平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2013年5月5日 国は国に向かって剣を上げず

2013-07-13 21:35:22 | 2013年
イザヤ書2章1~5節
国は国に向かって剣を上げず

 多くの国が国に向かって剣を上げることをします。それらの国は、そのことができる憲法をもっています。ほとんどの国がそうだと言って過言ではありません。ところが、日本だけは、そのことを許さない憲法をもっています。5月3日は、憲法記念日でした。日本の国は、今、これまでの憲法を変えようという動きが高まっています。そして、夏の参議院選挙においても、そのことが争点になりそうです。この憲法改正の動きは、単に、現状に見合ったよりよいものをめざすということだけでなく、その最大のねらいは、憲法9条を変えることだと言われています。
 憲法9条は、平和の砦だと言われていますし、日本においては、おそらく、憲法9条が戦争突入を回避させてきたという点では、間違いありません。その9条がなくなるということは、平和が破壊されるということですから、私たちキリスト者たちも、黙っているわけにはいかないということになってきているのです。そこで、私たちキリスト者は、何を基にして、憲法を変えるべきか否か、憲法9条を変えるべきか否かを判断したらよいのでしょうか。それは、もちろん聖書です。聖書は何と言っているのか、聖書にのっとって判断するのが、私たちキリスト者のあり方です。
 しかし、同じキリスト者でありながら、私たちの教会の中にも、護憲派だという方もいれば、改憲派だと言う人もいることでしょう。そして、両者の行き着くところは、何やかやいっても憲法9条に行きつくのではにないでしょうか。そして、それについて賛否両論でてくるのですが、その立場の違いは、どこから生まれてくるのでしょうか。それは、聖書のどこをよりどころとするのか、そこのところの聖書の解釈はどうなのか、それらの違いから生まれてくるのでなければなりません。
 ですから、私たちキリスト者は、一般の社会で議論になることに加えて、聖書は何と言っているのか、そのことを巡って議論をしなければならないでしょう。私たちキリスト者も大いに、この憲法改正、憲法9条を変えるべきか否かについて、タブーを打ち破り、議論をした方がよいのではないか、と今は思うほどです。今、そのことを考えるときになった、機が熟してきた、そう言えるのではないでしょうか。そして、そのときの判断は、聖書を各々が根拠としているということです。
 そのことは、私たちの教会の成長にもつながることになるでしょう。おのおのがキリスト者としての実存をそれこそかけた議論になるわけです。しかし、それは、非常に危ういことでもあります。互いに反対の立場の方々の人格までを否定しまうことにもなりかねません。ですから、露骨な議論は避けて、少なくとも、牧師は、聖書だけを語り、あとは、その聖書の箇所を自分の置かれている状況に引き寄せて、考えて、各々が判断をしていく、それだけに留まるべきだ、といった考えもあります。
 私は、基本的にはその立場でこれまでやってまいりました。しかし、時代は、非常に危機的な様相を呈してまいりました。しばらくは、2月11日前後の信教の自由をおぼえての礼拝、憲法記念日の前後の礼拝、終戦記念日の前後の平和をおぼえての礼拝では、平和についての説教をしなければと思っております。もし、私がそのことを放棄すれば、それこそ、私は自分の職務を放棄したということになりかねません。
 そして、平尾教会では、これこれのことについて、議論がなされ、それも、聖書に基づいてなされ、結局、聖書の引用箇所や解釈が適切であるかどうか、そのようことについて意見が交わされた、その記録をまとめて、公にも発表する、そのようなところまで行き着いたらいいと思います。そして、信仰を互いに高め合うことになったらよいかと思います。その結果、教会が分裂するどころか、ますます自由に安心して何でも語ることのできる群れとして、キリストにある群れとして、証を立てていくことができればと思います。
 とかく、一般社会では、宗教と政治については、タブーです。それは、それで、この二つのことについては立場が異なると、相手を理解しにくく関係が悪くなることが多いので、そのようにタブー視されるのだと思います。しかし、憲法9条について現在議論が必要であるのは、私たちキリスト者の信仰がストレートに問われる事態に今の日本がなっているからです。つまり、イエス・キリストに従うことになるかどうか、決して大げさではなく、そのことが問われています。
 イエス・キリストは、マタイによる福音書の山上の説教と言われている箇所の5章の9節で「平和を実現する人々は、幸いである」と言われました。それなら、平和を実現する、そのために軍隊が必要である、という論理も当然あるわけです。しかし、戦争になりますと、人権などが問題とされなくなり、人々のささやかな幸せが崩れさせられるのは、いつの時代も、どこにおいてもそうなのです。もっとも弱い者が大きな不幸を背負うことになります。9条が崩れますと、戦争ができる状況になります。これまで、とても、相手国に剣を上げるなどといったことを考えることのなかった日本が、少しのことで、そのことを考えるようになる、そういう事態は出てくるのではありませんか。
 歴史の上では、これまでもそうでしたし、これからもそうだと思うのですが、国が国に向かって剣を上げることは少なくありませんでした。時代を超えて、世界中どこでも、戦争は行われてきました。「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは、剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」と神様は、イザヤに幻の中で告げられました。
 これは、イスラエルの側にだけ立っての神様の発言とは言い難いと思います。これは、世界に対して告げられている御言葉でしょう。イザヤは、南ユダの預言者でした。北イスラエルがアッシリアに滅ぼされてから、南ユダへの脅威も強まりました。歴代の王として立てられた者たちの中には、神様に従う者もおりましたが、背く者もおり、そのたびに、各時代の預言者たちが、時代の為政者や国の民に警告を発しました。
 それにより、さらにユダに危険を招く王たちも少なくはありませんでした。アッシリアに対して、ユダの王たちも上手に付き合っていかねばなりませんでした。神様の御心を無視することもありました。そこで、預言者が、王の政策や民の生活ぶりについて、あれこれと神様の御心を伝えねばなりませんでした。結局は、ユダも、新しく興ったバビロニアによって滅ぼされてしまいますが、イザヤは、その後の時代においてもなお預言者としての務めを果たしました。神様の裁きを語ることもありましたが、彼らに、なお残されている希望、これからの希望を語ることも致しました。
 イザヤという預言者について言えば、捕囚になったユダの人々が、バビロニアから解放されたときの、あるいはそれ以降は、イザヤの名を名乗る別の人物やイザヤの弟子集団が、預言者イザヤの意思をついで、イザヤ書を書き記していったのではないかと言われています。いずれにしても、この箇所においては、戦いに明け暮れていた周辺諸国やその脅威にさらされていたユダに、平和がもたらされるといったイメージがありありと描かれています。戦いに終止符が打たれ、平和が、訪れる、終末的な世のありようとも言えるでしょう。しかし、このような状態は、誰が考えても理想の世界ではありませんか。人々が、農業にいそしむ、本来のあるべき平和な日常の生活に戻っている、そういうイメージが描かれています。
 現代においても、世界のあちこちで紛争があり、武器が使われ、死傷者は後を絶ちません。日本も自衛のためと言え、戦いの道具を有しています。幸いなことに、それでも、憲法によって戦争ができないことになっているので、この68年間、どこの国とも戦争をしないですんできました。
 「剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする」という言葉の意味は、武器から農機具を作るということです。かつて、前の戦争のときには、逆の現象がありました。それぞれの家庭にある鍋や釜、そして農機具に至るまで持ってこさせ、それで、武器を作りました。今の憲法は、国民が国家が誤った方向に行かないようにと、国民が、国家に憲法を守らせる憲法です。立憲主義と言われます。たとえば、こうした憲法は、少数者への人権侵害などといった誤った方向に国が行くことに歯止めを利かせています。
 それが、今度、変えようという動きの憲法は、国が国民に憲法を守らせるという方向性となっています。例えば、公の利益に抵触すると国が判断したならば、それに対して、反対するような動きを権力でもって、弾圧するといったものになる恐れすらあります。公の利益とはいったい誰のための利益でしょうか。少数者の権利などが、公の利益のために侵害されることがあります。そのとき、簡単にそうさせないのが、憲法です。
 国民が、国に対して、そこらをしっかりと守るようにと、しばりをつけています。改憲を行っていこうとしている方々の内容を見ますと、憲法9条だけでなく、私たち信仰を持っている者たちの立場からすれば、表現の自由、政教分離の原則が犯される危険性に満ちた内容になっています。そう考えてみていきますと、ある方向に向かう全体の動きのなかの憲法9条であるのだと、あちこちとつじつまがあってくることになります。
 日本バプテスト連盟の1979年の信仰宣言のなかに、「国家も神の支配のともにある。国家は救いに招かれているすべての人間の尊厳を守るべきであるが、決して良心の主となることはできない。良心の主は神のみである。私たちは信仰による良心の自由および政教分離の原則を主張する。教会は国家に対して常に目をそそぎ、このために祈り、神のみむねに反しないかぎりこれに従う」とあります。国の政治に無関心であることを勧めるどころか、しっかりと見つめ、そして、国のために祈り、誤った方向に国がいかないように気をつけていくことを宣言は述べています。
 それから、憲法20条、信教の自由という項目があります。これまでのものと改憲をしようとしている方々が案と出しているものと第3項だけを比較しますと、従来は、「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教活動もしてはならない」とだけなっていたものが、「国及び地方自治体その他の公共団体は、特定の宗教のための教育その他の宗教活動をしてはならない。
 ただし、社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えないものについては、この限りではない」となっています。つまり、前の戦争のときには、靖国神社は宗教ではないということになっておりました。今度も多くの議員たちが、靖国神社で参拝をしましたが、国の宗教活動ということにならないかどうか、また、裁判で戦われることになることでしょう。
 しかし、この改憲派の案が通れば、こうした参拝も社会的儀礼や習俗的行為に扱われかねません。戦争で多くの苦しみを負わされたアジアの周辺諸国が、かつてのまた、日本の軍国主義を連想したり、やはり、自分たちの国に対して犯した過ちを反省していなのだなと受け取られても、致し方ないことになります。
 公の建物を建てるときや何かを始めるときになされる神道式のいろいろな儀式もまた、堂々と、社会的儀礼や習俗的行為でまかりとおっていくことでしょう。神社の維持管理費の支出やお掃除なども、町内会で堂々となされる日が来ることになります。私はキリスト者なので、できませんというと、白い眼で見られたり、非難されることになります。
 さて、今日の聖書の箇所は、イザヤが見た幻ですが、終わりの日に、とありますから、終末をイメージしています。それは、理想的な世界がやってくるということです。神様が最終的に願われているありようです。「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる」。争いは裁きの対象になります。そして、それにかかわった人々は戒められることになります。せめて、戒められることの少ない国民でありたいと思います。
 そして、「彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする」とあります。武器の放棄です。そして、平和な社会を作っていくのです。「国は国に向かって剣を上げず」。武器をもって、戦うことをしません。戦争の放棄です。「もはや戦うことを学ばない」、当然、戦争の備えをしないということです。軍備をもたないということです。まさに、このイザヤ書2章の1節から4節は、憲法9条と内容的には同じです。
 「ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう」。イスラエルの人々よ、神様の光の中を歩もうではないか、と言われます。光ということで言えば、イエス様は、ご自分のことを「わたしは、世の光である」と言われました。前にも述べましたように、イエス様が、わたしたちの模範です。平和を造り出すようにと教えられたイエス様は、いかなる抵抗もなさらず、十字架におつきになりました。敵のために祈ることを教えられました。目に目を歯には歯をと教えられているが、あなたがたはそうであってはならない、むしろ、自分を迫害する者のために祈れ、と教えられています。私たちキリスト者としての立ち方は明らかです。
 最後に、2002年に日本バプテスト連第49回定期総会で採択された「平和に関する信仰的宣言(信仰宣言)」の第6戒を朗読して終わります。「第6戒。あなたは殺してはならない。主イエスによって解放され生かされた私たちは、他者を殺しその存在を否定することができない。殺しのあるところに平和はない。私たちは殺さない。軍備のあるところに平和はない。私たちは殺すための備えを否定する。戦争に協力するところに平和はない。私たちは殺すことにつながる体制づくりに協力しない。暴力のあるところに平和はない。私たちは暴力の正当性を否定する。主に従う教会は敵を愛し、迫害する者のために祈る」。


平良師

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