老後の練習

しのび寄るコドクな老後。オヂサンのひとり遊び。

「駐在員の夜」シリーズ 第2話『サマンサ・タバサは大繁盛』

2011-01-22 10:15:15 | 短編
正月も明けて1週間が過ぎた月曜の朝、カズトヨがオフィスに行くと、エリカが、まるで道端で10万ドン札=400円を拾ったかのような顔をして走り寄ってきて、ゲイバーのママのように可愛く叫んだ。
「ねえねえねえねえねえねえねえねえ、、、見て見て見て見て見て見て見て見てぇー」
「ナニナニナニナニナニナニナニナニぃー」
カズトヨも付きあって可愛く叫んだ。が、次の瞬間、全身の血の気が引いた。それでもその驚愕と懐疑をエリカに気付かれないように、声を一段落として聞いた。
「どうしたんだよ、エリカ。正月にニッポンに帰ってコンニャクでもしてきたの」
「婚約はしてないわよ。ソレよかコレ見てよ。きのう、旧市街でアタシのズンちゃんが買ってくれたの。いいでしょ。チョーかあいいしぃー」
エリカは小ぶりのハンドバッグをカズトヨに見せつけた。ちなみにズンとはエリカが付きあっているかなりイケ麺のベトナム人である。ときどき会社が終わる頃、外で待っていて、エリカをバイクに乗せていくのをカズトヨも見たことがある。カネがあるとは思えない、きっといいカラダしてるんだろう、と思わせるようなオトコだった。
「あぁー、いいじゃん、いいじゃん。サマンサ・タバスコじゃん。。エリカ、とっても似合ってるよぉー」
カズトヨは調子を合わせるのにだんだん疲れてきたものの、それを、どの店で、いくらで買ったのか、聞かずにはいられなかった。なぜならそれはまさに、、まさに、、カズトヨが正月休みが終わって日本を発つときに、成田空港第2ターミナルの出国検査場を通ってすぐのところにある、サマンサ・タバスコ、いや、サマンサ・タバサの店で買った、まさに、、カズトヨがハノイで一番のガールフレンドのために買ってきて、帰ったその日の夜の熱いガッタイのあとに渡した、あのハンドバッグと同じものだったからだぁーーっ!
カズトヨはココロの中で叫んだ。どーしてなんだろーっ!、なぜなんだろーーーーっっ!!

* * * * *

成田空港第2ターミナル、出国検査場先のサマンサ・タバサは、休暇や本社での業務を終えて、駐在しているそれぞれの東南アジア各都市に向かうニッポン人単身フニン者を寄せ集めるイカ釣り漁船のように、コウコウと電飾を煌めかせながら店を開いている。間口は7~8メートルあるが、奥行きはほんの3m程度の小さな店で、その存在を知らないと、並んでいるJALやANAや空港会社直轄の免税店に気をとられて、通り過ぎてしまうほどのものだ。それでも駐在員のオヂサン達には、コレこそは外地に帰るときに最後に寄らなければならない、国技館の座布団返却所のような場所として知らないものはいない。
カズトヨは毎回ソレを見て、ココに店を出そうと考えたヒトはエライっ、って感心していた。
「ショーバイの肝というか、キ○タマをつかんだような店だよなあ。1日の売り上げ、いくらかなあ」
思わずひとり言を言ってしまったジブンに気付いて、カズトヨは、さぁて、きょうはいくつ買ってけばいいんだっけ、とアタマの中で数えながら指を折った。
「んー、ロアンちゃんにホアちゃんにスエンちゃんに、、あと、一番高いのをチャンちゃんに買っていかなきゃぁ、っと」
これらはすべてひとり言である。50過ぎのオヤヂが成田空港出国検査場先のサマンサ・タバサの店の前で指を折ってひとり言を言っているのだ。ただし珍しいものではない。おそらく、東南アジア行きの便がまとまって出る朝か夕方にココに行けば同じような光景が見られるであろう。
カズトヨは瞬間的に4つのバッグや財布などを選び、普段着姿で客か店員か区別がつかない、尻の小さなおジョーに向かって、袋4枚、中身は入れないでねぇー、っと慣れた口調で言った。袋に張るシール、別にもらえるぅー。
客のような店員は、いつものコトだからハイハイ、わかっています、って言ってささっとブツをカズトヨに渡した。その間、1分もかからなかった。
カズトヨは4枚の袋とブツをジブンのバッグの中にしまいそそくさとその場を離れた。
カズトヨはサテライトに向かうシャトルの中で今晩繰り広げられるであろう甘い密かな饗宴を頭に思い浮かべた。チャンちゃん元気にしてたかなあ。ひとり言とヨダレが締まりのない口からこぼれおちてズボンにしみを作った。


チャンはニッポン人向けのカラオケクラブで働く女子大生だった。昼間はこの国で偏差値がトップクラスの国家大学貿易学科に通い、夜は学費稼ぎと日本語の実地練習を兼ねて、カズトヨのようなニッポンからの単身赴任者が毎晩、疲れたココロを癒しに来るカラオケクラブで働いていたのだ。
ミズ商売といってもまったく後ろめたいモノはなかった。なぜならココは曲がりなりにもキョウサン主義国家だからだ。タイやフィリピンなど、周辺のミンシュ主義国家の同じような店であれば、客に指名されれば最後には一緒に店を出て、ホテルやアパートの一室に入り、あとは人類共通のレクリエーションにひと時を興じるだけであろうが、この国ではそれは客が求めても、そしてオンナがそれを許したとしてもなかなか叶わぬモノなのだ。少なくとも世間ではそのように信じられていた。
そこにはジンミンのジンミンによる相互感謝体制、いや相互監視体制のようなものがある。たとえばホテルなどでは夜の10時以降にこの国の女性が外国人のオトコと同室にいてはいけないというルールがある。法律かどうかは知らない。ホテルの引き出しの中の分厚い宿泊規定の中に小さな字で書いてある。もし一緒にいるところを見つかったらオトコは本国に強制送還、オンナは、、ムチ打ちか石投げか、、この国にどういう原始的な刑があるのかわからないが、家族も含めシャカイから抹殺され、ホテルの経営者にも刑罰が与えられる。
キラクなニッポン人なら、別々に入ればわからないじゃん、と思うかもしれないが、ソコが相互監視のよくできたところで、隣の部屋の客がたまたまベトナム人で、なんか部屋が揺れるんだけど、みたいな風にクレームをつければすぐに係のヒトがやってきて、でもってあとはコーアンを呼ぶだけになる。ホテルの経営者も、隣の部屋の客も、党から優良ジンミン賞、か何かを受け取っておしまい、というわけ。ニッポン人が考えそうな抜け道はだいたい誰かが既に試していて、その結果、毎年、何十人かのニッポン人単身赴任者が強制帰国させられている。

もちろん、純朴なジンミンが知り得ないこの国ならではの抜け道はきちんと用意されている。ウラ金だ。ニッポン的な抜け道はふさがれているがこの国のあらゆるコトにオプションとして用意されているウラ道がそこにはある。カズトヨはシゴトで培ったこの国のウラ社会とのコネを活かしていくつものルートを用意していた。ソレはハッキリ言ってたいしたものだった。カズトヨはおそらく捕まらない。このオトコを捕まえたら、捕まえたほうがどこか遠くに飛ばされるくらい、複雑で強固な、クチの地下トンネルのような抜け道だった。それはまさにカーツ大佐がジャングルの奥に築き上げた王国のようなものであり、カズトヨはその王国の絶対的な支配者なのだった。
カズトヨはソノことで、この国のニッポン人社会のある一部の、そしてキワメテ重要な一部の力を握っていた。コッチのシゴトカーストでは最上位のM商事やM物産、そして貴族のようなふるまいのT-M銀行やS-M銀行、さらにはニッポンブランドの表看板のT自動車やN自動車、それらの支店長クラスがカズトヨには一目置いていた。


「カズトヨさん。あけましてオメだっとサン」
ニッポン商工会の新年会でN自動車のアサハラがニコヤカに近づいてきた。この狭いニッポン人社会ではオヤヂギャグの応酬は名刺交換のようなものなのだ。
「よっ、ハッピー・ニュー・イヤーンオニャンコ」
カズトヨが返した。この国では今年はネコ年なのだ。こんな馴れ馴れしいやりとりもカズトヨのウラの顔を知らないモノが見たらのけ反り返るに違いない。なにしろゼネコンは所詮ゼネコンで、そこの一設計部長が天下のN自動車の支店長にそんな口を利ける立場ではないからだ。
「どう、カノジョとはウマくいってる」
アサハラが耳元でささやいてきた。アサハラとは何度かチャンのいる店に行ったことがあった。アサハラが付きあっているオンナのこともカズトヨは知っている。そして、アサハラが一夜をニョタイの森で彷徨いたいと思えばカズトヨが安全な場所を確保してやっていた。
「ウン、きのうさっそく会ったよ。僕のことが恋しいぃってメールを送ってくるもんだからさ」
カズトヨはヨダレが垂れないよう口元を引き締めたが意識は新年会の会場からきのうのアパートの一室に飛んで行った。


「チャン、どうしてキミの名前はチャンなんだ。チャンちゃんになっちゃうじゃないか」
そんなことを言っても全然意味は通じなかった。
「ユー・エンジョイ・ホリデイ・イン・ジャパン・ウィズ・ユア・ファミリー?」
チャンはこのオヤヂ向けにわざとヘタな英語で聞いた。
「オーイェー、アイム・ハッピー・イン・ジャパン」
カズトヨはどこかしら寂しげなチャンを抱き寄せ、あとは小柄なチャンの、素肌があらわれた部分から皺だらけの手を突っ込んでなでまわし始めた。この皺皺加減が意外とキモチいいのかもしれない。チャンはすぐに裸になって、ハヨせんかい、みたいにして、カズトヨをベッドに引き連れた。
チャンの若さが生み出す吸い取るような性欲にカズトヨはあっという間にうつぶせに果てた。さっさと身支度を整えるチャンにカズトヨはすがりつくように言った。
「アイ・ハバ・プレデント・フォー・ユー」
チャンはニコリともせずその小さな袋を受け取った。そして中も開けずに、シー・ユー、とひと言言って部屋を出て行った。
いつものことながらそっけないな、と思いつつ、あれでもこの国じゃいいほうだわな、と、カズトヨはジブンを納得させた。

「カズトヨさん、僕もアソコで買い物しちゃいましたよ」
アサハラが言ったとき、カズトヨはワレに帰った。
「えっ、アソコ、コって、ニョタイの森、じゃなくて、どこのことぉ」
アタマの回転の速いカズトヨは一瞬で理解したがいつものようにはぐらかした。
「カズトヨさんがちょうど買いモノが終わって、入れ違いに入ったんですよ。急いでいるようだったから声はかけなかったんですけど。あそこ、いいですよねー。ガールフレンドにお土産買うのに、あんないい場所はないですよ。オンナの子が喜ぶ品揃えといい、手ごろな値段といい」
「ああ、そぉう、そりゃあ、よかった、んー」
カズトヨはわかったようなわかっていないような中途半端な反応をしたまま、ちょっと、トイレ、と言ってその場を離れた。
・・・アサハラもアソコで買い物をしたとなると、いったい何を買ったんだ。そしてそれをだれに渡したんだ? エリカといい、アサハラといい、なんでみんなサマンサ・タバスコなんだ・・・。カズトヨは便器に座ったまましばらく考え込んだ。コノ新年会の会場となった日系のホテルはこの町でただ一つ、トイレにウォシュレットが備え付けられているオアシスのような場所だった。あったかい便器に座ったままカズトヨは眠りそうになった。意識がぼんやりしてくる中で、そんなことがあり得るのかという悪魔の想像が首をもたげてきて、一気に酔いが覚めた。


「エリカちゃぁん、ちょっと頼みがあるんだけどぉ」
カズトヨは前の晩、ほとんど眠っていない充血した目でエリカに言い寄った。
「何よ、急にちゃん付けして。今晩、お風呂屋さんごっこでもしようって言うの」
いきなりの下半身をえぐるような突っ込みにたじろいだ。
「いや、そりゃ、したくないといえばウソになるが、、」
エリカの強烈な平手打ちがカズトヨの頬っぺたを打った。
「ジョーダンだっつうのが分かんないのか、キミは」
ジブンより二回り近く若いオンナにこんなふうにイタブられるのがカズトヨにはココチよかった。カズトヨは目尻からしみ出る涙を拭おうともせずシドロモドロに言った。
「あのぉ、エリカちゃんがぁ、ズンくんにぃ、アレ、買ってもらったお店にぃ、連れてってほしいのぉ、おぢさんー」
「あー、ま、いいけど。カノジョへのプレゼントでも買うの」
「うん」
カズトヨはとりあえずありふれた状況を設定した。週末だけ開くというその店にカズトヨはエリカと行くことになった。いくらドイモイ政策で自由化されたとはいえ、おそらくは想像を絶する自由市場、フリーマーケットヘ。カズトヨのココロは複雑に揺れた。化粧前の隣の家のヒトヅマの顔を見に行くような、あとで見なければよかったと後悔するかもしれない。すべての幻想が泡のように消える地割れのような暗闇がソコに横たわっているような気がして身震いした。

* * * * *

「チャン、」
カズトヨはまたいつものように皺だらけの手でチャンの背中をなでまわし始めた。チャンはこの前渡したハンドバッグを当然のように持って来はしなかった。
「アイ・ラブ・ユー、カズトヨ」
空々しいコトを言う奴だと、カズトヨは思った。すべてはカネか、この国の奴らは。すぐにもう一人のジブンが言い返した。ジブンだってそうだろうが。
カネだけがすべてじゃない。カネよりもっと大事なモノがあるんだ。ソレはキモチというか、ココロとココロのつながりというか、、キズナだ、ナカマだ。カズトヨはアタマの中でチャンに話し続けた。
それはカズトヨが今一番求めているものでもあった。それに飢えていると言ってもいいくらいだった。毎晩カラオケクラブに通って、ヒト時の仮想恋愛に興じても決して満たされない、それをチャンが満たしてくれていると思いこんでいた。
旧市街の熱気にあふれたあの場所を見る前と後で、カズトヨのキモチは大きく変わっていた。その壁一面を埋めた下取り品の数々。なかでもサマンサ・タバサはコンビニのおでん売り場のように一番目立つ位置を占めていた。そして店の奥では電卓を片手に時代遅れのリーゼントオヤヂがいかにもな水商売オンナが持ち込んだブランド品を値踏みしていたのだ。

ベッドの中でチャンのカラダからは旧市街の路地裏に立ちこめるフォーの湯気のような温度と匂いがしみ出ていた。その奥深い闇の部分に顔を押し付けた時、カズトヨの脳裏にあの白熱球に照らされた光景が浮かび上がった。闇の中でうごめく人々。照らし出された虚構のキズナ。
次の瞬間、カズトヨにはジブンの腕に抱かれて目を閉じるチャンのカラダがアンドロイドのように見えてきた。生暖かくて柔らかい、よくできたアンドロイドだ。ココロから愛おしく思えた。コレがワタシのキズナだ。遠く故郷を離れて孤独な宇宙の中をさまようワタシにふさわしいキズナだ。
カズトヨはそのシリコンでできた精巧な耳たぶに向かってささやいた。
「チャン、どうしてキミはチャンなんだ。どうして・・・・・・、 チャンチャン」

御後がよろしいようで。。テケテンテンテン、テケテンテンテン、、、



「駐在員の夜」シリーズ 第1話『メードに気を付けて』

2010-12-18 02:41:04 | 短編
カズトヨは朝起きて4枚刃のジレットで髭を剃りながら、きょう会社に行って最初に会った相手にこの話を打ち明けようとココロに決めた。何日も前から気になって、夜も眠れないほどのコトだ。もしかしたらこのままではもう生きていられない、ニッポンに帰って夢にまで見たサンマの塩焼きをもう二度と食べることができない、それくらいのコトだ。ってどれくらいかよくわからないが。
相手は誰でもよかった。むしろ誰に話すべきか決めかねていたので最初に会った誰でもいい誰かに話そうと決めたのだ。無差別告白だ。
身支度を整えて、と言ってもユニクロの靴下とユニクロの綿ズボンをはいて、あのメードがアイロンをかけたユニクロのワイシャツを着て、カズトヨは外人とベトナム人の大金持ちばかりが住む高級アパートのドアを静かに開けた。そしてエレベーターの脇にある非常階段の入口の、廊下から50cmほどへこんだところに誰かが隠れているかもしれないと思ってゆっくりと前に進んだ。エレベーターのボタンを押してから待つ間も壁に背中をぴたりと付けて左右を眼だけを動かして見ていた。

* * * * *

カズトヨは大手ゼネコンのハノイ支店で設計部門の総責任者として毎日、死ぬほどの忙しい日々を送っていた。名門W大学の大学院を出て業界トップのこの会社に入ってからは将来の本部長候補として、本社受注の、いわゆる華のあるプロジェクトばかりを任されてきた。
それが順調に行けばそろそろ執行役員か、という歳になってハノイ支店の立ち上げにかり出され、すでに2年半を不毛なニッポンでの出世競争から離れ、このi-padを持った未開人の国で働き続けてきた。
そのあたりのいきさつについてはいろいろな噂が飛び交った。いちばんありふれた話は、上司の本部長とソリが合わなくなって自分から飛び出したということだったが、もちろんそんな簡単な理由ではなかった。死にたい、と言うほどではないにしても、すべてを捨て去りたいと思うのは誰にでもあることなのだ。
とはいえニッポンびいきのこの国では、本社のネームバリューもあって業績は順調に伸び、もう半年もすれば取締役として本社に呼び戻されると誰もが思っていた矢先のことだった。
自業自得とはいえ、いつ、どこに、落とし穴があるとも限らない、共産主義監視社会ならではの罠にはまって、カズトヨは今、雲の巣に引っ掛かったハムシのようにもがいているのだ。


「エリカ、シン・チャオ、ちょっと話があるんだけど」
カズトヨはトイレから出てきたエリカを呼びとめて突然話しかけた。黒のぴっちりしたワンピースに紫のカーディガンを羽織ったエリカはびっくりして、「何よ、彼女が妊娠でもしたの」と、のけ反りながら、カズトヨの顔を覗き込んだ。のけ反った瞬間にスカートのスリットからナマ足が大胆に見えたのを、カズトヨはもちろん見逃さなかった。
エリカはM工業大を出てから親のカネでアメリカのC大学に留学して、ニッポンに戻ってコネでこの会社に就職した。親のカネとコネで生きてるような女だ。英語がペラペラなだけでデザインのセンスはまったくない。だから本社の設計部からはすぐに放り出されて、今はこのハノイ支店で通訳兼プレゼンターとして働いている。ただ本人は勘違いして、私がいなけりゃシゴトなんかとれやしない、と思い込んでいる。やっかいな女だ。

「いや、ニンジンは食べてないよ。エリカ、うちのメード、知ってるだろ。あのいつもニコニコして白い歯をむき出しにして、二十歳前のピチピチな上に極端にローライズのジーンズを履いてるもんだから、床に座ってアイロン掛けするときなんか、オケツの半分以上が丸見えになる、あのロアンちゃんのことなんだけど」
つまらぬオヤヂギャグを無視してエリカはめんどくさそうに聞き返した。
「ええ、知ってるわ、この前のホームパーティーで見かけたもの。ロアンがどうしたのよ。まさかハンケツにむらむらしてヤッちゃったんじゃないでしょうね」
いきなりの鋭い突っ込みにカズトヨは動揺を隠せなかった。
「いやいや、やってなんかないよ。いくらなんでもメードに手を出すわけないだろ」
「じゃあ何よ。手は出してないけどおチ○チ○は出したとか、お願いだからタカダ純次みたいなギャグは言わないでね。朝っぱらから」
いくらなんでも強烈すぎる。朝っぱらから、はアンタのほうだろ、なう、とカズトヨは心の中でつぶやいた。
「いや、まあ、、そんなコトはないんだけど、なんか、あの子ちょっと変なんだよね。最近引っかかるんだ」
「50過ぎのオヂサンに気があるとか」
「うーん、それは前からわかっていたけど。それとはまた違うんだ」
冗談のつもりで言ったエリカのことばが行き場を失って宙を舞った。
その空気を読んでカズトヨは急に真剣な顔をしてホンバン、いや、本題に入った。

「もしかして公安のスパイなんじゃないかと思って」
「えーーっ、なんでまた、そんなコト考えんのよ」さすがのエリカもふたたびのけ反った。
さっきより3センチは深く太ももが露出した。
「この前、部屋の机の上に開いておいた図面をじーっと覗き込んでいるところをたまたま見ちゃったんだけど、まるで目をカメラのようにして写し込んでいるようだったんだ。なんか訓練されたプロのように見えた」
カズトヨは営業チームが追っかけているニッポンの大手スーパーの出店話のことをエリカに話した。ハノイ西部の新都心のど真ん中に、ニッポンでも滅多にないような大型店舗を作る計画だ。開発に絡んで闇社会のフィクサーを通じて、裏金社会のこの国ならではの汚いカネの話が続いている。

エリカは腕を組んで身を乗り出した。胸のボタンの隙間から白のレースの付いたブラジャーと、血管の浮いた真っ白な胸の谷間がカズトヨの目に飛び込んできた。
「エリカ、きょうは夜にスペシャル営業でもあるの」
カズトヨは谷間に顔を近づけて思わず聞いてしまった。
「んあぁーー?」

エリカは少しぬるくなったコーヒーを思い切りカズトヨの股間にブッかけた。
「バカか、おマエ」
エリカはマジに怒っていた。
「いやぁ、ジョーダン、ジョーダン、マイケル・ジョーダン。でも、ロアンちゃんがスパイだったらケッコウ見せちゃいけないモノを見せちゃったかもしれないもんだから」
「そのロアンちゃん、って、そのちゃん付け、やめてくんないかなあ。アタシのコト、エリカちゃんって呼ばないくせに」
エリカは意味不明ないらだちを見せた。
「で、そもそもロアンって誰の紹介なのよ」
「いや、うちの部屋のオーナーの友達ってのが同じアパートに住んでいて、、ソコでメードとして働いているのを週に二日だけアイロン掛けと掃除に来てもらってるんだけど」
「その友達ってのが怪しいかもね。ベトナム人であのアパートに住んでるとしたら相当な金持ちよ。ダンナは裏金でブクブクに太った政府のお偉方とかなんじゃない」
「うーーん、ダンナには会ったこともないし。奥さんは美人なのは確かだけど」
今度はカズトヨの脈絡のないひと言が戻ってこないブーメランのように虚しく飛んで行った。
「そのアブナイ人にうちの情報が筒抜けってことか。だったら来年の党の人事にまで影響しかねない。ソレはやばいな」
カズトヨは他人事のように言った。話が急にでかくなりすぎて自分とは関係なく思えたが、その中心にいるのは紛れもなくカズトヨ本人だった。
「でもいくらなんでも机の上の資料見ただけじゃたいしたことないんじゃない。それともそれ以上のナニかがあったのぉ、えぇーー」
「と、とんでもハップン、それ以上の状況なんてあるわけないだろう」
カズトヨはまた明らかに動揺した。
「オンナがらみの落とし穴に引っかかるのってよくあることよね。でもそれが国家の権力争いにまでかかわっているなんて、想像もしてなかったでしょうけど。で、もう隠してもしょうがないんだから正直に言ってしまったら」
エリカが急に駐在員の悩みを聞くカウンセラーのように見えた。カズトヨはジブンが素直で正直なオヂサンに変わっていくのを感じた。
「わかんないけどケッコウしゃべっちゃったよ。ハンケツ見せながら白い歯出してニコニコするもんだから」
「で、ホントにまだ手は出してないんでしょうね」
エリカは今度は嫉妬のカケラを唇の端に浮かべながらカズトヨに聞いた。あんた、そんなことで死にたいの、みたいにして。
「いやあ、手は出してないけど、、」
エリカはそれですべてを悟った。そして憐みの表情でカズトヨを見た。
「もう、、ニッポンに帰ってサンマの塩焼きも食べられないわね。可哀そうに。ホントに可哀そうに」
「やっぱり、そんなにやばいコトしちゃったかなあ」
「よりによってメードなんかに。あんたもバカねえ。北京の大使館員の話、知ってるでしょ。あの美人スパイに引っかかって、あげくの果てにどこかに消えちゃった外交官のことよ」
「…」
カズトヨは目尻にしみ出てくる涙を手の甲でぬぐった。ソレを見てエリカは留めの一刺しを刺した。
「コレじゃホントにメードのみやげじゃないの」

御後がよろしいようで。。。テケテンテンテン、テケテンテンテン、、、

『濃厚接触 第1話』

2009-05-19 00:51:34 | 短編
・・・感染病棟のベッドの上でカズオは白い天井にできた黄色いシミを眺めてぼーっとしていた。もうここに入って3日目だ。毎日テレビを見るくらいしかすることがない。もう熱も下がってなんともないのに。きのう母親が来てガラス越しに指さして笑って帰って行ったけど、コッチはもう少しで泣くところだったのを気付かれなかったかどうか、新聞に載った自分のコメントを何度も読み返してまたアツいものがこみ上げてきた。

「世間の皆さんにご迷惑をおかけして申し訳ありません。僕はもう大丈夫です」と、カズオ君は元気そうにガラスの外の心配そうに涙ぐむ御母さんに向かって手を振っていた。・・・

そこに病室の二重の扉の外側があいて保健所職員のカズコが入ってきた。カズコはカズオにマスクを三重にするよう指示してから自分もタラコのような唇の形が上からはっきりわかる薄手のぴっちりタイプのマスクをして入ってきた。

「ヤマノテ保健所のカズコです。カズオ君ですね。今日は感染経路の特定のため、いろいろ質問をしますから正直に答えてください。これは法律に基づく調査ですから嘘をつくと処罰されることがありますので注意してください。ハッキリって取り調べのようなものです」

カズコは鋭い横目でカズオを見た。感染防止のため向かい合わずに座っていたので自然に横目になるのだった。

「わ、わかりました。嘘なんて言いません」

カズオは久しぶりに人と接することで少し舞い上がっていた。看護師さんともドア越しにしかしゃべらなかったし。それ以外のひととはガラス越しだったから。もううつる心配もあまりないのだろうと勝手に解釈した。

「この前、紙に書いて出してもらった行動記録の中でいくつか不明確な点があるので質問します。まず、金曜日にクラブのあと塾に行ったことになってるけど、そこで濃厚接触した人はホントにいないのかしら。先生とか、友達とか。ホントは塾には行かないでどこか別のところに行ってたんじゃないの」

カズコの意地悪な質問に純朴なカズオは一瞬、アドレナリンが体内を逆流するのを感じた。顔が赤くなるのを自分で感じたがそれをサトられないようマスクの一番上のを目の下まで上げた。

「その日はビデオ学習だったので誰とも一緒ではなかったんです。調べてもらえればすぐにわかりますよ。事務のカズヨさんとかに聞いてもらえれば」

「あ、そう。わかったわ。じゃあ、次の土曜日だけど、図書館で誰かに会わなかった?小学校の時の同級生とか」

「だから紙に書いたように何人かに会いましたよ。僕ら受験生ですから土曜に図書館に行けば必ず会いますからね」

「うーん、知りたいのは図書館を出た後のことなんだけど。図書館を出て家に着いたのが7時になってるけど、図書館は5時で閉館でしょ。そのあと何してたのよ」

急に質問が尋問調に変わってカズオはベッドからずり落ちそうになった。

「いや、べつに、、」

「べつに、じゃわからないわ。コレ、大事なことなのよ。ニッポン中のコクミンの関心がアナタの土曜の午後の行動に集中していると言ってもいいわ。わたしにはそれを調べる義務があるの。さあ、言いなさい、言いなさいってば。。」

コクミンという言い方に違和感を感じたもののカズオはカズコの勢いに観念した。口の中がカラカラで咳払いをしたらカズコがピッチャーの暴投を大げさによけるへたなバッターのようにカラダをのけぞらせた。

「えーとですね。まあ、カズミと久しぶりに会ったんでマックでお茶でもしようってことになって、で、駅前の店に入りました。でも30分くらいですよ」

「時間の問題じゃないの。濃厚接触したかどうかだけよ、アタシが知りたいのは。で、お店のひととは濃厚接触したの?」

「そんな、するわけないじゃないっすか。知り合いでもないのに」

「違うわよ。お金は手渡ししたかってことよ。お釣りはあったの?」

「100円ですからお釣りはなかったっす」

「100円、って、二人で100円?何頼んだの?まさか一つのコーラを二人で飲んだんじゃないでしょうね。それってとんでもない濃厚接触じゃない」

カズオはうつぶせになって布団を頭からかぶった。

「そんなの誰だってやってんじゃない。何でオレだけ犯罪者みたいに言うのぉ?」

カズオは布団の中で泣いた。入院して初めてだった。それはニッポンの過剰反応シャカイへの怒りでもあった。カズコはもう部屋から出て廊下のベンチに座って県庁への報告書を機関銃のように打ち始めていた。

つづく?