老後の練習

しのび寄るコドクな老後。オヂサンのひとり遊び。

昭和の日?

2007-04-29 08:58:52 | 散歩
今年からそういうことになったようだが、昨日の新聞の隅っこにのっていた政府広報を見るまで知らなかった。で、5月4日がみどりの日だと。ま、どうでもいいけど。
こっちとしてはカレンダーより若干少なめの連休2日目。黙々と老後の練習に励む。洗濯、皿洗いが終わったのでこれからお馬さんの券買いに行って、その後は近所を散歩。これも人サマにはどうでもいいことだが。

写真は先週行った東京競馬場。新しいスタンドが全部完成して、最終12レースの終了後セレモニーがあった。競馬を楽しむ人たちがたくさん残って、盛り上がった。
競馬場にはいろんな人が集まってくる。ジャケットにネクタイ締めたオヂサンとか、手ぬぐいを頭に巻いた肉体ロウドウシャとか。ようするに上から下までという意味だが。ダ・ビンチが今、ニッポンに生きていたら、絵のモデルを探しにきていただろうと思えるような、深い生活の重みを表情に刻み込んだヒトたちがたくさんいるのである。

で、今日は、昭和の天皇を記念したレースが行われる。
神から戦争責任者を経てニンゲンになったが、結局なりきれなかった。不思議な存在であった。

『事件』 大岡昇平

2007-04-24 06:52:25 | 文学
これについてはNHKのドラマの印象が強くて、なかなか読む気になれなかった。1978年の4月に「ドラマ人間模様」の枠で放送されたソレは、とにかく殺されたハツ子役のいしだあゆみの演技がスゴくて、それだけが印象に残っている。菊池弁護士役が若山富三郎で、いしだあゆみの妹のヨシ子役が大竹しのぶだったのはなんとか覚えているが、そのほかはまったく。主人公の若いオトコの宏役なんて、ぜんぜん。もちろんそれは、目立たなくておとなしい、まさかこの子が人殺しなんて、、という役だから、それなりにいい芝居をしていたということだ。
だから逆に、いしだあゆみがいい芝居をしていたかはどうかは?で、とにかく絶叫調の鬼気迫るモノだったことしか記憶にない。この原作を読むと、もう少し複雑な悲哀をおびた女のようにも思われるし。それでもブルーライトヨコハマの歌手であったいしだあゆみはこのドラマで女優としても脚光を浴び、その後イッキに花が開いた。

物語は未成年の宏とヨシ子がデキちゃって駆け落ちしようとしたのを、飲み屋をやっているハツ子に咎められて、で、ある日勢いで宏がハツ子を殺してしまったのを、菊池弁護士が裁判でその事件の背後にある複雑な事情をほじくりだすことで、軽い刑になっていく、その裁判の過程をドラマチックに描いたもの。
今読んでも法廷での弁護士と証人とのやり取りはホンモノの裁判を見ているようで迫力満点なのだが、これを読む人の大部分は、ホンモノの裁判なんて見たこともない、というのがこの作品のミソなのである。
つまり、作者の作品の半分を占めるこういうドキュメンタリー風小説は、戦争ものにしても裁判ものにしても、読む人間はその現実を知らない。で、そういう現実を知らないニンゲン向けのいわゆる戦争小説や犯人探しの推理小説は、読者が現実を知らないことをいいことに、薄っぺらな思想をもとにかなり脚色されて書かれている、というのが作者の見方で、それを黙って見ていられないという気持ちから、いろんな記録を確認したり、専門家のチェックを受けたりしてカンペキなモノを作り上げている。
作者にとってこういう作品は、自己の思想の表現ではなく、そういう思想丸出しの表現を徹底的に排除したところにリアリティーのある文学的空間があらわれる、と言いたいかのようだ。

裁判制度が大きく変わろうとしている今でも、裁判とはきっとこういうビミョーなものだろうという想像、弁護士の力しだいで殺人罪にもなれば傷害致死罪にもなるし、、それに検察官の流れ作業的な犯罪者処理システムというか、こんなのに巻き込まれたらタイヘンだという恐怖がジワジワと感じられてくる。チカン冤罪裁判とか、いつ我が身に降りかからないとも限らないコワイ世の中だけに。

新潮文庫版、1980年刊。オリジナルは1961~62年に朝日新聞に連載された。

国東半島 070420

2007-04-22 09:06:32 | 窓際
木・金・土曜と地方ジュンギョウ。ワタシの一生は、出張という旅だ。

で、福岡からナゴヤへ移動する飛行機は、まだ見ぬ秘境、国東半島上空を飛んでくれた。(別に頼んだわけじゃないが、、)ほぼ丸るい半島は、その中心に向かっていく筋も、谷間の白い線が延びていて、縮れた中国野菜か、妊婦の乳房のように見えた。

いつか、あの深い森の間をぬけて、半島の頂上まで歩いてみたい。そこはきっと、宇宙の中心に違いない。

『ブラックブック』

2007-04-16 07:32:24 | 映画
皐月賞はまさかの大波乱で完敗。それでも競馬から学ぶことはいつも大きい。世の中すべて運がいいかどうかだけ、ということだ。たとえ何か不幸が起こっても、すべては神経細胞の揺らぎしだいだから、嵐が過ぎ去るのをじっと待てばいい。
というわけで、年中まな板の上のコイ状態のワタシに与えられた、自由と平和の2日間を締めくくるにふさわしい悲惨な映画を見てきた。人間とは人を裏切り、人を憎む生き物だという内容。憎しみは簡単には消えないが、死ねばすべてオシマイ。そういう意味では人の憎しみなんて、水面の波紋のようなものという、印象的なシーンもあったが。

ユダヤ人の女がナチスから逃げる途中で家族を殺される。味方のフリをして、ウラで侵略者と手をつないでいるものがいて。その仕返しのために敵の将校のオンナになるうちに、その相手に惚れてしまう。で、敵陣深く食い込んで、ついに復讐を果したかと思ったら裏切られ、そういう展開が2、3度繰りかえされる。
最後のほうはワケがわからなくなって、というか、イッタイ何が正しいのかわからなくなって。つくった人もそういうことを意図したのかもしれない。オランダで国の英雄といわれているナチスに対するレジスタンス運動が、実はナチス以上にむごたらしいことをしていたということを、ハッキリと描き出している。絶対的な正義など存在しないということだ。

主人公の女が一旦は心の安らぎを得るが、永くは続かない。そんなことの繰り返しで、それがこの映画のテーマにもなっている。この世のすべての幸福や平和や、その他モロモロの喜びは、雨の合間のつかの間の晴れ間のようなものだということだ。
で、話のはじめのほうにうまくつながるわけだが、つかの間の休日、つかの間の好景気、つかの間のゼッチョー感、、みんなこの世はつかの間の満足感に浸っていて、いつかはまた、奈落の底に突き落とされるということを覚えておいたほうがいい。そうしないと落差に耐え切れない。こういう足の引っ張り合いの世の中では、悲観的に考えて、楽観的に行動するしかない。

ユダヤ人の歌手役のカリス・ファン・ハウテンがレジスタンスに燃えるオンナとしてキワドイ演技をしている。なかなか魅力的だ。
監督はポール・バーホーヘン。「氷の微笑」など、アメリカでのヒット作品が多いからか、エンターテイメント的になりすぎた印象は拭えない。

2006年、オランダ・ドイツ・イギリス・ベルギー映画

ニゲラ

2007-04-15 07:59:23 | 散歩
歩いて最大25分かかるから家の近所とはいい難いが、気に入りの花屋と古本屋とイタ飯屋が徒歩圏に一応ある。

イタ飯屋はレストランではなく惣菜屋なのだが、ときどき、おかず2品を100gずつとワインを買う。それで1500円くらい。
古本屋は写真集と自然科学系がほぼ専門で、ダーウィン研究所のシュテュンプケ教授が書いた「鼻行類」なんかもここで買った。(どこが自然科学?!)

花屋は前にも書いたが普通の花屋サンではない。
ココで花を買うにはジブンの好みをまずハッキリ伝えなければならない。テキトーにオマカセというわけにはいかない。昨日は一つだけ選んでくださいといわれて、このガーベラのようなハデハデしいのを選んだ。色のキツイのが好きなのだ。

で、あとはここの女主人の見立てでまとめられる。強い色の花を、脱色したような緑と水色の花でつつんで、こんな感じ。写真の上のほうにある白いのが「ニゲラ」。キンポウゲ科の一年草で、黒い種をつけるのでニゲラ=ニグロから名前がついた。
こういうのが女主人の好みで、あえてワタシは普通っぽいガーベラに何をあわせてくるか、試してみたのである。

『靴の話』 大岡昇平戦争小説集

2007-04-14 06:42:26 | 文学
憲法改変のための国民投票法案がオチャラケなギロンを経て可決され、いよいよ極右・アベシンゾーの意図する戦争準備体制に入った。徴兵制もそのうち話題になり始める。特攻隊賛美映画などを世間に見せ付けながら、コロ合いを見計らっているというわけだ。
そういう時代の転換点に読んだコノ本には、アメリカ的な組織化されたシゴト的戦争ではなく、メシも武器もろくに与えられず、根性だけで死ぬまで戦って来い、という、やらされるほうにしてみればたまったモンじゃない、キワメテニッポン的な戦争の情景が、正確に書かれている。

死ぬときに「天皇陛下バンザイ」と言って死ねと教えられ、そんなバカなことをするヤツはいないだろうと思っていた作者が、目の前で顔見知りの兵士が、実際にそのように叫んで死んでいって唖然としたとか、軍隊では出世しないほうがいいと思いながら、上官に取り入って先に階級が上がっていくサラリーマン社会の延長のようなクダラナサに呆れたりとか、コノ人とならオトモダチになれるという共感が、作者に対して感じずにいられない。

全体には、東京から下関まで移動しながら、死を前提とした戦地に向かう自分の心情を書いた「出征」から始まって、身近な兵士が殺されていく場面の克明な描写である「襲撃」など、死ぬための戦争に加わらずを得なかった苦しいジブンの心情が綴られている。
そしてメインになっているのは、当初「俘虜記」の題名で発表され、後にそれがひとまとまりの短編集全体を表すものとなって、この本では「捉(つか)まるまで」と題されている、作者自身がフィリピン・ミンドロ島で、米軍の捕虜となるまでの状況を描写した作品。
マラリアに罹って、味方からも見捨てられて逃げ惑っているうちに、一人の若いアメリカ兵が、ジブンに気付かずに目の前に現れて、撃ち殺す機会があったにもかかわらず殺さずに、逆にそのアメリカ兵が自分に気付かなかったことを、その見知らぬ兵士の母親にココロの中で感謝するという情景を中心に書かれている。
あとがきで村上龍が言っているように、作者の表現で特に注目すべきはその正確さにある。誇張や伝聞や思い込みを排した文章は、テレビや新聞のいいかげんさに慣れてしまったワレワレには新鮮にすら感じる。正確さこそがリアリティーを生み出すという当たり前のことに気付かせてくれる。

コノ本はおせっかいにも「青春必読の一冊」シリーズに収められている。青少年はこういう本を読むべきだという、そういう発想自体、ある体制を支えるオトナの不純な意図が見え見えでキモチ悪いが、書かれている内容は今の政治的空気の中では、すぐにでも排斥されていくようなもので、発行当時と今との、わずか10年間の時代の変化が眼に見えるようだ。必読して欲しいとも思うが、出版社にもそんなキモチは今やないだろう。

集英社文庫版 1996年刊。

『雲の肖像』 大岡昇平

2007-04-08 08:09:03 | 文学
大岡昇平の作品は大きく2つの種類に、ハッキリと分けられる。一つは自分の戦争体験をもとにした戦争記録小説。膨大な文献を読み解いて、歴史の事実を再構成するもので、「レイテ戦記」がその代表作。これに、歴史モノ、裁判モノなどを加えて、ノンフィクションドラマというような作品群をつくっている。
もう一つはヒトヅマ不倫モノ、というか、やさしく言えば恋愛小説だが、妻子あるオトコとオンナが、その時代の社会情勢を背景に複雑に絡み合う一連の作品群。武蔵野夫人とか、この前のとか、そしてコレとか。この二つの両極端な傾向のあいだで、戦争で地獄を見てきた作家としての精神的なバランスをとっていたのか、それとも、、まあ、いろんなものを書いてみたいというキモチはよくわかるし。世の中の期待をわざとはずすような、初登板のマウンドで、変化球ばっかり投げるマツザカみたいな、才能のある人間がよくやることだ。

で、コレは、湘南の大磯あたりを舞台に、戦後、テレビ放送が本格化してきた頃のテレビ局の放送権争いを背景に、利権に取り付こうとする野心家のサラリーマンと、それに捨てられそうになる妻、その妻に頼まれてその夫の不倫をやめさせようとするうちに、その妻に惹かれはじめ、それでも絶対に手を出そうとしない、ムカシの青春ドラマの森田ケンサク風カタブツサラリーマン、そこにテレビドラマの役をとるために、誰とでも寝るキャピキャピタレントにエロエロ放送作家が絡んできて、相変わらず登場人物はたくさん。
ストーリーは当然ながら古めかしく、ハッピーエンドの結末はなんともホニャララで、いくら大家の作品とはいえ、絶版になるのも仕方ないと思わせるが、単に昭和30年代前半の時代の雰囲気を味わうのであれば、古い映像を見るよりはるかに想像力を刺激してくれる。
たださすがに鋭いと思えるのは、テレビが始まって間もないというのに、テレビの表面的な映像表現が、真実を伝えているようで、実際には何も伝えていないということを指摘している点。そういう映像ブンカがコクミンを白痴化するということを、もうこの時点で書いている。そんなことから、作者がこういう薄っぺらい不倫小説を書くことにも、なにか深い狙いがあるように見えてしまうわけだ。

湘南の空に浮かぶ雲が、登場人物の心情を映すメタファーとして書かれていて、例えば雲の内部は絶えず気流が動いていて変化しているのに、外形としての雲の動きは静かでゆっくりとしている、とか。人妻に対する思いがココロの中で激しく動いているのに、その相手に対する行動はなかなか本心と一致しない、みたいな、人間のウチとソトのズレのようなものを雲の動きに例えていて、それが題名になっている。
それにしても、ヒトヅマとはなんと甘美な世界。ヒトのモノに手を出すスリルと、リスクを共有している共犯感、それに失われたものを補い合う助け合い精神?

新潮文庫版 1984年刊。オリジナルは1957年に中部日本新聞などに連載された。

鉄骨の見ごろ

2007-04-03 07:54:52 | 散歩
天に伸びるねじり花。はたまた現代のバベルの塔か。
できあがったらどうかわからないが、工事中の鉄骨の架構が美しい。

名古屋駅前。ヨーロッパの超一流ブランド店が書割のように同じ建物の1階に並んで、ナゴヤ人らしいユーモアを感じさせるトヨタの新しいビルの先に建設中のコレ。専門学校のビルなのだが、この学校、新宿にもおもしろいものを作っていて、よっぽど景気がいいのか。

新宿のほうは繭の形をした「コクーンタワー」。もう少ししたら鉄骨が見ごろになる。



『ラストキング・オブ・スコットランド』

2007-04-02 07:35:03 | 映画
昨日は映画の日で、これを見に川崎へ。1000円なら安いし、今、ウガンダのシゴトに関わっていて、1度くらいは行くかもしれないので。
で、見た人の評価ほどの映画ではなかった。白人の視点で見た、旧植民地のサルに近い黒人の残虐さと、白人が与えなければ何もよくならない、ということを強調した偏見に満ちたモノだった。結局のところ、ハリウッド映画の底の浅さだ。

ストーリーはウガンダの貧しい階層から這い上がって大統領にまでなったアミン大統領が、やがて敵対する部族や、自分の周囲の人間を信じることができなくなって、次々に殺していく。そのうちにパレスチナ過激派のハイジャック事件で、イスラエル=アメリカを敵に回したことから国際世論の批判を浴びて失脚していく。そういう時代の移り変わりをスコットランドからたまたまウガンダに来た若い医師を中心に描いたモノ。
この若い医師が、何か非日常的な冒険を求めてウガンダを訪れる場面から映画は始まる。そういう白人の気まぐれのようなものが黒人社会を喰いものにしているということを、多少批判的に描いている部分も見られるが、基本的にはさっき書いたとおりだ。

やはり文化の違いを認めない白人中心のモノの見方がこの映画のモトにある。白人=キリスト教社会では悔い改めれば何でも許されるという考えがある。だから植民地政策や奴隷売買などももはや済んだことで、それについては許されていると思っている。わざわざ南太平洋にまで来て水爆実験するのも、相変わらずジブン達が世界の中心だと思っているからだ。
一方で、東洋人は謝っても消えないものがあると思っている。だからニッポン人は従軍慰安婦問題について今さら謝れといわれても、形式的なものになってしまう。謝ったところで何になるのかという気持ちがある。アベシンゾーのように、そういう事実がなかったというのとは違う。ありゃ単なるバカだ。韓国人や中国人も何度謝られても根本的なところでは許さないから、世界が滅びるまで言い続ける。
こういうことがブンカの違いであって、「菊と刀」のルース・ベネディクトが言う「罪の文化」と「恥の文化」の違いだ。ワレワレは恥を永久に背負って生きていくしかないのだ。
そういうものの考え方の違いをまずは認め合わないと話は前に進まないのだが、やはりヨーロッパ・アメリカ中心の世界がある。で、ジミン党・官僚主導のニッポンはそっちのほうしか見ていないから、そのスナオなコクミンはこういう映画に高い点数をつけるというわけだ。

アミン大統領役のフォレスト・ウィテカーは、アフリカ人の動物的な獰猛さを誇張し過ぎている。この程度でアカデミー主演男優賞だ。若い医師役のジェームズ・マカヴォイは、ヤリたくなれば黒人でも白人の人妻でも誰でもいいという、性器が服を着たような、そういう都合のいい白人役を、ある意味、よく演じていた。

ケヴィン・マクドナルド監督、2006年アメリカ映画。
4/1、TOHOシネマズ川崎にて。

『青い光』 大岡昇平

2007-04-01 10:38:05 | 文学
「レイテ戦記」後の、一見、今読むとこっぱずかしいくらいのメロドラマである。解説で平岡篤頼が、作者は戦争モノと同じくらい、恋愛小説の大家である、などと書いているが、ワタシとしては、その当時の小説家をバカにしながらの、レイテ戦記の作者ナリのシャカイ批判のようにも読めた。

登場人物は読み捨て雑誌の人気小説家と、夫と娘を捨ててその小説家と同棲する女、それに捨てられた建築家である夫と、その夫の下で働く若い男とその妻。で、その妻は病院で事務の仕事をしていて、偶然交通事故で入院してきた小説家に食べられちゃって、人妻のほうは、小説家に寄生虫のようにくっついている批評家とやっちゃって、、ついでに建築家の下で働く若い男にもフェロモン撒き散らしてベッドでホニャララ・・みたいな、男女入り乱れての愛憎劇というところ。小説家と批評家が極端に軽薄に描かれている。

テーマは人は愛のために死ねるか、、という大仰なモノで、これは戦争で国のために死ねるか、ということを書き続けてきた作者としては、同じ路線のものとして書いている。で、作者の答はどちらもYESなのだが、死ねる対象としてのクニや相手の人間については、当然のことながらキワメテ限定的にとらえている。死ねるほどのクニも愛もあるが、それは相手次第ということで、この前の戦争で死なされた人たちは、それほどのクニのためだったのか、というのを軽薄な小説家を引き合いに出して書いているわけだ。つまりこの前の戦争を指揮した人たちはこの小説家のように、ありえない空想を描いてコクミンをだましていたということで、それを煽るマスコミ=批評家を含めて、そういう仕組みを批判している。それをジブンの職業をもってきてやってしまうところがなかなかスゴイことなのだ。

まあ、こういうウガッタ読み方もあるということで。

新潮文庫版 1984年刊
中央公論社『婦人公論』1970年1月号~1971年9月号連載