老後の練習

しのび寄るコドクな老後。オヂサンのひとり遊び。

『世界の支配者』 ジュール・ヴェルヌ

2007-11-30 11:23:57 | 文学
この2週間、締め切りシゴトに追われてほとんど休みなし。それが火曜日にとりあえず終わったので、、とりあえずというのはとりあえずビール、みたいな一般的な意味なし接続詞ではなく、結果によってはまた超忙しい日々が始まるということで、未来が予想不可能であることを諦めつつ、とりあえず、という意味。
そんなわけでしばらくは宙ぶらりんな気分。宙ぶらりん、というのは大江健三郎が「洪水は・・」で使っていた意味と同じ宙ぶらりんで、人間がゲダツする一歩手前の状態。これも予測不可能な未来を前にしてそこに身をゆだねる無力なジブン、というような意味。
なんか、リクツっぽいな。ボケの始まった上司とシゴトしてたので、正確に意味を伝えないと足元すくわれるっていう強迫観念から抜け出せない。

で、今日は休みだ。「夏休み」の振り替えを主張してもいいんだが、そういうカイシャのシステムにカラミとられるのもいやだし、タダの休みでケッコウ毛だらけ。明日が映画の日だから今日は家で掃除したり、いろいろ片付けたり、植木鉢の雑草抜いたり、、こんなもの書いたり。こういう生活が早く普通のコトになればと思いながら。

コレはヴェルヌが死ぬ直前に書いた、ほとんど最後の作品。よく言われることだが、ここで登場するロビュールという人物と、海底二万里のネモ船長はヴェルヌ自身ということで、科学を利用して暴走する、現代社会のもう一方の人間の生き方のようなものを、社会に背を向けることだけで悪と見なされる主人公にジブンを重ねて描いている。
世の中、オモテだけというモノは存在しないわけで、オモテがあれば必ずウラがある。オモテのきれいなところだけを見て、原子力発電はこんなにキレイです、とか言ったり、アメリカの核は安全で北チョーセンの核はアブナイとか言ってるのが現代社会の正義なわけだが、そんなコトが嘘っぱちであることは猿でもわかる。オネダリすれば何でももらえると思っているバカオンナにはわからないだろうが。
で、ヴェルヌは一見、悪と思われるモノが本当は正しいんじゃないか、というか、悪とか正義とか、そういう絶対的なものは本当は存在しないということを下敷きにして、晩年にいろんな作品を書いた。オモテとウラはあってもどっちがオモテかは決まっていないという意味だ。
だから出版社がもくろんでいるように、ヴェルヌが少年少女向けというのなら、こういうのを無垢な子どもが読めばニッポンはもう少しまともになると思うのだが、結局は、ネズミのお化けがいるような、あの軽薄思想を垂れ流すレジャーランドが正義であり善であったりしてしまうのだ。

まあ、話がそれたが、この作品で取り上げられている科学技術は自動車。それも水陸両用どころか、水中も走れるし空も飛べる。ライト兄弟がはじめて空を飛んだのが1903年で、自動車が蒸気で動くものとして広まったのが19世紀の半ばなので、1904年に書かれたこの作品は、そういう時代を背景にしている。

ロビュール博士の発明した「自動車」が、人里離れた山奥で毎夜、異様な音を発する。それに人々が怯えているところへ目にもとまらないスピードで街中や湖の上を走りぬけていく。誰もハッキリと見ることができないから恐怖だけが広がって、そのうち悪そのものとして攻撃の対象になっていく。スピルバーグの「激突」とか「ジョーズ」のような見えざる敵に対する恐怖、という点でキワメテ新しい。
で、ロビュール博士は自分の技術が敵視されることで、世間に背中を向けてわが道を行こうとするのだが、世間が放っておいてくれなくて望まざる敵対関係に陥る。こういう今でも通用するような、社会と個の関係のようなことを、20世紀の初頭に書き上げたところが、前から言ってることだが、ヴェルヌの凄いところなのだ。

榊原晃三訳 集英社文庫版、1994年刊。


『定義集』 大江健三郎

2007-11-25 08:34:52 | 評論
キッチョウの偽装で「安物」牛肉として利用された佐賀牛の生産者がテレビで怒っていた。キッチョウに佐賀牛をおとしめられたとして。でも見方によっては、但馬牛といわれても区別がつかないモノとして、あのキッチョウさんに目をつけられたわけだから、それなりにうまいということだ。世の中、前向きにとらえなければ。。

で、コレは先週のアサヒ新聞に載っていた毎月1回のコラム。牛ではなく、「人間をおとしめることについて」と題して、最近よくあるなあと思わせる現代社会の陰湿な足の引っ張り合いの一例としてワタシには面白かった。
例の「沖縄ノート」裁判で証人として呼ばれたときのことを書いているわけだが、コトの発端は愛国フジンエッセイストのソノ綾子サンが、大江さんが「沖縄ノート」の中で、沖縄・渡嘉敷島の集団自決について、それにかかわった元大尉のことを、「沖縄県民の命を平然と犠牲にした鬼のような人物」であるかのように書いていて、それは「人間の立場を越えたリンチであった」、とまで国の公の場で発言していること。コレに対して当の元大尉が名誉を傷つけられたとして訴えているわけで、その背景にはアノことが軍の強制ではなかったと言いたいヒト達,そしてまた、アノ戦争自体が美しく正しいものだったと言いたいヒト達の思惑がある。

自分の思想を正当化するために、自分の考えと反対の立場のヒトのことをどこか足を引っ張れるところがないかと探したあげく、一点集中攻撃的に、モノゴトの一部を拡大して騒ぎ立て、本来のコトの本質からは離れたところで勝ちを収めることで、本当の問題を覆い隠し、何もなかったかのようにしてしまう。そういうやり方の一例だ。
大江さんは元大尉のことを個人として、鬼のような人物としては書いていないし、そういう一個人が、一般市民を強制して集団自決に追いやったというようなことを書いているわけでは当然ない。あの戦争を扇動した一団の犯罪者のことが念頭にあるわけだが、そうではない考えのヒトが逆に、元大尉という個人の問題をちらつかせてそのおおもとにある事実を隠そうとしている。そういう図式なのだ。

裁判の最後に大江さんは弁護士から、ソノ綾子サンの文章の一節を読まされる。
ああやって「国に殉じて美しい心で自決」した人たちのことを、なんでまた戦後になってあれは強制されたものだと、なんでまたそんな余計なコトを言って、その「清らかな死」をおとしめるのか私には理解できない、、というようなところだが、ソノサンはしっかり理解しているわけで、そのように大江さんという標的としてはこの上ない人をおとしめることで、もっと重大なコトを覆い隠そうとして、一旦は教科書まで書き換えてうまくいったかに見えたわけである。
で、今やっているのはあの決起集会に参加した人数という瑣末なことを、主催者の発表を鵜呑みにしたメディアを批判することで、アノ集会そのものが何かに汚れたモノであるかのように見せて、もう一度巻き返そうとしているのだ。実に巧妙。うまいとしか言いようがない。
それでもやっぱり奥が深いようで意外と浅かったりして、。センソウ肯定派のヒト達が、結局は自分のフトコロを肥やすことが目的だったりするのは、国防を喰い物にする政治屋とかアノ卑しい官僚を見ていればよくわかってしまうもんだから。

『茄子と鶏挽肉のカレー』

2007-11-18 22:50:35 | 伽哩
今日の日曜は5時前に眼がさめてそのまま起きた。1日中、ローゴの練習ざんまい。
まずは洗濯機回してから掃除機でいろいろ吸い込んで、埃が1cm以上積もった部分を雑巾がけ。洗濯が終わったら素早く干して、風呂にお湯入れながらゴミ箱のビニール袋を緊縛して、汗かいたもんだから風呂に入りながら風呂掃除。出てからは皿を洗いながら頭を自然乾燥させて、昼と夜のメシの材料をメモにしてからゴミ袋を5つぶら下げて家を出た。でもって、駅前のスーパーで材料買い込んで、家に帰って第6レースから戦線参入。ま、多少効率的に動いたつもり。

お馬さんのほうは絶不調で全敗。スナオにダイワメジャー買っとけばよかった。
で、いつものカレー作りに励む。今日のは俗に言うキーマカレーで中華料理みたいに茄子を放り込んでみた。別にワタシのオリジナルでもなんでもないが。別に、、。
作り方は、サラダ油熱した鍋に玉葱のみじん切り1個分入れて茶色くなるまで炒めたら、ニンニクのスリおろしたのとクミン、コリアンダー、ターメリック、レッドチリペッパー、塩をそれぞれ適量入れて混ざり合ったら、今度は鶏の挽肉ぶち込んで火が通ったらトマト2個分細かく切ったのを入れて、、トマトが崩れて全体がドロドロ状態になったところで茄子を適当に切ったのを入れて10分くらい煮込む。煮込んでいる間に皿洗いなんぞをして、そうこうしているうちに完成。
まあまあうまくできた。

で、ここまで書いてきて今さらだが、ワタシの趣味はダンドリである。ものごとの順番をよく考えて、そのためによく準備して、あとは流れるように進めるだけ。
料理についても誰も作ってないものを新しく開発するとかいうことには興味ない。創作料理ってよく聞くが、そもそも喰えるもので作っている程度で創作とは言えないんじゃないの。カラス喰うとか考えるなら話は別だが。
それにコーチンとか比内とか、要するにどこの鶏肉だとか、南イタリアの誰作のトマトだとかそういうことにも興味ない。だからキッチョウだかサッチョウだか、そういう話題にはついていけない。うまければいいと思うだけだ。

世の中にはいろんなヒトがいる。キッチョウがキッチョウでなくなった瞬間に、食べたものの記憶がよみがえってまずく感じられはじめるヒトとか、賞味期限を1日過ぎただけでこんなモノ喰えネエって吐き出すヒトとか。。驚異的な味覚の持ち主って驚くフリして、バカにしてるだけなんだけどね。


『インド王妃の遺産』 ジュール・ヴェルヌ

2007-11-18 08:42:45 | 文学
これは1879年、ヴェルヌが51歳のときの作品。この7年後、いろいろな不幸が重なって、ヴェルヌは社会に背を向け、見方によっては反社会的な主人公が活躍する一連の作品を書き続ける。1873年に「80日間世界一周」を書いた後のこの頃は、どちらかというと中だるみの時期といえる。

この作品の底にあるのはフランス人とドイツ人の民族的な対立で、1870年に勃発した普仏戦争でフランスとプロイセン(後のドイツ帝国)が戦って、フランスが負ける。それでアルザス-ロレーヌ地方を失うのだが、そのことを根にもってアルザス人の若者、マルセル・ブリュックマンを登場させて、ドイツ人の悪者を退治するという単純なオハナシ。
フランス人は善でドイツ人は悪という図式が露骨で、後半の愛国心の高まりからくる自己陶酔的表現は読んでてこっ恥ずかしくなる。壷やらなんやらを高く売りつける某宗教団体の宣伝誌がタレ流しているような自分勝手な高揚感。ニンゲンはみな兄弟、教祖サマバンザイ、みたいな。

ストーリーはある日突然インド王妃の遺産が転がり込んできたフランス人が、こともあろうにドイツ人とそれを分け合うことになって、そのお金でふたりがなぜかアメリカにそれぞれの理想の都市を作り上げる。フランス人のほうが衛生的で安全で豊かさをみんなで分け合う理想都市を作ったのに対し、ドイツ人は刑務所のような閉鎖的な都市をつくって人間が奴隷のように働いて休みなく鉄を生産する。で、その鉄で今までにないような巨大な砲台を作ってフランス人の都市を破壊しようとする。
それでもってさっきのフランス人の若者が活躍して、理想都市を守り抜いて、お返しにドイツ人都市の支配者をやっつけたあげく、ドイツ人が作った都市も使いようによっては人間の幸福に役立つとかなんとか言って、そのフランス人の若者が立て直すことになってめでたしめでたし、という感じ。ジブンは絶対に正しく、相手が絶対に間違っているという調子よさ。フランス人は今も昔も変わらない。

この話で使われている「科学」は後の毒ガス爆弾を連想させる炭酸ガス爆弾とか、、スピードが速すぎて地面に落下せず役に立たない巨大砲弾は大気圏を突破する人工衛星のはしり。ほかの民族はアタマの程度が低いので絶滅させてしまおうというドイツ人の悪者は後のヒットラーのようでもあるが、フランス理想都市のほうも相当いかがわしい。善と悪は表裏一体。とはいえそういう人間の両面性を描いたものではなく、単純に民族主義にはまっているだけの素朴なもので、あまり深読みすると楽しめない。
適度なアイコク心は人間社会で生きていくには必要、ということで、ニッポン代表の活躍と、オシムさんの回復を祈るばかりだ。

中村真一郎訳、集英社文庫版、1993年刊。

『地底旅行』 ジュール・ヴェルヌ

2007-11-12 22:39:08 | 文学
引き続き「驚異の旅」シリーズ。コレは有名な作品で、元イエスのパツ金キーボードプレーヤー、リック・ウェイクマンの"Journey to the Centre of the Earth"の原作にもなった。ってあんまり有名じゃないか。ワタシは中野サンプラザまで聴きに行ったものだから鮮明に覚えている。もう30年以上も前の話だ。

ストーリーは、フランス人の地質学者が16世紀に書かれた謎の文書を読み解いて、アイスランドの休火山の火口から地球の中心に道がつながっていることを知って、それを確かめる探検に出る。途中、飲み水がなくなったり、一緒に行った甥っこが行方不明になったりと大変な目にあいながら、地中海と同じくらいの大きさの湖のある大洞窟にたどり着く。当然天井も高くて、雲なんかも出ていて、でもなんで明るいのかはわからないまま、、そのうちに、道をふさいでいた岩を動かすためにダイナマイトを使ったら、勢いあまって天井にひびが入って、地表の海の水が入り込んできて、逆にそれが、もう地上に出る方法がないといって諦めていたところに助け船になって、地中湖からいかだに乗ったまま噴火口を上昇して、気を失っている間にホントに地中海の真ん中に浮かぶ島の火山の横っ腹から脱出する。。ってな話。

まさに奇想天外。地球は中心に行けばいくほど熱くなるということは、その頃、既にテイセツになっていたが、この学者はそれを否定していて、実際熱くならずに地中湖は快適そのもの。
結局、地球の中心どころか、親指の先くらい入ったところから引き返して探検は終わる。でも地球の奥のほうに、そういう楽園が広がっているかもしれないというのは、あり得ない話ではない。まだ誰もないことを証明していない。だからこの話はヴェルヌの空想の中で実現していない数少ないものの一つになっているのだ。

コレが書かれたのは19世紀半ば。日本はまだ江戸時代でチョンマゲ結ってカタナ振り回して、夏目漱石がやっと産まれた頃。H.G.ウェルズ、ってハード・ゲィ・ウェルズじゃないんだが、そのウェルズが「タイムマシン」を書いたのが1896年、「透明人間」は1897年だ。
この驚異的な想像力。この想像力の前ではゲイジュツなんて鼻くそか屁みたいなもん。それが少年少女向けだなんて呼ばれて本棚の隅にかためられているとは。こんな脱力感はほかに滅多にないことなのだ。

東京創元社、創元SF文庫版 1968年刊。

『レディ・チャタレー』

2007-11-11 07:47:08 | 映画
「チャタレー夫人の恋人」の、もう何回目かの映画化で、先週1週間はディレクターズカットでやっていたのを、あえて一般公開版を見に行った。しかも休日出勤前の朝一番に。
ディレクターズカットって何なんだか。両方見たわけでないからなんともいえないが、アレ以上見せられても大差なかったというのが結論。お毛毛はもちろんのこと、客席の多くを占めていた女性たちの期待にこたえて、情けないティンポが大写しになったりもしていたが。

ストーリーはココに書いてあるとおりでこの性的映画の特徴は女性監督によるもの、ということ。そしてその結果として、オトコとオンナの性的欲情の違いはお互いに絶対理解できないもので、オンナはこんなふうにオトコを見ているのかということを十分に見せつけてくれた。
女にもいろいろいるという見方もあるだろうが、この辺に関しては個人差は少ないというのがワタシの見方。趣味嗜好の違いは当然あって、それはテクニカルな部分で表現される程度のもの。基本的には大体みんな同じなのだ。
オトコの場合、表面的にはムラムラっときて、ググググってなって、ピピピッて感じであっけなくオシマイ。でもそのウラでは肝心なところで会社の嫌なことを思い浮かべたり、数学の問題解いたり、いろいろとコントロールするための心理的葛藤がある。そういう部分はオンナには絶対わからないということ。

で、映画の中でオンナから見た男の性はひどく惨めだ。チャタレー夫人にもてあそばれるオトコは炭鉱経営者の大金持ちの領地で森の番をしている。デブでハゲで教養もない。チャタレー夫人と最初にヤルときも、押し倒したかと思ったら、イキナリカイって、仲間ユキエでなくても思わず叫んでしまうくらいの勢いでイッテしまう。これが歴史考証に基づいた19世紀のSEXといわれても信じがたい。それで果てたあとはイビキかいて寝てしまって、、朝起きたときにしぼんだアレを見られて、木の芽みたいって言われてしまう。情けない。

そんなこんなでだいたいあえて今また映画化して何を言いたかったのか。原作をどう解釈して、それをまた見る側がどう解釈するか。そのへんをよく考えないと単にお毛毛だ、ティンポだって、そういう話で終わってしまう。
率直かつ単純な感想をいえば、性的欲情の発露なるものを通じて人間は元気になって、楽しく人生を生きられる。そういう肯定的な思想だけを感じた。チャタレー夫人も惨めな森番も繊細で傷つきやすい人間として描かれている。お互いに不幸を抱えていたのが、この出会いによってしぼみかけた人生がふたたび膨らみだす。
そして一番くせ者なのが、チャタレー夫人の夫で下半身不随の大金持ちが、新しい看護婦が来てからえろえろ、いや、いろいろ世話してもらっているうちに立ち上がれるまでになる。その辺の裏側はまったく描かれていないが、なんとなく表情から推測してくれって言っている。
だから話としては19世紀の牧歌的な田園を背景としながらも、キワメテ今日的な、ストレスで押しつぶされそうな傷ついた人間同士が、それぞれに精神を解放して立ち直っていくという、キボウに満ちた復活の映画というふうに読み取れた。
ただ全体的に場面が断片的で、いちいち暗転しながらト書きの説明まで加えられて、興をそがれる部分が多かった。

パスカル・フェラン監督、
2006年 ベルギー・フランス・イギリス映画。
11/10、渋谷シネマライズにて

『気球に乗って五週間』 ジュール・ヴェルヌ

2007-11-03 11:48:17 | 文学
超ハードな1週間。発狂しないために数年前に全作品読破を試みたジュール・ヴェルヌの作品を、もう一度読み返す。ついでにそのうち肉体が滅びるより先に精神が死滅して、その結果として記憶が消えていくことは明らかなので、精神の遺骨として文字にして残こしておこうかと。

なぜジュール・ヴェルヌなのか、、あがた森魚!が解説で貧相な文章を書いているように、ヴェルヌといえば相変わらず少年少女向け冒険空想文学との間違った解釈が一般的であることに対し、ワタシのねじれたココロ根がムラムラと起き上がったというところで、それはまた、ヴェルヌ自身が晩年にはねじれにねじれて、そのへんが、彼の作家としての絶頂期であったように思えるからだ。ガキどもに読ませるのはもったいないくらいの大文学なのである。

ヴェルヌの作品群はいくつかのカテゴリーに分けられるが、その中心にあるのが「驚異の旅」シリーズ。気球でアフリカ大陸を横断するコレを第1作に、地底旅行やら80日間世界一周旅行やら、仕舞いには月世界旅行まで、書かれた当時は想像もできないような冒険旅行を、あたかも実現可能であるかのように描いてみせる。
今の時代に想像もできないような冒険旅行って言ったって、、、東京自動車ショーのコンパニオンの集団とエレベーターに閉じ込められるとか、。つまり、空間・時間的なものというよりは、意識の極限状態への冒険てなことでしょうか。

で、最初のこれはヴェルヌの出世作。
18世紀後半に熱気球が発明されて、19世紀にフランスを中心に気球ブームが起きた。コレはそういう19世紀半ばに、同時代の空想小説として書かれていて、アフリカを奴隷売買で喰いものにする一方で、アフリカ人を人喰い人種として恐れていた当時のヨーロッパ人の思想が露骨にあらわれている。
物語はアフリカ大陸の東端から西端を目指して気球で旅をしながら、途中で「土人」に襲われた腹いせに何人も撃ち殺したり、金鉱を持ち逃げしようとしたり、、。「土人」への恐怖、敵意、動物園の動物を調教しなきゃいかんというのと同じ発想で、宗教によって飼いならしてやろうという姿勢。とはいえそれを批判的に読むのではなく、その時代の雰囲気を楽しめばいいだけ。どうせ過ぎてしまったことだ。

最後のほうで気球がしぼんできて、高い岩山を飛び越えられるかどうかっていうまさに山場では、手に汗握る大スペクタクルが展開される。荒唐無稽というか、あり得ない場面が連続する。それに加え、過去の探検家の辿った道のりを地理学的、生物学的、経済学的に解説しながら、あたかも自分の目で見てきたかのように描き出す。そういうところが、少年少女向けだなんて、十羽ヒトカラゲにされてはたまったモンじゃなくて、こうして150年以上経った今でも光り輝いている理由なのである。

集英社文庫版、1993年刊