菅さんが辞めるときに評価は歴史に任せると言ったのは、クソみたいなマスコミのお前らなんかに評価されたくない、というキモチだったからだろう。経団連のアホ会長とか、電力会社からの広告料を失いたくない寄生マスコミとか、さっそく野田サンを持ちあげてちやほやしているのは見ていてホントにキモチ悪い。
そんな中、情報に疎いコッチにもあの加藤典洋センセがマイニチ新聞に書いた記事のことが伝わってきた。さすがに加藤センセだ。コッチでは記事の中味を読むことはできないがだいたい想像がつく。「疑問だらけの菅降ろし」という文章の中には、たとえば「脱原発依存」を言いだしたときに、ソレを「延命策」だと言った、ヨミウリやサンケイなどの右翼マスコミの報道に対する違和感が書かれているらしい。マイニチはそれを、その頃の報道は後になってどう評価されるのか、ってまるで他人事のように書いているが、影響力が少ないから相手にされないだけだと思うんだけど。
ま、ソレはソレとして、いったいいつまで、あるいはニッポンは永久にこの不幸なマスコミから逃れられないのかと心配になってくる。たとえば今のニッポンで“死の街”とか言って、それが大問題になったり、原発から何キロ以内は今後何十年住めない、とか言うとそこの市長やら村長やらが怒ると、そんなことがその発言者の人格を疑うかのような書き方で寄生マスコミによる追放キャンペーンに発展する。
街が死んでいるように見える、というような言い方は日常的にごく普通の言い方だし、ましてや住民が避難して人っ子ひとりいなければ死んだも同然なのは誰が見たって明らかなのだ。ソレを見た通りに言ってはいけない、と、キモチを傷つける、と。そして市長やら村長が怒っている、と。なんかエライ幼稚な、ガキが何か悪いことをして、オマエのオヤヂがエライ怒っているぞ、と言って大騒ぎしているようなのと同じレベルのくだらん報道だ。
確かに傷つくヒトはいるだろう。ソレは仕方のないことだ。そうじゃなくて、傷つけるコトを言ってはいけないという、なにか思いやりジゴクというか、やさしさジゴクというか、そういう現実から逃避することが被災したヒトタチにとって一番いいことだと勝手に考える発想自体がワタシは間違っていると言いたいのだ。
菅さんが辞める前の日に福島に行ってソコの市長だか村長だかに直接説明した。ソレを報道が伝える通り、突然で失礼だ、みたいに相手が言ったとしたら、じゃあイッタイどういう伝え方が突然じゃなくて失礼じゃないのかと聞いてみたい。ワタシの想像では、実際はその市長さんか村長さんは、確かに多少の戸惑いは示したではあろうが怒ってはいないと思う。だいたいニンゲンはそんなことでいちいち怒らないはずなのだ。むしろカレ等のほうが現実を受け入れようとしてるんじゃないかと思う。ソレを寄生マスコミがニッポン中を思いやりジゴクの中に落とし込もうとしているのだ。寄生マスコミはそういうことを書いて、被災者ではない圧倒的大多数の読者の賛同を得て発行部数を伸ばし広告収入を上げようとしているのだ。結局はソレだけなのだ。
新聞はもはや過去のメディアだ。もう死んでいる。テレビはそれ以前に死んでいるけど。小さなコトバの使い方だけで大臣が辞めたりして、ソレでいったいジミン党とそれにツルんでいる財界とか官僚とか以外にだれが得をするのか。そんなくだらない報道はもういらないんだけど、でもソレを求めている、思いやりジゴク、やさしさジゴクに安住しているニッポン人もたくさんいるんだろうなとは思うわけで、やっぱりあきらめるしかない。いろんなことに。
ただ、アソコまで叩きに叩いても、最後、15%は支持していたというのは、ニッポンにもまともなコクミンが15%くらいはいるということで、多少の救いではある。
そんな中、情報に疎いコッチにもあの加藤典洋センセがマイニチ新聞に書いた記事のことが伝わってきた。さすがに加藤センセだ。コッチでは記事の中味を読むことはできないがだいたい想像がつく。「疑問だらけの菅降ろし」という文章の中には、たとえば「脱原発依存」を言いだしたときに、ソレを「延命策」だと言った、ヨミウリやサンケイなどの右翼マスコミの報道に対する違和感が書かれているらしい。マイニチはそれを、その頃の報道は後になってどう評価されるのか、ってまるで他人事のように書いているが、影響力が少ないから相手にされないだけだと思うんだけど。
ま、ソレはソレとして、いったいいつまで、あるいはニッポンは永久にこの不幸なマスコミから逃れられないのかと心配になってくる。たとえば今のニッポンで“死の街”とか言って、それが大問題になったり、原発から何キロ以内は今後何十年住めない、とか言うとそこの市長やら村長やらが怒ると、そんなことがその発言者の人格を疑うかのような書き方で寄生マスコミによる追放キャンペーンに発展する。
街が死んでいるように見える、というような言い方は日常的にごく普通の言い方だし、ましてや住民が避難して人っ子ひとりいなければ死んだも同然なのは誰が見たって明らかなのだ。ソレを見た通りに言ってはいけない、と、キモチを傷つける、と。そして市長やら村長が怒っている、と。なんかエライ幼稚な、ガキが何か悪いことをして、オマエのオヤヂがエライ怒っているぞ、と言って大騒ぎしているようなのと同じレベルのくだらん報道だ。
確かに傷つくヒトはいるだろう。ソレは仕方のないことだ。そうじゃなくて、傷つけるコトを言ってはいけないという、なにか思いやりジゴクというか、やさしさジゴクというか、そういう現実から逃避することが被災したヒトタチにとって一番いいことだと勝手に考える発想自体がワタシは間違っていると言いたいのだ。
菅さんが辞める前の日に福島に行ってソコの市長だか村長だかに直接説明した。ソレを報道が伝える通り、突然で失礼だ、みたいに相手が言ったとしたら、じゃあイッタイどういう伝え方が突然じゃなくて失礼じゃないのかと聞いてみたい。ワタシの想像では、実際はその市長さんか村長さんは、確かに多少の戸惑いは示したではあろうが怒ってはいないと思う。だいたいニンゲンはそんなことでいちいち怒らないはずなのだ。むしろカレ等のほうが現実を受け入れようとしてるんじゃないかと思う。ソレを寄生マスコミがニッポン中を思いやりジゴクの中に落とし込もうとしているのだ。寄生マスコミはそういうことを書いて、被災者ではない圧倒的大多数の読者の賛同を得て発行部数を伸ばし広告収入を上げようとしているのだ。結局はソレだけなのだ。
新聞はもはや過去のメディアだ。もう死んでいる。テレビはそれ以前に死んでいるけど。小さなコトバの使い方だけで大臣が辞めたりして、ソレでいったいジミン党とそれにツルんでいる財界とか官僚とか以外にだれが得をするのか。そんなくだらない報道はもういらないんだけど、でもソレを求めている、思いやりジゴク、やさしさジゴクに安住しているニッポン人もたくさんいるんだろうなとは思うわけで、やっぱりあきらめるしかない。いろんなことに。
ただ、アソコまで叩きに叩いても、最後、15%は支持していたというのは、ニッポンにもまともなコクミンが15%くらいはいるということで、多少の救いではある。