犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ある児童虐待事件の光景

2010-02-28 23:46:26 | 実存・心理・宗教
 その一報を聞いたとき、彼(児童相談所職員)は来るべき時が来たと思った。全身の10か所以上に内出血があり、数か所にタバコによる火傷があれば、虐待が行われていると疑うのが通常である。しかしながら、児童相談所職員の公式見解としては、そんなことは口に出せない。
 世間はいつものように、「児童相談所の怠慢により救われるはずの命が救えなかった」との問題意識で構造を作り上げるだろう。これから当分の間は、抗議の電話や手紙への対応で忙しくなるかも知れない。相談所の窓口としては、前例に従い、「しつけと虐待の見極めは非常に難しいんです」「虐待がないのに行政が介入してしまっては大問題です」と答えてやり過ごすしかないのだろうか。彼は、わずか5歳で失われた女の子の命を悼む余裕のない自分の境遇を恨んだ。

 女の子の父親は、娘は階段から滑って落ちたのだ、叩いたのはしつけだと彼に繰り返し説明していた。彼がそれでも食い下がると、父親は「お前に何がわかるか」「殺してやる」「ふざけるな」「死ね」と怒鳴り、彼を追い返した。女の子も、「パパは優しい」「いじめられたことはない」と話し、彼にいつも笑顔を見せていた。女の子の母親は、「ここで娘を連れて行かれるなら死んでやる」と彼をなじった。
 彼はふと、女の子の両親がここまで言うのであれば、本当は虐待は存在しないのではないか、自分の考えすぎではないのかと思い始めた。そして、子供ならばたまには誤ってアイロンやポットを倒すこともあるだろうと考えた。その結果として、もう少し様子を見る必要があり、緊急の対応は不要だとの結論を導き、課長に報告していた。これは、彼自身の精神の防衛のため、無理に自分をそのように思い込ませ、女の子の命を見捨ててしまった結果に他ならない。

 傷害致死容疑で逮捕・勾留された両親の取り調べの報道に接し、彼は頭が混乱してきた。両親は頑として致死罪への関与を認めず、「すべてはしつけであった」「行き過ぎはなかった」と繰り返している。
 彼は、それは全くその通りだろうと思った。彼は連日、女の子の両親からそのように聞かされていたからである。それゆえに、彼は虐待は存在しないと最終的に判断したのであった。両親の主張が通るのであれば、彼が責められる筋合いはない。当の本人が虐待はないと主張し、それが弁護士によって正当化され、さらに無罪の推定や証拠裁判主義の理論によって傷害致死罪での立件が見送られ、傷害罪で起訴されるのであれば、そこに第三者が踏み込んで責任を感じる必要があるだろうか。
 しかし、この世間の常識は、両親に人間としての常識が期待できなくなればなるほど、さらに児童相談所の怠慢により命が救えなかったことを責め立てる。そして、自己犠牲的な多くの職員が、理想と現実の狭間で苦しんで燃え尽きていく。

 彼は係長とともに、所長室に呼ばれた。課長は、この問題を児童相談所の不祥事と捉え、責任の所在の明確化と今後の課題を所長に訴えた。彼は、課長は5歳で失われた女の子の命には興味がないのだと思った。
 課長は、女の子の両親に対して弱腰であった彼の責任は免れないとの見解を示した。そして、クレームは虐待の存在を隠す方便である以上、今後はクレームを恐れることなく、毅然とした態度を取るべきだと結論付けた。
 彼は、それで全く問題がないと思った。女の子の両親が傷害致死罪で起訴されないならば、この世で誰が女の子の命の重さを背負えるというのか。子供にとって最愛の存在であるはずの両親に裏切られ、命まで奪われたのであれば、その人生には何の意味があったというのだろうか。子供は親を選べない。この哲学的真理の前には、責任の所在など些細な問題でしかない。

 所長は彼に述べた。「国民の公務員に対する視線は厳しいんだから、税金泥棒と言われないように頑張ってくれよ」。続いて課長も述べた。「我々はそれだけ重い職責を担っているんだから、しっかり自覚を持ってくれないと困るよ」。彼は、自分もそろそろ燃え尽きる頃だと思った。


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フィクションです。

ある死刑求刑の通り魔事件の光景

2010-02-21 23:39:06 | 実存・心理・宗教
 「これじゃ全然ダメだ。話にならない」。弁護士が差し出したのは、拘置所の被告人から預けられた被害者遺族の1人に宛ての謝罪文であった。彼女(事務員)は手に取ってみると、誤字脱字だらけのやる気のなさそうな文字が並んでいた。「○○様の大事な娘さんを奪ってしまって誠に申し訳ございません。逮捕されて、とんでもないことをしてしまった自分に新ためて気ずきまして、不眠症に悩んでいます。警察ではすべてちゃんと話したつもりでした。これまでは大人の取るべき行動ができませんでした。本当にスミマセン……」。
 とても通り魔で2人の命を奪い、死刑求刑が予想される被告人の手紙とは思えなかった。弁護士は彼女に言った。「こんなもの出したら大変なことになるから、急いでちゃんとした謝罪文を書いてくれないか?」

 彼女は昔から作文が上手く、その能力は社会に出ても重宝されていた。しかし最近は、単に社会の側が彼女の能力をいいように利用しているだけだと感じることもあった。彼女は、とにかくパソコンに向かった。
 「私は、○○様の心境を想像しようとしてはすぐに限界にぶつかり、毎日跳ね返され、絶望しています。しかしながら、この私の心境を絶望と表現することは、私自身には自業自得という最後の逃げ場があり、その場所に甘えているに過ぎません。この世に償いという形式があるとしても、人の命と人の死だけは償うことができない以上、私に償いなどできるわけはありません。私は自分の死をもってしても罪を償うことはできませんが、この理屈をもって死刑を免れる方向で嘆願を行うことは、人間として最も卑怯なことだと思われるのです……」。

 彼女は自分の書いた文章を読み返してみた。やはり全然ダメである。人を殺した経験のない第三者がいくら取り繕った言葉を発しても、伝わってくるのは偽善臭でしかない。殺された者の気持ちがわかるわけがない。もしもこの世に、人の命を奪っても許してもらえるような言葉が存在しているならば、それは誰かによってとうの昔に発見されているはずであり、今ここで彼女が発見できるはずもない。
 弁護士は彼女の書いた文章を見て、しばらく複雑な笑いを浮かべていたが、やがて満足そうな笑みに変わった。「あいつは、死刑になりたいって言って自棄になって通り魔を起こしたんだから、これでいいんだろうな。ちょっと上手すぎるけど、まあ何というか、あいつがこんな文を書けるようになったら、著しい進歩だろう」。

 その数日後、弁護士が拘置所から持ち帰った被告人の謝罪文を見て、彼女は脱力した。彼女の打った文章が、一言一句そのままに、しかもところどころに誤字を含みながら、やる気のなさそうな文字で便箋に記されていたからである。弁護士は、「もうちょっと自分の頭で考えろよなあ」と苦笑しつつ、彼女に対し、被害者遺族の1人に向けて郵便で送るように命じた。彼女は、詐欺に加担しているような後ろめたさを感じつつ、組織の職務命令に従った。
 さらに数日後、彼女が発送した郵便が、封を開けられないままクシャクシャに丸められて、別の封筒で送り返されてきた。弁護士は、彼女に対し、事前にコピーしておいた被告人の謝罪文を裁判所に証拠として提出するように命じた。立証すべき事項は、「被告人は十分反省しているにも関わらず、それが相手方に理解されず、さらに罪の意識を新たにしている事実」とされていた。

 検察官の求刑は死刑であった。これに対し、裁判所の判決は、無期懲役であった。裁判官も人間である以上、死刑か無期懲役かのギリギリまで迷い抜いた場合、最後の判断を決めるものは、過去の判例などではなく、自分の職業的良心に基づく直観である。また、この特殊な言語空間においては、すべての言葉は、「被告人の真摯な悔悟の念がわずかでも見られること」「被告人の更生の可能性が皆無ではないこと」「被告人の死刑を回避することに一筋の希望がみられること」といった基準から光を当てられ、細かく吟味される。
 彼女が弁護士から聞かされた判決理由によれば、この死刑回避の結論が導かれる過程において、彼女の書いた文章が決定的な役割を果たしていたらしい。彼女の文章は、法廷の外では全く話にならない偽善の塊であり、人の心を打たない駄文であったが、法廷内の特殊な言語空間の中ではかなりの破壊力を持ってしまい、裁判長の判断を左右したようであった。

 すべては筋書き通りであった。被告人は彼女の言葉を元にして反省の言葉を語ることを覚え、わずかでも自らに罪の意識を芽生えさせた以上、死刑回避の理由としては完璧である。裁判長であろうがなかろうが、「被告人の更生の可能性を信じたい」という気持ちにならなければ嘘である。
 彼女は、被告人が一度も自分の言葉で反省の弁を語らず、罪と罰の意味を考えないままに極刑を免れた事実を前にして、中途半端な詐欺師のように心がざわめいた。しかしその感情も、弁護士の自尊に満ちた表情と、弁護士が彼女の尽力を完全に忘れて喜んでいる様子を前にして、憤慨の情と空虚感にかき消された。そして、判決が死刑であった場合には、高等裁判所への控訴趣意書の起案で目の回るような忙しさになっていたことを想像し、安堵の気持ちが湧きあがっていることにも気づいた。彼女は、これが刑事裁判の限界であり、その限界は人間の外側ではなく内側にあることを知った。


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フィクションです。

法廷で話せなかったダイレクトメールの話

2010-02-14 01:52:01 | 実存・心理・宗教
 そのダイレクトメールの宛名は息子であった。彼女は、ごく自然に封筒を手にし、その瞬間は母親に戻っていた。この一瞬を喜びと呼ぶにはあまりに悲しすぎ、この一瞬を希望と呼ぶにはあまりにも絶望的であった。
 「皆様方におかれましては、益々ご健勝のこととお慶び申し上げます」。その会社のデータベースの中では、息子は普通に生き続けている。この一瞬の錯覚が引き起こす現実の喜びは、3ヶ月前にも息子宛てのダイレクトメールを送りつけてきたこの会社には絶対に感づかれたくなかった。マーケティング戦略の中では、ダイレクトメールに反応を示さない消費者と、反応を示せない死者との間に差はなく、どちらも費用対効果のない「外れ弾」にすぎない。
 「このたびは大変申し訳ございませんでした。お詫びの言葉もございません。二度とこのような不手際のないよう、社員一同全力を尽くすことが、せめてもの償いであると存じております」。彼女は3ヶ月前、折れそうな自分の心を、謝罪文の誠意に免じて何とか立て直していたのである。この3ヶ月間、この会社は、一体何をどう全力を尽くしたのか。

 彼女は座り込みたい全身の脱力の中で、再び電話を取った。彼女が淡々と要件を伝えると、電話は「お客様対応センター」に転送された。これは「クレーマー応対センター」の別名である。電話口の中年の男性の口ぶりは、いかにも百戦錬磨の「謝り係」であり、電話口の向こうでペコペコと頭を下げている姿が手に取るように見えた。
 「ご不快なお気持ちにさせてしまい申し訳ございませんでした」。「ご迷惑をお掛けしてお詫びの言葉もございません」。「お気持ちは本当によくわかります」。彼女は、「私の気持ちがわかるわけがないでしょう」と言いかけて、水に落ちた犬を打っているような気になり、それ以上言葉を継ぐことができなかった。
 この誠意ある謝罪が計算され尽くしたマニュアルであるならば、その悪意は人間の心を腐らせるものであり、この誠意ある謝罪が何の計算もないアドリブであるならば、その善意も人間の心を腐らせるものである。この上に個人情報保護やコンプライアンスが覆いかぶさってしまったならば、もはやその心を直視することは難しい。

 彼女は、「お客様対応センター員」の肩書きではなく、人間の声を聞きたかった。彼女は思わず言った。「お詫びはもういいです。あなたは、1人の人間としてどう思うのですか?」。電話口の男性は、思わぬ方向から突然殴られたかのように、急に黙ってしまった。
 彼女は、その沈黙の中に、「私は一刻も早くこの電話を切りたいのです」という彼の意志を読み取らざるを得なかった。これが人間の声であった。次の瞬間、彼女の頭に浮かんだ単語は、ストレス、うつ病、過労死であった。悪意でないミスを執拗に叩き、答えられない質問をぶつけて相手を追い詰めるクレーマーによって、苦情処理係の担当者は心を病んでいる。この力関係が成立している限り、彼女は紛れもないクレーマーであった。
 死者は生きている者には敵わない。死を前提に命が浮かばれる範囲は、輝かしい生に比べれば、何と小さいのか。自らの輝かしい生が、「遺族の感情を逆撫でしたことのお詫び」を導き出し、その同情の視線が自身を苦しめている。死者が生き返らないならば、この世にこれ以上のクレーマーが存在するだろうか。

 その半年後、彼女は検察庁の会議室に座っていた。法廷での被害者遺族の意見陳述の打ち合わせのためである。彼女は、その後も自宅に送られ続けたダイレクトメールを手に、これまでの経緯をひとしきり話すと、検察官に訴えた。「私は、息子を殺した犯人の目の前で、是非この話をしたいと思っています。すべては犯人が犯した罪から始まったことだからです。このような細かい一つ一つの出来事を知ることなしに、犯人の反省も謝罪もあり得ないと私は思います」。
 しかし、検察官は渋い表情で、彼女の意向に難色を示した。「それはお気の毒ですが、被告人の刑の重さと直接関係がないことです。その会社への怒りを被告人に向け変えて、単に八つ当たりしているとの印象も与えかねません。裁判員へのアピールという点からも、やはりお勧めできません」。
 彼女が沈黙していると、検察官は励ますように言った。「その会社には、もっとクレームをつけなきゃ駄目ですよ。責任者に個人名で念書を取らせるとか。親会社にもクレームをつければ、担当者は血相変えて飛んでくるでしょう。こっちは被害者なんですから、強気で攻めていいんですよ」。


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フィクションです。

ある医療過誤の裁判の光景

2010-02-07 23:40:37 | 実存・心理・宗教
 被告病院側の主張は、原告遺族の心を深くえぐった。「医師は最善を尽くしているのに、いちいち訴訟を起こされては医療が成り立たない」。「医師不足の中、病院の医師らは睡眠時間まで削って診療に当たっているのに、原告らは医師の過酷な勤務環境を理解していない」。
 すべてはその通りであった。原告である両親は、2歳の娘は素人目にも危険な状態であったにもかかわらず、「風邪です」と言われて自宅に帰された事実を問題にしているのであって、一般論を問題にしているわけではない。しかしながら、病院側の一般論は紛れもない真実であるがゆえ、原告遺族は激しく打ちのめされることになる。
 両親には、最後まで必死に心臓マッサージをしてくれた医師や、その横で涙を流していた看護師の姿が思い起こされた。訴訟が提起されたことにより、関係者は否応なく裁判に引き込まれている。両親は、その医師や看護師のことを考えて心が痛んだ……というほど人の心は単純にはできていなかった。その繊細な心が、被告病院側から提出された準備書面の文字によって、問答無用に深くえぐられたからである。

 病院側の準備書面の文字の中で、最も両親の心を叩きのめしたのが、次の一文であった。「原告らは希望通りの結果が得られなかったというだけで感情的になり、当院を逆恨みしている」。
 これも全くその通りであった。この主張に必死になって反論することは、まさに主張がその通りであることを認めるに等しかった。2歳の娘を亡くして感情が高ぶらないならば、それは親として失格だからである。そして、医師の側もプライドを賭けて感情的になり、感情と感情の泥仕合となり、世間から「まあまあ」と慰められる屈辱が待っていることは明らかであった。
 仮に双方が疲れ果てて和解したとしても、病院側は「遺族の心情を逆撫でしてはならない」という教訓を得て、両親に憐れみの視線を向けることも確実と思われた。逆恨みに逆撫でとあっては二重の自己欺瞞であり、両親はそんなことのためにこの裁判を起こしたわけではない。問題はそれほどおめでたくはない。

 そうだとすれば、自分達はいったい、なぜこの裁判を起こそうと思ったのか。そして、1年以上も辛い裁判を闘っているのか。2歳で死んだ娘の無念を晴らしたいわけではない。裁判に勝たなければ死者の無念が晴れず、負ければ無念が無限大になる勝負などまっぴらである。
 それでは、裁判を通じて娘の命の重さを示すのが目的かと言えば、それも違う。命の重さを安易に語れるのは、命の重さを語った途端に命が軽くなる恐ろしさを知らない人のみである。それならば、二度とこのような医療事故によって悲しい思いをする人が出ないようにすることが目的なのかと問われれば、これも違う。他人の子が何百人死んでも我が子だけは生きていてほしい、誰もが当然にそう思っているが、人前では口に出さないだけである。
 両親の陳述書には、「この医療事故を教訓にして信頼される病院に生まれ変わってほしい」と書かれていたが、これも世間的な圧力によって形式上落ち着きのよい結論を選ばされただけの話で、実際にはそのようなことには興味がない。何をどう考えても、この裁判の目的は、見つかるはずもなかった。

 両親の複雑な気持ちは、弁護士にも伝わっているようには思われなかった。ある日の打ち合わせの席で、父親は自分自身の出口を探すように語った。「私達はこの裁判で、本当に医学に詳しくなりました。人の頭のCTを見れば大脳半球の腫脹を見落とすことはないでしょうし、胸のレントゲンを見れば気管支炎による低酸素状態を見落とすことはないでしょう。高アンモニア血症による肝機能障害や頭蓋内圧亢進の治療については、その辺のお医者さんより詳しくなりました」。
 母親も、自らの自問自答の過程をなぞるように語った。「裁判を起こすとますます傷つくといわれて、周りからは猛反対されてたんです。バカですね。それでも何で裁判を起こしたのかと言えば、気が紛れるからです。何かをやっていないと死んでしまうからです。そうは言っても、娘のことを忘れて、まったく別のことを楽しむのは無理です。ですので、この裁判で気を紛らわせています。医学書を読むのは本当に楽しいです。医学の知識には随分詳しくなりました。私は、この裁判に勝つか負けるかよりも、裁判が終わってしまうことが怖いんです」。

 弁護士は黙って聞いていたが、両親の話が一通り終わると、非常に険しい顔で言った。「そんなことでは負けますよ」。両親は、弁護士のプライドを傷つけてしまったのだと悟った。
 さらに数秒の沈黙の後、弁護士は何かを抑えつけるような感じで言葉を継いだ。「私は、娘さんの無念を晴らしたいってことでこの裁判をお受けしたわけですからね。医療過誤を糾弾して、正義を実現したいってことではなかったんですか?」。両親は、あえて何も反論しなかった。人が社会正義を口にするのは、自分の顔を潰されたときであり、この先何時間話し合ったところで話が噛み合うわけがないと思ったからである。
 両親が帰った後、弁護士は部下の弁護士に向かって言った。「裁判が楽しいとか負けてもいいとか、本当に失礼な奴らだな。法治国家の裁判を何だと思ってるんだろうね」。別の弁護士が口を挟んだ。「確かに裁判所を舐め切ってますね。でも、これからの濫訴社会では、こういう訴訟も増えるでしょう。ビジネスチャンスじゃないですか?」


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フィクションです。

過労自殺のSOSのサインが見抜けない理由

2010-02-01 01:54:45 | 実存・心理・宗教
(同僚の目)

 同僚はその一報を聞き、誰もが「信じられない」との印象を持った。確かに彼の残業時間は月に100時間を超えていたが、この会社では特に珍しいことではない。また、彼には実際に通院歴もなければ、薬を飲んでいた事実もなかった。彼は事務処理能力に長けていたがゆえに、同僚がいつの間にか彼に仕事を押し付けていたことは事実である。しかしながら、彼はそれを楽しみ、事も無げに次々とこなしていた。仕事のことで悩んでいる様子は何もなく、その他の問題で悩んでいた様子もない。過労自殺のSOSのサインなど、誰もキャッチすることができなかった。

 同僚は彼のゴミ箱をあさり、パソコンの文書もメールもすべて調べたが、遺書らしきものは発見できなかった。また、何らかの動機となるような悩みを打ち明けられた者も皆無であり、不平や愚痴を聞いた人もいなかった。彼はその当日も明るく、いつもと同じように談笑しており、動機に結びつくようなものは何も存在しない。その日は、彼は会社に残っていた最後の一人であったが、その間に一体何があったのか、答えは見つかりそうもなかった。

 頭の回転が早く、「感情を引きずるのは自分の責任」というのが彼の座右の銘であった。彼は、どんなに苦しいことがあっても、負の感情を引きずり続けているのは現実を変える努力をしない自らの選択の結果なのだと解釈していた。負の感情をどこで断ち切るのかは自分でコントロールできるのだと語っていた彼が、なぜ死を選んでしまったのか。しかし、今ここでどんな問いを立てたとしても、それは問いのための問いでしかない。

 うつ病の診断書もなく、遺書もないのならば、労災が認められるのは難しい。誰かがこのように言うと、その場の問題意識が微妙に変わった。それは、SOSのサインを探すことを諦める方向に空気を動かした。別の上司は、どこかに変な遺書を書かれていると、かえって迷惑なのだと言った。この言葉を境に、彼の同僚は、SOSのサインを発見できなかった自分を責めるという思考方法を失い始めた。

 いつものように電話が鳴り、FAXが入り始め、日常の仕事が強制的に始まった。彼の死は、取引先には何の関係もないことであり、彼が残した仕事をどう引き継ぐかが緊急の課題として突きつけられた。遺書はいいから、その代わりに引継書を書いて欲しかった。同僚の一人が言うと、誰もが心の中で同意し、その場には小さな笑いが起きた。その後、「なぜSOSのサインが見抜けなかったのか」という問いが社内で立てられることはなかった。


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(本人の目)

 彼はその日、自らの意志で深夜まで会社に残っていた。周りには誰もいなかったが、そのことにも気がつかなかった。仕事に夢中だったからである。仕事は山積みであったが、そのことが彼の気を滅入らせることはなかった。彼の事務処理能力は自他共に認めるほど優れており、超人的なスピードで仕事を片付けても、なお大量の仕事が残っている事実が客観的に明らかだったからである。この客観的事実が客観的事実である限り、彼は心を病むことがなかった。そして、時間を忘れて目の前の仕事を次から次へと片付けていた。

 目の前の電話が鳴った。まだ手が回っておらず、やむを得ず後回しにしていた仕事の取引先であった。「早くしてくださいよ。何をチンタラやってるんですか? 夜中までのんびり仕事してる場合じゃないでしょう」。この電話により、彼の心の安定は、ほんのわずか狂った。それは、大量の仕事が残っている客観的事実の安定の狂いによるものであった。

 さらに数分後、別の取引先からの催促の電話が入った。「モタモタしてないで、早くして下さいよ。あなたのせいで、こちらも仕事が進まなくて困ってるんです。いつまでにできるのか、はっきり約束してくれませんか?」。このタイミングの悪い電話により、彼の心は別の方向に傾いた。それは、「チンタラ」「モタモタ」という先方の主観が、目の前の客観的事実を崩した力であった。ここにおいて、彼が捉えた客観的事実には何の力もなかった。

 電話の相手方も、深夜の残業を強いられている犠牲者であり、同じ悩みを共有する者に違いなかった。しかしながら、彼は、自らの頭をそこまで回転させることの無意味さを悟っており、相手への同情を拒否した。ところが、この日は運悪く、また別の取引先からの悲鳴に近い電話が入った。「いつまで待たせれば気が済むんですか? サボってんじゃないですよ。社会常識ってもんがあるでしょう」。彼の感情はついに爆発した。「こっちだってね、過労死寸前で働いてるんですよ。毎日毎日、家に帰るのは1時とか2時ですよ。あなたはわかって言ってるんですか?」。

 それは、彼が入社以来初めて露わにした感情であり、心の奥底からの叫びであった。しかし、電話の相手方の返事も、やはり心の奥底からの叫びであった。「そんなものは、仕事ができない人の言い訳の典型です。あなたには過労死してもらって、仕事ができる別の担当者に代わってほしいですね」。


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フィクションです。

被害者参加制度の裁判員裁判・厳罰化見られず

2010-01-12 00:24:41 | 実存・心理・宗教
 1月5日の読売新聞オンラインニュースに、「被害者参加制度の裁判員裁判・厳罰化見られず」との記事がありました。読売新聞の集計によると、被害者参加制度が適用された裁判員裁判では、検察官の求刑と比べて判決の懲役年数の割合が8割程度となっており、顕著な厳罰化の傾向は見られていないとのことです。

 被害者参加制度への反対論の論拠に、「裁判員が被害者参加人に感情移入して適正な裁判が妨げられ、厳罰化が進む」というものがありました。今回の集計結果は、この懸念が見込み違いであったことを裏付けています。
 それでは、反対論はこの結果を受けて、被害者参加制度に対して一定の譲歩をするのかと言えば、なぜか人間の心はそのような動き方をしません。被害者参加人が法廷に出ても裁判に影響がないのであれば、このような意味のない制度は廃止すべきだという主張に結びつき、反対論を勢いづかせるのが通常のことです。その意味で、反対論はあくまでも反対論であり、足元の安定した政治的主張だと思います。

 他方、被害者参加制度への賛成論の論拠は、「裁判員が被害者参加人に感情移入して厳罰化すればよい」という単純なものではありませんでした。そうかと言って、「被害者参加人が主体的に法廷で意見を述べられるならば刑罰の重さは関係ない」というものでもありません。
 こちらは、単純な厳罰化賛成論ではなく、人間の実存的苦悩がやむを得ず政治的主張の形を取らされた状態であり、常に足元が崩れ落ちそうな状況だと思います。そして、今回の集計結果は、「被害者参加人の言葉は裁判員の心に何も響いていない」との印象を与え、さらに実存的苦悩を深める方向で作用せざるを得ないと思います。

 今後、被害者参加制度の裁判員裁判において厳罰化の傾向が生じたとしても、反対論が政治的主張を勢いづかせ、賛成論が実存的苦悩を深める構図は変わりないものと思います。厳罰化が進めば進むほど、「裁判員が感情的になって適正な裁判が妨げられる」という参加制度反対論の論拠は力を増します。そして、賛成論に対して、「厳罰化すればそれで済むのか」という批判が可能となります。
 そして、この批判に対しては、参加制度賛成論は反論することができません。それは、犯人が死刑になっても殺された者は帰らないからであり、加害者に厳罰が下されてもそのことによって被害者遺族が立ち直ることはないからであり、その意味で「厳罰化しても済まない」という政治的意見は正しいからです。すなわち、どちらに転んでも、参加制度反対論は他者を責めて苦しめるのでしょうし、参加制度賛成論は自身を責めて苦しむのだと思います。

自分を客観的に見る

2010-01-09 23:34:10 | 実存・心理・宗教
 大学入試センター試験の時に、予備校の先生から、自分を客観的に見ることの必要性を力説されました。ライバルの中に自分を置いて、自分の弱点を客観的に眺めてみる。そして、全国の受験生全体の中で自分の置かれている位置を客観的に把握する。私はこのような熱弁を聞き、何の疑問も感じず、自分を客観的に見るように努めていました。試験の合格にとっては合目的的であり、余計なことを考えなくて良かったと思います。

 大学生になって、色々と考える時間を与えられたとき、自分を客観的に見ることの恐ろしさに気が付きました。自分を客観的に見てみると、自分は群集の中の1人に過ぎず、自分がどこにいるのかわからない。客観的な視点からは、誰も彼もが「その他大勢の1人」であって、別にその人が自分であっても他人であっても変わらない。私にできたことは、自分を客観的に見ることができるのはもう1人の自分だけであり、そのもう1人の自分は主観であると気づくだけでした。

 社会に出て、再び自分を客観的に見ることの大切さを語る人が多いことに気づかされました。人々の中に自分を置き、客観的かつ冷静な眼で、自分に対する社会的評価を把握しなければならない。社会的成功を収めるためには、自分自身を客観的に見る能力が不可欠である。私はこのような訓示を聞き、いつも白けています。自分を客観的に見る大前提として、人生を損得で捉えているのであれば、それは他人を蹴落とすための手法にすぎず、大学入試センター試験の続きで一生が終わってしまうような気がするからです。

飲酒運転を繰り返す被告人の国選弁護人に選ばれた新人弁護士の心理状態について  後半

2009-12-25 23:57:15 | 実存・心理・宗教
(前半はこちら)
http://blog.goo.ne.jp/higaishablog/d/20091217

被告人による「保釈されないと会社を休んで迷惑がかかる」という悲痛な訴えは、ツッコミを引っ込めるや否や、恐ろしいほどの説得力を持つことになります。警察の留置場に入っていれば会社に行けず、そうすると同僚が被告人の分まで仕事をしなければならない。被告人は1日も早く会社に出勤して溜まった仕事を片付けないと、会社の同僚は深夜まで残業となり、その家庭まで巻き込んで滅茶苦茶になる。この論理関係は確かに存在しており、動かしようがないからです。被告人が保釈されさえすれば、確かにこの問題はすべて解決します。また、「持病があるので掛かりつけの医者に行きたい」という懇願も同じです。持病を治療しなければならないことと、飲酒運転の裁判を受けることは全く別の話であり、論理的に両立するからです。さらには、「家族が私の帰りを心配して食事も喉を通らない」という点は、目の前に動かぬ証人が存在しており、疑いの余地がありません。しかも、現に100万円以上の保釈金を用意し、涙ながらに「お願いします。先生だけが頼りなんです」と頼み込んでいる状況においては、すべての責任は弁護士の肩に重くのしかかってきます。

ここまで来ると、弁護士の保釈請求は、もはや嫌々ではありません。この自分に重い仕事を任せてもらった人のために、親身になって働くことが、「社会人」に課せられた義務であり責任だからです。それと同時に、保釈が取れなければ腕が悪い弁護士であると評価され、あらぬ噂が広まってしまう恐れがあるため、容赦ないプレッシャーにも追い立てられます。こうなると、保釈請求書はスラスラと書けます。被告人が保釈されることが正義であり、その目的にとって障害となる検察官は最大の敵となります。被告人が会社を休んで迷惑をかけているというのに、検察官は会社の同僚の負担のことまで考えているのか? 被告人の病状がひどくなったら、検察官はいったいどう責任を取るのか? 被告人の家族は取り乱して非常事態にあるというのに、検察官は何をのんびりしているのだ? もはやツッコミは被告人の行為に向けられたものではなく、検察官に対するツッコミとなり、しかも結論先取りの反語の問いとなります。こうして、無事に保釈請求書は書き上がります。

最後の関門は、裁判官との保釈面接です。交渉事というものは、迷いなく、自信を持って言い切らなければなりません。周りが全く見えなくなる状態で、とにかく被告人の保釈の許可を得ることだけを目的として、駆け引きの技術なども駆使して、すべての言動を組み立てなければなりません。それが、弁護士として飯を食っている「社会人」の義務だからです。被告人の家族からは、保釈の進行状況について数時間おきに問い合わせの電話があり、そのイライラが電話口から事務所全体に伝わってきます。こうなると、保釈が取れるか取れないか、弁護士も神経を尖らせてその瞬間を待つことになり、緊張は頂点に達します。弁護士の周囲の空気はピリピリして容易には近付きがたい雰囲気となり、すべての事務員はイェスマンとなり、被告人の保釈を疑う者は誰一人いなくなります。事務員の誰もが、「被告人は心から反省しているのに保釈されないのはおかしいです」と語ります。「飲酒運転の車は走る凶器です」などと語る事務員は誰もいません。ゆえに、保釈を却下するような裁判官はバカであることが事務所内の全会一致の見解として確立します。

さて、問題は、保釈の結果(許可・却下)が出て一息ついた後のことです。「社会人」は、それがどんな嫌な仕事であっても、真剣に取り組んでいるうちに面白くなってしまうという状況から逃れられない限り、上記のような心理状態に陥ることはやむを得ないと思います。問題は、冷静になった時に、それを批判的に見られるかどうかです。そして、新人弁護士がどちらの方向に行ってしまうかは、周りの先輩弁護士の指導によって、実に紙一重であると思います。いかなる「社会人」であっても、ひとたび自己批判精神が欠如してしまえば、暴走が止まらなくなるのはよくある現象だからです。誰しも冷静な状態においては、飲酒運転をしながら自己の都合で保釈を要求する者に対しては、「だったら逮捕されるようなことするなよ」とのツッコミを入れることが可能でした。このツッコミを一旦引っ込めたことにより、いつの間にか自分がツッコミを受けるような行動に加担していたことに対し、自分自身にツッコミを入れることができるか。これが自己批判精神の内実であると思います。

自分が行った保釈請求が、被告人の反省を妨げ、図らずも社会における飲酒運転を助長しているのではないか。これでは過去の悲惨な飲酒運転の事故で亡くなった方々があまりに浮かばれないのではないか。そして、社会から飲酒運転が完全になくなってほしいと全人生を賭けて願っている事故の遺族の方々に対してあまりに無神経なのではないか。このような問題の所在は、自己批判精神を失った刑事弁護活動からは全く見えません。ちょうど、電車の中で携帯電話で話している人が、通話相手に対しては細心の注意を持って言葉を選び、失礼のないように全神経を集中させていることによって、周りの乗客のことは完全に眼中から排除されている状態と似ています。ここまでならば、誰もが陥る人間の当然の心理状態ですが、刑事弁護においては「人質司法の改善」「人身の自由の保障」といった絶対的なイデオロギーがあるため、永久にツッコミが戻らなくなることがあります。こうなると、「社会から飲酒運転が完全になくなってほしい」という言葉が、生きた言語として伝わる可能性は皆無となります。「弁護人が保釈請求を行うことが被害者や遺族に絶望をもたらしている」という事実を前にしても、「絶望するのは誤解だ」「絶望するのは法律を理解していないからだ」という感想しか出てきません。これは、飲酒運転や被害者保護を軽く考えているわけではなく、精一杯重く考えてもこの辺りが限界という事態であり、相互理解はまず不可能と思います。

飲酒運転を繰り返す被告人の国選弁護人に選ばれた新人弁護士の心理状態について  前半

2009-12-17 00:06:03 | 実存・心理・宗教
「社会人」という言葉が改めて使われる時には、それが使われなければならない独特の状況に直面している時が多いように思われます。簡単に言ってしまえば、人間としての直観的な良心に照らして割り切れないにもかかわらず、目の前の生活のために妥協せざるを得ない場合、それを無意識に正当化しているような状況です。「社会人」とは、好きな仕事に囲まれて幸せな毎日を送っている人ではなく、やりたくない仕事であっても辞めてしまえば給料がもらえなくなるため、嫌々ながら仕事をしている人の別名ではないかとも思います。

国選弁護の仕事は順番に回ってきます。飲酒運転を繰り返して逮捕・勾留され、起訴された被告人から保釈の依頼があった場合、弁護士としては直観的に良心が咎めるのが普通だと思います。自らの行為の反省もそこそこに、保釈の要求ばかりするような被告人は、今後も飲酒運転をして人身事故を起こす危険があるからです。何よりも、これまで飲酒運転の犠牲になった人々が浮かばれません。しかしながら、被告人が現に保釈を請求し、被告人の親族が保釈金を用意しているにもかかわらず、弁護人が保釈請求をしなければ、弁護過誤であるとして懲戒請求を受ける恐れがあります。また、被告人が再度飲酒運転をして事故を起こしても、それだけで弁護士が懲戒処分を受けることはありません。ゆえに、ほぼ100パーセントの弁護士は、被告人の依頼に従って、裁判所に保釈請求をします。この正当化の論理において、潜在的に「社会人」は姿を表します。

そうは言っても、飲酒運転を繰り返しながら保釈を請求する被告人の言い分は、普通は説得力がありません。どの弁護士にとっても、第一印象は、「こいつは救いようがない」「弁護のしようがない」という状況が多いかと思います。人間の普通のバランス感覚からして、被告人の要求は虫がよすぎるからです。「保釈されないと会社を休んで迷惑がかかるんです」と叫んだところで、普通は「だったら逮捕されるようなことするなよ」とのツッコミが入るでしょう。また、「持病があるので掛かりつけの医者に行きたいんです」と叫んでみても、やはり「だったら逮捕されるようなことするなよ」とのツッコミが入るでしょう。はたまた、「家族が私の帰りを心配して食事も喉を通らないんです」と叫んだところで、やはり「だったら逮捕されるようなことするなよ」とのツッコミを受けて終わりです。

しかし、刑事弁護人としては、これでは保釈請求書が書けません。弁護士の仕事は、被告人を保釈してもらうことですから、嫌々ながらも裁判所によって決められた型通りの書類を仕上げなければなりません。仕事というものは、自分がやりたいことではなく、やらなければならないことをすることだからです。決められた目的に向かって、与えられた職務を全うしなければなりません。これが、お金をもらって働く「社会人」です。但し、仕事というものは、嫌々やってばかりでは身が持たなくなるというのも半面の真理です。そのため、嫌な仕事でも真面目に取り組んでいるうちにいつの間にか面白くなっていたという状況も、「社会人」の別の側面として生じてきます。ゆえに、刑事弁護人としても、「被告人は弁護のしようがない」では身が持たないため、「だったら逮捕されるようなことするなよ」とのツッコミを一旦引っ込めます。すると、不思議なことに、目の前の事態はガラッと変わります。

「※ただしイケメンに限る」

2009-11-25 20:51:31 | 実存・心理・宗教
ガジェット通信は、「ネット流行語大賞2009」を11月25日12時に発表。その結果、年間大賞金賞は「※ただしイケメンに限る」となり、銀賞は「どうしてこうなった」、銅賞は「裸になって何が悪い」となった。

「※ただしイケメンに限る」は、はてなキーワードによれば「どんな否定的な条件であろうと顔さえよければそれですべてが解決するという事実を表す言葉」と定義されており、アンサイクロペディアによれば「この世の不条理さを凝縮した名言」と解説されている。


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日本国憲法

第11条
 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与えられる。ただしイケメンに限る。

第13条
 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。ただしイケメンに限る。

第14条
 すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。ただしイケメンに限る。

第25条
 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。ただしイケメンに限る。


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近代憲法の出発点は、アメリカの1776年の独立宣言、それを受けた1789年のフランス革命での人権宣言、そして1791年のフランス革命の最初の憲法である。近代憲法は、基本的人権の尊重、国民主権、権力分立、平和主義の保障を基本原理としている。アメリカ独立宣言、フランス革命の中の諸憲法で確認されてきたように、近代憲法の制定は、人民が持つ憲法制定権力の発動としてあらわれる。それを憲法の上に人民主権として定めており、立法権よりも重く、その上位に位置づけている。それを憲法学者は「組織された憲法制定権力」と呼んでいるが、憲法制定権力は人民自身が持つもので、それによって憲法を制定するのである・・・

こんなことばかり言っている憲法学者は、憲法制定権力の担い手であるはずの国民・市民・人民から「※ただしイケメンに限る」とのツッコミを受ければ、どうしようもなくなってしまうものと思います。どんなに自由だ平等だと叫んだところで、現在の日本社会では年間3万人を超える自殺者が生まれ、うつ病などの精神を病む人々が増大しています。そして、現実の世界の不自由、不平等の残酷さは、数十年前の判例の研究に余念がない憲法学者によって語られることはありません。学者の述べる国民・市民・人民というのは、それらの人々とは別の抽象的な集団だからです。

「※ただしイケメンに限る」という言葉は下品で大嫌いですが、下品なものほどイデオロギーの欺瞞を暴き出すという現実は認めざるを得ないところです。