風の備忘録~ ~ ~

風は林に色や形や音を運んできます
忘れないうちに 忘れないように
短い言葉でメモ memo   
       

私の好きなイギリスの詩人 クリスティナ ロセッティとつながる人々

・画家・詩人ダンテ・ガブリエル・ ロセッティは兄 ・西條八十 ・三井ふたばこ(西條嫩子) ・宮澤賢治  ・金子みすず

人生の終わりの時のために勉強会

2014-10-29 | 終わり方・思い出す人

体操のサークルのメンバーで

生協の葬祭サービス「プリエ葬祭」の

セミナーに行きました。

 

 

母がなくなった9年前から 

B(葬祭業者)で積み立てはしていたし

「人生の終わり」については、それ以前 

2003年10月に「老いじたく覚書き」を取り寄せて 

目を通して考えてはいたけれど、

考えてはいても動きは遅い私。

 
もっと 真剣に身の回りの始末をしなくちゃと

葬儀の流れの説明を聞きながら思いました。

 
普段から整理整頓が上手な配偶者は

パソコンに いろいろすべて 

書き入れているといっています。


そして私にも「エンディングノートを書いたら」と。

身の回りの整理に没頭できる時間がほしい。

いるものと いらないものを見分ける能力がほしい。

いろんな整理を再びしなくては。

自分の趣味 興味関心の物

家計関係・・

電気ガス新聞TV電話ケータイなどの契約と支払い

PCの契約関係は私しかわからない。 

どこがどうなっているかをまとめなくては。


でも混沌とした頭はずーっと続きそう。

がんば。

さしあたって住所録。筆王ZEROをどうする?

・・・・・・・・・・・・・・・・

・食事・今夜は牛タン

・本・「年齢の話題事典」中野展子編

・PC・ヤフーメールの勉強 

・カラダ・筋肉痛は治まった。

     芍薬甘草湯は朝、飲んでいる。

     お医者さんからの風邪薬も。

・交流・「おおきなしいたけ、太い大根、 

      ころっとしたサトイモ、

     大きくカットとしたかぼちゃ」をいただく


祖父の毛筆の記録帳 1

2014-10-04 | 終わり方・思い出す人

祖父が山形の鶴岡出身ということは知っていた。

祖母は私が中学3年の時に亡くなったけれど

祖父は40くらいで子ども5人を残して亡くなったと聞いている。

医者だったとか入口に竹藪があったとかも聞いた。

お医者さんがなぜ早く死んでしまうのか

「竹藪があったならやぶ医者だ」とか子供のころ思った。

 それ以上の祖父のことは知らない。

 

その祖父が書いたものが残っている。

0年ほど前、実家を片付けたときに押入れの奥から出てきた箱。

箱の表には父の字で『父のかたみ(日記)』と書いてある。

 

中には和紙に毛筆で書かれた記録が数冊。

その中の『羽化歴程』 表は・・・

 

 

『羽化歴程』裏表紙・・・なんてかいてあるんだろう?

ひらがな部分が分かりにくい。

 

 1ページ目の上のほう部分

 

 

これを読んでみようと思って

ブログもこことは別に作っておいたけれど

そういう時間を作れずにいた。


先日10月1日に大学時代の先生の展覧会を見に行き

先生が鶴岡に関係あることを知った。

そういえば私の母が「S先生と家はつながりがある」

または「関係がある」というようなことを

一度だけ言ったことを思い出した。

 

父も母も亡くなりそれを確かめる人はいなくなり

祖父の書いたものに手がかりがないかと開いたのだった。


祖父の記録の毛筆文字は見慣れてくると

大分読めるようになってきた。


生まれた時から病弱で胃腸が弱かったことがわかった。

 

明治6年に生まれ大正元年に亡くなっている。

ということは40歳前?

明治時代に生きた人の考えなどかいてあって面白い。

この毛筆の記録は私にとって

とても貴重なものでどうにか保存したいと思う。


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追記:2014/10/04/22:50

   裏表紙の「明治壬〇」をネットで調べた結果

   「明治壬辰」が該当する。明治25年(1892)睦月は1月。

   祖父は明治6年(1873)5月生まれだから

   19歳にならない年齢の記録!


ひら仮名部分がわからない。読めません。

 


「雪の女王」アンデルセン著 濱田廣介訳・京屋出版社

2014-09-20 | 終わり方・思い出す人

NHKの連続小説「花子とアン」では

村岡花子は戦時中も英語で書かれた本を翻訳し

終戦後 出版社に原稿を渡すがモンゴメリーの知名度が低く

戻されている。

出版されたのは1952年とか。

 

私が持っている終戦直後の本で好きで捨てられない本は

「雪の女王」アンデルセン著 濱田廣介訳・京屋出版社

 1948年 昭和23年出版の本。

 

この山形県立図書館の濱田廣介の一覧表によると

「雪の女王」アンデルセン著 濱田廣介訳・京屋出版社は

山形県立図書館にはなく国立図書館にはあるということです。

 

 子どものころに読んで今 再び読み返してみると

訳者本人の言葉通り

「写実的、感覚的な書き方 表現がこまやかな観察によっていて

美しくなっている・・・

抄訳では意味がありません」

そのとおりです。

 

子どもたちに

この浜田広介が翻訳したアンデルセンを読んでもらいたい

けれど私の本は朽ちてしまっている。

翻訳者がなくなったのは1973年11月で

まだ著作権が切れていないので「青空文庫」には出ていません。

 

追記 20140922・アンデルセンはデンマーク 

   生年  1805 0402   没年1875 0804

   アンデルセンの童話は明治時代から翻訳されていた。


   
アンデルセン全翻訳者に浜田廣介の名が見つからない。  

    

   もうすこし調べよう。

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生活メモ

きのうより

お布団も洗濯物もからっと乾かない。


花火が大きく3発。秋祭り。


MDをICレコーダーに。

 

ボンタンの詩の謎は明日、 


エンディングの準備・残したい本 1 「夢のおくにの女王さま」

2014-09-18 | 終わり方・思い出す人

NHKの連続小説「花子とアン」では花子が翻訳したものが

そろそろ本になりそう。

私の手元にそのころの本は2~3冊ある。それは捨てられない本です。

私が亡くなった後も見かけはぼろぼろだけれど

ゴミとして捨てられては困る本。

 

1・「夢のおくにの女王さま」 世界社

    ( マミン・シィビルヤク ロッシイ 秀子 訳)

  (昭和22年12月10日印刷 12月20日 発行)


 

 

 (脇の糸は私が自分で補修したらしい)
(高校の時 図書部員で本の補修もしたのです) 

 

この本のことは

2008年の10月26日のブログでも取り上げました。

茂田井武の挿絵「夢のおくに女王さま」 ←クリック
2008年10月26日 | 本・映画・ドラマ

それによると「夢のおくにの女王さま」で検索しては

出てこなくて

茂田井武の挿絵で検索して出てきたと書いてあります。

2008年当時の検索の画像は

 

2014年の今日 本の題名で検索しても出てきません。


「茂田井武 挿絵」も入れて検索してみます。

 

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20140918「茂田井茂 挿絵 夢のおくにの女王さま」で検索しても

 もう出てこなくなりました。

 


何十年も前の手紙

2011-05-05 | 終わり方・思い出す人

・・・・・30年も前の手紙が沢山出てきました・・・・・

ハガキはすぐに読めるけれど手紙は封筒から出して

折りたたんである便箋を開かなくては読めません。

 

一つ一つ開いていて読んでいたら何時間もかかってしまいます。

といって

読まないで捨てることも出来ません。

 

思いが詰まっている手紙、これに私はお返事を出していたのでしょうか。

 

過去の私には応援して見守ってくれていた大勢の人たちがいたのでした。

ありがとう。本当にありがとう。

お返事出さなかったかもしれません。ごめんなさい。

 

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伯母さんからの葉書

2005-12-09 | 終わり方・思い出す人
消印:平成3年 1991・6・27 札幌中央

裏面
・・・・・・
御家内皆様御壮健の事と存じます
いつも御心配を掛けて申し訳ございません
昨日の北海道はすっかり夏に入った様だったそうです
Mさん(注:私の母=伯母さんの妹)は一昨日 元気で
礼文島に向ったのですが注射さえしていれば あまり体にいたみを
感じないが 歩きすぎると足が痛いとは言っていましたが
本当に元気なのには驚く程です
今頃は何處を走っているやら いろいろ探すところや
寄る所があるそうですので希望を持って たいくつ
しないで元気で汽車の旅をしてくるでしょうから
Hちゃん(注*私の妹)にも話しておいて下さい。
皆さまお元気でね。では又

・・・・・・・・・・・・
表書き
伯母さんの住所 氏名

~~~~~~~~~~~~~
この葉書は母が見舞っていた母の姉(私の伯母さん)からのもの。
一時退院したのか住所は病院ではない。


母は知床峠の前に礼文島に行ったのだろうか?
母からの葉書 2005ー12ー04
(この後 母は知床峠で7月4日に75歳になったのだった)


母からの葉書・2

2005-12-06 | 終わり方・思い出す人
消印:(1992)4・7・1 12-18 北海道弟子屈

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
裏面
二十九日夜汽車 朝一番で札幌駅につきましたが病院(*1))に
行くのには面会時間もあるし・・・すぐにアバシリ行きにのり
途中みどりの中をはしり正午すぎ あばしりのりかえて
斜里に降りてバス会社の女の方と少し話しをしてから
二時三十七分の汽車でマシュウの駅へ。そこで降りて昨夜ここにとまり
人生のすばらしい夢を実現してます。

今日は七月一日 駅の時計が四時二十五分 すぐ目の前が駅、静かです。
一時間ほど外をながめて歩いてきましたが 
あなた方と一緒ならすばらしいこととおもいます
いつの日か来ましょうね。このまま今晩とアシタと三泊する
ことになるけれども4000円位だから私の一番のぜいたくの
ようだけど とても心からゆとりある幸せをありがたく感じ
てます。 いつも心くばりをしてもらいうれしいけど申し訳なく
思います。姉(注:母の姉、入院中)はともかく今度はたのしい旅をしてます。又。。

宛名面
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
弟子屈街摩周駅前 
     ******(名前)
     七月三、四日に知床峠で誕生日を今年も迎えたいの
     お母さんラシイネ

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
(*1・母の姉が入院している病院)
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

母がどうしてこんなにも北海道が好きだったのかとおもう。
私がモンゴルの大草原に憧れるように 母は北海道に憧れたのだろうか。

母の姉を見舞いながらの旅。

2000年に脳梗塞になってしまった後は地図を見せても何の反応もなくなった。
こんなに好きだったのに 母の心から北海道は消えてしまっていた。


母からの葉書

2005-12-04 | 終わり方・思い出す人
消印:1991,7,8

梅雨の方はいかがですか こちらにいると何もわからなくなってきます 元気でしょうか、 そろそろ帰る日も近づいてきました
七月四日の誕生日は知床峠で午前十時丁度バスで迎えました。
自分でもおどろく位元気でいます御安心下さい。
今日七日ですが九日までには帰仙しなければなりませんから、いづれお会いする日も近いとたのしみにまっています。
七月七日夕、小包とどきました。こころづかいありがとうございました。姉君(注・母の姉、入院してる)がよろしくとのこと。こちらはいい天気です。いづれ仙台で。
札幌にて、 ***(注・母の名前

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
整理をしていたら母からのはがきが見つかった。1991年(平成3年)7月、母が知床峠で誕生日(注・75歳)を迎えたことが書いてある。
母は札幌に住んでいた母の姉ガ入院していたので、たびたび北海道に行っていた。
格安の周遊券を買って、荷物は小さな手提げ袋とリュックサックだったと思う。
糖尿病だった母は北海道旅行といっても旅館に泊まって美味しいご馳走を食べるような旅行ではなかった。列車の中で寝泊りもするようなお金をかけない「旅」。
自分でその場で行く先を決め、食べ物、泊まる場所を決める「旅」。

病院あてに私は何かを送ったのだろう。覚えていない。

そのころの我家の状況を家族年表でみると、夫が南のK市に通勤、上の娘は就職3年目でYのピアノ教師、下の娘は中学2年、私は町内会の仕事もPTAの仕事もなかったけれど身体の調子があまりよくない時期だった。