老後の練習

しのび寄るコドクな老後。オヂサンのひとり遊び。

ハノイのベトナムコーヒー

2008-11-30 13:22:00 | ベトナム
日本には木曜の朝に帰ってきたのだがハノイの空港に着いたときにニッポン人の団体旅行客というモンスターの群れに遭遇してアチラ側の世界に引きずり込まれた。
カレらはまさに先週見た「友達」に出てきた家族のように、狭い集団の中ではお互いに傷つけまいとして、うわべだけの優しさを振舞い合う。例えば機内の座席が一人だけ離れたところに決まっていたというような、ホントにどうでもいいようなことに、たとえ席が離れていてもワタシ達の関係に変わりはないと、搭乗までの2時間近く言い合い続ける。
カレらにとって集団からはぐれることは死ぬのと同じで、それをじゃまする者は力ずくで排除する。カレらの行列に紛れ込んだ単独行動者のワタシは異物として突き蹴飛ばされ、何度も列から押し出されそうになったがそんなものに負けるわけにはいかないと思ってこっちも引かなかった。。

そんなこんなで今回のハノイはこれでおしまい。また12月に行ってそのあとはむにゃむにゃ。
で、このベトナムコーヒーって飲み物はかなり濃くて、慣れるまでしばらくかかりそう。特殊な道具でカップ一杯ごとに自分でドリップしながら飲む。そこに作法みたいなのがありそうなところがおもしろい。

ハノイのナマズ

2008-11-26 01:45:43 | ベトナム
とりあえずの短期出張もあと一日。今日はまあまあよく働いた。別に働かなきゃいけないというプレッシャーがあるわけでもないが。。夜には国立会議場でニッポンが誇る建築家、ANDO TADAOの講演会があって、中国の人民大会堂みたいな大ホールに少なくとも5,000人は集まったか。入ってくるときなんかスタンディングオベイションで、タイシタもんだと思った。

で、そのあとに入ったローカルレストランで魚の鍋を頼んだものの英語がまったく通じなくて、魚がないというところまではわかって出てきたのはこんな感じ。頭がぴくぴく動いていて、蛇ではないことはとりあえず確信をもって言える。
頭の口のところがとがっていて、ハモ?って食べたことないし、今の時期、ハノイで取れるのかどうかもわからないのだが、ナマズならこの辺りの名物でもあるし、とりあえずナマズという結論に達した。

かなり脂っこくて、ドロドロな感じ。特にうまいというわけでもない。まあ、こういうこともある、ということで、明日はもっとうまいものを食べよう。



ハノイのフォー

2008-11-25 01:14:25 | ベトナム
こっちに来て2日間はインターネットにもつながずにいたのだが、仕事の必要から今日つないでみたらいつもの日常が一気に戻ってきたようで、ありがたいようなそうでもないような、、圧倒的に後者のほうではあるが。それでもこうやっていろいろ書けるのはそれはそれで薬のようではある。
ここは町中がアメ横みたい、というか、いや、それ以上に健全な活気があふれていて、特に道にはバイクの群れが、横断歩道や、ましてや信号機なんてものはほとんどない中を、歩行者と車の合間を縫って走り抜けていく。店先にはモノや食べ物が道路にはみ出して並べられて、それが夜の11時頃まで、道端でコーヒーを飲んだり、このフォーを食べたり、ほかに楽しみがないのかもしれないが一人でゲーム機に向かっているようなのに比べるとはるかにそういうところが健全に感じた。

で、コレは今日の昼に食べたフォー。雇っている車の運転手がワレワレニッポン人は屋台では食べないほうがいいと言って大きな交差点に面した店まで連れて行ってくれた。と言ってもただ屋根がついているだけ、というか、作っているのは店先の大きな鍋で、おそらくスープの継ぎ足し用にバケツに水がたくさん汲んであって、それは決してきれいなものではなかったのだが。
フォーにはチキンスープとかビーフスープとか、あと、あったかいツユそばではなくつけ麺もあってニッポンのラーメン屋のような感じではあるが、この店はビーフ味1種類で、注文すると1分くらいで持ってきてくれる。平たい米の麺に香草がたくさんと牛肉がのってお値段は2万ドン。ニッポン円で120円くらい。なかなかうまい。テーブルの上にはニンニクのおろしたのや唐辛子があって、頼むと沖縄のシークワーサーのような果実を持ってきてくれる。

まあこんなふうで、もちろん仕事は仕事でやってはいるがそれもこっちの時間の流れの中で進められているのでだいぶギチギチに張っていたものが緩んできた。帰った後の反動がコワい。
そんなことで、まだ、犬とか蜘蛛とか蛇は食べていない。

『友達』岡田利規/安部公房

2008-11-22 08:55:00 | 演劇
3連休を捨ててまで土曜日から出張にしたのは金曜の夜にコレがあったからで、コレを観ておかなければ死んでも死にきれない、というか、もう二度とあり得ないくらいの組み合わせだというのはわかる人にはわかることだがわからない人にはわからない。
簡単に言えば世界の安部公房の歴史的問題作をあのチェルフィッチュの岡田利規サンが演出する。しかも岡田サンは期待を裏切ってやる、みたいに言ってて、どうなることやらまったく予想がつかない、そういう芝居だったノダ。

話は一人の、婚約者のいる普通の、ただし家の中で牛の着ぐるみを着ている男のアパートに、ある晩見知らぬ家族9人が訪れる。家族は一人寂しく暮らしている男の家にむりやり上がり込んで一人でいるのはよくない、と言ってみんな友達、みたいにして「友達愛」を押し付ける。そんなものはいらないと自分の自由を主張する男はそのうち婚約者も家族に洗脳されて失う。
最後には家族の中の若い女に一緒に逃げようと持ちかけるが、家族の平和を乱したことで、家族はそのカタチを保ちながら、男だけが檻の中に押し込められて「友達愛」の中に縛られたまま孤立させられて、しまいには若い女に毒を飲まされて殺される。でもって、テーマは発表された1970年頃だとまだピンとこなかったんじゃないかと思うが、隣人愛とか会社愛とか家族愛とか、そういうもともとは人間の集団をユルくつないでいたものが、いつのまにかそれそのものが目的になってしまってヒトを強制的に縛り付けるものに変質して、そこに加わることを拒んだり抜け出そうとするものは実に優しく、集団そのものには何もなかったかのようにこの世から抹殺される、そういう、今の会社とか学校とか近所づきあいなんかのどこでも普通に行われていることがテーマになっている。
最後に、男を殺した女が何度も繰り返して言う。ワタシ達のことをただの世間だと思えばこんなことにはならなかったのに、って。

岡田サンの演出は、期待を裏切るって本人が言ってたほどまったく想像と違うものではなかった。むしろそういう意味でやや期待に反していたのか。
どこかの大学教授、つまりは創作の側にない人によるアサヒの劇評ではもっと新しい解釈があっても、みたいな書き方だったがそれもちょっと違う気がする。そもそも解釈ってもんじゃないのでは。こういう作品として確立された文学を演出するってことは。
岡田サンがやろうとしているのは演劇という形式そのものの新しいモノの表現というか、役者の体の動きとか、この前の横トリでもあったが特定の場面だけマイクを使ったりとか、それによって舞台と客席の間に起きる、何か波のような変化というか、そういうものの重なりがナマで言葉と体で、文字で書かれたものを目の前に見せるという演劇の本質というか、、まだよくはわからないのだが。
とにかくワタシにはそのへんがホントにいままでにないものを見せられるようで、生きてる間にコレを見れてホントによかったと思えるくらいのものだった。

役者はみんなうまくて、特に父親役のヒトとか。詳しくはあとで。
081121、三軒茶屋、シアタートラムにて。


で、今、成田エクスプレスの中で、もうすぐ成田だ。


インドシナ半島へ

2008-11-21 00:05:00 | ベトナム
今週末から出かける。仕事で。せっかくの3連休だが今回ばかりはそれほど惜しくない。考えてみれば大陸に上がるのも18年振り。インド以来だ。フィリピンとかトンガとか島国には何度も行ったけれど、、目には見えない国境線の存在は非日常の異物感を感じさせてくれるか。
その国は半島の東側を南北に、よくコネたうどん粉を机の角に張り付けたように薄っぺらく延びている。
ヨーロッパの偏屈なクニの支配からやっと逃れたと思ったら、ニッポンの天皇が率いる好戦家集団に襲われ、それからも解放されたと思ったら今度は世界最悪のテロ国家の侵略を受け、結局はそれに打ち勝って数年前から急激な発展を遂げている。
この間の無数の犠牲者の霊魂が、越前クラゲの大群のようにあらゆる町の空気を埋めつくしていて、それで特に北のほうは世界でも一二の多湿地帯になっている。

今度行くのはその北のほう。名物は犬料理とか田螺とか蜘蛛?とか。異なる文化は驚きとともにやってくる。それを野蛮とかグロテスクとかいうのは貧困な想像力のなせるワザで、蜘蛛のアタマの揚げたのなんか表面がカリカリで中はトロリとしていて☆☆☆間違いない。
写真撮れたら見せてあげるから。

鶏南蛮揚げ定食

2008-11-18 12:49:00 | 料理
相変わらずの出張生活。今日も福岡から特急で30分の某市へ。多くの目立ち系有名人を出している独特な気風のある町で、ド田舎なのに駅前のロータリーではいつも若モノがワメくように歌っている。単に自己顕示欲が強すぎるだけかもしれないがアソコまでの純粋さは都会人にはホホえましく見える。
で、この南蛮揚げはそういう町の普通の食べ物屋によくあるメニューで、鶏のモモ肉を天ぷらのように揚げて玉ねぎの薄切を散らして甘酸っぱいタレをかけたもの。
鶏肉は九州が本場らしく焼き鳥とか水炊きの店も多いがコレは南蛮=玉ねぎソースで食べるところが特徴。

ドコドコ産の鶏とか、都会であればそれしかウリがなくても客が入るような場所ではないのでそんなコトは話題にもならないがどの店で食べてもソコソコうまい。
そもそも産地偽装なんてテレビが作り上げたブランド信仰が背景にあるわけで、そんなニュースのたびに、もう一体何を信用していいのかわかりマセン、みたいなコトを真剣に言ってるオバハンを見たりすると、そっちのほうがよっぽど心配しなきゃいかんのじゃないかと、、、定額給付金もらってウレシイとしか思わないヒト達はそんなふうには思わないだろうけど。

マシュー・バーニー@横浜トリエンナーレ

2008-11-17 23:39:00 | アート
会期が残り少なくなってそろそろすいているだろうと思って行ったら一番のメアテは待ち時間2時間半でついにあきらめた。それにしても小雨降るなか長蛇の列に並ぶヒト達はエライ、というべきか、はたまた・・・というべきか。単にカレシやカノジョと一緒にいられればなんでもヨカったりして。ウチの場合はさすがに2時間半は間がもたない。

それはそれとしてこの前、過激な映画を見せてくれたマシューさんがこっちにも出品していて、やっぱりファンとしては、っていつからファンになったのかジブンでもわからないが、見ておかねばと、ということで狭く区切られた一角で、まるでいかがわしいフィルムを見るように見てきた。
何かの儀式のようだったが内容については書かない。身体の変容?ってこういうこと?大掛かりな舞台の上で繰り広げられるキラメクような光景。だがそのケツ末は。。
それを体験したあとには確実に世界が変わって見える、そういうモノがゲイジュツだとすればまさにゲイジュツとしての映像だった。

写真は見る前に会場の食堂で食べたタイチキンカレー。ニンゲンの毎日のイトナミ、というだけで、作品とは無関係とあえて書いておかねば。

根岸外人墓地

2008-11-15 22:30:57 | 散歩
京浜東北線や東海道線で横浜に着いてそこから港沿いに走る根岸線は桜木町、関内の先、石川町、山手、根岸と止まる。昔の外国人居留地で今は高級住宅地の山手は石川町が最寄り駅で、ユーミンが山手のドルフィンは~♪と歌ったドルフィンは根岸が最寄り駅だ。
山手駅はホームから右を見ても左を見てもトンネルしか見えない存在感のない駅だが、今日は駅前にある根岸外人墓地が年に一度だけ公開される墓前祭があった。駅前に墓地っていうのも、、信じられないような光景。
で、もう一回同じようなことをいうが、あの有名な観光名所にもなっている山手外人墓地は石川町が最寄り駅で、この根岸外人墓地は根岸駅ではなく山手駅のすぐ前にある、というわかりにくい話。

まあそれはそれとして外人墓地ってなんで観光名所にまでなるのかって考えると、そこにある種のさっぱり感というか、ホントは避けて通りたいドロドロしたものとは無縁のナニかがあると感じるわけで、ワレワレニッポン人の大部分は宗教なんか信じてもいないのに死ぬと戒名とかつけられて、それもカネで字数が違ってきて、葬式とかで知らない親戚のオバハンから立派な戒名デスこと、みたいに言われて、それは結局死んだ本人のためではなく、まわりのニンゲンの自己満足だけのためであることは明らか、というような、まさにそういうドロドロした世界とは無縁なものがそこにあると感じるからだ。

この根岸外人墓地は普段公開されていないということもあってまったく俗世界から隔絶された静けさが漂っている。明治13年に開設されたが本格的に使われ始めたのは明治30年頃以降で、現在では1,200人が埋葬されている。
愛する夫がナンタラかたら、みたいな墓碑銘を読むとキングクリムゾンの名曲、エピタフを思い出す。 confusion will be my epitaph ・・  みたいな。
入口にはやや無粋なステンレスの説明文があって、そこにはこの墓地の歴史が書いてあって、その最後に、異国の地に眠る故人の永遠の安息を祈る、とある。どこか遠くの国で死んで、誰も花なんかもってこなくて静かに眠り続けるというのも、一人で、誰も知らないうちに死んでいく猫の死みたいで、望ましいかたちのように感じられる。


魚介のカレー

2008-11-10 09:12:00 | 料理
ケータイで書くと字数制限があって500字くらい超えるとせっかく書いたものがアトカタもなく消える。コレはもう仕組みがわかつた。で、もうひとつ落とし穴があることが最近わかってそれはタイムアウトが発生しましたってヤツ。そうなるように作っておきながらまるで自然に起きたかのように、発生しました、はないだろうに。無差別にやってくる不幸みたいなものか。

それはそれとしてコレはコレで先週の日曜日に作ったお手軽カレー。スーパーの冷凍魚介パックを使って。だんだん手を抜くコトを覚えてきた。
とはいっても近所のスーパーに珍しくココナッツミルクの缶詰があったのでそれはもちろん使ったのと、玉ねぎ炒める前にクミンシードをたっぷり入れたのでだいぶインドっぽくなった。

でもやっぱり冷凍パックって、どこかわけのわからない工場で、消毒液の中を浮かんでくるイカとかエビとかホタテとか、ネコもヨケテいくくらいにプンプン臭うモノを機械で切り刻んで袋詰めして冷凍倉庫にぶちこんで、どういう因果かウチの近所のスーパーに並べられて今日はとりあえずコレでいいや、みたいにして食べてるワケで、できれば食べないほうがいいのかもしれない。

『幸せ最高ありがとうマジで!』 本谷有希子

2008-11-09 12:04:59 | 演劇
この秋5本目。
今日のは普通のヒトが見たら10人中9人は不快と思うような、精神病というか、まあ最近はどこにでもいるリスカ、とか、人格障害とかをネタにしたかなり苦々しい芝居だったんだが、ワタシとしては見終わってチカラがでてきたような、帰りの渋谷駅までの金曜の夜の雑踏の中をスイスイ泳いでいける感じで、なんか前を向いてイケるような気になれるモノだった。
だからといって、繰り返しになるがタイトルのような前向きな芝居ではなくて、タイトルはタイトルで、ウソでもホント、ホント、ホント、、ってでかい声で言ってるヤツのコトバが通ってしまう世の中を笑うしかないみたいな感じでやけっぱちでポジティブなコトバを連呼しているワケで、ウラ日本の暗い田舎から出てきた時にPARCOカードの入会審査に落ちたアタシが今やパルコから芝居書いてくれって依頼がくるくらいに成功したぞ、みたいに本当は言いたい屈折した作者のキモチのあらわれでもある。

話は永作博美サン演じる疫病神のような明るい人格障害オンナが、不幸は無差別に訪れるといいながらトアル新聞販売所にやってきて、そこの家族に向かってアタシはあんたらの夫/父親の愛人で、ジブンがあんたらの夫/愛人と過ごした7年間を、あんたらがなんとも思わないならコノ7年間はなんだったのか、とわめき散らして、不幸を共有しろみたいなことをいう。
で、襲われたソコの新聞販売所にも、そもそも新聞販売所というエリートが作ってヤクザが売るような、考えてみればオカシナ商売のところには、朝3時からの広告挟みとか、押し売りまがいの勧誘とか、料金払わないボケ、とかそういうカコクな労働環境があって、そこではオンナと付き合うこともできずに変態化しつつある店主のムスコや、店主のオヤジに勤め始めたその日にゴウカンされて、その復讐のためにやめないでいる住み込みリスカ女とか、理由のあるリッパな絶望を抱えたヒトたちがいて、永作サン演じるオンナはそういう理由があるリッパな絶望にウンザリするかのようにそこの平凡な人間関係を壊すことに理由のないヨロコビを感じる。世の中の絶望も希望も、理由なんかいらない、って、これは本谷サン的世界の根本的なところのモノだ。

最後のほうではやっぱりあんたはいったい何なのよ、みたいな感じで、永作サン演じるオンナは追い詰められていくのだが、それはやっぱり今の世の中のどこにでもある不条理のようなものを擬人化しているわけで、いくらもっともらしい顔して理由のある不幸を嘆いても、それはそれとして適当にバランスを取りながら成り立っている日常が、あるとき大なり小なりの理由のない、まあテロとか、酔っ払い運転の車にはねられるとか、電車の中でナニもしてないのにチカン呼ばわりされるとか、そういう不条理のエジキになって壊れていって、ああなんという不幸な日常のトウトさよ、みたいな、、ああそれで前向きになれたのかという気もしないでもないが果たしてそういう芝居だったのか。

永作サン演じる明るい人格障害オンナは本谷サン本人に違いないのだが、そもそも人格を否定された、みたいなことに始まって、サラリーマンの人格改造とか、、人格なんて勝手にジブンやまわりが作り上げた偶像のようなもので、それに障害があろうがなかろうがタイシタ差はないと思うんだが、世間がほっといてくれないというか、そうやって世の中が平らになっていくなかで、こうやってとんがった芝居を書き続けていくのはなかなかのものだと思いマシタ。

2008.11.7 渋谷・パルコ劇場にて。