老後の練習

しのび寄るコドクな老後。オヂサンのひとり遊び。

『スイングバイ』byままごと

2010-03-31 22:24:17 | 演劇
ニッポンに帰国中の日曜に見た芝居。駒場アゴラは2回目でこの前は床に座布団が敷いてあってその上に座って見てたら途中で腰が痛くなって、それ以後、見たいのはたくさんあったのに避けていた。ソレを今回見に行こうと決めたのは柴幸男サンというひとがおもしろそうだと思ったからで、実際、かなりおもしろかったのだが2,3日よく考えてみても理解しがたい部分が残った。いったい何を「批判」しているのか、みたいなところで。
なにもすべての表現行為に「批判」がなければいけないと思っているわけではないが、芝居そのものは今のニッポン社会の、やってることがどうしようもなく無意味化しているようなところを批判しているかのように一見みえたので。

はなしは、といってはなしの筋として書けるようなモノはなくて、はなしの設定はニンゲン社会を一つのビルを使っているカイシャにたとえて、今いるフロアは2010年3月28日フロアで、下のフロアには過去の残骸とか死骸が横たわっていて、上のほうは毎日伸び続けているのだがなぜか屋上があって、カイシャ=社会からドロップアウトしたニンゲンが毎日シゴトをせずに屋上に上って、ビルの縁から下を見下ろしている。
で、エスカレーターの運転係とか掃除係とかいろんな人が出てきて、そのシゴトが昔からどうやって伝えられてきたか、みたいなことが、そのカイシャの広報誌にのせる記事のインタビューとして語られていく。今の社会を作っているニンゲンは過去と未来をつないでいるだけみたいなことを言いたいのか。

そこに新入社員のオトコがでてきてそのヒトはそういう社会のやり方を最初のうちは知らなくてうまくなじんでいけないのだが、なぜかエレベーター係のオンナと一緒に住んでいて弁当を家に忘れたとか、そういうニンゲン関係がほのめかされて、そういう形で公と私の関係みたいなものが紛れ込んでくる。で、もうひとつそこにカイシャを前の日にやめた=死んだ?オトコの妻と娘が夫の仕事場を見にやってくるのだが夫はなかなか見つからず、娘はカイシャの中で行方不明になって、そうこうしているうちに別の階=過去でめぐり会う。このへんのなにかわかりにくくしている意図がわかりにくい。カイシャ=社会のなかで個人の感情みたいなことが犠牲になってるみたいなことをいいたいのかなあ。そんなふうに深く考えるほうが間違ってるような気もするが、はじめに書いたように、何が言いたいのかがわからなくて見ているうちにだんだん混乱してくる。
結局最後には世の中にはいろんなシゴトがあって、それをみんながホコリを持ってやっていて、ソレで社会が成り立っていて、そこにみんなで参加しようゼ、みたいに盛り上がって終わる。受け入れがたくても肯定する、という姿勢はひとつの主張として共感できるが、これが今の若いヒトの考え方なのかなあ、みたいな疑問。もちろん柴さんも若者代表でやってるわけじゃないだろうけど。

チケットがタイムカードになっていて入口で出社の時刻を記録して帰りに退社でもう一度レコーダーを押す。席に着くと社内報が配られてその中に社歌がのっていてみんなで歌う。(実際は出演者だけで歌う。)組み体操とか、みんなひとりひとりが社会の駒にすぎないというようなことを強調して、そこにだんだん組み込まれていく、そして見ているモノはみんなとっくに組み込まれているという現実を実感させられる。
作者の頭の中ではカンペキに完結しているはずで、それをワタシのようにすんなり理解できないモノがいるのも、それはそれでそれぞれの社会のなかでの居場所の違いのようなコトによるものでしかなくて、そういうものこそがテレビでもなく映画もなく、演劇でしか成り立たないということと、ソレを見るためにこうやって劇場に行くのだということをわからせてくれる内容。

2010.3.28 駒場アゴラ劇場にて

富士山/100330

2010-03-30 23:01:49 | 窓際
ハノイ行きは右手側の窓際に座るとこんな風に富士山が見える。
きのう降った雪は、まだ汚されずに白く光っていた。
結局、満開の桜は2年続けて見ることができなかった。寒くて。。

『罪』byアル☆カンパニー

2010-03-30 09:41:59 | 演劇
土曜日にニッポンに帰ってきて、今年はもうコレで4度目の帰国。最低気温が氷点下で、桜を見るつもりがミゾレを見ることになった。で、今はもう帰りの成田。空はニッポン晴れ。よりによって帰りの日にはじめて晴れた。
で、もって、コレは土曜に、夜行便でほとんど眠らずに帰ってきて、家で朝ご飯食べて風呂に入ってすぐに出かけて見に行ったお芝居。毎回こんな感じでやっているが今回はほとんど眠気が来なかった。初めのうちはすごい退屈でどうなることやらと思ったのに。
平田満サンのアル☆カンパニーがモダンスイマーズの蓬莱竜太サンに作、演出を発注した暗い家族の話。コレもまたよりによって家族温泉旅行の一夜に日ごろの家族のウッセキしたもやもやがバクハツして、それでもまた何もなかったように時間が過ぎていく、そんな話。

ジブンの定年ゴクローさん旅行のつもりの温泉旅行で、娘が突然結婚するのをやめると言い出す。と、その家には子供の頃の熱病が原因で脳に障害のあるムスコがいて、そのムスコがジブンがいるから結婚できないのか、とジブンを責める。そのムスコをハレ物にでもさわるかのように育ててきた妻は必死でその場を収めようとする。で、なにやらその一家には暗い秘密のようなものがあって、ムスコがそうなった原因が妻がそのムスコをしつけるために雨の日にバルコニーに放り出して、それで熱が出て、それがもとで脳に後遺症が残ったようなのだが、それを夫は、妻に対して、それをジブンは責めてはいないという。ソレを聞いた妻は、ジブンがジブンを責めるのをどんなにして乗り越えてきたのかと言って、そんなコトでジブンが責められるわけがないと開き直る。そうすると夫は、ジブンは責めていないけれど、それをジブンは責めていないと言う、まさにソノことをとんでもないと言い放つ妻に夫はキレてしまう。ワタシがせっかく責めてないといってるのに。
かなり複雑な話だがなんとなくわかる。

すると今度は娘が、兄=ムスコがバルコニーに放り出されたのはジブンが嘘をついたからだと言い出す。ジブンの責任だと。ところがそれを妻は認めようとしない。責任を認めたら、家族が家族として存在している土台のようなモノがなくなって、それですべてが終わってしまうと言って。で、結局、話はなんとなくおさまって、また家族が家族として温泉旅館の一夜を過ごしていく。
眠くならなかったのは結構シリアスな話がときどき時間を行ったり来たりしながら、現実とココロの中のもやもやとをつなぎ合わせていくような不思議なつながりがあったから。特殊といえば特殊だが普通といえば普通の家族が、一つの罪の意識を互いに持ちながら、それによってのみ家族としての形を保っている。そういう家族の壊れやすさみたいな感じのモノをこんな風に見せられると眠くもならないということか。蓬莱サンってそういうビミョーな部分に棒を突っ込んでニンゲンのかなり奥深い感情をあぶり出すみたいなことを平気でやる人だ。

まあ、家族っていうのはいろいろありますわな。子供だけが共通の血のつながりをもってるわけだし、、。ワタシの場合、コレも家族そろって見に行くのとしてはおそらくこの先もうあまりないのではないかと思いながら、、今みたいな生活をしていることで逆に賞味期限を先延ばししているようなところもある。
正直言って、あまり期待していなかったが、かなりおもしろかった。

2010.3.27、川崎市アートセンターにて

『Earth Hour』

2010-03-26 16:58:09 | ベトナム
あしたの夜に世界中でコンナ催しがあるらしくて、アパートのテレビでNational Geographicを見ていてもさかんに宣伝している。きのうはエレベーターの脇にチラシが貼ってあってアパートでもパブリック部分の照明を消すらしい。こういうのを意識が高いというべきかどうかはギロンのあるところだろうが、ジブンには関係のないことと最初から決めつけるよりはマシかもしれない。

で、ワタシは照明を消すのもいいがエレベーターを止めたらもっといいと思った。照明を消してろうそくを囲んで歌を歌ったりするのは楽しすぎたりする。もっと苦しまないと電気のありがたさがわからないんじゃないかと。
エレベーターが動かなければ地上100階に住む人は橋が流された山奥の村に住んでるのと同じ状態になる。トイレの水も流れないし窓も開かないからホッておくと死ぬかもしれない分、山奥より悲惨だ。地下鉄南北線なんか電車から降りたあとに5階分くらい階段を上らないといけなくなる。

だからEarth Hourにはみんなで高層ビルの展望フロアに上ってからエレベーターを止めて、灯りの消えた町を上から眺める。あまり息をしすぎると酸素がなくなるからみんなしゃべらない。歌なんかあり得ない。そういう苦しみを共有するのはニッポン人にはウケるかもしれない。寒中水泳とかハッコウダ山とか、社宅の草むしりみたいに。

Bun特集

2010-03-24 00:17:06 | ベトナム
ベトナムではDogを普通に食べる。ニッポン人がクジラを普通に食べるように。もちろん中には好まないヒトもいて進んでは食べないにしてもソレを食べることを別に忌み嫌うようなことはしていない。ガイジンのワタシとしては店先にDogの丸焼きなんかが並んでいるとさすがにギョっとして目をそむけるがソレを野蛮とか言って他国の文化をあからさまに批判するのはあまりにもナニ様的態度である。それでもオーベー人にはそういう人がたくさんいる。ジブンたちが食べているモノはカミ様かなんかから分け与えられたものでソレラは清く正しく尊いモノだ、みたいなコトを言って、一方で他国、それもジブンたちが何の根拠もなく見下しているアジアとかアフリカの人たちが食べるモノについては余計なおせっかいでコレを食べちゃいかん、みたいなことを言う。

テーノー民族国家のアメリカでクジラ肉を出した寿司屋が閉店に追い込まれたニュースはあまりに痛ましい事件である。寿司屋に来るからには他国の文化を受け入れるココロ構えがあるはずで、ソコで何が出てこようと文句は言えないと思うのだが、ソレに当然、クジラをマグロといってだまして売っていたわけでもないだろうから、ソレが集団リンチみたいにされて追い出されていくというのは北チョ―センより野蛮で凶暴なコクミンとしか思えない。
ベトナムではDog料理は当然メニューにそのようにのっていて食べたい人が食べる。Pho Ga=鶏肉のフォーを頼んだらPho Dogがでてきたというのとはワケが違うのだ。ワタシは食べようとは思わないが、ソノことを絶対に否定はしない。

で、写真は今月のベトナム航空の機内誌に乗っていたBun特集のページ。北から南までいろんなBun=コメのうどんがある。ブンカそのものだ。アッチの資料としては実によくまとまった内容なのでおもわず持ち帰った。

Lau

2010-03-16 00:33:41 | ベトナム
先週寒かったと思ったらきのうからナマ暖かくなって天気はどんより曇っているのだが半袖でもいいくらいの温度になってきた。一週間のゴブサタデす、タマ置きヒロシでございマス、、みたいな。。

この半月ニッポンからスタッフとかシャチョ―とかが来てて昼も夜も日曜も相手をしなきゃならなくてホトホト疲れた。きょうは9階のオフィスの窓を突き破って駈け抜けたらどうなるかなーとか、考えたりもした。なにしろ何喰いたい?って聞いても必ずなんでもいいって答えるヒトたちだから。で、連れてったところが気に入らないとマズイ、とか文句言う。オネーさん方のお店に行きたいならそう言えばいいのに言わない。不幸なヒト達だ。ジッサイ不幸なのかもしれない。ニッポンのカイシャ社会は不幸を共有し合うことで成り立っているくらいだから。

で、それはそれとして日曜の昼にニッポン人と一緒にハノイの北のHo Tay/ホー・タイ=West Lake湖畔の鍋料理屋に行った。この前、正月に一人で高級ホテルに泊まって鍋屋がたくさんあるのを見つけていたのだが一人で鍋はヘビーすぎると思って食べなかった。多くの店は地べたに直接座るような感じで腰が痛くなりそうだったから選びに選らんで入ったのがThuy Truc/チュイ・チュック、というのは店の名前。前にも書いたTruc Bach/チュック・バック湖に面したワリとまともなお店。

Lau/ラォウは鍋の総称で中身によって何種類もある。コレはシーフード主体のLau Hai San/ラォウ・ハイ・サン。アサリ、エビ、イカなどのほかに野菜や正体不明の味のない油揚げのようなモノとか、最後にはコメの麺の一種であるBanh/バインが入る。
日曜の昼からビールを3本飲んでかなり酔っぱらった。そのあと近くの超高級インターコンチホテルに行ってソファーで1時間寝た。悪い夢を見て叫びそうになったが息ができないほうが苦しくて目が覚めた。で、そのあとはまた旧市街のイタメシ屋に行ってほとんど腹がすいてなかったのでピザとビールでまた酔っぱらって、ニッポン人はそのあとゴクローなことに別におもしろくもないマッサージ屋に行くというのでワタシはおうちに帰って寝まシタ。

こんなふうに、、残り少ないジンセイの1日が過ぎていく。カナスィ。

引越し

2010-03-08 20:57:52 | ベトナム
土曜の夜に引っ越しした。キブン転換のためだけだが会社に言ったらヨケイな金使うなみたいなことを言うのがいてシャチョーのところまで話が行って大問題になったらしい、というのはソレを収めたのはオレだ、みたいにして恩を売るのがいて、そのヒトがかなりモンダイを誇張して伝えてきているだけだろうというのも明らかなのだが。平気でウソをつくニンゲンがあまりにたくさんいるのでたまにいやになる。

で、コッチではガイジンは住むところで3つくらいの階級に分類されて、上級はガイジン用サービスアパートメント族。1カ月の家賃は3,000USD以上+管理費とかサービス料とかイロイロ。オーベー系の大会社の役員クラスはニッポンでも月100万以上の、6本木ヒルズとか疲労ガーデンヒルズとかに住むから、コッチでも高層アパートのペントハウスとかの10,000USD以上に当然住んでいると思われる。上を見ればキリがない。
中級はガイジン用個人オーナーアパート族で1,000~3,000USDくらい。安めのサービスアパートのほか、コッチの金持ちが個人で買ってそれをガイジン用にFull-Furnishedにして不動産屋を通じて貸しているモノとかで、これまでワタシが住んでいたのはこのクラスの下のほう。火事になると逃げ場がないような建物もある。
下級は完全ローカルのアパートから貸間まで。旧市街の商店の上の部屋なんか味があってそれなりに楽しめる。200~1,000USD/月。ジバラを切って家を借りなきゃいけない留学生とかニッポン社会の拘束から逃れた自由な人たちが200くらいのところに住む。もちろんいくらのところに住むかでニンゲンの価値が決まるわけではない。狭い社会での階級が違うだけだ。

聞くところによるとニッポンの大企業役員クラスは平均3,000。高級サービスアパートの最低クラス。税金で家を借りてもらっている役所系外郭団体からの派遣者も3,000くらいのところに住んでいる。3,000というのがニッポン的な、トッシュツを許さない相互監視シャカイの中で許容されるギリギリのところかもしれない。
今度のワタシのアパートはそれよりはるかに安いし、契約の更新時期だったから別に余計な金をドブに捨てるようにして使ったわけでもないのになんで問題になるのか、まったくわからない。つまらないことでガタガタ言って、ヒマなだけかもしれない。

ところで引っ越し先だが電話がないのは今的にはありうることだがインターネットのつなぎ方がわからない。ゴミの出し方がわからない。IHのコンロの使い方がわからない。シャワーの水とお湯の調整もなんとなくいまいちわからない。洗濯乾燥機のプログラムに至っては全然わからなくて適当に回したら生乾きに乾燥するところまで乾燥機がまわって夜中に大轟音が鳴り響いた。
ひとつだけいい発見はアパートの目の前に小さなフランス料理風ベトナム料理屋があったこと。小さい店だが中はきれいで味もまずまずだ。

『二人の高利貸しの21世紀』byイキウメふたり会

2010-03-05 09:37:49 | 演劇
今回ニッポンで見た、順番的には2番目の芝居は去年2つ見て2つともおもしろかったイキウメの特別企画。会場でもらったプログラムにはイキウメ俳優部が演出、と書いてある。俳優サンが二人ずつペアになって一つの脚本をそれぞれ別々の解釈、というか、「それぞれ自分たちの生活実感を手掛かりに」演じるというもの。土日に昼から始まって1日に4パターンで、ワタシとムスコが見たのは俳優ブチョーの森下サンと若いバリバリの窪田さんのペアによるもので、おそらくほかの人のも見ないとこの企画の面白さは理解できない。
とはいえ以前、テレビで見た「短編集 図書館的人生」の中の一編ずつよりはやや長めながらテンポよく話は進み、俳優という生身のニンゲンが目の前で演じることでソコに日常とは別の空間が出来上がるという芝居の面白さそのものを感じさせてくれた。

脚本はチェルフィッチュの岡田サンが10年前のちょうど21世紀が始まるころに書いたもので、二人の高利貸しが21世紀になろうとしているそのときに、借金の利子と引き換えにジンゾウとか目ん玉とかカンゾウとか心臓とか、売れそうなものを全部取っていってしまう借金取りをやっていて、シゴトが終わった後にブチョーのほうがこんなんで21世紀を迎えられんのかー、みたいに言っている。ソコに返してもらったおカネのなかにゲジゲジが迷い込んだんじゃないかという錯覚だか幻覚だかにとらわれて、ブチョーがそれを見つけて踏みつぶした後で、それがカミ様の化身じゃないかという妄想にハマってしまう。で、カミ様を踏みコロシてしまったからもうこの先、生きていけないと思っていたら、バリバリの若いほうがもう借金取りはやめて、もらってきたおカネをネコばばして宗教で稼ごうと言い出す。でもってその話にのっかったブチョーは妄想から解放されて21世紀に生きていこうとする、、みたいな話。

妄想とか迷いにとらわれている間はおカネの入ったカバンが重くて持ち上がらないのが、ソコから解放されたとたんに軽々と持ち上げられる。そのことで日常によくあるニンゲンのココロの中のもやもやしたものが本当はこんなモノなのだ、ということを言っている、のかな。。プログラムには「天気」いや、「転機」がテーマだと。でもってこのブチョーと若者のペアは「軽演劇」に挑戦したとある。となるとますますほかのは同じ脚本でどんなに違うのか、それぞれ二人だけで作り上げたというから出来上がったモノの違いには興味シンシンだが、芝居っていうのは見たい時にいつでも見れるってモノではないので、それがまた芝居だけのおもしろさでもあるのだが、次回は少なくとも二つは見てみないと、と思いマシタ。

それにしてもこんなふうに目の前2~3mのところで演じられたら、ソコに日常と非日常の裂け目がぱっくり口をあけて、見ているうちに完全にその中に落ち込んでしまうような気になった。当然、ヘタな人だったらシューチ心でいたたまれなくなるような状況。

2010.2.28 明大前・キッドアイラック・アートホールにて。時間があれば地下のブックカフェに今度。

『農業少女』@東京芸術劇場

2010-03-03 09:35:18 | 演劇
今回ニッポンに帰ったオモテ向きの大きな目的はムスコの高校の卒業式に出るコト。ま、ワタシ的には6年間、いろんな行事のたびに学校に行くついでに寄っていた海岸にまた行って、おそらくそれはこれから先はわざわざ行くことのない場所でもあるのだが、ソコで潮風を思い切り吸い込んでカラダの中の毒を吐きだすようにするのがホントの目的だったりして。水面のキラキラした光の粒には春が感じられた。

で、コレはそのあと家に帰って夕方に出かけて見に行った芝居。野田ヒデキせんせが10年前に脚本・演出でやったモノを今をときめく松尾すずきサマが新バージョンでつくり直している。江本ユウコ様が出ているというのが見に行こうと思った唯一の理由で、野田サンのっていつも最後は同じように高揚感があってソレでいったい何だったんだ、みたいな難しいのが最近多いので若干の不安はあった。で、結論的にはさらに難しい、というか、少女役の多部未華子チャンがやたらカワユすぎて、あのカワユさの影にあるこの芝居の言わんとするところは何ぞや、などと悩み始めると眠れなくなる。そんな感じ。

はなしは九州の田舎の村の農家の少女が、農業から逃れるために列車に隠れて乗り込んで東京に出ていく。その途中で、親切さでだまして少女をゴチソーさましてしまおうというオトコと知り合ったかと思ったら、逆にそのオトコのほうが少女にもてあそばれたりとかして、で、そうこうするうちに有機農業だかなんかを売り物に政治の世界に出て行こうとするオトコが現れて少女はそっちのほうについていく。そのオトコは雲コを使って雲コのにおいを消すコメを作ることをブチアげて、それをイナカの村から飛び出してきた少女たちを使って、つまりはそういうキズのある少女たちを立ち直らせるために雲コのにおいが消えるコメを作るんだという宣伝を始める。で、実際はコメは作らず、初めから作るつもりもなく、そういう偽善的な盛り上がりが世間の賛同を集めその場の雰囲気としてそういうウツクシイ話ができあがる。

だがそれで話は終わらず、実際にコメを作らないことに少女は納得しないでジブンの力でソノ米を作っていこうとする。が、・・・

世の中、すべてその場の雰囲気みたいなもので動いていて、ソレはヒットラーに酔ったナチスドイツもそうだしナタデココで破産したフィリピンの農家もそう。サッカーワールドカップでコクミン全体が愛国者になってしまうのも同じようなこと。そういう雰囲気を作り出しているのはイッパン大衆だったりマスコミみたいなところで、そういう雰囲気にもてあそばれて、イナカの村に生まれたというだけで一生農業から逃れられない農業少女たちがきょうも稲を植え続けている、、というようなはなし。わかったようなわからないような。

出演はほかに山崎一サンと吹越満サン。舞台の枠からはみ出したような演出とか、役者のカラだの不自然な動きとか、全体的に芝居のガイネンを壊そうとしている。

2010,3,1 池袋・東京芸術劇場小ホール。まだこの先長くやっているが補助椅子まで使ってソールドアウト。

『KAKUTA/目を見て嘘をつけ』@NHKシアター・コレクション2010

2010-03-01 16:30:21 | 演劇
土曜の朝にニッポンに帰ってきてその日の夜に見た芝居。前の晩、飛行機が遅れに遅れてハノイを出たのがニッポン時間の朝の4時。乗ったらすぐに朝食、とか言って、食べられるわけないのでパスしたが、だからといって眠れるわけでもなく、で、そのまま夜になって芝居が始まったら最初のうちすごーく眠くてうとうとしていたのだが、後ろから両肩をおさえられるような感覚があってそのあと眠気はなくなった。後ろの席の人がおさえたとは思えない。

ただ眠かったのは寝てないからだけでもなく、はじめのうちはハッキリ言ってつまらなかった。登場人物が多すぎていろんな方向に話が広がって、お笑いゲー人のギャグみたいな場面も多くて、しかもそれをやってるのがこの芝居を書いてもいる桑原裕子サンで、どんなんかなーと思っているうちにマブタにチカラが入らなくなって。。
話はまず田舎の山の奥のお寺のそばで蕎麦屋をやっている家族がいて、その家族のそれぞれにお互いに秘密のしていることや嘘をついていることがある。無駄に声だけいい父親は嘘で霊能力者みたいなことをやってお客からカネを受け取っているし、次男の夫婦は奥さんのほうに昔の男から電話がかかってきたりして、おなかの中の子供もジブンの子供か、みたいな疑いを持っている。そこにその次男の知り合いのなにか怪しげな男が来て誰かを刺したとかいってたかと思ったらまたそこにやや気持ちワルイ男が先輩!みたいにして近づいてくる。でまたその上そこに漫画が書けなくなった男とソレの尻を叩いて書かせようとするケバイ女が登場して漫才みたいにして、、眠くなるのも無理はない。

ところがその蕎麦屋のきれいな女の人が実はソコの長男、だという話になって、要は性同一性ナントカ、で手術をして女になろうとしている。ただそれを家族のものはキモチ悪いとかいって、その長男は家族と対立する。そのへんからこの芝居の骨が見えてきて、長男なんだからこうあるべき、とか、こうしなければいけない、とか、そういういわゆる世間の目を気にして生きていくようなことに対して、そんなことどうでもいいじゃん、みたいなことを言いたいのかと。
で、そのあと手術が終わってめでたしめでたし、かというとそうではなく、手術をしたことで逆にジブンが本当に求めていたことはなんだったんだろう、みたいな感覚にとらわれて、そのへんのビミョーなココロの中のもやもやみたいな表現がナルホド、っと思わせた。手術をしても結局ジブンは変わらない、ということで、ジブンの中の、世間に嘘をついているといううしろめたさは消えることはない。

で、結論として目を見て堂々と嘘をつけばいい、ということ。それは、世の中、キタナイ嘘でまみれているわけだから、そういうなかで正直を貫き通すことにどういう意味があるのか。ジブンが生きていく上で必要な嘘は堂々とつけばいい、というようなことだ。
ニッポンに帰ってきたらホンシャに顔出せ、みたいな社長と部下の会話とか、、ざーけんなと思いながらニッコリ笑ってホージが3件続きまして、みたいにしていればいいのだ。

2010,2,27 NHKみんなの広場、ふれあいホールにて。そのうちテレビでやる。