・・・・・・仙台駅舎西側は灰色で覆われていました・・・・・
JRはかなり運行される線が増えました。
駅舎内の照明は減らされていて 薄暗いです。
私の目にはちょうど良い明るさです。
(白内障のため、明るいとまぶしいのです)
駅を出て振り返ったら いつもの仙台駅と様子が違います。
3月11日の大地震の修復工事をしているようで灰色になっています。
以前の仙台駅の外壁は・・・・
これは2009年8月6日 仙台七夕の時で多くの人が見えます。
ここは駅の2階入り口部分につながるペデストリアンデッキです。
その上の3階のがガラス越しに新幹線が見えます。
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青葉通りのケヤキは緑色の若葉になっていました。
大震災で身体も心が揺れていても 季節はきちんと変わっていきます。
・・・・・新しく「生協の水」入れ容器を2本 購入しました・・・・
3月11日の「東日本大震災」の時、電気が停まり水が出なくなりました。
いつも「生協の水」2リットル容器を6本満たしておいたけれど
あの日に限って3本くらいしかなく、
でも「サントリーの天然水」が6本あったので
飲み水には はじめは困ることはなかったのでした。
その後はサッポロビール園のお水を貰ったり、公園の水を汲んだりしました。
以前は「生協の水」じゃないと飲みたくないと思った私ですが
あれ以後、水道の水でもOKの気持ちになり
「生協に水」にこだわることがなくなりました。
でも・・・今日・・・新しく「生協の水を入れる容器」を2本購入しました。
生協に行けば美味しい水が貰えるのだからまた利用しようと決めました。
その生協店で岩手沿岸からこちらに越してきていたMさんにあいました。
「大きな宮城県地震が来るそうだから酒田の娘のところに移るわ」
というので、やはり「宮城県沖地震は来るのか~」と悲しい気持ちになりました。
怖い思いはもうたくさんです。
・・・・・・大きな地震続きなので、ピアノを処分しました・・・・
かなり古いピアノです。
妹が小さい時に母にねだって買ってもらったピアノ。
妹はピアノの先生と上手くいかず、いつしかひかなくなっていて。
私が結婚し子どもが生まれ 少し大きくなったときに
実家からそのピアノをもらいました。
上の娘はピアノが好きになって どんどん上達しました。
下の娘はひけるのだけれどレッスンがきらいでした。
私の妹と私の二人の娘達がひいた弾いたピアノも
娘たちが結婚してしまって 使われることもなく部屋の隅に置かれたままでした。
3月11日の地震の後の余震と、これから来ると言われている
「宮城県沖地震」を恐れて
そのピアノを手放すことにしました。
古すぎて査定価格が0円。処分費用は4万円。
手放すとなると音を鳴らしたくてポンと押してみました。
深みのあるいい音でした。
私、もっと早くピアノに目覚めるべきでした。
・・・・・3月11日以後にやっと買ったお米は北海道産 ななつぼし・・・・・
例年ならお米はいつも10Kgはあるのに
東日本大震災があった3月11日ごろは2Kgくらいしかなかった。
「お米がない」とおもうと心細い。
生協のお店は地震後 中に入れず、店頭で販売だった。
品数は少なく 一人5点という制限もあった。
お米は並んでいない。
お米は友人や娘が1~2~3kgと持ってきてくれた。
ありがたい。
3月20日になってやっと夫が車で遠くまで行って10Kgを手に入れて来た。
北海道産・ななつぼし
これまで宮城県のお米しか食べていなかった我が家。
北海道産のお米は聞いたことがあるけれど初めて。
戴いたお米を食べていたけれど、それはなくなって
今日、初めて 「ななつぼし」を炊いた。
一日 二人で(1カップ180cc)を2~3合。
10kgで何日 持つのだ?と夫が言うので計ってみた。
180ccは140g それを3合として・・・
こんがらかったので あとで計算しよう~。
・・・・・余震におびえる日々 気がつけば 桜がこんなに咲いていました・・・・
桜に接近・・・このところの暖かさに 花開いたようです。
私の市には閖上(ゆりあげ)という海辺の町がありました。
3月11日 震度6強の揺れと そのあとに来た津波で町は壊滅し多くの方がなくなりました。
今日の新聞によると4月14日現在・・・
866人死亡、約1000人が行方不明、約1390人が避難所生活ということです。
(全国合計では13,498人が死亡、行方不明は14.734人 避難しているのは138,986人)
昨年と同じように桜が咲いているのですが、気楽にただ楽しめない気持ちが残っています。
・・・・上の画像の新聞は河北新報4月9日(土曜日)の記事・・・・・・
寝ている時の地震でした。揺れました。
すごく揺れたけれど
「本震より大きい地震はない」と夫が言うので布団の中で揺れが収まるのを待ちました。
揺れが収まったらトイレに行きたくなりました。
もう停電になっていて水が出ませんでした。
外を見たら家々の灯はない真っ暗な道を乗用車がひっきりなしに通って行きます。
いつもこんな時間に乗用車が通るのでしょうか?
あとでわかった事は『玉浦』の方の人たちが津波を恐れて
海辺から離れた方に移動していたのだそうです。
ひっくり返った家具はなかったものの、棚から落ちたもの
引き出しが飛び出した家具はありました。
私の家は震度6弱。
青葉区の娘も同じ。・・・・3月11日より 揺れがひどかったと言います。
もっと北に住んでいる娘のところは震度5強。
・・・天袋に入れたアルバムが全部落ちたそうです。
私は油断してケータイの充電をしなかったし、
ペットボトルの水も飲めるのは4リットルしかなかった。
この地震に震源は「宮城県沖」 。。。 でも こんなに怖い思いをしているのに、
かなり前から言われている「宮城県沖地震」とは違うのだそうです。
今日 友人が「しばらく郷里に帰ります」と電話をよこしました。
そこは以前は強い地震がありましたが、今は、こんなに頻繁な地震のないところです。
毎日会っているわけではないけれど 「あそこにいる」という安心感がありました。
淋しくなります。