2つ目はこの頃続けて見ている阿佐ヶ谷スパイダースの新作。よくぞココまで、といいたくなるほどのビジン女優大集合状態で、中村ゆりちゃんとか、初音映莉子ちゃんとか、黒木華ちゃんとか、安藤聖ちゃんとか、中村ゆりちゃんとか、、、、誰が一番好きかはわかると思うけど。タイトルの意味は都会での生活が人のココロの荒れ果てた荒野でのソレのようであり、その中でワレワレは多少の救い、というか、光のようなモノを見ながらイキテいる、みたいなこと、かな。実際はかなりムズカシイ作り方でよくはわからないのだが、全体としてはニンゲンの精神が一度崩壊して、ソコから緩やかに回復していく微かな兆候のようなモノを目の前で見せてくれた感じがして、ワタシも崩壊しかけているのでなんとなくチカラになったような気がした。
はなしは、ひとりのオンナがいて夫婦生活が破たんして実家に帰っているのかどうか、スーパーでアルバイトをしているがニンゲン関係がウマくいかずに、まわりからいつも叩かれる。それでココロを病んで高校生の頃のジブンのセカイに閉じこもっていく。ソノ頃、同級生がひとり死んでいて、ジサツしたのかどうかはよくわからないが、その死んだ友だちとの記憶の中でオンナはジブンも死ぬかどうか考える。ソレを時間の流れが逆戻りしたり、場所が突然、家の中から潮干狩りの海に移ったりしながらすすんでいく。
で、オンナは目玉をなくした、みたいなはなしになって、その目玉を探す探偵が出てきて、その目玉は当然ナニかの比喩なのだが、最後までなんなのかよくわからない。ちょっと恥ずかしい書き方をすれば、ジブンを見失う、みたいな意味だったのかもしれないけど、そんなあからさまな表現はない。
ソノ先はオンナが荒野をさまよって、ソレを父親と母親が、あんなところに娘を放り出してしまったのね、みたいに後悔する、というか、ソレは当然見えていないはずなのだが何もない荒野だからなんでも見える、みたいな場面がある。最後はオンナがジブンは死ぬのをやめることにしたのかどうか、その小さなきっかけのようなモノを見せるだけで終わってしまうのだが、まあ、それで十分よくわかった。
全体の中でとんでもない方向にはなしが展開する場面が何回もある。父親が娘を探しているときに突然、母さんが漬けた漬物、とか言って、タッパウエアから漬物をつまんで食べたりとか。ソレは夢の中のはなしのように見えて、あとでプログラムの中の長塚さんのインタビューを読んだら、夢を文章に書いている、みたいなことを言っていた。
で、ジツはワタシも夢をときどき紙に書いておくことがあって、たとえば、
「卵からかえったばかりの鳥、卵の形のまま青い。車にひかれそうなので手に取ろうとしたら取れない。取り上げたら猫になって走り回る(100621)」とか、
「オオサンショウウオがのっそりとこっちに向かってくる(110120)」とか。
あとで読むとどうみてもキチガイのセカイだ。ジブンの中の狂気が夜中に目を覚ますのか、誰もがこんななのかはよくわからないが、コノ芝居の中ではソレが普通のコトのように演じられる。
ベトナムじゃどうかわからないが、ニンゲンの狂気はいまの世の中では重要な演劇的テーマのひとつである。この前の長塚さんの芝居もそうだった。作家がナニも書けない―、みたいにして苦しむはなし。あとはセックすと暴力と死ぬコトと、ニンゲン関係の息苦しさみたいなこととか、あかるい無常感みたいなコトとか。そういう鬱陶しいテーマの中に、実際はないかもしれないカスかな希望みたいなものを、どうギリギリのところでホノめかすか、みたいなところが勝負なんじゃないかと。きのうの芝居みたいに、絶叫してジコ満足してればいい時代はとっくに過ぎ去ったんじゃないのかな。
2011.7.25 シアタートラムは入口前の喫煙所がやっと閉鎖された。