老後の練習

しのび寄るコドクな老後。オヂサンのひとり遊び。

『Norwegian Wood』

2011-08-01 20:18:01 | 映画


ハノイは土曜から台風。ハゲしい雨が降ったりやんだり、その合間には晴れ間も出て、きのうはその晴れ間にスカさず走りに出たら、途中で一気に雨雲が出てきてそのうちに目も開けていられないくらいの豪雨になって初の途中リタイア。店先のテントの下で雨宿りしていていたら冷たい風が吹いてきてカラダがどんどん冷えてイッたので、もともとズブ濡れなんだからもうどうにでもなれ、と思いながら歩いて帰った。ホントに最近はもうどうにでもなれ、なキブン。

で、コレはおととい久しぶりにHanoi Cinemateque で見た映画。7,8月はベトナム映画特集で、コレも広い意味でのベトナム映画として上映された。監督はTran Anh Hung。ベトナム読みだとチャン・アィン・フン。フランス? 読みだとトラン・アン・ユン。ベトナムでは去年の暮れに公開されていたのだが、ベトナム語吹き替え、というか、コッチの吹き替えはただだらだらとベトナム語で実況中継のようにナレーションが入るだけなので見ても仕方がないと思って見ていなかった。
きのうは土曜の午後にしてはお客がケッコウ入ってみんな欧米系。ワタシの隣はドイツ人のオバさんだった。ソレが、ネるとかヤるとかイレるとかヌレる、とか、そんなセリフばっかりで、ネるはsleepでヤるはdoって字幕に出ていて、あ、ソレでいいのか、とか思いながら、ベトナムは基本的にラタイ禁止だからケッコウブチブチにカットされていて、始まったかと思ったらもう服を着始めていたりとかで、まあ、ソレがどうこうというワケではないが映画としてはかなり期待ハズレでシタ。
あんなふうにガイジンに囲まれてこういうのを見たりするとどうしてもニッポン代表みたいなキブンになってしまうワケで、ニッポン人はセックすのコトしかアタマになくてすぐジサツすると思われたんじゃないかと。まあ、その通りかもしれないけど。

ただまあ、なんというか、あの小説の、主人公のオトコが何人かのオンナとやって、そのまわりで何人かがジサツするというだけの暗くてスクいのない部分を、キレイな風景を間にはさむことでその暗さを強調するばっかりで、細かなビミョーな部分はまるっきり欠落してしまったような映画でシタ。最後、シミ―図姿のレイコさんがワタナベに、してっ、っていって、ワタナベがわかりました、みたいに言ってするあたりはあまりに唐突でお笑いに近い展開だったし、ワタナベが緑と電話して、ジブンはどこにいるんだろ、みたいに言うところがこの話で一番暗い部分なのに、あっけらかんと終わってしまって。
つい先週芝居で見た初音映莉子ちゃんが出ていたのと、学生時代のよく知った風景が映っていたのが☆ひとつ。

『Life During Wartime』

2010-12-22 21:55:06 | 映画
1週間以上も前に見た映画。題名に反して戦争映画ではまったくない。戦争のせの字も出てこない。題名の意味がよくわからない。日常生活の中のニンゲン同士の関係、みたいなものが戦争のようなモノだと言いたいのかどうか、とりあえずは複雑な日常生活を描いた内容。

話のスジもよくわからなかった。最初に一人のオンナが出てきて、それがまたみるからに普通のヒトじゃなくて、ま、もちろん、ヒトを外見で判断してはいけないのだが、ニッポンにもこんなタレントがいたなあ、というようなヒト。そのヒトが黒人のオトコとレストランで注文をしようとしている。わざわざ黒人、と書く必要はないのだが書いてしまった。
あとからモノの本で調べたらソレは夫婦で、そのとき別れ話をしていたようなのだが、夫のほうがひたすらワタシが悪かった、みたいなことを言う。でも注文を取りに来たウェーターが、その夫のいい方が悪かったのか、コップの水をおブッかけて、出て行け、みたいに言う。セリフが少なく、あっても簡単な英語だったのにそのへんの話はまったく理解できなかった。

あと、ポスターにも出ている子ども。大人のオトコと子どもの自分との違いは何かとまわりの大人に聞く。それが、ヒトを許せるかどうかだ、みたいなことをいうのがいて、じゃああんた、テロリストも許せるか、みたいな話に展開してますますわからなくなる。
大江サンの核時代の想像力、みたいな意味で、テロ時代の生活、みたいなことか。テロでいつ、なんの意味もなくコロされる、そういう時代にイキていることとはどんなもんかと。夫婦関係とか、せっくすとか、マヤクとか、そういう日常を覆うようにテロ時代というのがあって、そういう雲の下でわれわれはイキテいる。そんな話か。

ま、こういう難しい映画には必ず作者が言わんとする深いテーマがあるわけで、そういうことを考えると、ソレは結局ヒトはヒトをホントに許せるか、みたいなことかなあ。裏切った夫や出て行ったツマを許せるか、テロリストを許せるか、ハンバーガー屋のウェートレスを許せるか、幼児趣味のオヤヂを許せるか、あのブッシュさえも許せるのか。そういうことを言いたかったのかと思うまでに1週間かかった。テロ時代だからこそ、ヒトはいくらでもヒトを許せるんじゃないかと、究極的な逆説。
映像的にはおもしろかった。

Todd Solondz/トッド・ソロンズ監督、2009年。

『Tha Station Agent』

2010-12-11 11:27:36 | 映画


ハノイは久しぶりに朝から雨。木の葉っぱにこびりついたホコリを洗い流すほどではなく、ドロドロにして垂れそうになるくらいの量だからよけいにキタナくなる。もっと続けて降ればブレードランナー的世界になるのだが、今は雨季じゃないし。コノ寒くてジトジトした裏ベトナム的気候が2月まで続く。

で、コレはきのうの夜に見た映画。シゴトの後の半分シゴトの続きのつまらぬ付き合いを断って見に行ったカイがあった。こういうのを見ると、映画って、、ホントにいいもんだと思ったりして。あり得ない話をホントに起きているコトのように見せてくれる。

話はアメリカの田舎町の鉄道模型屋でスタート。小さな、といってもアレは何とかという病気で身長が極端に低いオトコと、もう一人は極端に背の高いジャイアント馬場のような雰囲気のオトコがその店をやっている。ある朝大きな物音がしたかと思ったらその馬場さんのほうが床に倒れていて、突然死んでしまった、らしい。どうして倒れたとか、病院に行ったのかとか、そのあとの店の経営はどうなったのか、そういう細かな話の展開は完全に省略されていて、どうやら店は閉めて、小さなオトコのほうは鉄道の近くの、むかしは駅長室だったような廃屋に引っ越しをする。どうしてそこに引っ越せたのかとか、賃貸か、とか、そんなよけいな話はない。

そのオトコは他人との付き合いをまったくしないで朝から晩まで線路の上を歩いて、時々列車が通り過ぎるのを見たり、図書館に行って鉄道の本を借りてきて公園で読んだりしている。で、オトコの住んでいる小屋のすぐ前に車でコーヒーとかを売る若い威勢のいいオトコが毎日来て、その小さなオトコにいろいろ話しかけるが、メンドクセ、みたいな感じで日々が過ぎていく。
で、ある日オトコが道を歩いていると向こうからビジンが運転する車が来るのだが、そのビジンは携帯電話かなんかしながら極端にダコウしながら走ってきて、、オトコを跳ね飛ばしそうになる。ビジンは大げさにアイム総理、とか言うがオトコは、ま、いいからほっといてくれ、みたいにして立ち去る。
でまた別の日にオトコが歩いていると今度はコーヒーを飲みながら、それをこぼして、あららーみたいにしてまたダコウしてビジンのクルマが走ってきて同じようにはね飛ばしそうになる。このへんはお笑い。

おわびのしるしにビジンがオトコの家にウィスキーかなんか持って行くと、飲み過ぎてビジンは一晩泊ってしまう。で、オトコとクンズホグレツになるかと思うとそんなことはなく、オトコは浴槽で寝る。その結果オトコとそのビジンは親しくなってコーヒー売りのオトコも一緒になって仲良く遊んだりする。
でもって、そのビジンは2年前に小さな息子を亡くしていて夫とも別れて湖のほとりのいい家に一人で住んでいるのだが、ある日急にその別れた元夫が戻ってきてヨリを戻そうとするようなことがあってだんだんノイローゼっぽくなって、ある日、電話をしても出ないのでオトコが家に見に来たら、オマエなんかに会いたくない、みたいにワメキ散らして追い払う。ゲット・アウトの世界。
ヒトとの付き合いを避けて静かにこれまで生きてきて何の不自由もなかったオトコは、ビジンと付き合ったりコーヒー売りと一緒に飲みに行こうとしたりすることでよけいなメンドくさいモノを背負い込んでしまったと思うようになる。で、ある日コーヒー売りが会いに来た時にほっといてくれ、と言って、その後、コーヒー売りは姿を見せなくなる。

ま、そんな感じで特に大きな事件があったりするわけでもなく、ひたすら歩くオトコと、時々通る列車とが繰り返し映されるような映画。いろいろあったあとで最後はまた3人で一緒にテレビを見ている場面で終わる。早いはなし、ニンゲン関係の映画。
ヒトとの出会い、タイセツにしたいデスね、とか、ソレはナカマです、、みたいな薄ら寒いセカイじゃなくて、もっとドロドロしていてメンドくさくていろんな種類のコドクとかがあって、山あり谷ありでミソもクソもある、まあそっちのほうが普通のセカイだと思うが、そういうサワヤカじゃないところの薄い油の膜のようなニンゲン関係をおもしろく見せてくれた、かなと。

監督はThomas McCarthy。ビジン役は名女優Patricia Clarkson。同世代。キレイな背中を見せてくれる。2003年アメリカ映画。
詳しくはコッチで。

『Winter's Bone』

2010-12-06 20:18:52 | 映画


ハノイの街はどこもかしこもクリスマスの飾り付けが始まっている。ニッポンと同じように90%以上は仏教徒だから宗教的な意味合いはほとんどなく、単に年末のオマツリとして経済的にも盛り上げていこう、みたいなところ。まあ、しょうがない。

土曜の夜にそういうウスら賑やかな街に出て久々に映画を見た。週末のココロ休まるひと時にふさわしい、ド暗い映画。今年のSundance映画祭、審査員グランプリ受賞作だってさ。あらかじめ話のスジは読んでいったもののアメリカ人の田舎英語の発音がいいかげん過ぎて30%くらいしか理解できなかった。で、ソノ中身は。。

若い女が小さな弟と妹と山奥の小屋のようなところで暮らしている。父親は死んだのかどうか、行方不明で、母親は別のオトコと住んでいる。たぶん。生活は貧しく鳥を鉄砲で撃ったり、朝はジャガイモだけだったり。若い女は最後の頃になってやっと17歳だということが分かる。けっこうフケて見える。
小さな弟たちは父親に会いたがっているが若い女はそんなこと言ったらメシ抜きだぞ、みたいに言う。途中のなんか複雑なニンゲン関係がまったく理解できなかったが、だんだん若い女が父親探しをするようになる。と思ったのもつかの間、母親?の新しいオトコ?が怪しげな一派を率いていて、その集団につかまってコテンパンにやられる。たぶん父親を探してはいけないってコト。

ところがそれでもコリずにそういうアブないところに突っ込んでいく若い女。そうこうしているうちに母親と微かな和解の芽が生まれ始めて、、このへんは雰囲気でよくわかったのだが、その母親が娘=若い女を父親のところに連れていくと言う。骨を拾いに行こうって言って。タイトルにからむ場面。
夜中に懐中電灯を持って行ったのは沼みたいなところ。ボートが怪しげな場所に止まったかと思ったら、その水の中に手を突っ込んでみろと母親はいう。ととととと、、、。

あとは猟奇映画も真っツ青なチェーンソーのシーンで、指紋鑑定かなんかするのか、左じゃなくて右よ、みたいなブラックな場面もあって、ソノ切り取ったモノをコンビニの袋に入れて警察に持って行って、その結果がどうだったのかはよくわからない。
最後はその若い女に最初は敵対的だった、マヤク中毒の、父親の兄弟?=オヂサンってことかどうかわからないが、そのオヂサンともココロがつながって、オヂサンがバンジョーを軽く弾きならして静かな風のなかを帰っていく。で、そのバンジョーを小さな妹が手に抱えてボロンっと鳴らしたところでいろいろ暗示的におしまい。

ま、なかなかいい映画デス。鳥の羽をむしって内臓をつまみだすあたりは見れたがチェーンソーのところは目をつぶりマシた。そういう、一皮むくととんでもなくアヤしい世界がある、ということを見せつつ、アメリカの山奥の貧しい生活の中で、若い女とその弟妹がたくましく成長していきマシた、みたいな比較的健全な内容でシタね。

監督はDebra Granik、若い女役はJennifer Lawrence。
今月はアメリカ・インディペンデント特集なのでまた行くかも。Hanoi Cinematheque。

『The Tillman Story』

2010-09-09 01:48:51 | 映画
アメリカで最近公開されてマイナーながら話題になっている映画がハノイの路地裏の映画館で見れる。情報化社会における世界のフラット化というのかな。その一方でアフガニスタンの山岳地帯で起きていることはその場にいるヒト以外はだれも知らないから、誰かの都合のいいように話がでっちあげられる。そしてそのウソの話がネットに乗って世界中でものがたりが共有される。それはあくまでもモノガタリ、ウソのつくり話かもしれないという映画。

映画といってもドキュメンタリーで、最近アメリカで主流になっている、アカデミー賞まで獲ったイルカ漁映画に代表される、善悪を初めから決めつけた独善的軽薄ドキュメンタリーとは違う。だから今年のサンダンス映画祭にノミネートされてウケた割には受賞に至らなかった。
主人公はアメリカンフットボールのスター選手、Pat Tillman。選手として最盛期を迎えていたときに9.11のテロを見て米軍のアフガニスタン侵攻に志願する。それで山の中で銃で撃たれて死ぬ。ソコで一体何が起きたのか、ソレを明らかにすることが作者の意図するところだが、事実を知っているニンゲンが口を割らなければ真実は絶対にオモテに出ないというのが結論で、二つの立場がやや誇張されて光を当てられながら示される。

ひとつはアメリカンヒーローってやつ。愛国心をかき立てるためにヒーローとして祀り上げて自己陶酔して他国への侵略を正当化させるヒト達の立場。勇敢にも敵にコロされたというTillmanの死は世界中のメディアを通じて伝えられ、追悼試合ではチアリーダーたちも遺族の前で足をおっぴろげて特別な追悼ダンスを披露する。ファントム戦闘機の編隊が競技場の上を飛びブッシュの演説が大画面に映し出される。まさにお祭り。見ず知らずの他人にジブンの息子であり夫であり兄である家族がヒーロー呼ばわりされて、そういうことに家族は疑問を持ち始める。

そこでその死について調査した軍のレポートを詳細に調べた家族は大きな疑問にぶつかる。果たしてホントに敵にコロされたのか、と。レポートの多くは黒く塗られて具体的な情報が特定できないようになっている。でもソレを詳しく読んでいくとTillmanは敵にコロされたのではなく、味方に撃たれたということが分かってくる。friendly fireってコトバ。このへんは英語の字幕なし上映だったので全体の半分も理解できない中で、あとで批評を読んでわかったコト。

ただソレももっと穿って読めば、この侵攻を世界中に向けて正当化しなければならない強大な権力をもったヒト達が一方にいて、もう一方に産まれながらのヒーロー志願の若者がいて、その若者はまたアメリカンフットボールという国技のスターでもあり、まさに大ヒット間違いなしの舞台と演出家と役者と観客がそろった状況で、じゃあ本当のところはこういうことなんじゃないか、と、ソレを決めつけるわけではなく、父親が国防チョーカンに投げつけたコトバを借りながら一つの見方としてホノメかして映画は終わる。エンディングの音楽はUSA、USAを連呼するワリと軽いモノでソレも作者のひとつの主張に聞こえる。

ま、ニッポンで公開されるかどうかはわからないが、大雨の中をわざわざ見に行ったカイはあった。
監督はAmir Bar-Lev。原題は “I'm Pat_______ Tillman”。Tillmanの最後のコトバとして軍のレポートに書いてあったもの。_______の部分は放送キンシ用語。

『Xiu Xiu: The Sent Down Girl』

2010-06-24 15:09:50 | 映画
ハノイの街は中心部が渋谷1個分くらいの広さで外周市街地を入れてもせいぜい山手線の内側くらいだから中心部でシゴトをして生活しているワタシは映画を見に行こうと思えばだいたいドアツードアで10分でイケる。便利。きのうも急に思い立ってオフィスを6時50分にでて7時からのコレを見た。中国の下放政策=上山下郷運動の裏で起きた悲劇、みたいなオハナシ。もちろんつくり話。

時代は文化大革命末期、1970年代後半。都会の高校生くらいの若者を農村に送って思想改造をしようという独裁者の発想で、主人公のあどけない顔したXiu Xiuが集団就職みたいにして地方に送られる。初めは工場だかどこかで働いていたのが何かのきっかけで完全山奥のテントで暮らす熊のような顔をしたオトコのところにひとりで送りだされる。テントと言っても登山のテントのような小さいのではなく12畳くらいの広さはある。そこでそのイタイケなおジョーが熊と暮らすわけで設定としてはあり得ない状況。すぐに食べられちゃうに決まっている。
ところがその熊はニンゲン社会との接触なしでイキてきたからそのおジョーにどう接していいのかわからない。動物的な本能もない。なもんで最初は影でこそこそ着替えなんかをしていたおジョーもだんだん大胆になって行って、思想改造もできてしまっているから熊にジンミンはこうあるべき、みたいに説教をするようになる。

でもって最初の約束で何ヶ月かで帰れるはずだったのがいくら待っても迎えが来なくておジョーはだんだん早くオウチに帰りたいーって泣くようになる。そこに何かを売り歩いているのか、町からケッコウいけてるニーさんが来て、おニーさんが帰れるようにしてあげる、とか言いながら、熊のいない間にコノいたいけなおジョーをホにゃララしてしまう。リンゴ一個で。
おジョーはそのオトコの言ったことを信じて待つがなかなか迎えは来ないでまた別のオトコが来る。で、またリンゴ一個で食べられちゃってあとはずるずるエスカレート。熊がテントにいても夜オトコが来てヤっちゃったりして、で、熊のほうは見て見ぬふり、でもなくて、見ても何言っていいかわからないで終わった後に水汲んでこい、とか言われて馬に乗って川に水を汲みに行く。あり得ない展開。

おジョーはいつの間にかアッチの世界のオンナになってしまった、かと思ったらニンシンしたらしく、熊が町の病院に連れて行ってオロさせるが、町ではもうこのおジョーのコトは有名でみんなに後ろ指さされたり、病院の中でまでオトコが行列作って待ってたり。コレもまたあり得ない。
で、熊は傷ついたおジョーと一緒に山に帰る。回復したおジョーは銃でジブンの足を撃つから熊に病院に連れて行けと言う。それでオウチに帰れると思って。でも撃てないで熊に撃ってくれと頼む。おジョーは家から送りだされたときと同じ真っ赤なスカーフを首に巻く。ソレを見て熊は足ではなく銃を水平に構える。遠くの川や山の風景のなかに銃声が響く。熊はおジョーを横たわらせて、、そのあと2回、銃声がしてオシマイ。

かなり盛り上がった。終わって家までタクシーに乗らず歩いた。余韻がカオに出ているのを道端のバイクタクシーの運チャンとか試合直前の路上テレビに集まるニーさんとかに見られながら。あり得ない展開でアキラカにメロドラマ的ストーリーだというのに、おジョーの最初のあどけない表情と、アッチの世界にイッてしまった後の表情と、、あと、最後に撃たれるときは最初の顔に戻っていたりして、単なるメロドラマとはふた味くらい違う。

監督は「ラストエンペラー」や「ラスト、コーション」に出ていた女優でもあるジョアン・チェン。1999年、アメリカ映画。原題は『天浴』。
2010.6.23 Hanoi Cinemathequeにて

『Me and You and Everyone We Know』

2010-06-22 15:02:27 | 映画
ハノイではこのところ夕方になると道端営業のカフェとか、イヌの丸焼きをツマミに水のようなローカルビールを出すBia Hoiとかが街路樹に薄型テレビを縛り付けてサッカーのパブリックビューイングが始まる。お客はプラスチックの幼稚園椅子に座って、ジブンのクニが出ているわけでもないのにかなり盛り上がって見ている。家にテレビがないヒトがまだたくさんいるからそういうことになるわけで、ニッポンのように家にはひとりひとりにテレビがあるのにカゾクが崩壊していたりとか、都会で暮らすワカモノたちが群衆の中で孤独をまぎらわすために巨大な画面の前に集まるのとはオモムキが異なる。
きのうはシゴトが終わってからそういう歩道の賑わいをよけて通りぬけながら、孤独なニンゲンの、崩壊しそうな神経がギリギリのところで耐えていくようなコノ映画を見に行った。

最初に神経症的なオトコがでてきて、子どもがパソコンに向かってばかりで相手をしてくれないので、子どもの目の前で手にガソリンをかけて火をつける。手はよく燃える。そのオトコはデパートの靴売り場で働いているがカゾクはいてもいないのと同じような状態で、正気と狂気の間のビミョーなところでイキテいる。
作者でもあるMiranda Julyがアーティストの役で出ている。老人向けの車の運転サービスのようなことをしながらコトバと映像でサクヒンを作っている。Mirandaも、それと世話をされる老人も孤独にイキテいる。それぞれのつながりが弱くて、ジブンの外側の世界はイッキに電波が飛び交う宇宙になってしまうような感じ。
で、Mirandaはある日靴売り場でそのオトコと出会う。オトコのほうから近づいてくるのを拒絶したかと思ったら、今度はMirandaのほうから近づくがオトコが激しく拒絶する。それが、何ヶ月か経ってオトコの手のやけどが治って包帯を外した頃、オトコとMirandaは、ガッタイはしないがお互いを理解し合う。

初めからガッタイするような雰囲気の映画ではないのだが、途中で17,8歳のおジョーが二人出てきて、オトコの自閉的なムスコと遊ぶ。おジョーたちが二人でムスコの家に押しかけて、ムスコに文字通りムスコを出すように言って、それでもって交互に、、、でもってどっちが良かった?みたいに聞く。
そのムスコの小さな弟もまたパソコンでどこかの知らないオンナと、意味もわからずシモねたっぽい会話をする。で、オンナのほうはコーフンして今度会いましょうみたいなことになって公園で会うが、そこでもまた弱いながらもニンゲン同士の関係が生まれる。
ガッタイするような映画ではないのにそういう話が初めから最後まで。世話をしていた老人夫婦のツマのほうが知らない間に死んだと知ってMirandaは車を運転しながらフロントガラスにマジックでふあッくと書いて泣く。かなり盛り上がる映画だ。

Miranda Julyは2年前の横浜トリエンナーレでインスタレーションを見た。細長い通路があって、そこを通り抜けるのを邪魔するように文字の書かれた白い板が何枚も突き出ている。「幸」とか。ニンゲンの内面の柔らかくて触られると痛い部分を、爪でひっかくようなサクヒンを作るヒトである。この映画もストーリーのある映画というよりはそういうサクヒンの一部であってニンゲンの孤独がテーマで、サッカーで盛り上がって人類みなトモダチ、みたいな雰囲気になっていても根本的なところではニンゲンは孤独だということを思い知らされる内容。。

2010.6.21 Hanoi Cinematequeにて

『Cleo de 5 a 7』

2010-06-16 12:51:51 | 映画
久々のH.C.。 女性監督特集を先月終わりから来月初めまでやっている。先週までは特に惹かれるモノはなかったのだが、このあと、最近BunkamuraでやっていたCourtney Huntの“FROZEN RIVER”とか、この前、横浜トリエンナーレでインスタレーションを見たMiranda Julyの“ME AND YOU AND EVERYONE WE KNOW”とか、あとはやや古いがJulie Taymor の“FRIDA”とか、Phyllida Lloydの“MAMMA MIA!”なんかもやるので何回か行きそう。とか言っても、ちょこっと知ってるってだけ。

で、コレは日曜の夜に見たフランス人監督のAgnès Valdaの古い映画。コノ人のだけで1週間も使っているくらいの力の入れようなのでどんなもんかと思って見にいった。
話は簡単で、あるビジンの、女優なのかどうか、フランス語に英語の字幕だったので細かな内容はまったく理解できなかったのだが、そのヒトが占い師のところで、あんたは重い病気にかかっている、とか言われて、絶望してもう生きていられないわ、とか思っているところに彫刻家のヌードモデルをやっている友達とか、公園で出会ったオトコとかと話をしているうちに多少希望が見えてきて、最後に医者のところに行ったら、あんた、ビョーキなんかじゃないよ、って言われて、ああよかった、みたいな内容。単純。1962年だし。
そんな話を一部だけカラーの画面とか、時間を追って場面が変わっていくのを強調するような表現とか、当時としては斬新なものだったと思われるし、まあ、あと、主役のオンナのヒトのファッションとか、パリの風景とかもキレイでまあまあおもしろかったデス。

でもって見ていて思ったのは昔のパリと今のハノイの交通渋滞というか、道路の無秩序さがよく似ているってこと。ヒトが道を渡っているのに車が止まろうとしないところとか、横断歩道とか信号とか関係なくヒトが道を渡るところとか。占領されたり植民地化されたりするとモノの考え方とか行動パターンとかもソッチのクニのモノに近づいていくということで、ニッポンも禁タマの裏側までアメリカ化していたのがハトヤマさんが少しだけ方向転換しようとしただけでウ翼もサ翼も大騒ぎして葬り去った。
毎日ワールドカップを見てると、あっちのあの、休み休み木の棒で玉をひっぱたいて四角いマスを走り回るスポーツなんかのどこがおもしろいんだか、と、あらためて思うきょうコノゴロ。。

『The White Ribbon』

2010-04-05 01:40:29 | 映画
土曜の午後に会社のスタッフから今から打ち合わせがしたい、みたいな電話があって、ソレは金曜にボッパツしたクレーム、というべきか、相手の内部対立のトバッチリみたいなモノに近いのだが、ソレが裏のほうで動いたらしくて、その流れで日曜は朝からオフィスに行って、3人出てきたスタッフの作業を見ていたり、ニッポンの担当者への指示を出したりでほぼ丸一日つぶれた。そんなんで大事な休日があぶくのように消えてしまうのは耐えられないので久しぶりにHanoi Cinematequeへ行ってこんなのを見てきた。かなり暗い映画、って画面が。しかも白黒で暗闇の中ばっかり映しているような。

去年のカンヌ映画祭のパルム・ドール受賞作で今年のゴールデングローブ賞の最優秀外国映画賞受賞作で、その上アカデミー賞落選、ということはかなり期待できる。アカデミー賞はハッキリ言ってホントにいい映画は受賞できない仕組みになっているのは結果を見ればアキラカだし、おまけに今年はインチキドキュメンタリーが受賞するくらいでノーベル平和賞と同じくらい堕落している。

でもって内容は、、音はドイツ語でやたらしゃべりが早くて、字幕が英語だったもんだから話の半分くらいしか理解できなかった。とはいえ第2次世界大戦勃発前夜のドイツの田舎の村の、なんか息がつまりそうなくらい社会が閉塞している中で、不吉な事件が次から次に起きる。それが誰がなんのためにやったのか、その辺の深い部分はほぼちんぷんかんぷんで、ときおり会場のワタシ以外のほぼ全員のオーベー人がいっせいに笑ったりして、なにがおかしんだか、と思うこともしばしば。

そういう社会が行き詰っていくような雰囲気の中で、事件の犯人探しが村の権力者である牧師と医師によって一方的に進められる。村の人たちは、いたいけな子供も含めて権力者のやることに何も口出しできず、少しでも反対するような態度を示せば村から締め出されるような雰囲気になっていく。それでも事件はだんだんとエスカレートしていって、同時に唯一の明るい話題として映画全体を早口で進行していく学校教師役の若い男がその牧師の娘なのかなあ、よくわからないが14歳のオンナとできそうになるのだが、当然権力の一端を握る牧師は認めるわけもなく、それどころかその娘になにか淫靡なコトをしてしまう、のかどうかその辺もハッキリ言ってよくわかっていない。
そんなこんなで何だこいつか、みたいな空気が漂ってきたかと思ったら戦争が始まってそういう個人の感情みたいなものは雲のように消えてしまう、、みたいな感じであっけなく終わる。ムズカシイ映画だ。

人びとの暗い気持ときれいに晴れ渡った村の風景とか、悪いニンゲンのドロドロした感情と讃美歌のきれいな歌声とか、そういう強烈な対比が何度も繰り返される。権力を振りかざすモノがあまりに愚かな存在として描かれていたり、弱い者が簡単には倒れなかったり、表現的にはわかりやすい部分もあった。かなり宗教的な背景というか、色が濃い。
監督はミヒャエル・ハネケ。ドイツ・オーストリア・フランス・イタリア映画、ってどういう意味? ニッポン公開は今年の秋で恥ずかしの邦題は「白いリボン」だってさ。

『NINE』

2010-04-03 14:35:31 | 映画
先週ニッポンで見た映画。家の近所に新しい映画館ができたので行ってみようということになったのだがやってるのは他と大差なくてぺネロぺ・クルスちゃんが出ているというだけの理由でコレを見た。映画館自体はワンランク上ということで、まあ快適でシタ。っと、今週はクイーンとかほかにもおもしろそうなのをやってるみたいで内容的にも他とは少し違うのかもしれない。

で、映画のほうはミュージカル化された映画のもう一度の映画化。ということはもともとは映画??
イタリアの巨匠映画監督が、もうとっくに才能が枯渇して新しい映画が撮れなくて、それでも過去の栄光にすがっていろいろオンナの人に手を出したり足を出したり。キレイな奥さんとのもう元には戻らない関係とか愛人のクルスちゃんとのくんずほぐれつの関係とか、そういう部分部分ばかりが強調されていたが、もともとの話としてはその監督の子供の頃のアブナイおねーさんとの海辺での経験とかソフィア老練、いやローレン演じるど迫力な母親とのイケない関係とかから逃れられないダメな男の話ということのようで、やっぱりそういう暗い部分を表現しきれないmajority迎合主義のアメリカ映画の限界なのかなあ、という内容だった。

子供が一人出てきて、それが監督の分身であるようなのだが、分身なら分身でもっと幽体離脱的なドロドロした感じがないと単なるかあいい子役で終わってしまう。子供が海辺のおねーさんにオカされることが本当は重要な意味を持っていたはずなのにソレをほのめかすような場面もホントにもうバラの花を見てコ―フンするくらいの想像力をはたらかせないとアタマの中に組み込まれていかない。もちろんそれをリアルに表現するのもどうかと思うが、というかそういうタブーをどう表現するかがダイジなところだと思うのだが。
有名女優がたくさん出ていて豪華、というのが売りな映画。

ところでフーフ割引で一人1000円で入れるのはありがたいのだが、入口のところで切符切りのおジョーちゃんに年を確かめられるのはスゴイ恥ずかしい。空港の全身透視機を通るようなキモチ。せめて同年齢のオバサンならガマンできる。