老後の練習

しのび寄るコドクな老後。オヂサンのひとり遊び。

パーカー

2009-07-30 10:03:24 | 風景
先週の金曜日が誕生日で、コッチでは誕生日のヒトがまわりのヒトに何かをプレゼントするとかごちそうするとかいう習慣があって、めんどくセー、と思っていたのだが、ちょうどニッポンのお土産のせんべいがあったのでテーブルの上に置いといたらいつの間にかなくなって、それもまた若干さびしー気がした。そしたらおとといの昼前になって事務のオジョーちゃんが今日のランチはみんなでお誕ジョー日ランチよっ、みたいに言ってきて、なんでぇーって聞いたらもう一人調教中のウマで今月が誕生日のがいて、一緒かヨ、と思いながら仕方なくレストランに入って行ったらコンナのくれて、お前らぁ、、みたいに思ったがコレも日頃の調教の成果かと。

写真の左のはニッポンの会社を出てくるときに日ごろ付き合いのない同じ部の人たちからもらった万年筆。ダッチわ○ふとコレとどっちがいいですかぁ、って聞かれてコッチをもらった。右のがおとといので水性ボールペン。二者択一はなし。
毎日ゆうことを聞かないで手を焼いていたが、一応ニンゲン同士ということでいろんな関係ができる。こんなことがあるならそのうち会社は全員オジョーたちだけにして、人知れず王国を築く。誕ジョー日にはホテルのプールサイドを貸し切って一昼夜飲みまくる。生きていればの話だが。

東シナ海の漁船

2009-07-28 00:37:18 | 窓際
ハノイからニッポンに行く直行便は深夜発しかなくて、出発するとすぐに飲み物が配られてそのあとすぐに真っ暗になって、それでもって2時間もしないうちに、ベトナム時間で言うと真夜中の3時頃にガンガンに電気がついて起こされてブロイラーのように朝メシが配られて、ワタシはいつも不眠症の不機嫌そうな顔をしてそれを受け取らないのだが、そうこうしているうちに東の空が明るくなってきてこんなふうにジェットエンジンが朝日に照らされる。

海に不規則に均一な光の点がいくつか見えるのは漁船の明かりで、揺れて酔いさえしなければああいう船に一度乗ってみたいと思った。
今日はもうとっくにこっちに戻って普通の生活のなかにいるが、昼間の暑さはとてもじゃないが受け入れられない。少し歩いただけでサルコジ状態になりかけて、よっぽどキモチをしっかりしていないと意識が簡単にトンデしまいそうだ。

チャン・ティエン通り

2009-07-27 04:07:58 | ベトナム
今日は今月最初で最後の完全休日。先週は別としてずっと土日に仕事が入っていたから。で、出かけようと思いながら暑そうだったからDVD見てたりしてたら夕方になって、それでも外はガンガン日が照っていたのだが思い切って外に出て5分歩いたら汗びっしょり。タクシーやらバイタクやらがやたら声をかけてくるのを振り切って本屋が軒を連ねるチャン・ティエン(Trang Tien)通りへ。

ココはオペラハウスの正面からホアンキエム湖のほうにまっすぐ延びるわずか200mくらいの通りで、本屋が3軒と画廊が10軒くらいとメガネ屋が3軒と骨董品屋とアイスクリーム屋が並んでいる。アイスクリーム屋の前にはいつもヒトがたくさんいて、みんな木の棒がついたアイスキャンディーを道端でしゃぶっている。濁った水色でぜんぜんウマそうには見えない。

で、本屋をはしごして一番大きなチャン・ティエン書店でハノイの歴史関係の本を3冊買った。ソノ中の一冊、"Ha Noi, Chu ky cua nhung doi thay"はベトナム語のテキストで中身はチンプンカンプンながらハノイの古い地図が15ページにわたって載っていてジツに興味深い。一番古いのは15,6世紀?くらいので新しいのは2020年の都市計画図。
写真のは1885年のモノ。王宮が中心にあって今の旧市街が赤く塗られている。ワタシの家があるあたりは完全に郊外の湿地帯か何かでのどかな雰囲気だ。フランスがハノイを占拠したのが1882年だから占拠してすぐにこの地図を作った。紅河はその頃からRouge河のようだ。

帰りはイタメシ屋に寄ってイカフライをつまみにビールを2杯。街灯が少なく町全体が暗いので日が暮れるのはニッポンより早く感じられる。

『カール・マルクス:資本論、第一巻』 リミニ・プロトコル

2009-07-26 09:48:52 | 演劇
コレはこの前、NHK教育テレビの芸術劇場で放送されて、それをブルーレイにとっておいて今回持ち帰ってきたもの。はじめはなんじゃコレ、と思ったが、観ているうちにだんだんおもしろくなってきた。ニッポン人が出ているというのもスベルんじゃないかとの予想に反してかえってわかりやすさを増していた。出ていた人がそれぞれ深いモノを持っていたからだろうと思うが。

内容はHPに書いてある通り。資本論をめぐってコノ本に何らかの関係をもつ何人かの人たちがそれそれのジブンの歴史をほかの人には無関係に語っていくのだが、だんだんそれがお互いに少しずつ絡み合ってきて、、最後のほうは感動的ですらある。資本論という一冊の書物を下敷きにして、それぞれのジンセイという未完の書物をその上に重ねていく。コレもこの前テレビで録画しておいて見たイキウメの図書館的人生voi.1の最初の賽の河原のナンたらというので鬼が死者に天国に行くのを許す場面でジブンの歴史が書いてある書物を一人一人に渡してゆっくりこれを読みなさいと言うシーンがあったが、資本論というサンズの川を一つの船に乗って下りながら一人一人がジブンのジンセイを世の中に書きとめていくような、、よくわからないが、ワレワレは否が応でも同じ船に乗っていて同じ時間を終末に向かって進んでいるという感覚を、資本論によって引き起こされたソレぞれの変化を時間軸上に羅列するように並べることで時間の共有感みたいなかたちで見せてくれる。

日本人の出演者のうちやはり際立っていたのは実際にも経済学者で資本論について大学で教えてきたセンセ。終戦の天皇の放送を聞いた後、北海道の刑務所に入っている父親が帰ってくると喜んで話した母親を見た時から自らの人生が回り始めた、みたいなことを最初に言って、あとは滔々と資本論を読んでいく。なんかこっちがわかったような気になる読み方。

リミニ・プロトコルというのはこの芝居、というかパフォーマンスというか、これを制作、というか演出というかしているグループ、というかユニットというか。とにかく既成の演劇の枠には入らないユニークな人たち。実験としてであれば資本論でなくてもよかったのだろうが、やはりかなり思想的な方向性の強いものを意図していて、はやい話、コレは左翼の革命シソウにもとづいている。
一方で、目の見えない人がドイツ人と日本人の一人ずつ、それぞれ重要な役割で登場するが、目が見えることと見えないことでモノの価値が大きく違ってくるということを、それは結局ヒトそれぞれ、目が見えようが見えまいがそれぞれ価値観はぜんぜんまったく違うということを言いたかったんだろう的な演出も。

2009.3.1 にしすがも創造舎での公演の録画



@元町の裏通り

2009-07-24 09:32:25 | アート
やっぱりハノイのほうが暑い。なんか頭の上から熱い毛布をかけられているような重々しい暑さ。それでいて部屋の中は冷房がガンガンでカラダがついていかない。夕方にはヨレヨレになって目がショボショボしてきた。明日はもっと熱いホーチミンシティに行かなきゃならない。やれやれ。

ニッポンでは衆議院の解散とか久しぶりにアカルイニュースもあったがやっぱりテレビが相変わらずダメだ。コクミンはバカだという前提に立って、バカにはこの程度の話で十分みたいに、お前、お笑いタレントじゃなかったのかというようなのが偉そうにしゃべっている。テレ朝のミタゾノさんなんか、コクミンはマニフェストなんかいちいち読んでなくて選挙はイメージだけで決まるんですよ、なんて、あからさまにカイセツしていた。ま、実際そうかもしれないがそういうことがニッポンをダメにしているわけだからもう少しまともなことをしゃべってほしい。デーブスペクターの笑えないギャグのほうがよっぽど批判精神があったりして。
それに決まり文句みたいに何も考えずに同じことを何度も何度も繰り返す。ミンシュ党が政策を発表すれば財源がアヤシイ、みたいに。財源のないいい加減なバラマキを繰り返して何十っ腸炎、いや兆円もの借金を重ねてきたのが今のジミン党政治なのだ。親の七光りのボンボンがカネもないのにツケで選挙で票を買いアサって、その借金のカタに官僚にキんたマ握られているわけだから。

ま、それはそれとして写真は元町商店街の裏道を散歩していて酔った勢いで買ってしまったとんぼ玉。お店のかあいいオジョーちゃんにボクに合うのないのぉって聞いたら、店の奥から次から次にいいのを出してくれるもんだから、じゃあコレとコレも、って言いそうになったが財源がないのであきらめた。

『我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこに行くのか』

2009-07-23 02:37:01 | アート
ゴーギャンの傑作中の傑作。コレが今、東京で見レル。たぶん今回をのがすと死ぬまで見れないだろうと思ってペンギンの芝居の前に行った。祭日の午前中だというのにそこそこの混雑でこの絵の前だけは上野動物園のパンダ状態。一列で立ち止まり禁止で進んでいく。ゆっくり見るなら列の背後から行列越しに見るほうがいい。

で、この絵についてはいろいろ解釈はあって、実際ゴーギャン自身が解説した説明文なんかも展示されているのだが、それはそれとして、これはやっぱりゴーギャンが遥か南太平洋の孤島、タヒチまで来て、なんでここがフランス領なのかって思って、ジブンもフランス人としていったいジブンは何なんだろうと思って描いたであろうことは明らか。行き詰ったヨーロッパ人がジブンの存在理由を問いかけているような、、といったらあまりに平凡な解釈だが、ニンゲン行き詰るとそういうことを考えるものだ。ムラカミ・ハルキのノルウェーの森も最後のところは一体ココはどこで私はなんなんだぁ、みたいにして終わっていたと思う。
ゴーギャンはコレを1か月で一気に描き上げた。行き詰りつつゴールのテープが見えたんだろう。何かが乗り移っていたとしか思えないほど、絵具が隅々まで均一に塗られていてカンペキに仕上がっているように見える。

で、ワタシのほうはまたこれから出稼ぎに戻るため今、成田のラウンジでコレを書いている。書き終わるのはハノイの家に着いてだろうが、ニッポンに行ってハノイに帰るっていう感じで、行くと帰るが完全に逆転していることに気付く。
こんな生活を一体いつまで続けるんだか。ハノイのほうが本拠で、3、4日、旅ビトのようにニッポンに来る。残りがあと20年としてソノ何年かをコンナ風にときどきコッチに来てのんびりもできず向こうに戻っていく。まったく不幸のキワミだが、ゴーギャン的に漂泊している気楽さもソコにあるのは確か。
今日は午前中にムスコとユニクロに行って半ズボンとポロシャツを買ってあげて昼メシはワタシの希望で蕎麦屋に入った。一体ジブンはコレからどこに行くのかと思いながら駅でじゃあなと言って別れた。


日蝕@横浜11:04

2009-07-22 13:33:59 | 風景
朝から雨。昼前に少し明るくなってきたので空を見上げたらこんな感じで見えた。雲のおかげで専用メガネとかもなしで。
皆既日蝕ってのを死ぬまでに一度見てみたいが、あんなヒマはあるわけがない。

『Cover』 ペンギン プル ペイル パイルズ

2009-07-22 09:11:20 | 演劇
コレはおとといみた芝居。初めの30分はどえりゃーって、急に名古屋人になるくらい退屈で、それなのに鹿のぬいぐるみが飛んできたり、それに対するリアクションがテレビ的だったりして、昼に食べたまずいスパゲッティが消化不良を起こしそうになったのもあって途中で出ようかというくらいだったのだが、、だんだん話の筋とは別のところでおもしろくなってきた。

まずは話の筋から書いておくと二人のオトコ(兄弟)が一人の釣り人を車で追いかけている。釣り人のほうが何かを持って逃げていて、それを兄弟が追いかけている。そこに鹿が飛び出してきて車が事故って動けなくなったと思ったら近所に兄弟の兄のほうの元愛人がたまたま近所の金持ちの家で住み込みの家政婦をしていてそこで一夜を過ごす。そうしたらその家にはハゲシイ躁状態のコミュニケーション不能弟?が離れに引きこもっていて、その兄と姉?は手を焼いている。ってホントに焼いているわけではないが。で、その離れの家がどえりゃー成長の早い木に押しつぶされそうになっていて、そこからすぐに引っ越さなければならないといういうのが一つの状況設定。

そうこうしているうちに釣り人オヤヂが持って逃げていたのはその金持ちの家の姉?が何十年前かに書いて風船で飛ばした親あての手紙であることがわかってきて、その兄弟はジブン達の行方不明になっている姉が書いたものだと思ってそれを取り返そうとしている。ところがその手紙の中身を知っている釣り人はそれを書いたのがなんと目の前にいる金持ちの家の姉?であることに気付いて、それはいったいどういうことなんや、、みたいになっていく。で、だんだんソノ金持ちの兄弟?には複雑な背景があることがわかってきてどうやら兄と姉?は兄弟ではなくて、姉?は何十年か前に兄が誘拐してきた女で、ソノ躁状態のオトコはソノ二人の間の子であることがわかってくる。しかもそのうえソノ姉?はけがをして転がり込んできた兄弟の行方不明の姉であるらしい、みたいな感じで、それを風船で飛ばされた手紙だけが真実を知っている、みたいにして、不確かな部分を残しながら話が展開していく。

後は突然ながらソノ躁状態のイっちゃってる若い男が離れの床下の洞窟で鯉だかピラニアだかを育てていて、それだけがジブンのイキ甲斐みたいになっているのだが、それを逃がさないと家と一緒に木の根っこにつぶされてしまうというなかで釣り人オヤヂがでてきて複雑な兄弟も、そして行方不明の姉と出会えたことに気付いているような気付いていないような兄弟もみんな一緒になって、ピラニア救出で盛り上がって、それまでの秘密はそのままにしておこうみたいにして、夜が明けて朝日に照らされておしまいおしまいみたいな話。

で、なんでここまで複雑な状況設定を作らないといけないのかというのがソッチョクな感想。何を言いたいのか、とか、そういうことはいちいち考えないことにしても、絶叫調のセリフばかりが気になってニンゲン関係が深くホリ下げられていたかというとそうでもないように思えるし、姉?がケガをした兄弟の兄を手当てしているときに兄の足に昔の傷を見つけて何かに気づくっていうまあ重要な場面だと思うのだが、ソコで松田セイコの歌がバックに流れるあたりは興ザメとうか陳腐というか、あえてそういうところをねらっているのか。

で、最初に書いた話の筋とは別のところというのは、コミュニケーション不能オトコだけじゃなくて登場人物の間で普通に会話が成立しない、というか、聞いてることに答えなかったり、日常的によくある意味不明な無駄な言葉で会話がなりたっていると思いこんでいたりすることを、そういう疑似会話っていったい何?みたいなことを強調するセリフがつながっていくあたりがワタシ的にはヒジョウにおもしろかった。そういうコミュニケーションのどうしようもないズレみたいなものを浮かび上がらすための作りすぎの話だとすればコレは結構ツボにはまりそうな気もした。

2009.7.20 下北沢、本多劇場

『奇ッ怪』 

2009-07-20 19:02:26 | 演劇
きのうの朝、ニッポンに帰ってきて最初に思ったのはこっちのほうが暑いということ。東京の最高気温は32度くらいと発表されてもそれは百葉箱の中での話で、ソレって一体なんの意味があるのかと思いませんか、ソコの奥サン。実際の路上は40度近いわけだから。。
で、コノ暑さの中、今回は芝居を2本見て、絵を1枚見て、バリウム飲んで、、あと何かして帰る。で最初のがコレ。イキウメの前川サンの脚本と演出でとにかくウマい。うならずにいられないような芝居だった。

ベースになっているのは小泉八雲の「怪談」。コレを芝居の中の芝居という形で現実と芝居が入れ替わりながら展開していく。こんな話があるんですよ、みたいに主演の仲村トオルサンが言いだすとその場が何百年も前の空間に瞬時に変わる。出だしはある山奥の温泉に二人の刑事が来る。そこに作家のオトコ=仲村サンが泊っていてそれぞれの怪談を話し始める。かなりコワい。でも合間にけっこう乾いたギャグが入り込んでタダのコワい話で終わらない。
「怪談」をベースにはしているが話の大きなスジは完全に前川サン的な、ニンゲンが生まれ変わってどうなるか、とか、意識の中に入り込んで乗りうつる、とか、そこでも霊魂はソレを信じる者がジブンで作り出している幻覚のようなものだ、というような、宗教とか、そういうものを疑いながらソレがないとニンゲンは生きられないと言ってるような、これまで見たものに共通するものがあった。
最後のほうはその独特のシソウのようなものが完全に劇化されて、まったく破綻のない結末で仲村サンもうまいなーって思わせる適度にチカラの抜けたいい芝居。

主人公の作家=前世の侍=仲村サンが死んだ瞬間には客席のほうまで風が吹いてきた感じがして、それはもう20年以上も前にワタシの母親が死んだときにその夜中に、家族がまとまって寝ていた部屋の中を風が2周くらい吹いて閉まっているはずの窓からスゥッと出て行った時の記憶にあまりに似ていて、きのう風を感じたのは幻覚だったのか、それとも現実だったのか、、それはワタシ自身の中にあるものが現実だと受けとめた以上、そういうことだったとしか言えない。

満席、立ち見も。
2009.7.19、世田谷パブリックシアター、シアタートラム。

『中国の植物学者の娘たち』

2009-07-16 00:25:44 | 映画
ベトナム映画であるはずがないのはわかっていたが、店のおばさんがコレ、ベトナム、みたいに言うのでわかったわかったみたいに買ったのがコレ。かといって中国映画でもなくフランスとカナダの共同制作。内容的には中国趣味マンサイのかなりいかがわしいモノで???的映画。

まず登場人物の設定が、大地震で親を亡くして孤児院で育った若い女性と、その女性が成長してご奉公みたいにして預けられたのが偏屈オヤヂの植物学者の家で、その家にチョー美人の娘がいてソレがレずで、、そこにそのレず女の兄というのがやたら神経が一直線の単細胞オトコで、あとひとり意味不明の山寺のセンセーみたいなのがでてくる。
で、この複雑な人物設定に何か深い意味があるのかというと、孤児院で育った若い女は何か影があってイケナイ道に迷いこんでいくのかと思うとそうでもなく、なんとなく偏屈オヤヂの娘に誘われて明るく楽しくレずの道に入っていく。偏屈オヤヂのほうはどうかというといかにも顔からして偏屈で、朝めしが少しでも時間に遅れるとワシはソンな物食べんっ、みたいにして若い娘に意地悪をする。それで若い娘がいじけるわけでもなく、偏屈オヤヂのムスコの結婚相手にさせられて、それを拒むわけでもなく結婚しながらアッチのほうを拒絶して息子にDV責めにされて家を飛び出したかと思ったら偏屈オヤヂの家に戻ってくる。
でそこで偏屈オヤヂの娘のチョー美人と、やっぱりアナタじゃないとだめなの、、みたいにして炎上する。そこを偏屈オヤヂに見つかって、オヤヂのほうが鬼の金棒みたいなので殴ろうとするところをスコップで逆に殴りつけてコロしてしまって、あとは人民ケイサツみたいなところにつかまって、結局は殺ジンではなくてレずの罪で死刑になって山寺のセンセーが二人の冥福を祈っておしまい、みたいな話。

人物設定に必然性がないというか、ストーリーに深読みを拒絶するようなところがあって、ただ単にチョー美人同士のレずシーンだけがこの映画のヤマ場ですよーみたいに、十分な前置きと余韻を感じされる構成になっている。かなりいかがわしい。中国ではレずというだけで死刑になるのか、その辺が事実だとしても、ヨーロッパ社会が近代化の中で失ったニンゲン本来の超えてはならない一線の大切さみたいなものを、中国という遅れてきた社会を舞台にノスタルジックに描いたというような内容。それにしてもなんで植物学者じゃなきゃいけないのか、まったく、120%理解できない。「タンザニアの野生動物監視員の娘たち」でも全然オッケーだったりする。

2005年、カナダ・フランス映画。