ニッポンに帰国中の日曜に見た芝居。駒場アゴラは2回目でこの前は床に座布団が敷いてあってその上に座って見てたら途中で腰が痛くなって、それ以後、見たいのはたくさんあったのに避けていた。ソレを今回見に行こうと決めたのは柴幸男サンというひとがおもしろそうだと思ったからで、実際、かなりおもしろかったのだが2,3日よく考えてみても理解しがたい部分が残った。いったい何を「批判」しているのか、みたいなところで。
なにもすべての表現行為に「批判」がなければいけないと思っているわけではないが、芝居そのものは今のニッポン社会の、やってることがどうしようもなく無意味化しているようなところを批判しているかのように一見みえたので。
はなしは、といってはなしの筋として書けるようなモノはなくて、はなしの設定はニンゲン社会を一つのビルを使っているカイシャにたとえて、今いるフロアは2010年3月28日フロアで、下のフロアには過去の残骸とか死骸が横たわっていて、上のほうは毎日伸び続けているのだがなぜか屋上があって、カイシャ=社会からドロップアウトしたニンゲンが毎日シゴトをせずに屋上に上って、ビルの縁から下を見下ろしている。
で、エスカレーターの運転係とか掃除係とかいろんな人が出てきて、そのシゴトが昔からどうやって伝えられてきたか、みたいなことが、そのカイシャの広報誌にのせる記事のインタビューとして語られていく。今の社会を作っているニンゲンは過去と未来をつないでいるだけみたいなことを言いたいのか。
そこに新入社員のオトコがでてきてそのヒトはそういう社会のやり方を最初のうちは知らなくてうまくなじんでいけないのだが、なぜかエレベーター係のオンナと一緒に住んでいて弁当を家に忘れたとか、そういうニンゲン関係がほのめかされて、そういう形で公と私の関係みたいなものが紛れ込んでくる。で、もうひとつそこにカイシャを前の日にやめた=死んだ?オトコの妻と娘が夫の仕事場を見にやってくるのだが夫はなかなか見つからず、娘はカイシャの中で行方不明になって、そうこうしているうちに別の階=過去でめぐり会う。このへんのなにかわかりにくくしている意図がわかりにくい。カイシャ=社会のなかで個人の感情みたいなことが犠牲になってるみたいなことをいいたいのかなあ。そんなふうに深く考えるほうが間違ってるような気もするが、はじめに書いたように、何が言いたいのかがわからなくて見ているうちにだんだん混乱してくる。
結局最後には世の中にはいろんなシゴトがあって、それをみんながホコリを持ってやっていて、ソレで社会が成り立っていて、そこにみんなで参加しようゼ、みたいに盛り上がって終わる。受け入れがたくても肯定する、という姿勢はひとつの主張として共感できるが、これが今の若いヒトの考え方なのかなあ、みたいな疑問。もちろん柴さんも若者代表でやってるわけじゃないだろうけど。
チケットがタイムカードになっていて入口で出社の時刻を記録して帰りに退社でもう一度レコーダーを押す。席に着くと社内報が配られてその中に社歌がのっていてみんなで歌う。(実際は出演者だけで歌う。)組み体操とか、みんなひとりひとりが社会の駒にすぎないというようなことを強調して、そこにだんだん組み込まれていく、そして見ているモノはみんなとっくに組み込まれているという現実を実感させられる。
作者の頭の中ではカンペキに完結しているはずで、それをワタシのようにすんなり理解できないモノがいるのも、それはそれでそれぞれの社会のなかでの居場所の違いのようなコトによるものでしかなくて、そういうものこそがテレビでもなく映画もなく、演劇でしか成り立たないということと、ソレを見るためにこうやって劇場に行くのだということをわからせてくれる内容。
2010.3.28 駒場アゴラ劇場にて
なにもすべての表現行為に「批判」がなければいけないと思っているわけではないが、芝居そのものは今のニッポン社会の、やってることがどうしようもなく無意味化しているようなところを批判しているかのように一見みえたので。
はなしは、といってはなしの筋として書けるようなモノはなくて、はなしの設定はニンゲン社会を一つのビルを使っているカイシャにたとえて、今いるフロアは2010年3月28日フロアで、下のフロアには過去の残骸とか死骸が横たわっていて、上のほうは毎日伸び続けているのだがなぜか屋上があって、カイシャ=社会からドロップアウトしたニンゲンが毎日シゴトをせずに屋上に上って、ビルの縁から下を見下ろしている。
で、エスカレーターの運転係とか掃除係とかいろんな人が出てきて、そのシゴトが昔からどうやって伝えられてきたか、みたいなことが、そのカイシャの広報誌にのせる記事のインタビューとして語られていく。今の社会を作っているニンゲンは過去と未来をつないでいるだけみたいなことを言いたいのか。
そこに新入社員のオトコがでてきてそのヒトはそういう社会のやり方を最初のうちは知らなくてうまくなじんでいけないのだが、なぜかエレベーター係のオンナと一緒に住んでいて弁当を家に忘れたとか、そういうニンゲン関係がほのめかされて、そういう形で公と私の関係みたいなものが紛れ込んでくる。で、もうひとつそこにカイシャを前の日にやめた=死んだ?オトコの妻と娘が夫の仕事場を見にやってくるのだが夫はなかなか見つからず、娘はカイシャの中で行方不明になって、そうこうしているうちに別の階=過去でめぐり会う。このへんのなにかわかりにくくしている意図がわかりにくい。カイシャ=社会のなかで個人の感情みたいなことが犠牲になってるみたいなことをいいたいのかなあ。そんなふうに深く考えるほうが間違ってるような気もするが、はじめに書いたように、何が言いたいのかがわからなくて見ているうちにだんだん混乱してくる。
結局最後には世の中にはいろんなシゴトがあって、それをみんながホコリを持ってやっていて、ソレで社会が成り立っていて、そこにみんなで参加しようゼ、みたいに盛り上がって終わる。受け入れがたくても肯定する、という姿勢はひとつの主張として共感できるが、これが今の若いヒトの考え方なのかなあ、みたいな疑問。もちろん柴さんも若者代表でやってるわけじゃないだろうけど。
チケットがタイムカードになっていて入口で出社の時刻を記録して帰りに退社でもう一度レコーダーを押す。席に着くと社内報が配られてその中に社歌がのっていてみんなで歌う。(実際は出演者だけで歌う。)組み体操とか、みんなひとりひとりが社会の駒にすぎないというようなことを強調して、そこにだんだん組み込まれていく、そして見ているモノはみんなとっくに組み込まれているという現実を実感させられる。
作者の頭の中ではカンペキに完結しているはずで、それをワタシのようにすんなり理解できないモノがいるのも、それはそれでそれぞれの社会のなかでの居場所の違いのようなコトによるものでしかなくて、そういうものこそがテレビでもなく映画もなく、演劇でしか成り立たないということと、ソレを見るためにこうやって劇場に行くのだということをわからせてくれる内容。
2010.3.28 駒場アゴラ劇場にて