宇宙そのものであるモナド

生命または精神ともよびうるモナドは宇宙そのものである

金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」2「中世から近代へ(or道徳)」、へ「ロマンティスィズム」(その4):①「実行型」と②「美魂型」の良心の結合である③「和らぎ」!

2024-09-06 22:56:24 | Weblog
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」へ「ロマンティスィズム」(その4)(299-301頁)
(76)C「道徳性」の第3段階(続々):c「良心」③「やわらぎ」(Versöhnung)=「絶対精神」=「絶対知」(そのa)!②「美魂型の良心」(「美魂」の立場)は②-2「批評」する立場だ!
★さてヘーゲルは①「実行型の良心」と②「美魂型の良心」との「結合」の必要を説く。(299頁)
★この「結合」をはかるために、ヘーゲルは②「美魂」の立場をもって②-2「批評」する立場と考える。すなわち②「美魂」としての「良心」は、なにひとつ「『外面』にあらわれた『行動』」はこれをなさないにしても、「『内面』に『思い』をいだく」のは事実であり、「『思い』において他人の行動を『批評』する」ことは否定できないからだ。(299頁)
☆それで②「美魂」の立場(「美魂型の良心」)とは、実際には自分ではなにひとつ「行為」せずに②-2「批評」ばかりする立場だ。つまりEx. ナポレオンがああいう大事業を成就したのは「名誉欲」や「権力欲」のためだというように、「あら探し」ばかりする。(299-300頁)
☆こんなふうに②「美魂型の良心」が②-2「批評」ばかりするのは、たしかに「普遍性」の立場にたつからではあるが、しかし「個別性」がないわけでない。(300頁)
☆すなわち②-2「批評」する立場は 一方で(「名誉欲」や「権力欲」のためだというように)「個別性」の方面に目をつけているし、他方で「批評」という「個人的主観的」な頭の中の仕事を、ひとかどの「客観的」な仕事のように「人に認めてもらおう」とする。(300頁)

★なおこの論法は、「事そのもの」についての「誠実」が同時に「欺瞞」であるのと同じだ。(300頁)
Cf. ヘーゲル『精神現象学』の目次(抄):(C)(AA)「理性」A「観察的理性」、B「理性的自己意識の自己自身による実現」C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」a「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」

《参考》(C)(AA)「理性」C「社会」の最初の段階の「精神的動物の国」において、「事」(「仕事」)の遂行にあたっての「誠実」(「誠実なる意識」)が、同時に「欺瞞」であるとはどういうことか?ヘーゲルが「事そのもの」(「仕事」)について例をあげて説明しているのでそれを参考にしてみよう。(208頁)
☆「欺瞞」①:「仕事」(「事」)は「客観的・普遍的(※間主観的)成果」であるとされているのに、「お前のやったことは、もうほかでやっている」などと批判されると、その「仕事」(「事」)は「主観的・個人的活動」にすぎないと言い逃れする。そこには「欺瞞」(「ゴマカシ」)がある。(209頁)
☆例えば、ある人が、「仕事」(「事」)を「誠実」に遂行し自分が「客観的・普遍的な成果」をあげたと信じ、それを声明するために、それを学術雑誌や学会で発表する。ところが別の人が、その人に向かって「お前のやったことは、もうほかでやっている」と言って、他の論文を指摘したりする。その「成果」を発表した男は言う。「ああそうですか。それはそうでしょうが、僕は別に(a)『成果』をあげようと思って研究しているのではない。また(b)『地位』をえたり、(c)『名声』をはくしたり、まして(d)『金』をかせごうと思って研究しているのではない。ただ研究することが面白いからやっているんだ。」この発言には「欺瞞」があることは明らかだ。(209頁)
☆「欺瞞」②:あるいは(「誠実」であるはずの)「仕事」(「事」)における、次のような「欺瞞」もある。「俺の論文がヒントになって、あの男はこのことを発見したんだ。だからあいつが成功したのは俺が知恵をつけてやったからだ」という自慢話はよくあることだ。だが「客観的・普遍的な功をあげる」ことが本来、「事」(「仕事」)であり「事業」であるはずなのに、「他人が成果をあげるのにキッカケを作ってやったこと」さえもひとかどの「事」(「仕事」)とされる。ここに「欺瞞」があるのは明らかだ。(209-210頁)
☆以上は論文の「作者」あるいは「行為者」の側の「欺瞞」(①②)だが、発表された論文を「批評する」という「仕事」(「事」)をする側の「欺瞞」について見てみよう。(210頁)
☆「欺瞞」③④⑤⑥:「哲学の論文」でも「小説」でも、「批評する人」は、「自分は『学会などの水準をあげる』ために、また『日本人の良識を高める』ために『誠実』に『仕事』(『事』)を遂行している。正しいものを正しいとし、優れたものを優れたものとしてやっているんだ」と言うだろう。(210頁)
☆だがこの「批評」という「仕事」(「事』」)の「誠実」なはずの遂行が、実はしばしば同時に「欺瞞」である。③他人の学術上の論文の誤りを指摘する時には「あいつよりも俺の方がよく知っている」という「自慢」がある。あるいは④「普段威張っている大学の先生ともあろうものが、こんなものも知らぬとはけしからん」という「優越意識」もある。あるいは⑤若い人の論文の若干の傷を見逃してやるとき、自分がいかに「寛容」・「寛大」か「ヒューマニスト」であるかを「誇示する」意識がはたらいている。また⑥作品を批評してやった作家がその後有名になった時、「あの作家は俺が見いだしてやったのだ」と「満足」を感じる、またそんな「満足」が味わえるから批評家をやっていることもある。(210頁)

(76)-2 C「道徳性」の第3段階(続々):c「良心」③「やわらぎ」(Versöhnung)=「絶対精神」=「絶対知」(そのb)!「行為するもの」(①「実行型の良心」)も、「批評するもの」(②「美魂型・批評型の良心」)もいずれも「良心」でなく「悪心」だ!
★かくて①「実行型の良心」も②「美魂型の良心」もいずれも不十分であり、矛盾をまぬがれえない。(300頁)
☆①「実行型の良心」は「ひとりよがりの『信念』」に「『義務』の『普遍性』」をマントとしてかぶせているだけだ。(※つまり「実行型の良心」は同時に「悪心」になる。)(300頁)

《参考》C「道徳性」の第1段階a「カントの道徳」は「汝の意志の格率Maxime が常に同時に普遍的立法の原理として妥当しうるように行為せよ」という定言命法、わかりやすくいえば、「例外を求めるな」という「抽象的命令」をくだすだけで、「個々の場面」にのぞんでどうしたらよいかは、これを教えない。(297-298頁)
☆ところでb「ずらかし」(C「道徳性」の第2段階)の運動を通じたc「良心」(C「道徳性」の第3段階)は、「個々の場合」にどうしたらよいかということを、もうちゃんと心得ているから、このc「良心」の段階(C「道徳性」の第3段階)になって、「主体」は初めて「行為」することができる。(298頁)
☆しかし「これがおれの義務だ」とか、「これが良心の命ずるところだ」などといっても、それは自分の行為や意見に「良心性」というレッテルをはるにすぎない。(298頁)
☆だから「実行」する時には「『個別性』への偏り」があらわとなり、そこに「良心」は同時に「悪心」になる。(298頁)

★これに対して②「美魂型・批評型の良心」は、たしかに「公共性」の立場をとりはするものの、そうすることのできるのは、「自分ではなにひとつ『実行』しない」からであり、しかも「『主観的・個人的』な意見をあたかも『客観的・公共的』なもの」であるかのように装っているからだ。(300頁)

★ヘーゲルでは「行為するもの」(①「実行型の良心」)も、「批評するもの」(②「美魂型・批評型の良心」)もいずれも「良心」でなく「悪心」だ。(300頁)
☆なお参考までに、ゲーテの場合は「行為するもの(①)は決して良心をもっていない。批評するもの(②)よりほかに、だれも良心をもっていない」と言っている。(300頁)

★ヘーゲルにおいては、①「実行型の良心」も②「美魂型の良心」もいずれも、改まらなくてはならない。(300頁)
☆①「実行型の良心」は自分の「罪」を告白すべきだ。なぜなら「実行」する段になると、何らかの形で「自分の意志」を満足させざるをえないのはもちろんだが、同時に「他人の意志」をも尊重しなくてはならず、そうでなくては「実行」も、まして「仕事」は成就されないからだ。(300-301頁)
☆これに対して②「美魂型・批評型の良心」は、一方で①「実行型の良心」に対して、その「罪」を赦すべきだ。なぜなら①「実行型の良心」に「個別的な主観的な」点があるとしても、自分で実際やろう(行動しよう)とすれば、そうならざるをえないものなのだし、また他方で②「批評すること」自身も、それが「自分のメリット(功績)」と考えられているかぎり、「個別性」をまぬがれえないからだ。(301頁)
☆かくて①「実行型の良心」は自分の「罪」を認め告白し、②「美魂型・批評型の良心」は「実行型」の「罪」を赦さなくてはならないことになる。(301頁)

(76)-3 C「道徳性」の第3段階(続々):c「良心」③「やわらぎ」(Versöhnung)=「絶対精神」=「絶対知」(そのc)!①「実行型の良心」と②「美魂型・批評型の良心」との間に成立する③「和らぎ」としての「良心」!
★こうして①「実行型の良心」と②「美魂型・批評型の良心」とは、お互いに「もっともだ、しかり、そうだJa(yes)」という気持ちをもつことによって③「和らぎ」(Versöhnung)(Cf. お互いに共同のおやじの息子Sohnというような仲のよい関係)が成立する。(301頁)
☆この③「和らぎ」(Versöhnung)としての「良心」において、「神」があらわれている。③「和らぎ」としての「良心」こそは「絶対精神」にほかならない。(301頁)
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