また出稼ぎに戻ろうと思って成田に着いたら飛行機が2時間半も遅れるというのでラウンジでワインを飲みながら新聞読んでたらおもしろい記事、というか、コラムというには大きすぎる、ほぼ1面の3/4を占めるこの文章を読んだ。
辺見さんは元共同通信の記者で、小説「自動起床装置」で芥川賞をとって「もの食う人びと」とかの随筆でかなりワイルドな感じでおもしろかった人だが何年か前に講演会の最中に脳溢血になって、その後はカラダが若干不自由ながらキワメテ鋭い文章を発表してセケンと闘っている人。ワタシかなり好き。
最近はニッポンの死刑制度に反対する文章をたくさん書いていて、ワタシはどちらかというと死刑賛成だったのでどうしたもんかと思っていたのだが、この新聞の文章を読むと言っていることは十分理解できる。ほかの情緒的死刑反対論者とはラベルが違う、いや、レベルが違う。
で、何を言ってるかというとニッポンの死刑制度は完全に日常化しニッポン文化の一部をなしていて、ソレとよく似ているのは天皇制度で、ヨーロッパの先進国が早々と死刑廃止を決めている中でニッポンではおそらく廃止はあり得ないというようなことからはじまって、やっぱりそこには恐ろしい国家の演出のようなものがあるんじゃないかというようなこと。
一部に死刑廃止論が、茶碗にこびりついた汚れのようにありながら、いざ凶悪犯罪が起きてその犯人像がその家族や無関係な周辺までをも含めてマスコミがあばき出すと一気にコクミン的合意が形成される。そしてその執行制度はヤスクニ神社の奥の奥で行われている隠微な儀式のようにコクミンの目の前に明らかにされることはなく、またコクミンのほうもそういうことまでは知らされたくないという一致した目に見えない世論がある。
つまりキワメテ日常の奥深い部分で死刑制度は存続していて、それは天皇が天皇として国家をコントールしていながら、日常の、今日の晩御飯は何を食べたんだろう的な、そこまでは別に知りたくないというか、そこまで知ったら天皇制そのものがぐらついてくるというような、そういう制度として成り立っているということを、辺見さんは不自由な右半身を使えず左手で犬の糞を片付けながら、テレビから流れてきた死刑執行のニュースを聞いて、その日常の光景とその中で確実に行われている死刑執行との間の闇のようなものを感じて、ニッポンの死刑制度の意味をあらためて理解した、というような内容。
辺見さん的に言うと、ワレワレは自分で悲しむことのできる悲しみしか悲しんでいないのであって、死刑はおそらくその外側のできごとで、ニッポン人がニッポンを国家として成立させていく上で不可欠なモノではあるが、はたして世界が目指すべき方向として一つの方向に向かっている中で、たかがクジラの問題であんなに無駄な労力を費やしているのと同じように、この死刑問題でも、まさか死刑はニッポンの文化デスみたいな主張をするんデスか、みたいな問いかけ。
2009.6.17 朝日新聞朝刊
辺見さんは元共同通信の記者で、小説「自動起床装置」で芥川賞をとって「もの食う人びと」とかの随筆でかなりワイルドな感じでおもしろかった人だが何年か前に講演会の最中に脳溢血になって、その後はカラダが若干不自由ながらキワメテ鋭い文章を発表してセケンと闘っている人。ワタシかなり好き。
最近はニッポンの死刑制度に反対する文章をたくさん書いていて、ワタシはどちらかというと死刑賛成だったのでどうしたもんかと思っていたのだが、この新聞の文章を読むと言っていることは十分理解できる。ほかの情緒的死刑反対論者とはラベルが違う、いや、レベルが違う。
で、何を言ってるかというとニッポンの死刑制度は完全に日常化しニッポン文化の一部をなしていて、ソレとよく似ているのは天皇制度で、ヨーロッパの先進国が早々と死刑廃止を決めている中でニッポンではおそらく廃止はあり得ないというようなことからはじまって、やっぱりそこには恐ろしい国家の演出のようなものがあるんじゃないかというようなこと。
一部に死刑廃止論が、茶碗にこびりついた汚れのようにありながら、いざ凶悪犯罪が起きてその犯人像がその家族や無関係な周辺までをも含めてマスコミがあばき出すと一気にコクミン的合意が形成される。そしてその執行制度はヤスクニ神社の奥の奥で行われている隠微な儀式のようにコクミンの目の前に明らかにされることはなく、またコクミンのほうもそういうことまでは知らされたくないという一致した目に見えない世論がある。
つまりキワメテ日常の奥深い部分で死刑制度は存続していて、それは天皇が天皇として国家をコントールしていながら、日常の、今日の晩御飯は何を食べたんだろう的な、そこまでは別に知りたくないというか、そこまで知ったら天皇制そのものがぐらついてくるというような、そういう制度として成り立っているということを、辺見さんは不自由な右半身を使えず左手で犬の糞を片付けながら、テレビから流れてきた死刑執行のニュースを聞いて、その日常の光景とその中で確実に行われている死刑執行との間の闇のようなものを感じて、ニッポンの死刑制度の意味をあらためて理解した、というような内容。
辺見さん的に言うと、ワレワレは自分で悲しむことのできる悲しみしか悲しんでいないのであって、死刑はおそらくその外側のできごとで、ニッポン人がニッポンを国家として成立させていく上で不可欠なモノではあるが、はたして世界が目指すべき方向として一つの方向に向かっている中で、たかがクジラの問題であんなに無駄な労力を費やしているのと同じように、この死刑問題でも、まさか死刑はニッポンの文化デスみたいな主張をするんデスか、みたいな問いかけ。
2009.6.17 朝日新聞朝刊