犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

小池龍之介著 『沈黙入門』

2013-05-08 23:07:46 | 読書感想文

p.22~
 ケチをつけたくなる、という心理を分析してみると、「これにケチをつけられる私のセンスは、すぐれてるヨ」という裏メッセージを含んでおり、ケチをつける対象よりも自分を優位に見せたい、という欲望と結びついています。つまり、ケチをつける相手についてお喋りをしているように見えて、実は自分のことを語っているのです。

p.54~
 正論を語ったからといって問題の解決になることはなく、周りの人を興ざめさせてしまうこと請け合いです。正論というのは、大多数の人間が納得し、少なくとも理屈のうえでは受け入れるものです。ということは、正論とは、それを言っている本人独自の考えではないことが明らかです。

p.61~
 「すみません」を何度も言いすぎると、本気で心から謝っていない印象を与え、「すみません」の価値を下げてしまうことになります。そもそも、「すみません」「ごめんなさい」「申し訳ありません」を連発する態度からは、「これからは改めよう」というよりはむしろ、「この場は適当にゴマカして、自分が変わらないですむようにしよう」というニュアンスが強くにじみ出てしまうものです。

p.76~
 他人の服装についてぶつぶつ悪口を言うのも、評論家や学者が他人や社会を批判するのも、仏道の立場から見ると変わりません。結局は怒りのエネルギーに駆り立てられての行為なのです。なぜ、放っておけばいいのに、他人を批判したり文句を言ったりしたくなるのでしょうか。それは、自分のダメさ加減から目をそらして、「ダメなのは他人、社会、世界のほうだ」と思い込みたいからです。

p.104~
 正しいこと、それ自体は言うまでもなく大切なことですが、「自分の」正しさを言い張ることは、たいていの場合、周りの人にとっては有害です。正しいことを己の心の中に持ち、それによって己をストイックかつ美しく調律してゆくことと、それをわざわざ言葉にして他人にぶつける不粋さの間には、天と地ほどの差があるように思われます。


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 社会問題を「人生の問題」として論じている文章に接すると、人生の問題の切り口としては尤もであり、その中の論理には深く納得するものの、現実にはそれでは済まないのではないかという疑問が沸くことがあります。逆に、人生の問題を「社会問題」として論じている文章に接すると、社会問題の切り口としては尤もであり、その中の論理には深く納得するものの、現実にはそれでは済まないのではないかという疑問が沸くことがあります。

 社会とは人の集まりの別名であり、すなわちそれぞれの「自分」の集まりであり、自分とは「他人にとっての他人」であるところに社会性の認識が生じるものと思います。あまりに垂直的にすぎる問題の立て方に対しても、水平的にすぎる問題の立て方に対しても、私はその鈍感さにイライラすることがあります。言葉で書くと、どちらも「この人は苦労していない」「この人は恵まれている」という苛立ちですが、その質は違っています。