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迷歩録  とらのい

2018-03-23 13:01:25 | 日記
  久方の  天はブルーに  透き通る  花や喜び  薫を飛ばす


                                ひのひら  ろくべえ



    虎の威を借る狐、という諺の「とらのい」である。

   今、テレビの話題をさらっているものは、殆どが、虎の威を借りた人たちの問題なのかもしれない。

   総理大臣の威を借りた者、協会理事長の威を借りた者、官僚という威を借りた者、自分の立場が威を借りた

   立場であることに気づかないままに、行動したことが、大騒ぎとなる。なぜ大騒ぎになるのかが自分は理解

   できない。そんな感じが伝わってくる。

    虎の威を借りる狐とは、権力、権勢のある人の力をかさに着て、いばる人のたとえ(広辞苑より)

   つまり、様々なその時その時の威を借りながら、物事を進める人ということになる。コミュニケーションを

   行う時、このような人には良く出会う。
 
    自分の主体的な意見や生き方を持っていないのに、あたかも自分が中心いいるかのように、権力者の威を

   かりて、そのことに気づかないままに、発言、行動する人は、自分の周りにも沢山いるのではないだろうか。

   そのような人達とコミュニケーションとるのは大変だが、社会人としては、逃げてばかりいる訳にもいかない。

    そんな時こそ、個性である、自分らしく、自分を知って対応するコミュニケーションが求められる。

   虎を威と感じている自分があるから、相手は虎の威を使おうとするのではないだろうか。虎であろうと狐であろうと

   そのようなことが問題ではなく、国民、大衆、クライアントに向いた言葉、行動を目指す姿勢に変わりがなけれ

   ば、怖がることは何もない。ということは怖いのは虎ではなく、大衆であり民衆でありクライアントなのである。

   そのことを理解すれば、虎の威を借りた狐を怖がることは何もない。

    つまり、証人喚問で、大衆の方向を向き、国民にとって有利な発言をすればいいだけ事ではないだろうか。

    借りた威は返せばいいのではないだろうか。

   いずれにしても、コミュニケーションというものは、自分自身が行う行為、その行為に対して自分が選択、判断

   を行うという事を肝に銘じておくことが大切なのではないだろうか。

    少なくとも、規則や決まり事とか、自分でない人が決めてることを他人に守らせようとする行為とか、忖度を

   させる言動を取ることの危険性を知る必要があるのではないだろうか。

    コミュニケーションは誠実と誠実の交流であることを願いたいものである  。

迷歩録  かけひき

2018-03-22 09:27:10 | 日記
  <strong>雨去って  風吹き荒れる  笠之原  紅く広がる  椿絨毯


                               ひのひら  ろくべえ





     国際関係の中で、北との関係をどのようにするのか、アメリカや、南と国際的に「かけひき」

    が行われ、日本においては、国会内で森友学園問題をめぐって「かけひき」が行われている。

     その「かけひき」の状況を、伝えるのがマスコミである。さらには相撲協会、レスリング協会

    などの「かけひき」も、報道を通じて伝わってくる。これに何の異論もないが、このことと個人の

    コミュニケーションとは、意味が違うという事を解ってほしいものである。

     つまり、個人におけるコミュニケーションは、自分を有利にするためのものではないという所が、国

    関係や、組織の内部における「かけひき」とは異なる所ではないだろうか。

     国や組織における「かけひき」は、少しでも有利に物事を進めようとする意図が働いている「かけひき」

    ではないだろうか。

     個人と個人のコミュニケーションは、相手を尊重するための交流ということになる。その交流に「かけひき」は

    無用ということになる。大切なのは「かけひき」より、誠実さということではないだろうか。

     国会内の答弁や態度に違和感を覚えるのはそう言った所が強調されることにあるのかもしれない。

    つまり、人と人がかかわる所には「かけひき」は無用ということになる。ありのままの自分をさらけ出して

    交流することが大切なのではないだろうか。

     相手を尊重するため、自分を信頼してもらうための交流であることを忘れてはならない。

    友人関係や職場人間関係など様々な所で、「かけひき」だけに集中して交流を行う人がいるが、そのような人に

    信頼関係は築けないのではないだろうか。

     コミュニケーションにおいては「かけひき」ではなく、自分を伝えることがとても大切、相手より有利に

    なろうとする。「かけひき」はいらないことを、学びたい。

     今、自分がどのような関係を求めているのかということが一番大事な視点、そのことがはっきりしていれば

    「かけひき」が必要なのか必要でないのかを見極めたコミュニケーションができるようにすることが大事なこ

     とではないだろうか。

     「かけひき」にエネルギーを注ぐのでなく、信頼されるという方向にエネルギーを燃やしたいものである。

迷歩録  ふざける

2018-03-21 11:03:44 | 日記
 <strong> 長雨に  首を垂れる  菜の花や  蝶も呼べずに  青空を待


                                ひのひら  ろくべえ




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    国会、相撲界、レスリング界、文部省、様々な所で「ふざける」行為が表ざたとなり、

   国民の一人として「ふざける」なと大声で叫びたい心境である。

   「ふざける」とは、たわむれる、おどけたことを言ったり、したりする。うかれて遊び騒ぐ

   ばかなまねをする。人をばかにする。(広辞苑)とある。

    国民を愚弄する国会、政治家、官僚、酷すぎはしませんか?連日繰り返し繰り返し、報道

   される内容を視聴すればするほど、悪「ふざけ」のひどさに、気分が悪くなるほど、目をそ

   むけたくなるが、目をそむけるのでなく、しっかりと見届けて、選挙の時の参考としたいと

   頑張って、見ようとしている。これも人生の修行かと諦めながら。

    「ふざける」という行為は、本人たちが意識している場合と意識していない場合がある。

   意識している場合はそれほど問題とならない、すぐに訂正が可能であるから、しかし意識して

   いない悪「ふざけ」は問題である。本人たちが「ふざけている」とは思っていないから、その

   ことを証明して伝えるだけでも、エネルギーを必要とする。本人たちが認めるまでには、その

   エネルギーは地球を燃やすほどいるのではないだろうか。

    政治家、官僚の「わるふざけ」は、酷いと感じるのは、私だけではないであろう。

    森友学園問題だけではない、文部省問題、さらには年金機構問題、次から次に「ふざけた」

   問題が表出してくる。このような国の指導者がいくら自分たちは、真摯に丁寧に説明をしてい

   ると、鸚鵡のように繰り返しても、国民は信じないのではないだろうか。政党支持率がゼロに

   ならないことが不思議ではないだろうか。ゼロではなくても一桁になってもおかしくないのでは

   ないだろうか。言論統制を知る、戦争体験者は、今回の文部省に声をかけた自民党の政治家をど

   のように思うのであろうか。

    いずれにしても「ふざける」というのは、無意識に行われた時がとても問題なのである。

   コミュニケーションを行う時、自分は冗談とか「いたずら」と思って、相手に投げかけたとして

   も、相手はそのようには受け取ってもらえない、そんな場合、相手は胸の奥で「ふざけんな」と

   つぶやいているのかもしれない。そのつぶやきを察するほどの感覚を研ぎ澄まし、コミュニケー

   ションを行う事が大事であることを学びたいものである。

    相撲界もレスリング界も、社会のありとあらゆる分野で、コミュニケーションを知ることが必要

   なのではないだろうか。人間の生きる営みとして、食事や休養、運動のように知ることが大切な時

   代であろう。

   

迷歩録  つかえる

2018-03-20 09:17:37 | 日記
  落椿  庭を染めるや  雨の後  喜び燥ぐ  蕗の薹かな


                              ひのひら  ろくべえ



    昨日、国会で財務省、理財局長がこのような答弁をしていた。

    官僚は時の政権に「つかえる」のが仕事と発言した。そのことをテレビで見ていた私は違和感を

    感じた。

     「つかえる」(仕える)とは、官などについて職を行う。目上の人の身近にいてその用をたす。

    かしずく。奉仕する。(広辞苑より。)この言葉を信じるとするならば、それは時の政権ではな

    く、国民ということではないだろうか。

     官僚であることで時の政権が一番大事と意識している本音であろう。

    しかし、意識すべきは国民であると考えている、自分との意識の差が違和感を感じさせたのかもし

    れない。

     つまり、「つかえる」のは、時の政権でなく国民であることを忘れないでほしい、そのようなこ

    とを、忘れてしまっているから、時の総理婦人や政権に過剰な忖度をしてしまうのではないだろうか

     主権は国民、その国民に「つかえる」のが官僚という仕事ではないだろうか。国民の利益を護り、

    国民に「つかえる」のが公務員という事を忘れないでほしいものである。

     このような勘違いは民間でもいくらでもある。例えば経営者に「つかえる」のが自分の仕事と勘違

    いしている人は多いのではないだろうか、さらに上司と勘違いしている人も多いのであろう。

     勘違いの国、日本ということにもなりかねない。勘違いを改めたいものである。

     如何なる職場や職業でも、「つかえる」べきは、クライアントであり、経営者や上司ではないことを

    肝に命じておかなければ、昨日の理財局長のようなことを、あたかもそれが一番正しいがごとく言って

    しまうことになる。

     一流の歌手であった、三波春夫さんが、「お客様は神様です」と発言して流行語となった時があった。

    クライアントは神様です。その神様に「つかえる」のが、職業人なのです。権力者や、上司に「つかえる」

    のが、仕事でない事だけは、知っておくべきでしょう。

     間違いや、勘違いは訂正できる。恥をかく前に意識を訂正したいものである。

迷歩録  こうへいむし

2018-03-19 11:44:08 | 日記
  霞行く  紅き椿の  庭木かな  春雨煙る  草木笑顔

                        

                             ひのひら  ろくべえ


    

    こうへいむし(公平無私)とは公平で私的な感情をまじえないこと(広辞苑)とある。

   行政や政治、リーダーに求められる資質である。

    しかし、このことが大きく揺らいでいる。政治の場での公平無私が招いた森友学園問題、身内をかばうばかりに

   してきた、行政の歪みは、民主主義を揺らす問題と発展している。今日も国会ではその論議が繰り返されている。

   今に至っても、かばい続ける理由とは何であろうか。ただただかばいたてをしてるに過ぎないのではないだろうか。

   さらには、レスリング協会の依怙贔屓な学長発言、日本が今以上に発展するということは、経済性だけでなく、精

   神的発展、つまり人間としての、ありようの先端を走るということが先進国ということではないだろうか。

    経済的にあるいは社会的に地位を確保した身内をつくると言った狭義の目標ではなく、世界に誇れる精神性、つ

   まり、文化というものを培うだけの、基盤を持った人間が自由に、のびのびと暮らしていける日本という事を夢見

   る。社会というものを目指すならば、依怙贔屓ではなく、あくまでも公平無私という基準を持ち続けることが大切

   なのではないだろうか。

    対人援助などの場でも、公平を護りとうすことは、非常に難しい、しかし、難しいからといって、そのことをな

   おざりにしていると、たちまちクライアントから依怙贔屓人間という烙印を押されてしまう事となる。

    問題なのは自分が意識していない時に起こる依怙贔屓である。自分はそうは思ってないが無意識的に依怙贔屓を

   してしまう。その時事後処理が大切となる。素直に認め、その実態を明確にして、最初から出直すという事に他なら

   ないのではないだろうか。

    公の機関や政治家、リーダーと呼ばれる立場の人、あなたたちの公平性に、かかわる人はとても敏感ですそのこと

   常にを頭において行動することが大切なのではないだろうか。

    家庭における、父母の立場も同じである。子供に対して如何に公平であるかそのことを我が身に返って考える必要

   があるのではないだろうか。

    自分の回りを見回し、平等につきあうことができているかどうかを点検するのも大切であろう。そのような行動の

   積み重ねがコミュニケーション技術の向上へと結びつくのではないだろうか。