テト明けのハノイはイッキに春を通り越して初夏のような暑さ。おとといから昼間は25℃を超えたまま。おジョーたちはノースリーブとかスケスケとか、、夏に向けて脱皮を始めた。
脱皮で思い出したのは、遺跡の中にヘビの脱皮した跡が残されていたコト。今回、ヘビそのものには遭遇しなかったがヘビがそこかしこに潜んでいるのは確か。ワタシャ、ヘビだけは勘弁してほしいクチで、ヤモリならアパートにも何匹か住んでいてムシとかを食べてもらっている。
さてと、、遺跡についてはどれも見所があってココで省くことはできないのだが、あまりダラダラやっていてもしょうがないので適当にまとめていくことにする。ワタシにとっては次に行く時の簡単なメモのつもりなので。
コレはきのうのバプーオンの門からさらに北側に続く、建築というべきか、道路というべきか。10mくらいの幅の、地面から6mくらい上がった、合計で長さ450mにも及ぶ空中廊下のようなモノ。テラス、という呼び方はあとから誰かがつけたものと思われるが、ま、自衛隊の観閲式とかアワ踊りの見物席のようなモノと思えばわかりやすい。王さまとかがココから目の前で繰り広げられる何かを見下ろしていた場所。
土台の部分に象がたくさん彫り込まれている。だから象のテラス。象の鼻がゴシック建築のフライング・バットレスのような機能を果たしている、のかな。
アンコール・トムの東の城壁には勝利の門と死者の門という二つの門があって、厳格な対称性を軽やかに打ち崩している。その勝利の門をまっすぐに進んだ正面に象のテラスの中心が重なるようになっている。で、もう一方の死者の門をまっすぐ行ったところにはバイヨンが建っている。
アンコール・トムの中の各遺跡の建設順を見てみると、きのうのバプーオンとかその近くのピミアナカスなどが11世紀に先に建てられ、このテラスとバイヨンが12世紀末に建てられた。おそらくバイヨンの完成が最後。ということは最初に全部の計画を立てて、順番に建て始めたのではなく、いざ、バイヨンを建てようか、という時になってその場所を決めて、そこが中心になるように城壁と門の位置を決めたんじゃないかと。そのときにコノ象のテラスの正面性も捨てきれず東側には二つの門を作らざるを得なかったんだろう、とか、いずれにしても中心になっているバイヨンが最後だというのがアンコール・トム全体の構成を理解する上で重要なところだ。
城壁と門を最後に作ったということはないだろうから、勝利の門はコノ象のテラスとセットで作られたに違いない。
王のテラスは象のテラスに連続して北側に延びている。形は似ているが土台に彫り込まれたモノが異なっている。コッチはおびただしい数の仏像。そしてその土台の裏側に迷路のような空間が差し込まれている。王のテラスは別名、ライ王のテラスとも呼ばれていて、そういう病気に苦しんだ過程がそのテラスの外形にあらわれているのかもしれない。
象のテラスの中心に立つと遠く1.5キロ先に勝利の門が見える、いや実際には遠過ぎて見えない。ベトナムのチャンパ軍との戦争に勝ってそこから入ってくる兵隊を王さまが迎えた。そして死んだ兵士は死者の門から入りバイヨンに向かった、のか。あまりによくできすぎた帝国の装置だ。