老後の練習

しのび寄るコドクな老後。オヂサンのひとり遊び。

『犬と日常と絞首刑』 辺見庸

2009-06-17 18:15:36 | 評論
また出稼ぎに戻ろうと思って成田に着いたら飛行機が2時間半も遅れるというのでラウンジでワインを飲みながら新聞読んでたらおもしろい記事、というか、コラムというには大きすぎる、ほぼ1面の3/4を占めるこの文章を読んだ。
辺見さんは元共同通信の記者で、小説「自動起床装置」で芥川賞をとって「もの食う人びと」とかの随筆でかなりワイルドな感じでおもしろかった人だが何年か前に講演会の最中に脳溢血になって、その後はカラダが若干不自由ながらキワメテ鋭い文章を発表してセケンと闘っている人。ワタシかなり好き。
最近はニッポンの死刑制度に反対する文章をたくさん書いていて、ワタシはどちらかというと死刑賛成だったのでどうしたもんかと思っていたのだが、この新聞の文章を読むと言っていることは十分理解できる。ほかの情緒的死刑反対論者とはラベルが違う、いや、レベルが違う。

で、何を言ってるかというとニッポンの死刑制度は完全に日常化しニッポン文化の一部をなしていて、ソレとよく似ているのは天皇制度で、ヨーロッパの先進国が早々と死刑廃止を決めている中でニッポンではおそらく廃止はあり得ないというようなことからはじまって、やっぱりそこには恐ろしい国家の演出のようなものがあるんじゃないかというようなこと。
一部に死刑廃止論が、茶碗にこびりついた汚れのようにありながら、いざ凶悪犯罪が起きてその犯人像がその家族や無関係な周辺までをも含めてマスコミがあばき出すと一気にコクミン的合意が形成される。そしてその執行制度はヤスクニ神社の奥の奥で行われている隠微な儀式のようにコクミンの目の前に明らかにされることはなく、またコクミンのほうもそういうことまでは知らされたくないという一致した目に見えない世論がある。
つまりキワメテ日常の奥深い部分で死刑制度は存続していて、それは天皇が天皇として国家をコントールしていながら、日常の、今日の晩御飯は何を食べたんだろう的な、そこまでは別に知りたくないというか、そこまで知ったら天皇制そのものがぐらついてくるというような、そういう制度として成り立っているということを、辺見さんは不自由な右半身を使えず左手で犬の糞を片付けながら、テレビから流れてきた死刑執行のニュースを聞いて、その日常の光景とその中で確実に行われている死刑執行との間の闇のようなものを感じて、ニッポンの死刑制度の意味をあらためて理解した、というような内容。

辺見さん的に言うと、ワレワレは自分で悲しむことのできる悲しみしか悲しんでいないのであって、死刑はおそらくその外側のできごとで、ニッポン人がニッポンを国家として成立させていく上で不可欠なモノではあるが、はたして世界が目指すべき方向として一つの方向に向かっている中で、たかがクジラの問題であんなに無駄な労力を費やしているのと同じように、この死刑問題でも、まさか死刑はニッポンの文化デスみたいな主張をするんデスか、みたいな問いかけ。

2009.6.17 朝日新聞朝刊



『佐高信の反骨哲学 魯迅に学ぶ批判精神』

2009-03-20 09:25:07 | 評論
ハノイからホーチミンへ団体旅行。総勢20人くらい。そういうのに慣れてないのでキワメテ疲れる。しかもジイさんが多くて、、後ろから蹴とばしたくなるショードーをなんとか理性で抑えた。でも飛行機の中では別々の席で、ワタシに与えられたわずかな自由時間にコノ本を読んでいたのだが、いつも思っていたことについてハタとよくわかったような気になった。それはベトナム人が飛行機の中でも平気で携帯電話をかけることに対して、それはモラルがないとか、言うことをきかないとかそういうことではなくて、それはこの本に書いてある、権力の嘘を見抜く力をカレ等が身につけているからではないかということ。ひっり返せば、いかにワレワレは権力の言うことをウのみにすることに慣れ切ってしまっているかということだ。

それというのも佐高サンは魯迅の批判精神について書いていて、ニッポンと中国の権力に対して批判をし抜いた魯迅の思想をいまのニッポン人は見直す必要があると言っている。たとえば武谷三男というひとが言っていてソレこそがまさに魯迅の思想だといって次のようなことをあげている。それはニッポンの教育でよくいわれている、「嘘をつくのは悪いことだ」ということは、権力の前で嘘をつくことによってのみコロされずに生きのびている人間にとって奴隷になれと言っているに等しいことで、そうではなくて、本当の教育に必要なのは嘘を見抜く力を身につけさせることだというようなこと。このへんがじつにすっきりとわかりやすい。佐高サンは「日本人の好きなそういう建前的キレイごと道徳」をぶちこわさないとニッポンは再生しないと言っている。「簡単に嘘をつくななどというな」ということだ。

もともと教育は権力者がジブンたちの都合のいいニンゲンを作り出すためにやっていることで、権力システムのピラミッドのなかでそれがじわじわと広がっていく。テレビなんかはそのなかでも上のほうに位置していてカレ等がコクミンに対してやっている「教育」はキレイなオジョーちゃんが穴ウンサーです、みたいにして出てきて、切り貼りで作り上げた映像と合わせて嘘をもっともらしく世の中にタレ流している。特に日テレみたいな経営者が権力と抱き合ってるようなところなんか。
今一番必要なのはカレ等の嘘をどうやって見抜くかという能力を身につけることで、毎日一つか二つガセネタを流して、今日の嘘はなんだったでしょうみたいに賞品かけてやったらどうかと思うくらいだが。

携帯電話について言えば航空機の運航に支障があるかは疑わしい。ドアの外はよくて中に一歩でも入ったら電源を切れというのは全く非科学的だし、そんなにアブナイならもっと厳重にチェックするべきなのにニッポンの飛行機でさえCAがヤサシクささやくように注意する程度だから深刻な問題とは思えない。カノ女たちは言われてるからやっているだけで、カノ女たちに嘘を見抜く力を求めても無駄なのだ。電車の中で今でもタマに放送されている医療機器に影響があるというのはキワメテ限定された条件のもとでのことで、町なかの普通の場所では起こり得ないことが実証されている。病院でも携帯を禁止しているところは時代遅れのアブナイ病院だと思わなければいけない。NTTが証明して、最初にジブンのところの病院で携帯を使えるようにしたわけだから。うるさいから使うな、と言えばいいものを運航に支障があるとか医療機器に影響があるとか言っているところに嘘の臭いがプンプンする。
ベトナムの飛行機では特に着陸したあとなんかみんながいっせいに電話をかけ始めるからうるさいのなんのって。それでもアメリカの嘘を徹底的に見抜きとおしたヒトたちとその子孫であるカレ等は、権力の嘘にはだまされないぞと言わんばかりに携帯に向かってしゃべり続ける。

『定義集』 大江健三郎

2007-11-25 08:34:52 | 評論
キッチョウの偽装で「安物」牛肉として利用された佐賀牛の生産者がテレビで怒っていた。キッチョウに佐賀牛をおとしめられたとして。でも見方によっては、但馬牛といわれても区別がつかないモノとして、あのキッチョウさんに目をつけられたわけだから、それなりにうまいということだ。世の中、前向きにとらえなければ。。

で、コレは先週のアサヒ新聞に載っていた毎月1回のコラム。牛ではなく、「人間をおとしめることについて」と題して、最近よくあるなあと思わせる現代社会の陰湿な足の引っ張り合いの一例としてワタシには面白かった。
例の「沖縄ノート」裁判で証人として呼ばれたときのことを書いているわけだが、コトの発端は愛国フジンエッセイストのソノ綾子サンが、大江さんが「沖縄ノート」の中で、沖縄・渡嘉敷島の集団自決について、それにかかわった元大尉のことを、「沖縄県民の命を平然と犠牲にした鬼のような人物」であるかのように書いていて、それは「人間の立場を越えたリンチであった」、とまで国の公の場で発言していること。コレに対して当の元大尉が名誉を傷つけられたとして訴えているわけで、その背景にはアノことが軍の強制ではなかったと言いたいヒト達,そしてまた、アノ戦争自体が美しく正しいものだったと言いたいヒト達の思惑がある。

自分の思想を正当化するために、自分の考えと反対の立場のヒトのことをどこか足を引っ張れるところがないかと探したあげく、一点集中攻撃的に、モノゴトの一部を拡大して騒ぎ立て、本来のコトの本質からは離れたところで勝ちを収めることで、本当の問題を覆い隠し、何もなかったかのようにしてしまう。そういうやり方の一例だ。
大江さんは元大尉のことを個人として、鬼のような人物としては書いていないし、そういう一個人が、一般市民を強制して集団自決に追いやったというようなことを書いているわけでは当然ない。あの戦争を扇動した一団の犯罪者のことが念頭にあるわけだが、そうではない考えのヒトが逆に、元大尉という個人の問題をちらつかせてそのおおもとにある事実を隠そうとしている。そういう図式なのだ。

裁判の最後に大江さんは弁護士から、ソノ綾子サンの文章の一節を読まされる。
ああやって「国に殉じて美しい心で自決」した人たちのことを、なんでまた戦後になってあれは強制されたものだと、なんでまたそんな余計なコトを言って、その「清らかな死」をおとしめるのか私には理解できない、、というようなところだが、ソノサンはしっかり理解しているわけで、そのように大江さんという標的としてはこの上ない人をおとしめることで、もっと重大なコトを覆い隠そうとして、一旦は教科書まで書き換えてうまくいったかに見えたわけである。
で、今やっているのはあの決起集会に参加した人数という瑣末なことを、主催者の発表を鵜呑みにしたメディアを批判することで、アノ集会そのものが何かに汚れたモノであるかのように見せて、もう一度巻き返そうとしているのだ。実に巧妙。うまいとしか言いようがない。
それでもやっぱり奥が深いようで意外と浅かったりして、。センソウ肯定派のヒト達が、結局は自分のフトコロを肥やすことが目的だったりするのは、国防を喰い物にする政治屋とかアノ卑しい官僚を見ていればよくわかってしまうもんだから。

高橋哲哉 判決を「異例」にせぬために

2006-10-01 17:03:03 | 評論
国民性とか民族性とかは実際に存在するもので、また、簡単に消えるものではない。最近ヒットした日本映画をみても、結局は戦争で死ぬことを美化しているから、日本人が戦争好きな民族であることは否定しようがない。
だから先日の国旗・国歌訴訟の判決も、どうせ控訴すれば石原東京都が勝訴するのは明らかと思われている。

そんな空気の中で高橋哲哉東大教授がこの訴訟に関連して、教育勅語に十分な拝礼をしなかったとして教育の場から追放された明治24年の内村鑑三不敬事件を例に挙げ、今の日本が100年以上も前の時代に逆戻りしていると指摘している。
今回の判決に関しては、石原知事の、バカな裁判官もいるもんだ、的コメントを、ジミン党政権お抱えマスコミが繰り返し垂れ流したことで、判決が「異例」で「画期的」で「歴史的」なものであることをコクミンに印象付けることに成功しているが、高橋氏は現憲法や現教育基本法に極めて忠実な判決として評価している。
しかし、わざわざ「現」と書いているのは今まさに、アベ政権がそれらを改変しようとしているからで、そのことに対する危機感に直面してわれわれに何ができるのかと高橋氏は問いかけている。

小中学生が国旗に向かって直立不動で天皇を賛美する国歌を歌う。その声量を教員がマイクで測り声の小さな子どもを叱る。今の日本はそんな国で、総理大臣はへらへら笑いながら戦争に向かって突き進んでいる。
戦争で死ぬのは結局のところコネも金もない一般庶民であり、二世、三世が大半を占めるコッカイ議員共は高みの見物を決め込むというわけだ。
リスの目をした日本人は一体どこまでだまされれば気が済むのだろうか。

朝日新聞 2006年9月30日 朝刊より。




高橋哲哉 靖国問題

2006-08-14 10:29:01 | 評論
1年近く前に読んだ本について、一切読み返さず、記憶だけに頼って書く。自分の中に深く沈んだものをすくいあげるように。

いまさら、と言われれば、最近上坂冬子氏が、明らかに意図的に、まったく同名の新書を出しているのを書店で見たから。
戦争体験世代の女性という情緒的な立場から、靖国神社を否定し得ないものとした上で、書名から外れて、外務省や保守政権の中国・韓国への外交姿勢を問題にしていると思われる同書の内容からして、「靖国問題」の本質をすりかえようとする、保守派の「主張」の流れに沿ったものだからだ。

Å級戦犯の合祀に関連した中国・韓国の批判は、日本の保守派にとっても国内世論対策として「使える」内容であることは見ての通りで、あれらの国での歴史教育などを熱心に取材して報じるマスコミも、この問題に関してはみんな同じ方向を見ている。

そんな中で、高橋哲哉氏は、国家が戦争を推進するシステムを構築する上で、靖国神社が欠かせないものであったこと、自衛隊の海外派兵が現実化した今日でもその機能を持ち続けていることを指摘した上で、「二度と悲惨な戦争を行わないため」に必要な、戦没者追悼施設のあり方を示している。
この当然ながら最も重要な視点が、保守派の議論には欠如している、というか、あえて避けている。それは次の戦争を想定しているからとしか思えない。

高橋氏は、第二次世界大戦だけでなく、日本がこれまで戦った戦争の戦死者のみを祀ってきた靖国神社の歴史と役割を、天皇陛下のために戦争で死ぬことが、本人や一族にとって末永い名誉となり、国家がこの「一神社」を通じて永久に顕彰しつづけるという制度が、若者を戦争に駆り立てる社会の雰囲気をつくってきたこととしている。

そうだからこそ、靖国神社に代わる戦没者追悼施設の持つべき位置づけとして、非宗教施設であることや、民間人に加え、外国人の戦争での死者も追悼することをあげているが、それでさえもその時代の政治によって意味のすり替えは容易に行われる危険を指摘している。

この点から、最近の麻生太郎外務大臣の靖国神社非宗教法人化案は、今のところ神社側からも、論外、との扱いを受けているが、私としては、議論すべきことは議論しないという、自民党のこれまでの風習を変える姿勢に共感を覚えつつ、案外、そのうち神社側さえもすがり付く危険な方向性を有しているものに思われる。
それは宗教法人としての持続性の問題であり、今述べた、靖国神社の本来の機能の維持に関する問題だからだ。

靖国神社について議論する上で必要なことは、これから起こり得る戦争を、自己の問題としてとらえておくことである。たとえ明日のワイドショーがつまらない話題に終始しようとも。
小泉純一郎氏について言うと、あの、まわりがダメダメというとなおさら我慢できなくなる幼児性の面で、最早、精神科医の領域にあると見るべきである。

高橋哲哉「靖国問題」 ちくま新書、2005年