貧々自適

仕事のかたわらデジカメを構えたり
季節のうつろいや人の優しさに触れ感激する
そんな貧乏オヤジのつれづれ帳です

再会果たすⅡ

2009-09-25 00:13:11 | よもやま話
冒頭のヒガンバナは、伯父宅(兵庫県・市川町)のすぐ近くで。
道すがら、あぜ道にいっぱい咲いているのを見つけ、そこだけは「昔のまま」。
小雨がときどきパラつく天気で、イマイチの写真になってしまいました。

ホテルを出て、千里ニュータウンを走っていると「展望台⇒」の表示が。
ミーハーぞろいの我が家の面々、『行ってみよ~』(笑)
予想通り「大阪万博」跡地が見渡せる展望台でした。


展望台の階段に「昭和41年、昭和天皇が視察された」という新聞記事が貼ってあり、
ココからご覧になったのかな?。

国道171号線(通称西国街道)に出て、高槻市の家内の会社の人が入院している
赤十字病院へ寄り道。
私と同年代のその方は「末期ガン」、積極的な治療を拒否されたとか。
ホスピス病棟におられて、現在は穏やかな表情をされていました。

淀川を渡って枚方市の知人宅へ。
我が家とは戦前からの付き合いのその方(奥さん)は、若い頃は「すごい美人」で
80歳目前の今でも面影が残っていて、初対面の家内もびっくり!(笑)
ダンナさんもガンの摘出手術をされたと聞きましたが、お元気そうで何より。

親戚でもない我が家との関係をオヤジの生前聞き漏らしていたので、今回初めて
○○子ねえちゃん(姉や私はそう呼んで慕っていた)に質問したところ、
「子ども(当時の私達)には聞かせられない事情」があった姉ちゃん親子を
祖父が手助けしたのが縁だそう。じーちゃん、見直したで!(笑)
お昼をねえちゃん夫婦と食べ、別れ際に来年の祖父の五十回忌、3年後のオヤジの
三十三回忌での再会を約束しました。それまでお互いに元気で…

次は尼崎時代の隣家のおばさんが住む伊丹市へ。
こちらも私が生まれたころからの長~い付き合い。
おばさんの長女が、生後すぐ死んだ私のすぐ下の妹と確か同い年、子どもの頃は
お兄ちゃん(女の子ふたり)が欲しかったのか、慕ってくれた想い出があります。
前日の従兄、福崎時代の隣家のおばさん、枚方の姉ちゃん夫婦とこのおばさんくらいが
私を「子どもの頃のアダ名」で呼んでくれる数少ない人たちになってしまいました。

最後に尼崎の生家跡へ行ってみましたが、区画整理(震災後の)が完了したのか
新しい道路が出来ていたりして、まったく昔の面影がなくなっていました。
せっかくなので、ちょっとだけ「鉄」を(笑)
阪神尼崎駅で、大阪にいる(下の妹の)姪と待ち合わせ、待っている間に撮った
「阪神8200系」

近鉄との相互乗り入れ用車両か?、と思いましたが山陽直通対応車両のようです。
震災時には、御影留置線で脱線したそう。痛かったやろな(笑)

「シメ」は、神戸の妹家族と姪をまじえて晩ごはん、深夜高松に帰り着きました。

【今日の一曲】
『ワシントン広場の夜は更けて』ヴィレッジ・ストンパーズ

昭和38年だそうです。
YouTubeでヒットしたので、PCで音を出すと母が「鼻歌」でメロディを…
ダークダックスの歌で昔何度も聴きましたから、記憶の片隅に残っていたのでしょう。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿