老後の練習

しのび寄るコドクな老後。オヂサンのひとり遊び。

『かんぱちのごま和え丼』@福岡・天神 喜水丸

2007-05-27 08:06:42 | 料理
先週末の出張で、以前ごま鯖丼を食べた喜水丸さんで早めの夕食。迷った末にコレを発注。大盛りにしなかったがちょうどよかった。880円ナリ。
海苔で覆われた少な目のご飯の上に刺身が並び、ごま醤油がかかっている。それにネギ、卵焼きを細く切ったの、シソの葉、わさびが乗って、涼しげな器と対照的に彩りも美しい。

かんぱちは鱸(スズキ)目・鯵(アジ)科・鰤(ブリ)属。スズキもアジもブリもおおもとは同じ仲間ということか。ワタシには刺身になると区別が難しい。味も。モノの本によれば養殖モノは脂が多くヌルリとしているとのことだが、これはそうでもなかった。でも天然モノかどうかは。さかなクンでもなければ、食べてわかるモンじゃない。

このお店は若い店員さんがみんなにこやかで気持ちいい。福岡ではフツウなのかもしれないが、お釣りを渡すときなんか、こっちの受け取る手の下に左手を出して、渡すほうの右手とはさむようにしてくれる。若い女の子にそんなことされるとウレシイ。東京なんかじゃ手を触れるとキタナイ、みたいに、こっちの手のなかに放り投げるようにして渡すんだから。
福岡は本当にいい。

『一六世紀文化革命 2 』 山本義隆

2007-05-26 11:59:36 | 文学
毎日カバンにこの重たい本を入れてツウキンしたのもやっと終わり。科学の歴史を書いているだけなのに、読み終えて津波のようなカンドーが襲ってきた。山本センセがこの本を書く気になった本当の理由が、最後になってわかったからだ。

上巻のところにも書いたように、17世紀の科学技術の発展に先立って、16世紀に、それまで学問の世界からは蔑められてきた職人や技術者が、その頃から広まってきた印刷技術を活用して、自分たちの技術を世の中に発表してきた。カレラはそれまでの学問言語であるラテン語を使わずに、低俗と思われていた自分たちの言葉で本を書いた。それがその後の発展のもとになったのに、今日においてはその功績が忘れられている。そのことを掘り起こす、というのがこの本の目的だとセンセははじめに言っている。
それに沿って下巻でも、機械学、天文・地理学について、その頃に起きた地殻変動の実態を深ーく掘り下げている。そこまでは上巻の続きと言っていい。

で、そのあと、イギリスでのこの科学技術に対する変化が、イタリアやドイツやフランスやオランダとは、少し、というか、本当は根本的に違っていたことに着目し、そこからいろいろな歯車が狂いだしたのではないかと、、それが今日の地球温暖化とか、止まらない核開発とか、薬害とか、高度な情報化がもたらした精神病の増加とか、、センセはそういう具体的なことは述べていないものの、ソレが今の社会のマイナスの蓄積を産む最初のきっかけになったのではないかということを書いている。

じゃあ何が違っていたかというと、結局のところイギリスでは職人や技術者からの自発的な成果の公開というのはなくて、国家がそれをうまく利用したということだ。つまりほかの国ではアウトローな人たちが世の中をひっくり返すような勢いで自分たちの技術を広めていったのに対し、イギリスでは国が主導して、そういう技術開発を進めていった。そしてそのことが、産業革命以後、イギリスが世界の頂点に立った理由でもあるのだが、ある意味イギリスは「成功」したのである。
で、それがなんで間違いのもとになったかというと、イギリスでは技術者や職人は利用されただけで、技術発展を担っていったのはオックスフォードやケンブリッジの学者や学生などのごく一部の特権階級だった。そういう人たちは、仮説をたて、理論を導き出して、実験で検証するという、今でも行われている科学研究の進め方のようなことはうまかったから、実に効率的に研究が進んでいった。ところがそういう特権意識を持った人たちは、世界を支配しようとしている国家の意を受けて「自然」を力でねじ伏せるようなやりかたで「進歩」に向かって突き進んだので少しずつ歪みが生じていったというわけだ。
イタリアやドイツの技術者・職人との大きな違いは、その「自然」に対する姿勢にある。技術者・職人は自然から学ぶことで技術を高めてきた。自然を征服しようなどとはコレッポッチも思わなかった。それに対してイギリスのエリート達は自然からは学ぶものはない、くらいの傲慢さを持つようになっていったということだ。

ここまで書くと今の世の中の間違いのもとが見えてくる。原子力開発とか、遺伝子操作とか、自然を力でねじ曲げるような技術が今の先端だが、そういう国策研究の先にあるものが見えてくる。山本センセが本当に言いたいことだ。自然を尊重しつつ、素朴に社会へ貢献しようとした職人や技術者の姿勢を見直そうという考えだ。
見かたによっては山本センセは徹底的に後ろ向きで悲観的だ。ニッポン社会では後ろ向きは否定される。たとえば北朝鮮よりも超全体主義的なニッポンのカイシャでは後ろ向くとおこられる。何が間違っていたのかと思って、社長の過去の失敗を指摘しようモンなら永久に日陰モノ扱いだ。草むしりとか、倉庫の整理とか。壁に向かって1日中座らされるようなこともある。ニッポン人は北朝鮮のことを笑えないのだ。
やっぱり今は後ろを向いて間違いを捜す時だ。いつ道を間違えたのか。このまま温暖化が進めばあと100年もしないうちに滅びるわけだから、もう遅すぎるかもしれないのだが。

みすず書房、2007年刊。

『オムカレー』@KOTO-CAFE

2007-05-20 11:45:27 | 料理
昨日も愛知県某所でお仕事。昼は国道沿いのココで。コーヒーがウリの店だが、食べ物も充実している。

オムカレーはたっぷりのケチャップチャーハンをたまごで包んで、その上からカレーがどばーっとかかっているモノ。最近いろんなところにあるようだが、まだ珍しいといえば珍しい。付け合せはポテトサラダ、パセリ、福神漬け。作り手の迷いとユーモアがにじみ出ている。

店内は明るく、べんがら色の壁にベージュの椅子が美しい。窓の外には水田と雑木林が重なり合う里山の風景が。。
土曜の午後にふさわしい味と空間だ。

『本丸塩らー麺』@横浜・元町 本丸亭

2007-05-17 22:30:12 | 料理
厚木にある本店はテレビのラーメン番組で第1位になったこともある。(だからどうした、と思いつつ、、)その元町店は、元町商店街の真ん中あたりから山手の住宅街に向かう坂道の途中にある。天窓のある店内は明るく気持ちいい。

メニューはほかにもあったが、当然この塩ラーメンを発注。735円ナリ。
春菊の緑が鮮やかでどんぶりに映える。ほかにはぶ厚いチャーシューが2枚。シンプルなラーメンだ。

見た目も味も申し分ない。。のだが、これを食べたのは、写真のデータによれば去年の2月4日。その後、近くを通りはしても食べてないのはどうしてか。
ひとことで言えばラーメンに求めているものとのズレ、というか。もちろんこれを否定はしないが。
元町だからこそ、もっとギトギトしたラーメンのほうが似合うと思うのだ。

『一六世紀文化革命 1 』 山本義隆

2007-05-14 22:15:08 | 文学
人類史上で最も尊敬に値する山本センセの新刊が出たので大岡サンはひと休み。4年前の「磁力と重力の発見」に続く大著である。
前著のあと書きに述べていた山本センセの人生の宿題、17世紀以降の科学の発展の礎となった16世紀の、それまでは学問の世界からは蔑まれてきた人たち、ギリシャから続く学問エリートではない職人や技術者の成し遂げた先駆的な成果について、ブルネレスキ、デューラーから始まって、ひとつひとつ細かく、正確に書いている。この正確さは大岡昇平に通じるものがあるが、ヒトヅマ的な話題は一切ない。

山本センセらしいのは、これまでの世間一般の評価はソレとして、得られる限りの資料をもとにジブンで評価を下していること。例えばレオナルド・ダ・ビンチも、文字を逆から書いたりする秘密主義や、興味が分散して結局解剖学以外、何一つまとまった成果がないというようなことから、ルネサンスの閉じた時代の中での天才としか評価していなかったり。

山本センセは自分で考えることの重要性を思い出させてくれる。スンダイ山本物理のほぼ1期生でもあるワタシとしては、あの時もそれを教えてくれたのだと今さらながら気付く。何も考えずに、というか考える能力もないクセに、スナオな考えとか、自然な発想とかいうヤツは笑わせてくれる。自分で考えるためにはその考えを確かなものにするための膨大な知識が必要となる。だからもっと本を読まなければならないのだが。

それにしても人生の宿題とは。。ワタシも早く見つけて、それに向かって進んでいかなくてはと。
まだ上巻の半分まで。読み進んだらまた書きマス。



と、週末に上巻を読み終えたのでとりあえず一筆。
ここまでは芸術家から始まって、医学、解剖学、冶金術、商業数学の分野で、15世紀後半から16世紀にかけて、ヨーロッパを中心に文化的な地殻変動が起こりはじめた状況を、何がきっかけとなり、だれがそれを引っ張っていったかについて書かれている。
きっかけの一つは印刷技術の広まり。それまでそれぞれの分野ごとのギルドのような閉じた社会のなかで、技術は公開されないものとして受け継がれていた。秘伝、みたいな感じで。それが印刷を通じて広く技術や知識を公開したいと思う人が出てきて、それが主には学問エリートではない職人や技術者なのだが、そういう新しい道具を何の抵抗もなく受け入れていった人たちが時代をリードしはじめる。だからダ・ビンチは古い側の天才で、時代を動かしたとは言えない。

で、もう一つの大きなきっかけはそういう新しい時代の担い手の人たちは、そのころの学問に必要なラテン語とかには関心がなくて、むしろ積極的に、その頃は下等な言語と思われていたイタリア語やドイツ語で本を書いていったこと。その結果、そういう下等言語しか理解しない圧倒的多数の一般庶民が本を読むようになり、そうやって書かれた技術解説書のようなものがものすごい勢いで広まっていったということだ。
もちろんそういう新しいものに対する古い人間からの批判や妨害は激しくて、パワーハラスメントに苦しんだ人もたくさんいただろうが、時代はひとりでに転がっていく。新しい医学を切り開いたのは床屋も兼ねていた外科職人であり、冶金術では炎と格闘していた鍛冶労働者であり、数学の世界では金勘定の必要に迫られた商人なのである。実にシンプル。

で、歴史は繰り返される。今の世の中でも新しい金融を担うのは武富士やプロミスなどのサラ金屋さんであり、小売業ならジャパネットタカタとかビックカメラであり、病院なら徳州会、教育なら駅前留学のNOVAやブタに真珠の東京モード学園だし、そしてメディアならライブドアニュース?だったりする。異端じゃなければ新しい時代は切り拓いていけない。そして異端はいつでも叩かれる。それでも何百年後かに光を当ててくれる人がいて、今はいい気になっている古いカスのようなモノたちは永遠に忘れ去られていくだけだ。

後半は力学、機械学、天文学と続く。古墳の壁画がカビで消えていくのとはまったく反対に、歴史の足跡が毛穴まで鮮やかに見えてくるようだ。

みすず書房 2007年刊

『力味噌煮込みうどん』@愛知・めんや徳之家

2007-05-08 07:17:57 | 料理
連休中に仕事で行った愛知県某所、めんや徳之家さんは郊外の田園風景の中に民家と並んで建っている。祭日の昼間なのに駐車場はほぼ満車。うまい店に違いないと、期待は高まるばかり。

で、注文したのはコレ。汗ばむくらいの陽気の中では、やっぱりこういう汗かく食べ物が一番。全体茶色系のなかで、餅の断面が白い肌のように柔らかく輝いて絶妙のとろけ具合だ。ほかに油揚げ、鶏肉、かまぼこ、ネギが脇を固め、中央には卵が鎮座している。味噌煮込み独特の固めの麺が歯応えがあって実にうまかった。850円ナリ。

ところで名古屋周辺は四国・讃岐と並ぶうどんのメッカだ。讃岐うどんがあっさりシンプル直球勝負なのに対して、名古屋味噌煮込みはこれ以上はないというくらいこってりヘビーな変化球。とはいえ見た目ほどドロドロではなく、味噌の旨味がしっかり感じられてホントにうまいのであーる。
手羽先、ひつまぶし、みそカツ、あんかけスパ、台湾ラーメンなど、名古屋独特の食文化の中でも、やっぱり味噌煮込みが一番強烈でうまいとワタシは思いマス。

『鰹のたたき定食』@土佐料理・祢保希

2007-05-06 10:54:18 | 料理
祢保希(ねぼけ)は土佐料理の名店。銀座と新宿・住友ビルの店には行ったことがあるが、渋谷のココは初めて。昨日の昼に鰹のたたきを食べたくなって、映画を見る前に入ってみた。
店内は和風のインテリアで、適度に暗くいい雰囲気。和服を着たお姉さん達がサービスしてくれて、思わずココロ安らぐ。

昼の定食は5種類くらいあって、どれもかなりのヴォリューム。一番シンプルなこれでも十分満腹になりそう、ということで、「鰹のたたき定食」1200円ナリ。
新鮮でプルプルの鰹が5切れ、ニンニク、玉葱、ワカメ、シソが添えられて、つゆに浸っている。もう、うまいのなんのって、勢いでご飯おかわりしましたから。
味噌汁、漬け物に、鯨のどこかの刺身?に味噌で味付けられたものが付いて、デザートには杏仁豆腐。カンペキデスっ。

場所は渋谷駅から六本木のほうに向かってすぐの坂の途中。シオノギビルの裏側に入口がある。夜はお酒もうまそうだが、それなりに高いと思われる。

『アボン 小さい家』

2007-05-06 07:33:57 | 映画
映画見に、連日渋谷へ。好きな街ではないが、ここでしかやっていないマイナー映画を見るには行くしかない。
というわけで、今日はニッポン人の監督が作ったフィリピン映画。フィリピンの唱歌「小さい家」をモチーフに、戦後、ルソン島北部山岳地帯に取り残された日系フィリピン人とその子孫が、都市と山の中を行き来しながら、結局どこにも受け入れられない存在であることを描いている。と同時に、イゴロットと呼ばれる、キリスト教を信仰する山岳地帯の原住民の、自然と一体化した自給自足の生き方を、経済的には貧しいものの、精神的にはキワメテ豊かなものとして描くことで、物欲に支配された今の世の中を批判している。

ストーリーはあるようでないのだが、生活が苦しくて母親が外国へ出稼ぎに行く日系一家の、母親のいない間の苦しい生活から、母親が戻ってきて豊かな生活が取り戻されるまでの話。3人の子どもが、ニッポン人の子役なら見てられないというくらいへたな演技を(しかも英語で)していたものの、まあ、なんとか最後まで耐えた。とはいえ、母親と別れるシーンなど、このクサイ芝居に思わずググッときてしまうのはトシのせいとはいえ情けない。

で、テーマが二つあって、ひとつは日系人の差別や社会的なより所のなさというもの。ワタシ自身フィリピンで何年もシゴトをした経験からいうと、この問題で深刻なのは、戦争前後に生じた日系人の問題とあわせて、今も次から次に生まれている新しい「日系人」がいて、カレ等に対する日本人社会からの差別が強くあるということだ。要するに現地の接客業のフィリピン女性と日本企業駐在員との間に子どもができて、男のほうだけ日本に帰ってしまったようなケースがたくさんある。残された母子は日系社会から疎外されて、宙ぶらりんで生きている。
もう一つのテーマは自然と調和した山岳民族の豊かな生活ということ。ただ都会に住む若者が、スローライフなどといって安易にそっちの方向に走る姿を、どちらかというと肯定的にとらえているあたりは若干、受け入れ難い気もした。

映画としては、素朴で清らかな山の人たちが、居場所が見つからず都市から逃れてきた日系人一家をやさしく受け入れるというあたりが、その二つのテーマが交錯するいい場面になっている。それでもあまりの素朴さが、そういう主張さえも弱めているような、それくらいユルい映画である。
映画館?も学校の教室くらいの部屋にばらばらの椅子が並べられて、映画と同じくらいユルかったが、終わって渋谷駅まで歩く道は、下着を上も下も見せまくるオジョーちゃんたちであふれていて、それはそれでカノジョたちなりの、動物的で素朴な表現だと思われた。

監督:今泉光司、2002年、フィリピン映画
5/5、渋谷・宇田川町 UPLINKにて

『ロストロポーヴィチ 人生の祭典』

2007-05-05 10:27:53 | 映画
数日前に亡くなったチェロ奏者で最後の巨匠といわれているロストロポーヴィチを追ったドキュメンタリー映画
結論からいえば、期待していたようなものではなかった。もちろん亡くなる前に作られたものだから、その波乱の生涯を記録した評伝的なものになっていないのは仕方ないが、監督による過剰なナレーション(音楽にかぶさってくる!)、画面の無意味な切り替えの仕方など、この題材にしてはもったいない、という感じである。

内容はロストロポーヴィチと夫人の名オペラ歌手、ガリーナ・ヴィシネフスカヤへのインタビューと、二人の生い立ちから亡命生活を経て今日に至る苦難の道程を、エリツィン大統領夫妻やヨーロッパの王族などが集まった金婚式の宴席を背景にしながら映し出していくもの。
金婚式の豪華さとそこに集まった人々のなんとも複雑な表情が対比的にとらえられているのがおもしろいが、その複雑さの意味を深く掘り下げてくれているわけでもない。それどころか、インタビューをロシア民族とかロシア芸術とかの優秀性、特殊性のほうにもっていこうとする監督の薄っぺらなシソウが透けて見えてやれやれという感じだった。

オザワ・セイジが完全に脇役で、ロストロポーヴィチの従順な弟子として登場している。観客にもニッポン人が多く写っていて、そういう豊かさがどこかにはあることを感じさせる。
死のニュースから日が経っていないことから、普段こういう場所には来ないような、高齢の音楽愛好家がたくさん集まり、映画館はほぼ満席だった。

アレクサンドル・ソクーロフ監督、2006年 ロシア映画
5/4 渋谷・宮益坂上、シアター・イメージフォーラムにて

『愛について』 大岡昇平

2007-05-04 17:46:58 | 文学
なんともコッ恥ずかしい題名で、読むのをためらった。いまどき「愛」なんて、電話一本で配達されるピザか、ケイタイ電話の契約みたいなもんだろうから。いつでもどこでも。とっかえヒッカエ、乗換え自由。で、やっぱり大岡さんもその辺はわかっていて、そういう時代でも「愛」ってナニ?というのがテーマになっている。アポロが月に降りた頃の話だ。
と同時に小説の技法としての実験のようなことをやっている。フツウの小説は話の筋があって、登場人物がいて、結末のクライマックスにむかって進行していく。でもコレはそうじゃなくて、話の筋というよりはある時間が始めに切り取られていて、その中で起こったできごとを章ごとにいろんな人物の立場でばらばらに書き並べている。

世の中のできごとはほとんど偶然の組み合わせで、目の前を歩いているヒトが急にひっくり返ったりとかして、それがきっかけでそれをたまたま見たヒトの生活が狂い始めて、で、そのまた家族がロトウに迷うとか。それを、急にひっくり返ったヒトの立場で書いたものと、それを見たヒトやその家族の立場で書いたものを並列してみれば、世の中の偶然性がすべてのヒトの運命?を左右しているのが見えてくる、、というような実験をしている。
つまり、ひとそれぞれに生活があって、それぞれの時間が流れている中でなにかできごとが起こるわけで、できごとが中心に世の中が進んでいるわけではない、ということだ。
NHKのその時歴史がナンタラ、とか言う番組は、まったくソレとは逆で、歴史上のできごとがはじめにあって、それに向かって世の中がどう動いていったか、みたいな作りかたをしているが、それは結果から先に組み立てているから、どうしてもつじつま合わせのウソが入ってくる。そういうことをわかった上で見ないといけないんだが、ニッポンの素直な=おバカなコクミンは、ははあ、なるほどとかいいながら見ているわけで、それはもう戦争に向かってまっしぐらのアベシンゾーの思うツボなのだ。ってやや飛躍しすぎたか。

で、そういう書き方は非常におもしろいのだが、それが例によって、ヒトヅマとにゃんにゃんしちゃったり、鏡張りの部屋でランコーしたりとか、そういう今ふうの愛が散りばめられた中で展開されていくあたりが大岡さん的で、おもしろいと言えばおもしろいが、ジッケンがかなりお遊び的になりすぎた感は否めない。
かんじんの愛のほうはこれまでのほかの作品と同じように、死を前提とした愛以外は愛じゃない、という、大岡的ヒトヅマ不倫モノの流れに沿っている。だからどっちかが必ず死ぬ。愛、とは必ず死ぬモノなのだと思えてくる。

講談社文芸文庫版 1993年刊。