの汚れた霊から解放された、病が癒されたのです。正気に戻って、人間性を取り戻したのでした。イエス様との出会いが、私たちから一切のどろどとした汚れたものを取り除いてくださいます。
これらの成り行きを見ていた人々は、他の人々に一連の出来事を話しました。そうしましたら、聞いた者たちは、イエス様に、この地方から出て行って欲しいと願いました。それは、イエス様が、いたらまた同じような騒動が起きないとも限りません。たくさんの豚を失うことになるかもしれません。豚は彼らには生活の糧でした。どうしようも手の付けられない男を正気にしたイエス様を絶賛し、正気を取り戻した男のことを喜ぶのではなく、自分たち自身の生活のことを真っ先に心配したのでした。
イエス様は、神の国についてお話をされる方でもありましたし、病気を癒すことのできるお方でもありましたが、自分たちの日常の生活が危うくなることへの懸念から、人々はイエス様にいて欲しいとは思わなかったのでした。村の人々は、先ほども申しましたように、これまでほんとうに苦しんできたひとりの憐れな孤独な男が、正気に戻ったことを喜ぶことよりも、自分たちの生活が脅かされることをむしろ心配致しました。否、それは、村人たちのそれぞれにすくっている汚れた霊が恐れを抱いた結果だったとも言えるのです。
それから汚れた霊を追い出してもらった男は、このあと、イエス様について行きたいと願いました。男には、帰る家がなかったのでしょう。家族や知人たちからも、遠の昔に関係を切られていたかもしれません。あるいは、これまで、差別され、人々から遠ざけられてきたゆえに、汚れた霊が出ていったからといって、病にかかる以前のように、人々が、自分に接してくれるだろうとは、思えなかったのかもしれないのです。癒されたからといっても、差別されることからは解放されないと思ったのです。ですから、彼は、イエス様たち一行と一緒に行きたいと願ったのではないでしょうか。もちろん、単純に、この方についていきたいと思っただけだった、とも考えられますが。ところが、イエス様はそのことをお許しになりませんでした。
イエス様は、彼に、「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい」と言われました。イエス様は、あるときは、病が癒されたことを誰にも言ってはならない、と言われました。この男の場合は、自分の身内の人々に自分の身に起こったことを知らせるように、言われました。イエス様は、この男は、地域共同体から疎外されておりましたから、何としてでも、もう一度、元の生活の場に戻っていくことを願われました。彼が、墓場でつながれていた、否、暴れまわって、それさえもできない状態であった、それは、彼自身の責任ではなく、彼に取り付いた汚れた霊の仕業であったのだと、聖書は語ります。
汚れた霊が出ていき、正気を取り戻した今、彼は、元の生活の場に戻っていき、そこに再び受け入れられることこそが、必要でした。「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことを知らせなさい」とイエス様は言われました。
そうです。彼には、帰る家があったのです。身内がいたのです。そもそも、なぜ、彼がそのようなことになったのか、聖書は、彼がこれこれの生活をして、多くの人々に迷惑をかけて、そして、結局自暴自棄になった、自分の責任で、このようなことになってしまったのだ、とは一言も述べていません。彼に、汚れた霊が、しかも、数多くの汚れた霊が取りついたのだとしか述べていません。彼の責任ではないのです。彼は憐れでありました。その彼がイエス様の御力によって解放されたのです。
その彼は、まず、元いた場所へ、そこに戻って、親や兄弟たちに受け入れてもらう必要がありました。そして、誰もが見捨ててしまったこの男を憐れんでくださったお方がおられたことを伝えよ、誰もなしえなかったことをされた方がおられたことを伝えよ、そう言われたのです。
この男の身に起こったことは、イエス様がキリストであるという一つの証しでした。イエス様が、汚れた霊を追い出されました。彼は、苦しみから解放され、本来の自分を取り戻しました。そして、イエス様がどのように自分を憐れみ、自分にかかわってくださったかを語りました。こうしたイエス様との直接の出会い、その証しこそが、イエス様を真実に語ることになります。イエス様は、このとき、この男が、もとの生活の場に戻り、そこで受け入れてもらうことを強く願われました。そうして初めて、彼は、幸せになれるからです。
私たちにもまた、同じです。イエス様が、私たちの人生になさってくだったことを他の人々に語り伝えるのです。家族の者たちに、知人たちに語り伝えるのです。誰もがなしえなかったことをこのお方はしてくださった、そのことを伝えるのです。それは、今、ここで、生きて働いてくださっているイエス様(聖霊とお呼びした方がいいのかもしれませんが)を語ることになります。
平良師