老後の練習

しのび寄るコドクな老後。オヂサンのひとり遊び。

『狂人日記』 色川武大

2008-03-29 12:00:00 | 文学
NHK教育テレビは不毛な砂漠の中のオアシスのような存在だ。バカを競い合うフジやら日テレのオチャラケ番組のハザマで、ときどき、たまに、偶然、オモシロいものをやっている。で、今週やってたのは柳美里が聞き手役で色川夫人にインタビューする番組。ちょうどコレを読んでいたのでおもしろく見た。

夫人の話では色川さんはバカがつくような善人で、頼まれると断れなくて、いつも家の中に他人の誰かが上がりこんで一緒にマージャンやってたような人で、遊びに来る人にはいい人かもしれないが、夫婦として一緒にいるのはホントにジゴクのような相手だったらしい。
あの、ややアブナゲな風貌やら、別の名前で書いてたマージャン本やらに引っ張られて、コレまで色川さんの本を避けてきたワタシとしては急にシタシミを感じた。一緒にいてジゴク、とは。見習いたいもんだ。

で、コノ本はまさに色川さんの自伝的な、神経の病気に苦しみながら、自分のことを気にしてくれる女のヒトとの出会いと、だんだんそういうヒモのようなものに落ちぶれていく感覚に耐えられなくなって、最後はまたボロボロになっていく救いようのない話で、読み終わったらこっちのビョーキまでひどくなった。
とは言ってもやっぱりこのヒトは天才だ。とんでもない表現が次から次へとひねり出されていて。例えばこんな感じ。

・・もうそのときには、足先にも、腿にも、背中にも、身体の随所に、痒いような痛いような感触が産まれて居る。誰かの歯が自分の身体の表面を少しずつ削り取るように、ゆっくり味わうように、触れてきている。大群で、手の動きがまにあわない。自分は七転八倒した。敵の姿がこちらの眼にも見えてくる。タラバ蟹のお化けの大群だ。人間の子どもくらいのから大人の大きさのまで居る。むろん、言葉にする余裕はもうない。自分は蟹に喰いつかれて火だるまのようになり、あぶれた蟹たちが他の人間を襲いに行くのを、何とか皆に知らせようとして――。

あぶれた蟹、ってところがシビレル。前回の小栗さんの映画もそうだが、幻影の描出こそが文学だって思えてくる。色川さんは本ができあがったときに、「狂人より」って書いて夫人に贈って、その半年後に心臓発作で亡くなった。

さりげない日常のなかに投影される等身大のワタシのヨロコビ、かなしみ、、みたいなのとか、運命的な出会いの後に不治の病で余命半年の悲劇のコイビトたち、、みたいなのとか、、嘘っぽいつくり話は捨てられて拾われて、そのうちブックオフの本棚を埋め尽くすだけ。
だから色川さんの本は新刊本屋さんで買うしかない。高い。これもなんと1300円。それがツライ。

講談社文芸文庫版、2004年刊

『埋もれ木』

2008-03-25 08:05:47 | 映画
久々の映画はこの特集の1本目。東京で最もユニークな映画館ならではの企画だ。最初の30分は嘘っぽいセリフも多くて眠いのなんのって。でも後半は眼が覚めた。
ストーリーはないようでない。現実と幻影のハザマがテーマで、生と死の中間を漂うワレワレの魂を、空中にゆっくり浮かび上がる鯨の風船にシンボライズして、3000年間地面に埋まっていた埋没林の中をうごめく感じで描いている。

ワタシにも脳みそにしみ込んだ幻影がいくつかあって、実際にあったことなのに幻のようにしか思えなかったり、夢で見たことなのに実際のことのように鮮明に覚えていたり。
前者としては子どもの頃に見に行ったサーカス小屋の風景とか、ヴェネツィアの町を歩いていて道を聞こうと思って入った店の中で、羊が台の上に寝かされて毛を刈られていた光景とか。
後者としては風邪で熱を出して寝ていたときにトイレに行こうとしたら廊下が180度ひっくり返って、そのまま真っ逆さまの状態でトイレに入ったときの記憶とか、、。

で、この映画はそういう幻影を次々に映し出して、ニンゲンの意識が生きているこの空間が100%現実の空間ではなくて、幻影と現実のハザマを行ったり来たりしている、ということを言いたいのではないかと。ムリに解釈しなくてもいいんだが。
映画が終わると30分くらいのメイキングフィルムが流される。このシーンはこうやって撮りました、みたいな。ネタをばらすみたいでキョウザメな部分もあるが、コレが意外な効果をワタシの脳に与えた。
東中野の駅にすぐに向かったワタシは、改札口を歩き回る人たちが映画の中の群衆のように見えた。すべての風景が書き割りで、ヒトはそこで何かを演じている。世の中がそういうふうに動いているように見えてきた。

監督、小栗康平
2005年、日本映画。

『歌わせたい男たち』 二兎社

2008-03-16 15:03:54 | 演劇
連日連夜の芝居。
高校の卒業式で、君が代を起立して歌わないと罰則が与えられるという奇っ怪な話を元に、今のニッポンの世の中のありとあらゆるところに見られるアホらしい現実を笑いつつあぶりだしている傑作。2005年に初演されて、その年の朝日舞台芸術賞やら読売?!演劇大賞やらをとって今回再演されている。
君が代起立問題をネタにしてはいるが、根本的なテーマは、そういう奇っ怪で倒錯した世の中のモロモロに対して、いつの頃からかニッポン人が、ムズカシイコトハワカンナイから、とりあえずおクニの言うとおりにしておこう的な態度をとってきて、それによって戦争で負けたことを今でも悔やんでいる脳みそが醗酵したジミン党の化石政治屋や、税金で飲み喰いして、温泉旅行行ってエロエロ楽しんでいるタカリ役人のやりたいようにやらせて、その結果がこういう世界の笑いモノにまで落ちぶれてしまったことに対して、もう少しニッポン人は自分で考えて、自分で判断したらどうかと言っているような内容。

戸田恵子サン演じる高校の音楽講師の仲センセがやっとこさ雇ってもらった高校の卒業式で君が代のピアノ伴奏をさせられる。主義主張もなく、ただ給料もらって生活するので精一杯の仲センセ。せっせと練習していざ卒業式に臨もうとするが、コンタクトレンズを落として楽譜が読めなくなる。で、近藤芳正サン演じる社会科教師の拝島センセのメガネが度があっているので借りようとするが、拝島センセは去年も不起立で、今年も不起立を通そうとしていて、自分のメガネで仲センセが楽譜を読むことも許せない。そこへ花粉症の校長が、今年も不起立者を出すとキョウイク委員会から自分も処分されるので、なんとか起立して歌ってチョと懸命に説得する。
で、話はドタバタしながら進んでいって、結局拝島センセはメガネだけは貸すというギリギリの妥協をして終わるのだが、この辺の微妙なココロの揺れみたいなところがこの芝居の一番のヤマだ。

「歌わせたい」っていうのは校長がみんなに君が代を歌わせたい、ということでもあるがそれだけではなくて、仲センセが元シャンソン歌手で、その夢をあきらめて音楽講師になってしまったことに対して、拝島センセがシャンソン歌手という夢のカタマリのような存在に、もう一度シャンソンを歌わせたいという意味が掛かっている。
本来、音楽というものはココロの中の、なんというか、やわらかい感情の発露とでもいうべきものを、歌いたくもないものを強制的に、しかも立ち上がらされて歌うという、ヒトの内面をジュウリンするようなことが、いま、主に公立の小、中、高校で行われている。重大なのは、そういうことがほとんどまともな議論もされずに、いつの間にか決まって、あの、眼をぱちぱちさせる都知事だかなんだかのオッサンが例の調子で一方的に命令する。400億だって君が代だって、オレが言ってんだから文句言うなみたいに。それに対してムズカシクテワカンナイって言って、みんな黙っていることにこそ、今のニッポンの問題の根っこがあるというわけだ。

ついでに言うと、最近特にひどいのはあの伊吹ナントカっておっさんのものの言い方で、SMどころじゃない倒錯のキワミのような状態に陥っている。たとえばこんなだ。
日銀総裁人事に同意しないミンシュ党に対して、何で同意しないのか意味わかんナーイって言いながら、それは結局、同意しない理由に同意できないというだけの意味だったり、参議院で否決したときなんか、カズの横暴だって、そりゃ、いつもあんた等がやってることじゃないのって、誰もが思うはずなんだが、実際は多くのコクミンはそういう倒錯した暴論に納得していたりするわけなのだ。
まあ、昼間のくだらんワイドショーをたまに見たりすると、こういうの見てりゃ仕方ないってこっちがナットクさせられてしまうのもたしかで、結局はクニに完全にコントロールされているマスコミからたたき直さなければならんということ。
芝居の中ではそういう倒錯的暴論も笑いのネタになっていて、拝島センセのセリフにもあったが、笑うしかない怒りというか、泣きたいくらいのオカシサというか、そういう倒錯が普通のコトになっている今の状態をどうしたもんかということのほうが、主たるテーマであったことには大いに共感したのであーる。

校長役は大谷亮介。ほかに小山萌子、中上雅巳が大熱演。
作・演出 永井愛
08.3.14 新宿・紀伊國屋ホールにて

『偉大なる生活の冒険』 五反田団

2008-03-13 23:02:11 | 演劇
昨日は朝からネクタイして東京の西のほうで打ち合わせ。その後会社に寄って、すぐに千葉の北のほうで打ち合わせ。某駅前の土地の開発をめぐって、元農業従事者の土地成金と、つまらぬカネの話に付き合わされた。
絵に描いたようなカネ亡者と、絵に描いたようなそれに群がる蟻の群れと、自分も不本意ながらその一部であったわけだが。で、その場所からこの劇場までユウに1時間30分かかるわけで、なんとかぎりぎりそのカネ亡者の家を出て、電車に飛び乗って、見に行ったのがこのヒト達のコレ

ひと言で言えば、さっきまでの現実と、どっちが芝居だかわかんないような、ありふれた日常、みたいな感じの芝居だった。
予約してあった切符を受け取ると、場内が狭いので強制的にクローク?に荷物預けさせられて、中に入ったらホントに狭かった。小学校の教室を一回り大きくしたぐらいの中に、飲みかけのペットボトルやらマンガやらが散らかって舞台と思しき領域を表示している。で、作・演出兼主演の前田司郎サンがオンナに蹴り入れられたリしながら話が進んでいく。

オトコはアルバイトを適当にしながら元愛人のオンナの部屋に転がり込んで、一日の半分をファミコンでゲームしながら生きている。将来のことなんか何も考えずに、明日は明日でどうにかなると思いながら。オンナのほうはスーパーでパートしながら、そこの社員の男と愛人関係になって、その男の妻が病気でもうすぐ死ぬような感じで、重いものを背負って生きている。
オトコには何年か前に死んだ妹がいて、その妹が、芝居の中で時間を前後しながら登場して、オトコに将来のことを考えろと言う。妹は生きる意味みたいなことを考え続けていて、たぶんジサツしたと思わせるようなセリフを何度も言う。
オンナのアパートの隣にはザリガニを飼ってるオトコがいて、そのオトコもいい加減な生活をしていたのだが、そろそろ将来のことを考えて、カノジョと結婚して子どもをつくるみたいな生活をしようとしていて、オトコに向かって将来のことを考えろと言う。

いろんな人から将来のことを考えろって言われながら、オトコは特に生活を変えようとしないのだが、ある時、カニの缶詰が食べたくなって、写真家を目指して大事にしていたカメラを売り払ってカニ缶を買ってオンナと一緒に食べようとする。で、そういう状況にオンナが怒り狂っておかしくなりかけるのに、その口にカニを押し込みながら、人生どうにでもなる、、みたいなことで芝居が終わる。

なんか、ワタシ的にはすごくカンドウしてしまった。ジンセイ、がんばろうがどうしようがどうにでもなる。まじめにがんばったって、そのかわりに何かを背負い込んで息苦しくなるだけだ。
このオトコ、見ようによってはフクダヤスオを連想してしまった。野党に何言われても、困ったなあ、、って言ってりゃよくて、何ごとも自分には関係ない他人事で、そうしてる間にニッポンは世界中の笑いもので、それでも自分には関係ないって言っていられる。そういう自己平和的な生きかたにカンドウを禁じえなかったのだ。
クニにとって一番大事なものまで売り払って、それでもその瞬間が楽しければいいじゃん、みたいな。
もちろんこの人の作品をそういう風に読み込むのはオカドチガイというか、ここにきていたワカイ人たちから見れば大ハズレかもしれないが、金がなくても誰かにタカって、生きるのに困っているわけでもなく、ましてやがんばって金持ちになろうなんて、これっぽっちも考えていない。それは親からの遺産とかでもともと金に困ってなくて、だから都合の悪いことが起きてもなんでもかんでも他人事、というのと同じように見えてくる。

いまやワーキングプアの人たちがキョウサン党に流れつつある中で、やっぱり、それを他人事と思って笑ってみている人たちがいて、そういう平和な吹き溜まりのようなところでこういう芝居が成り立つ。テレビのお笑い番組のような、笑いに飢えている、みたいな客席の反応にも違和感を感じた。
それでもおもしろかった。自分の中にある、一応、ツライことにも耐えて、仕事して、毎月給料もらって、住宅ローン返して、教育費払って、とりあえず死なずに生きていることに、ネコの毛ほどの自虐的な優越感を感じさせてくれた。
それにしてもカニ缶開けるときには腹が鳴った。となりの金持ちのムスメ風のオジョーちゃんも腹が鳴っていた。そういう意味で、人間の本質をえぐり出していた。

08.3.12 駒場アゴラ劇場にて

『対岸の彼女』 角田光代

2008-03-08 18:59:52 | 文学
いろいろワケがあって、珍しく、人気作家の作品なんぞを読んでみた。
2つの話が並行して進んでいって最後で一つになる、教科書に書いてあるような手法で書かれている。

主人公は30台半ばの女で、子育てやら姑との付き合いやらに疲れて、旦那の反対をよそに仕事を始める。小さな会社でつまらぬ人間関係など気にすることもないと思っていたのに、だんだん、砂場の母たちと同じような、どろどろしたものが漂い始める。で、勤めた会社の女社長の女子高生時代からの話が並行して進んでいって、女学校でのいじめ問題みたいな中で、その女社長も複雑な生き方をしてきたことが語られる。
主人公の女は、複雑な生き方をしてきた女社長と一時は対立しながら、最後でお互いを理解し合い、つまらぬ人間関係とは無縁の生きかたを始めようとする。そんな感じでオシマイ。

途中まではいわゆる女性の視点で書かれた同世代の女性の等身大の物語、、みたいな、、砂場デビューに失敗して、あちこちさまよい回る、どこにでもいそうな女がしつこいくらいに描かれていて、やれやれってところもあったが、後半にかけて、われわれは何のために年をとるのか、みたいな深い話に進んでいって、まあ、なるほど、と思わせるものはあった。
この人はこの人のテリトリーの中で、人間の奥深い部分を書いてるということで、実は、はじめにワケがあって、と書いたのは、今ワタシも小説を書いていて、どこかの懸賞に応募しようと思っていたら、この人が審査員をやっている賞がいいかなあ、と思ったもんだから。

ただ、この作品の終わり方なんてかなり前向きというか、困難を乗り越えて、人間が自立していく感動的な終わり方で、ちょっとワタシ向きではないと思ったところ。ワタシが書いてるのはホントにもっとネガティブ、というか、一人の人間が複雑な現代社会の中でもまれていって、最後には崩壊していくものなので。自伝的といえばその通りなのだが。
それはさておき、小説って、書く側から見るとなんでこんなどうでもいいことをだらだら書き連ねるんだろかと思うことばっかり。単なるページ合わせか、それとも隠し味的に、全体の中では欠かせないものということなのか。
どちらにしても、ここまでだらだら書くのには抵抗を感じたので、ほかの賞を目指すことに決めた。

第132回直木賞受賞作
文春文庫版、2007年刊。

『エビと椎茸のサフランリゾット』

2008-03-03 20:58:42 | 料理
昨日の夜は土曜の新聞に載っていたコレに挑戦。
サフランは血行をよくして、エビは足腰の痛み、ニンニクはお腹の冷えに効くらしい。
米の分量は食べたいだけ。水はそれに合わせて。。結果的にはそれがタイヘン難しかった。

)鍋にオリーブオイルをひき、みじん切りのタマネギ1個、サフランひとつまみを炒める
)玉ねぎがしんなりしてきたら米と細かく切った椎茸を放り込んで炒める。新聞には10分って書いてあったが、5分もしないうちに米が鍋の底にくっつき始め、早々に次の作業へ、
)水とマギーブイヨンを加えて熱し、米がほどほどの硬さになったら塩、コショウで味付け。と言ってもなかなか程ほどの硬さにならず、水を2度足した。
)今度はフライパンにオリーブオイルを入れて塩、コショウをしたエビをみじん切りのニンニクと一緒に炒める
))を皿に盛って、)のエビをそれに乗せ、レモン、葉っぱ系を飾って完成っ

米の硬さが難しい。芯が少し残るくらいって、書くのは簡単だが、どんどん水気がなくなっていく一方で米の硬さを確かめなきゃいけないので、2、3度失敗しないとコツはつかめない。
とはいえ、初めてにしては喰えた。

世の中、花粉と黄砂で空気中どろどろ。花粉症歴35年のワタシは、2年前にマスクと点鼻薬を放棄し、ショック療法でこの季節を乗り切っている。ってゆうか、猫とハウスダストで1年中アレルギーだから、今の季節も大して変化がないというだけ。
それでも、少なくとも花粉には強くなっている。



『屋上庭園/動員挿話』

2008-03-01 10:52:42 | 演劇
おとといに続く芝居。会社で昼休みにぴあを見てたら見たくなった。あのどうしようもなく低俗な現実から逃れる数少ない逃げ道のようにも。どっちが嘘八百の世界かは明らかだ。
見たのはコレ。演劇界の芥川龍之介?とでもいう岸田國士(くにお)の作品2本立て。2本が別の演出家で同じ俳優という組み合わせ。80年前の芝居が3年前に再演されて、今回は同じ演出、同じ役者でそのまた再演。要するに評判がいいらしいのだ、が、やはり明治時代のラーメンみたいに薄い塩味にナルトとハムだけとか、今のコッテリごてごて味に慣れきってしまったワガ身としては物足りないというか、たまにはこういうのもカラダにはいいとは思ったが。

どちらも二組の夫婦を対比させてその間にある溝のようなものを見せて、そういう溝の中に人間の本当の感情のようなものがたくさん埋まっていて、簡単にはその溝は埋まらないし、越えられない、というような話。
ようなもの、ようなもの、って書かざるを得ないのは、芝居はそういう人間感情の微妙な感じをセリフの間とか、細かな表情で表現するモノだというところから全体が組み立てられているので、表現自体は具体的なのだが、こういうことを言いたいんだなあーってことはかなり微妙な表現になっていたので。

「屋上庭園」のほうは二組の夫婦がデパートの屋上で久しぶりに会って45分くらい話をするだけのもの。一方は成功して豊かな生活を送っているのに対し、一方は夢破れて貧しく生きている。金持ちのほうは善意を押し付けようとして、貧乏なほうは意地でもそんなものは受け取るもんかと思いながら、そういう対立的なところで人間関係が保たれている。ところが話の流れで貧乏なほうが金を貸してくれと言い出して、結局はそれを取り消すのだが、一度そういうことを口に出すことで人間関係が壊れていって、ついでに自分もどんどん堕ちていく。
屋上庭園が舞台なのは貧乏なほうの男の心理状態を象徴するものとして。世間を見下すように眺める場所であると同時に、最後の活路、というか、そこから飛び降りれば全部をリセットできる場所という意味であるあたりはなかなか鋭い。

「動員挿話」は日露戦争に出征する将校とその馬の番をする気の弱い男のそれぞれの夫婦の間の話。将校が馬番を戦争に連れて行くと言うのに対し、馬番の妻が絶対に夫は戦争に行かせないと言い張って、おクニのためにそういうことを言うのは恥だと将校が言うのに、馬番のような身分にはそういうことは関係ないと女が言い返す。で、将校の妻は自分も本当は夫に行って欲しくないのにそうは言えない立場に苦しんで、馬番の女はそういうところに人間の暗い心の闇のようなものを見る。最後に馬番がみんなが行くから自分も戦争に行くと言い出して、もうどうでもいい、ということになって井戸に飛び込んで死ぬ。

どちらもそれだけの話といえばそれだけの話。挿話=エピソードだ。岸田國士がめざしていたのは、音楽や美術や文学にはない、演劇それ自身の美、だということで、舞台があまりに美術的であっても、話があまりに文学的であってもよくなかったのだろう。もちろん音楽なんて一切ないし、効果音も背景に静かに町のざわめきのようなものが流されていて、突然それが消されて静寂を強調するためだけに使われている。今のテレビなんかの何でもかんでも過剰なのに比べたら断然いい。とはいえ、今も昔も同じ、とは思えない、やっぱり素朴すぎる、というか、新国立劇場的すぎるというか。昔はコレで毒気も十分あったのだろうが、そういう部分ではもの足りなかった。

七瀬なつみが2本ともこちら側の妻役。こちらというのは貧乏で馬番の側という意味。ラッパ屋の芝居にも出ている小林隆もこちら側の夫役で二人とも熱演していた。
演出は宮田慶子(屋上庭園)、深津篤史(動員挿話)。

08.2.29 初台、新国立劇場小劇場にて。