※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」へ「ロマンティスィズム」(その4-2)(301-303頁)
(77)C「道徳性」の第3段階(続々):c「良心」③「やわらぎ」(Versöhnung)=「絶対精神」=「絶対知」(そのd)! ヘーゲルは、「対立」のいずれの方にも「もっとも」なところがあるというわけで、「対立」を「綜合」させる!
★①「実行型の良心」と②「美魂型の良心」のいずれを「もっとも」とし、「対立」を「綜合」し「結合」させ、③「和らぎ」としての良心(即ち「絶対精神」)について語るヘーゲルの筆法は、これまでにもつねにみられた。(301頁)
★[例1]:すでに「ずらかし」から「良心」の段階に移るに際しても、(ア)「道徳」と「幸福」、(イ)「理性」と「感性」、(ウ)「義務」の「単一」と「数多」などの「対立」の、一方から他方へ、他方からまたもとの一方へというように転々動揺せざるをえないということが、いずれの方にも「もっとも」なところがあるというわけで「対立」を「綜合」させることになった。(301頁)
Cf. ヘーゲル『精神現象学』の目次(抄)!(BB)「精神」A「真実なる精神、人倫」、B「自己疎外的精神、教養」、C「自己確信的精神、道徳性」a「道徳的世界観」b「ずらかし」c「良心、美魂、悪とその赦し」
《参考1》「道徳的世界観」(カント)は矛盾だらけだから、それが「具体的」に働くときにはb「ずらかし」という C「道徳性」の第2段階が生ずることになる。(296頁)
☆「道徳的世界観」(カント)はまだ「抽象的」で3つの矛盾がある。①「『道徳』と『自然』」あるいは①-2「『道徳』と『幸福』(※「自然」に由来する欲求)」との矛盾。(「神の存在」の要請!)②「理性」と「感性」との矛盾。(「霊魂の不死」・「神の存在」の要請!)③「道徳法則」が「抽象的」なので「具体的状況」のもとでの「多数の義務」の間の矛盾。(「神の存在」の要請!)(296頁)
☆「ずらかし」(Ver-stellung)とは「物を置くべきところに置かず、置きちがえる」ことである。(296-297頁)
☆C「道徳性」の第2段階のb「ずらかし」とは、「一度こうだと言ったのに、すぐにそうではないと言って、反対から反対へずるずる動かすこと」をさす。(Cf. ①「『道徳』と『自然』」あるいは①-2「『道徳』と『幸福』」との矛盾。②「理性」と「感性」との矛盾。③「具体的状況」のもとでの「多数の義務」の間の矛盾。)(297頁)
☆つまりb「ずらかし」とは、「道徳的世界観」(カント)の3つの「要請」における3つの「対立」・「矛盾」( ①②③)において、一方から他方へ、他方からもとの一方へと、ずるずる動くことを指す。(297頁)
《参考1-2》C「道徳性」の第2段階、b「ずらかし」はもちろん「虚偽」を含む。(297頁)
☆しかしヘーゲルは、「『知覚』のまぬがれえぬ『錯覚』」、「『事そのもの』についての『誠実』が陥らざるをえぬ『欺瞞』」の場合と同じように、C「道徳性」の第2段階のb「ずらかし」にもやはり積極的意義を認めている。(297頁)
☆すなわち、b「ずらかし」によって、「対立」の一方から他方へ、他方からもとの一方へと動くのは、「対立したもの」が「切り離されえない統一したもの」であることを自覚させるゆえんとなるからだ。(297頁)
☆かくてC「道徳性」の第2段階、b「ずらかし」においておのずと「統一をつかむ意識」が出てくるが、これがC「道徳性」の第3段階c「良心」にほかならない。(297頁)
★[例2]:「教養」の段階における①「国権」と「財富」、②「善」と「悪」、③「高貴」と「卑賎」などについての相互疎外の場合も同様であり、ヘーゲルは、いずれの方にも「もっとも」なところがあるというわけで「対立」を「綜合」させる。(301頁)
Cf. ヘーゲル『精神現象学』の目次(抄)!(BB)「精神」A「真実なる精神、人倫」、B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」(a「教養と現実の国」b「信仰と純粋透見」)・Ⅱ「啓蒙」(a「啓蒙と迷信との戦い」b「啓蒙の真理」)・Ⅲ「絶対自由と恐怖」、C「自己確信的精神、道徳性」
《参考2》「現実の世界」に属さない「純粋意識」は、(1)「純粋透見」(純粋意識の「活動」の側面)と、(2)「信仰」(純粋意識の「内容」の側面)の両面からなる!(277-278頁)
☆(「現実の世界」に属さない「高次」の)「純粋意識」は(1)「純粋透見」(「否定的な純粋意識」すなわち純粋意識の「活動」の側面)と、(2)「信仰」(「肯定的な純粋意識」すなわち純粋意識の「内容」の側面)の両面からなる。(277頁)
☆「もろもろの対立」(①「国権」と「財富」、②「高貴」と「下賤」、③「善」と「悪」との対立)について、「教養」を通じて得られた「精神」Geistあるいは「エスプリ」は、かかる「対立」が固定したものでなく、「いつも「反対に転換する」ことを見透かしている」から、それは(1)「純粋透見」であり、そうして「対立」を否定するものであるところからして、「自我」あるいは「主体」の働きだ。(277-278頁)
☆ヘーゲルは「自我」をもって「否定の働き」にほかならないと考える。(278頁)
☆「もろもろの対立」(①「国権」と「財富」、②「高貴」と「下賤」、③「善」と「悪」との対立)が「相互に転換する」以上、「もろもろの対立」は、「対立を越え包む超越的統一」に帰する。この「超越的統一」は本来的には「概念」だ。(278頁)
☆しかしこの「超越的統一」は、ここではまだ、「もろもろの対立」(①②③)という「現実」からかけ離れた「統一」にすぎぬものとしてとらえられているから、「概念」そのものでなく、「表象」の形式におけるものだ。これが(2)「信仰の天界」を与える。(278頁)
☆これに対して(1)「透見」(「純粋透見」)は、「自我の『否定の働き』」として「地上」にとどまる。(278頁)
☆かくて「教養の世界」は「現実の国」を含むとともに、(1)「透見の世界」と(2)「信仰の世界」を含む。(278頁)
☆こうして(BB)「精神」B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」は、a「教養と現実の国」(「現実の世界」)に続いて、b「信仰と純粋透見」という段階が設定される。(277頁)
★[例3]また「精神的な動物の国」における「事そのもの」についての「誠実」なる意識がおかさざるをえない相互「欺瞞」の場合もまた同様であり、いずれの方にも「もっとも」なところがあるというわけで、ヘーゲルは「誠実」と「欺瞞」との「対立」を「綜合」させる。(301-302頁)
Cf. ヘーゲル『精神現象学』の目次(抄)! (C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」A「観察的理性」、B「理性的自己意識の自己自身による実現」(a「快楽ケラクと必然性サダメ」b「心胸ムネの法則、自負の狂気」c「徳と世路」)、C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」(a「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」b「立法的理性」c「査法的理性」)
《参考3》「事」(「仕事」)の遂行にあたっての「誠実」(「誠実なる意識」)は、同時に「欺瞞」である。すなわち「仕事」(「事」)という言葉で「誠実」で「客観的・普遍的・公共的」な成果だけが意味されているかと思うと、実はそうではなく例えば「単なる自己満足としての主観的活動」であってもいいし、「他人にキッカケを与えるだけのもの」でもいいし、また自分の「優越欲」を満足させたり、自分の「寛大さ」を他人に「見せびらかす」という「主観的動機」を含んだものでもあるのだから、「ゴマカシ」のあることは明らかだ。(211頁)
《参考3-2》 (C)(AA)「理性」C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」(「社会」)a「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」において、「事」(「仕事」)の遂行にあたっての「誠実」(「誠実なる意識」)が、同時に「欺瞞」であることが明らかにされた。(211頁)
☆しかし今度は逆に「欺瞞」が積極的意義をもつことになる。なぜなら例外なく皆が皆お互いに「ごまかしあい」をしているということは「事そのもの」(「仕事」)が①単なる「成果」(「客観的・普遍的・公共的」な成果)でもなければ、単なる「活動」(「自己満足としての主観的活動」)でもなく、②単に「個人的なもの」にすぎぬのでもなければ、単に「公共的なもの」にすぎぬのでもなく、③単に「客観的なもの」でもなければ、単に「主観的なもの」でもなく、すなわち「事そのもの」(「仕事」)は、このように対立する(①②③)両面を含んだものであり、「事」(「仕事」)の遂行にあたっての「誠実」(「誠実なる意識」)において、同時に例外なくみながみなまぬがれえぬ「欺瞞」は、「このような対立(①②③)を越え包む」ところに「真の現実」の成立することを暗示しているからだ。(211頁)
☆「みながみな欺瞞をまぬがれえぬ」ということは、「一段と高まり深まるべきこと」を「意識」に要求している。それはちょうど(A)「対象意識」において「『知覚』が同時に『錯覚』なることをまぬがれえないのは、『一と多』、『自と他』などの対立を越えた無制約的普遍性をとらえる『悟性』にまで高まることを要求した」のと同じだ。(212頁)
☆「対立したもの」のどちらも「切り離してはいけない」のであって、それらをある「全体的なもの」の「契機」として捉えなくてはならないことに気づくことができるようになると、そこに「実体的全体性」が「主体化」されつつ「恢復」されることになる。(212頁)
☆かくて(C)(AA)「理性」C「社会」(「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」)a「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」において、「事」(「仕事」)の遂行にあたっての「誠実」と「欺瞞」は「切り離してはいけない」のであって、いまや「実体的全体性の回復」に向かっている。(212頁)
《参考3-3》第1に、なぜ「『精神』的な動物の国」なのか?すでにこの「社会」の段階では人間はもう「個別が普遍、普遍が個別である」ことを自覚しているから、ここには「我なる我々」あるいは「我々なる我」という「精神」の概念が相当な発展に達しているから、このさいの「社会」は「『精神』的な国」である。(207頁)
☆第2になぜ「『動物』の国」なのか?それはまだ「生の直接的な『個別性』」が残っているからだ。「純粋に精神的な国」が実現せられるならば、「快楽(ケラク)」から出発した運動にとっての目標である「人倫の国」に到達したことになるが(ただいまの段階も「人倫の国」という「実体性」の「恢復」を目的としている)、まだそこまでは達していない。だから「社会」のただいまの段階は「『動物』の国」だ。「世路」(「世の中」)の場合と同じように、まだ「市民社会」の段階にある。(207頁)
(77)-2 ここには、「人間心理の機微を見逃さないヘーゲルの鋭さ」があることは、否めない!
★ヘーゲルの筆法は、今の場合も同様で、「対立」するいずれの方にも「もっとも」なところがあるというわけで、「対立」を「綜合」させる。①「実行型の良心」と②「美魂型の良心」のいずれを「もっとも」とし、「対立」を「綜合」し「結合」させ、かくて③「和らぎ」(Versöhnung)としての良心(即ち「絶対精神」)についてヘーゲルは語る。(302頁)
☆いかに「良心」的「普遍」的「公共」的であろうとしても、いざ「実行」するという段になると、この①「実行型の良心」においては、どうしても「個別性」・「主観性」に偏らざるをえない。(302頁)
☆そうかといって②「美魂型・批評型の良心」においては、「行為」せず「批評」のみをこととするが、これは一見極めて「公共」的「普遍」的「客観」的のように見えながら、それでいて「実行」を伴わない「現実バナレ」のした「主観」的「個人」的意見をもって是とするという態度をとることをまぬがれえない。(302頁)
☆①「実行型の良心」と②「美魂型・批評型の良心」とのいずれもが「非」であるとしても、またいずれにも「もっとも」なところがあるという理由で、ヘーゲルにおいては「高次の立場」即ちここでは「絶対精神」の立場、すなわち③「和らぎ」(Versöhnung)としての良心の立場への飛躍が要求せられる。(302頁)
☆ここには、「人間心理の機微を見逃さないヘーゲルの鋭さ」があることは、否めない。(302頁)
(77)-3 ヘーゲルのように「対立」し合ういずれをも「もっとも」だとするのでなく、「『悪』を『悪』としてあくまでもしりぞける」態度!「対立」しあういずれかを選択しようとし、あくまでも「善」を徹底しようとする態度もまた可能だ:これがルター、ことにカルヴァンのとった態度だ!またキェルケゴールのごとき人が出現せざるをえなかった!
★しかしヘーゲルのように「対立」し合ういずれをも「もっとも」だとするのでなく、「『悪』を『悪』としてあくまでもしりぞける」態度、即ち「『悪』の存在を凝視することを怠らない」のみか「進んで『悪』をえぐりだす」けれども、しかし「『悪』は『悪』としてあくまでもこれをしりぞけようとする」態度も可能だ。(302頁)
☆いいかえると「対立」し合ういずれをも「もっとも」だとするのではなく、「対立」しあういずれかを選択しようとして、あくまでも「善」を徹底しようとする態度もまた可能だ。(302頁)
☆そのような態度をとるときには、「人間」には、「絶対的な自己否定」が要求される。(302頁)
☆ルター、ことにカルヴァンのとった態度はこのようであったし、また歴史的にいってヘーゲルの後に、キェルケゴールのごとき人が出現せざるをえなかった理由もここにあった!(302頁)
(77)-4 ヘーゲルの人間肯定的なヒューマニスティックな態度!ヘーゲルの「楽天性」!
★ヘーゲルは「対立」し合ういずれをも「もっとも」だとして「綜合」し、「高次の立場」に上昇しようとする。(302頁)
☆この場合、「綜合」してから後に、「人間がとるべき態度」が具体的にいって「どのようになるか」に「問題」のあることはこれをしばらくおくとしても、いずれも「もっとも」だとするところには、「ヘーゲルの人間肯定的なヒューマニスティックな態度」、いいかえると「『人性』をもって『神性』にほかならずとする態度」、つまり普通に「楽天性」と呼ばれているところの態度がある。(金子武蔵)(303頁)
Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」へ「ロマンティスィズム」(その4-2)(301-303頁)
(77)C「道徳性」の第3段階(続々):c「良心」③「やわらぎ」(Versöhnung)=「絶対精神」=「絶対知」(そのd)! ヘーゲルは、「対立」のいずれの方にも「もっとも」なところがあるというわけで、「対立」を「綜合」させる!
★①「実行型の良心」と②「美魂型の良心」のいずれを「もっとも」とし、「対立」を「綜合」し「結合」させ、③「和らぎ」としての良心(即ち「絶対精神」)について語るヘーゲルの筆法は、これまでにもつねにみられた。(301頁)
★[例1]:すでに「ずらかし」から「良心」の段階に移るに際しても、(ア)「道徳」と「幸福」、(イ)「理性」と「感性」、(ウ)「義務」の「単一」と「数多」などの「対立」の、一方から他方へ、他方からまたもとの一方へというように転々動揺せざるをえないということが、いずれの方にも「もっとも」なところがあるというわけで「対立」を「綜合」させることになった。(301頁)
Cf. ヘーゲル『精神現象学』の目次(抄)!(BB)「精神」A「真実なる精神、人倫」、B「自己疎外的精神、教養」、C「自己確信的精神、道徳性」a「道徳的世界観」b「ずらかし」c「良心、美魂、悪とその赦し」
《参考1》「道徳的世界観」(カント)は矛盾だらけだから、それが「具体的」に働くときにはb「ずらかし」という C「道徳性」の第2段階が生ずることになる。(296頁)
☆「道徳的世界観」(カント)はまだ「抽象的」で3つの矛盾がある。①「『道徳』と『自然』」あるいは①-2「『道徳』と『幸福』(※「自然」に由来する欲求)」との矛盾。(「神の存在」の要請!)②「理性」と「感性」との矛盾。(「霊魂の不死」・「神の存在」の要請!)③「道徳法則」が「抽象的」なので「具体的状況」のもとでの「多数の義務」の間の矛盾。(「神の存在」の要請!)(296頁)
☆「ずらかし」(Ver-stellung)とは「物を置くべきところに置かず、置きちがえる」ことである。(296-297頁)
☆C「道徳性」の第2段階のb「ずらかし」とは、「一度こうだと言ったのに、すぐにそうではないと言って、反対から反対へずるずる動かすこと」をさす。(Cf. ①「『道徳』と『自然』」あるいは①-2「『道徳』と『幸福』」との矛盾。②「理性」と「感性」との矛盾。③「具体的状況」のもとでの「多数の義務」の間の矛盾。)(297頁)
☆つまりb「ずらかし」とは、「道徳的世界観」(カント)の3つの「要請」における3つの「対立」・「矛盾」( ①②③)において、一方から他方へ、他方からもとの一方へと、ずるずる動くことを指す。(297頁)
《参考1-2》C「道徳性」の第2段階、b「ずらかし」はもちろん「虚偽」を含む。(297頁)
☆しかしヘーゲルは、「『知覚』のまぬがれえぬ『錯覚』」、「『事そのもの』についての『誠実』が陥らざるをえぬ『欺瞞』」の場合と同じように、C「道徳性」の第2段階のb「ずらかし」にもやはり積極的意義を認めている。(297頁)
☆すなわち、b「ずらかし」によって、「対立」の一方から他方へ、他方からもとの一方へと動くのは、「対立したもの」が「切り離されえない統一したもの」であることを自覚させるゆえんとなるからだ。(297頁)
☆かくてC「道徳性」の第2段階、b「ずらかし」においておのずと「統一をつかむ意識」が出てくるが、これがC「道徳性」の第3段階c「良心」にほかならない。(297頁)
★[例2]:「教養」の段階における①「国権」と「財富」、②「善」と「悪」、③「高貴」と「卑賎」などについての相互疎外の場合も同様であり、ヘーゲルは、いずれの方にも「もっとも」なところがあるというわけで「対立」を「綜合」させる。(301頁)
Cf. ヘーゲル『精神現象学』の目次(抄)!(BB)「精神」A「真実なる精神、人倫」、B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」(a「教養と現実の国」b「信仰と純粋透見」)・Ⅱ「啓蒙」(a「啓蒙と迷信との戦い」b「啓蒙の真理」)・Ⅲ「絶対自由と恐怖」、C「自己確信的精神、道徳性」
《参考2》「現実の世界」に属さない「純粋意識」は、(1)「純粋透見」(純粋意識の「活動」の側面)と、(2)「信仰」(純粋意識の「内容」の側面)の両面からなる!(277-278頁)
☆(「現実の世界」に属さない「高次」の)「純粋意識」は(1)「純粋透見」(「否定的な純粋意識」すなわち純粋意識の「活動」の側面)と、(2)「信仰」(「肯定的な純粋意識」すなわち純粋意識の「内容」の側面)の両面からなる。(277頁)
☆「もろもろの対立」(①「国権」と「財富」、②「高貴」と「下賤」、③「善」と「悪」との対立)について、「教養」を通じて得られた「精神」Geistあるいは「エスプリ」は、かかる「対立」が固定したものでなく、「いつも「反対に転換する」ことを見透かしている」から、それは(1)「純粋透見」であり、そうして「対立」を否定するものであるところからして、「自我」あるいは「主体」の働きだ。(277-278頁)
☆ヘーゲルは「自我」をもって「否定の働き」にほかならないと考える。(278頁)
☆「もろもろの対立」(①「国権」と「財富」、②「高貴」と「下賤」、③「善」と「悪」との対立)が「相互に転換する」以上、「もろもろの対立」は、「対立を越え包む超越的統一」に帰する。この「超越的統一」は本来的には「概念」だ。(278頁)
☆しかしこの「超越的統一」は、ここではまだ、「もろもろの対立」(①②③)という「現実」からかけ離れた「統一」にすぎぬものとしてとらえられているから、「概念」そのものでなく、「表象」の形式におけるものだ。これが(2)「信仰の天界」を与える。(278頁)
☆これに対して(1)「透見」(「純粋透見」)は、「自我の『否定の働き』」として「地上」にとどまる。(278頁)
☆かくて「教養の世界」は「現実の国」を含むとともに、(1)「透見の世界」と(2)「信仰の世界」を含む。(278頁)
☆こうして(BB)「精神」B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」は、a「教養と現実の国」(「現実の世界」)に続いて、b「信仰と純粋透見」という段階が設定される。(277頁)
★[例3]また「精神的な動物の国」における「事そのもの」についての「誠実」なる意識がおかさざるをえない相互「欺瞞」の場合もまた同様であり、いずれの方にも「もっとも」なところがあるというわけで、ヘーゲルは「誠実」と「欺瞞」との「対立」を「綜合」させる。(301-302頁)
Cf. ヘーゲル『精神現象学』の目次(抄)! (C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」A「観察的理性」、B「理性的自己意識の自己自身による実現」(a「快楽ケラクと必然性サダメ」b「心胸ムネの法則、自負の狂気」c「徳と世路」)、C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」(a「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」b「立法的理性」c「査法的理性」)
《参考3》「事」(「仕事」)の遂行にあたっての「誠実」(「誠実なる意識」)は、同時に「欺瞞」である。すなわち「仕事」(「事」)という言葉で「誠実」で「客観的・普遍的・公共的」な成果だけが意味されているかと思うと、実はそうではなく例えば「単なる自己満足としての主観的活動」であってもいいし、「他人にキッカケを与えるだけのもの」でもいいし、また自分の「優越欲」を満足させたり、自分の「寛大さ」を他人に「見せびらかす」という「主観的動機」を含んだものでもあるのだから、「ゴマカシ」のあることは明らかだ。(211頁)
《参考3-2》 (C)(AA)「理性」C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」(「社会」)a「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」において、「事」(「仕事」)の遂行にあたっての「誠実」(「誠実なる意識」)が、同時に「欺瞞」であることが明らかにされた。(211頁)
☆しかし今度は逆に「欺瞞」が積極的意義をもつことになる。なぜなら例外なく皆が皆お互いに「ごまかしあい」をしているということは「事そのもの」(「仕事」)が①単なる「成果」(「客観的・普遍的・公共的」な成果)でもなければ、単なる「活動」(「自己満足としての主観的活動」)でもなく、②単に「個人的なもの」にすぎぬのでもなければ、単に「公共的なもの」にすぎぬのでもなく、③単に「客観的なもの」でもなければ、単に「主観的なもの」でもなく、すなわち「事そのもの」(「仕事」)は、このように対立する(①②③)両面を含んだものであり、「事」(「仕事」)の遂行にあたっての「誠実」(「誠実なる意識」)において、同時に例外なくみながみなまぬがれえぬ「欺瞞」は、「このような対立(①②③)を越え包む」ところに「真の現実」の成立することを暗示しているからだ。(211頁)
☆「みながみな欺瞞をまぬがれえぬ」ということは、「一段と高まり深まるべきこと」を「意識」に要求している。それはちょうど(A)「対象意識」において「『知覚』が同時に『錯覚』なることをまぬがれえないのは、『一と多』、『自と他』などの対立を越えた無制約的普遍性をとらえる『悟性』にまで高まることを要求した」のと同じだ。(212頁)
☆「対立したもの」のどちらも「切り離してはいけない」のであって、それらをある「全体的なもの」の「契機」として捉えなくてはならないことに気づくことができるようになると、そこに「実体的全体性」が「主体化」されつつ「恢復」されることになる。(212頁)
☆かくて(C)(AA)「理性」C「社会」(「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」)a「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」において、「事」(「仕事」)の遂行にあたっての「誠実」と「欺瞞」は「切り離してはいけない」のであって、いまや「実体的全体性の回復」に向かっている。(212頁)
《参考3-3》第1に、なぜ「『精神』的な動物の国」なのか?すでにこの「社会」の段階では人間はもう「個別が普遍、普遍が個別である」ことを自覚しているから、ここには「我なる我々」あるいは「我々なる我」という「精神」の概念が相当な発展に達しているから、このさいの「社会」は「『精神』的な国」である。(207頁)
☆第2になぜ「『動物』の国」なのか?それはまだ「生の直接的な『個別性』」が残っているからだ。「純粋に精神的な国」が実現せられるならば、「快楽(ケラク)」から出発した運動にとっての目標である「人倫の国」に到達したことになるが(ただいまの段階も「人倫の国」という「実体性」の「恢復」を目的としている)、まだそこまでは達していない。だから「社会」のただいまの段階は「『動物』の国」だ。「世路」(「世の中」)の場合と同じように、まだ「市民社会」の段階にある。(207頁)
(77)-2 ここには、「人間心理の機微を見逃さないヘーゲルの鋭さ」があることは、否めない!
★ヘーゲルの筆法は、今の場合も同様で、「対立」するいずれの方にも「もっとも」なところがあるというわけで、「対立」を「綜合」させる。①「実行型の良心」と②「美魂型の良心」のいずれを「もっとも」とし、「対立」を「綜合」し「結合」させ、かくて③「和らぎ」(Versöhnung)としての良心(即ち「絶対精神」)についてヘーゲルは語る。(302頁)
☆いかに「良心」的「普遍」的「公共」的であろうとしても、いざ「実行」するという段になると、この①「実行型の良心」においては、どうしても「個別性」・「主観性」に偏らざるをえない。(302頁)
☆そうかといって②「美魂型・批評型の良心」においては、「行為」せず「批評」のみをこととするが、これは一見極めて「公共」的「普遍」的「客観」的のように見えながら、それでいて「実行」を伴わない「現実バナレ」のした「主観」的「個人」的意見をもって是とするという態度をとることをまぬがれえない。(302頁)
☆①「実行型の良心」と②「美魂型・批評型の良心」とのいずれもが「非」であるとしても、またいずれにも「もっとも」なところがあるという理由で、ヘーゲルにおいては「高次の立場」即ちここでは「絶対精神」の立場、すなわち③「和らぎ」(Versöhnung)としての良心の立場への飛躍が要求せられる。(302頁)
☆ここには、「人間心理の機微を見逃さないヘーゲルの鋭さ」があることは、否めない。(302頁)
(77)-3 ヘーゲルのように「対立」し合ういずれをも「もっとも」だとするのでなく、「『悪』を『悪』としてあくまでもしりぞける」態度!「対立」しあういずれかを選択しようとし、あくまでも「善」を徹底しようとする態度もまた可能だ:これがルター、ことにカルヴァンのとった態度だ!またキェルケゴールのごとき人が出現せざるをえなかった!
★しかしヘーゲルのように「対立」し合ういずれをも「もっとも」だとするのでなく、「『悪』を『悪』としてあくまでもしりぞける」態度、即ち「『悪』の存在を凝視することを怠らない」のみか「進んで『悪』をえぐりだす」けれども、しかし「『悪』は『悪』としてあくまでもこれをしりぞけようとする」態度も可能だ。(302頁)
☆いいかえると「対立」し合ういずれをも「もっとも」だとするのではなく、「対立」しあういずれかを選択しようとして、あくまでも「善」を徹底しようとする態度もまた可能だ。(302頁)
☆そのような態度をとるときには、「人間」には、「絶対的な自己否定」が要求される。(302頁)
☆ルター、ことにカルヴァンのとった態度はこのようであったし、また歴史的にいってヘーゲルの後に、キェルケゴールのごとき人が出現せざるをえなかった理由もここにあった!(302頁)
(77)-4 ヘーゲルの人間肯定的なヒューマニスティックな態度!ヘーゲルの「楽天性」!
★ヘーゲルは「対立」し合ういずれをも「もっとも」だとして「綜合」し、「高次の立場」に上昇しようとする。(302頁)
☆この場合、「綜合」してから後に、「人間がとるべき態度」が具体的にいって「どのようになるか」に「問題」のあることはこれをしばらくおくとしても、いずれも「もっとも」だとするところには、「ヘーゲルの人間肯定的なヒューマニスティックな態度」、いいかえると「『人性』をもって『神性』にほかならずとする態度」、つまり普通に「楽天性」と呼ばれているところの態度がある。(金子武蔵)(303頁)